とある漫画から、抜粋された名言集にあった内容である。
他人の感動に満足するな!
状況
日本中が湧いた2002 FIFAワールドカップ。
建設会社で働く黒沢は、同僚たちとテレビ観戦しながらビールを
飲み、声を張り上げ、熱狂的な歓声を上げて大騒ぎをしていた。
日本代表選手の活躍に一喜一憂し、涙まで流しながら熱い声援を
送っていた黒沢だったが、その一方で胸の奥がどんどん冷えていく
のを感じていた。
「他人事じやないか。他人の祭りだ?」。
そして、日本がトルコに0対1で敗れて日本のワールドカップ敗退
が決定した日、黒沢は唐突にわかってしまう。
「あんなものに……感動などないのだ??!」と。
スポーツ、映画、テレビ、マンガ、小説etc.……あらゆるものが。
〝感動〟を売りにする昨今。
世間にはいたるところに感動があふれている。
応援しているチームの逆転勝利に泣き、映画のヒロインの不治の
病に泣き、バラエティ番組の離れ離れになっていた親子の再会に
泣き、恋愛小説の恋人たちの不遇の愛に泣く。
もちろん、こうした感動は人生の潤いにはなるだろうし、中には
真に心を揺り動かされて人生に影響を与えることもあるだろう。
しかし、「夢と感動をありがとう!」なんて言ってるだけのうちは、
ただの傍観者でしかない。他人の感動はしょせん自分の感動では
ないのだ。
自分は汗の一滴もかかず、傍観しているだけで手に入れたものが、
本物の感動のはずがない。
本物の感動は自分自身行動の中にしかないからだ。
世間にはびこる安易な感動で気持ち良くなって満足しないように心
がけたいものだが、自分自身の行動で感動を手に入れるためには、
それ相応の苫労を伴うのも事実。
だからこそ、苦労して手に入れた自分自身の感動は格別な味が
するはずだ。
以上。
よくぞ、言い切ったものである。
これだけ、言い切られると爽快である。
わたしには、これだけあからさまに、言い切ることはできない。
躊躇してしまう。
でも、これって、案外本当のことではなかろうか!
亀田興毅が最初に、テレビで登場してきた時、その
エスカレートぶりは、見ているうちに、うさんくささが
匂ってしようがなかったし、女子バレーも数年前のテレビ
放送のエスカレードぶりには、見ているうちに、釈然と
しないものを感じた。
(女子バレーについては、その舞台裏の話が後日に
分かったが)
この世の中、いたるところに、感動を餌にして、収奪しよ
うというカラクリが潜んでいる。
最近の映画などでは、退屈している自分をもてあまして
アパター、バイオハザード、エクスペンダブルズ、
トロンレガシーなど、テレビのコマーシャルにも
つられて観てきたが、人を馬鹿にしたような、小手先
の映画作りで、見くびられているようで、後味が悪かった。
映画館を後にして、我ながらやりようのない気持ちで
帰宅する。
もっとも、退屈を紛らわそうという自分の魂胆が問題
なのであるが。
騙されるのも、騙される本人にさもしい根性が
あったり、弱さが原因であるなんて、誰かが言って
いたが、その気も否定できないのだから、やっかい
だ。
そんなことに、はまりこんでいく空疎な毎日を
なんともできないのは、情けない気がして
止まない。
もしかして、音楽、美術、文学、詩等の芸術全般なる
ものもそうかと思ったら、目眩がしてきてしまう。
レパートの法則に則れば、80%の負け組がいると
いうことになるが、その80%の負け組に仮想の
達成感をあてがっていることになるのだろうか。
時折、テレビで、スポーツの中継を見ている時、
暑い日も、寒い日も、雨の日も風の日もまるで、
自分自身が試合でもしているかのように、夢中
になっていたりする画面に出くわすが、デフレで、
国も国民も疲弊し、孤独死、自殺死等と世紀末の
何とも生きにくい時代のことなのかと、我が目を
疑ってしまう。
どうして、これだけのエネルギーが残っている
のだろう。
沈みゆく泥船で宴会に夢中になっているような
ものだし、「茹で上がるカエル」という話もある
のだ。
まるで、ローマ時代の映画に出てくる剣闘士の戦いに
狂喜している市民の場面とダブってきてしようが
ないのだ。
わたしたちは、いろいろなスポーツ等の実況中継
を見る機会が多いのだが、本当の所、彼らが飯を
食うために、必死なっているだけの話だ。
これらに夢中にさせられている間というのは、
彼らの人生が成就しているだけの話で、見て
いるわれらは、かけがえない時間を浪費して
いるだけで、己の人生の成就からも遠ざかって
いるだけの話でもある。
かといって、むやみに否定して、自分の生活が
無味乾燥になっても、困る話だし、彼らの
生きざまに学ぶものがないかと言えば、あながち
そうでもないから、ことの是非のさじ加減
はどうしたものか、判断しかねるのも事実だ。
いずにせよ、他人の人生に感動するのは、さておき
自分が自分の人生に感動できるようにすることを
さておいては、自分の人生がどっかに吹っ飛んで
しまうことは、間違いない。
他人の人生に感動しているうちに、自分の人生が
終わっていたなんてなってしまっては、他人を飯を
食わせているうちに、自分の人生が終わってしまう
という悲劇にも見舞われる。
誰もが「たにまち」になれるわけではない。
ところで、わたしは、今、「紅の豚」の挿入歌、
加藤登紀子の「さくらんぼの実る頃」をYou Youbeから、
MDにエンドレステープ風にコピーする作業を繰り返し
ながら、彼女の歌声に聞き入っている。
わたしは、彼女の演奏では、名演だと思っている。
その歌声に、忘却の彼方から「わたしたちのあの時代」
が、懐かしくそして切なく蘇ってやまない。
おそらく、このエンドレスのMDを今後暫くの間、
日がな一日繰り返し繰り返し聴いているかも
しれない。
これって、何なんだろう?
って想いながら。