消費期限終了

リタイアーのよもやま話

先読み「情報脳」の鍛え方

2011-01-27 23:03:45 | 社会

先読み「情報脳」の鍛え方

情報中毒社会サバイバルガイド

株式会社三菱総合研究所
小関悠 著

ぱる出版


の本の中にあった話である。


以下、抜粋。

 


総務省は毎年、国内でどれだけの情報が流通・消費
されているかを調査しています。

最新の調査結果によれば、2008年度に国内で流通
した情報の量は約7.1ゼタビットでした。

DVDに換算すると約2.7億枚ぶんになると説明しています。
1年で2.7億枚ぶんではありません。1日に2.7億枚ぶんです。

毎日DVD2.7億枚ぶんの情報が、世の中を流通しているという
ことになります。


ただ情報の量が多いだけではありません。重要なのは、近年
この数字がどんどん大きくなっているということです。

たとえば2007年度の情報流通量は約6.0ゼタビットでした。

つまり2008年には1.1ゼタビットも増えた、約20%も流通
する情報量が増えたことになります。

さらに振り返るなら、2001年度では約3.8ベタビットという
数字でした。

このたった7年のあいだに、約1.9倍も情報が増えているのです。

もしこの7年間、仕事のために覚えなければならないことが倍に
なっていたらどうでしょうか。ぞっとするはずです。


先程ご紹介した総務省の調査では、インターネットで流通する
情報の量を2001年と2008年で比較して、51倍と産出
しています。

インターネットはわずか7年間で51倍も拡大したのです。


以上。


情報の暴発については、30代前半、立花隆氏の「文明の
逆説」で、大きなショックを覚えて、読書中毒だった
わたしは、ショックを覚えて、本を読む気を失った思い出
がある。


また、前にもブログで書いたが、


「残り97%の脳の使い方」で、苫米地英人氏は語る。
(2008年11月23日 初版発行)


アメリカの公的機関による発表

・アメリカの新聞「ニューヨークタイムズ」1週間の情報量は、
18 世紀の個人が一生かけて得る情報量よりも多い。

・今年生まれる新しい情報の情報量は、過去5000年間に人
類すべてが生み出したすべての情報量より多い。

・さらに、現在人類が生み出している情報は毎年2倍に増えて
いる。2010年には72時間で2倍になる。


このことが意味するのは、
「明日になったら使えない情報を、あなたは今日、学んでいる
可能性がある」

ということです。

以上。

ということを書いたのだが、今回の小関悠氏の話もかなりショック
である。

苫米地氏の「さらに、現在人類が生み出している情報は毎年2倍に
増えている。2010年には72時間で2倍になる。」というのも
気がとおくなる話だが、


「毎日DVD2.7億枚ぶんの情報が、世の中を流通している」という
たとえ方には、やはり、改めて驚異を覚える。

立花隆氏の「文明の逆説」を読んだ時には、人類の知識の総量が
無限大に増えて、賢くなっていくわりには、個々の人間は、この
知識の俯瞰的掌握は不可能になり、無限小になるばかりで、相対的
に無知になっていくという恐怖感を感じたが、今回改めて、その
恐怖感を思い出してしまった。


堀江貴文氏は「情報を得るとは、未来を知ること」と言ったが、
まさに、この情報の暴発を前にして、真の意味で、世界の未来を
そして、自分の未来を知ることに直結する情報とはと、問い直して、
対峙しなければ、時代の恩恵を前にして、暗愚の衆となり、知的
禁治産者になりかねない。

「読んでもわからない、聞いてもわからない、みても何のこと
やら。」という言い回しがあったが、これでは、恐ろしくして
しようがない。

ところで、問題は、「情報を得るとは、未来を知ること」だが、
自分の未来を自己規定できなければ、天文学的な情報の中に
あって、自分の未来を約束する情報は検索できない。

一 偽りの自己感覚から偽りの欲望が起こる。
二 偽りの欲望から偽りの行動が起こる。
三 偽りの行動から偽りの問題が起こる。
四 偽りの問題から偽りの悩みが起こる。

という話があったが、そこで、自己とはということになるが、
そこが問題だ。


【五十にして四十九年の非を知る】

とあるが、実のところ、わたしがわたしと思っていた
わたしは、本当のわたしであったであろうか。

なんて、今更であるが、とんでもない疑問がわいて
やまない。

あまりにも時代は変転し、アイデンティティーなんて
どこへいったやら。

想定外の辿り着いた未来に戸惑いと目眩を覚える。

何が正しかったのか、悪かったのかは、もう誰も
答えられない。

わたしが望んだ諸々のものたちは、どこへいった
のだろう。

そして、これからわたしの望む何が、本当のわたし
の望みとなろうか?

なんていうとんでもない疑問がわいてやまない。

兎にも角にも、「終わった定年組」にも未来の
分け前にあずかれるのか。

そこが問題でもあるが?


「情報を得るとは、未来を知ること」という話だが、
それ以前の問いで、立ち止まってしまう。

となると、膨大の情報の中から、己の必要な情報を
選りすぐることは、至難の技としか言いようがない。

問題は、わたしは何者であったのか。

こまった課題が立ちはだかってくる。

わたしは、何者だったのだろう。

そして、何者になろうとしているのだろう。

わたしは、未来を知り得るのだろうか?