GW(ゴールデンウィーク)中に読んだ本で、私は衝撃を受けました。
一冊は、吉野せいさんの作品集、『洟をたらした神』(弥生書房)
もう一冊は、茨木のり子さんの作品集、『茨木のり子集 言の葉Ⅰ』(ちくま文庫)
吉野せいさんは、1899年明治32年福島県生まれ。教員として働きながら文学の道に進み、のちに詩人であった吉野義也(詩人・三野混沌)と結婚。福島県で夫と共に開墾生活に入った女性で、夫の死後、1974年昭和49年に出版された『洟をたらした神』が、第6回大宅壮一ノンフィクション賞、第15回田村俊子賞を受賞しました。
木の根を掘り起こし、草をかき分け、荒地を耕す。
借地とはいえ、少しでも広い畑を手に入れ、作物を植え、子供たちを食わせなくてならない。
厳しい労働、子供のおもちゃも買ってやれない貧困、そんな土と汗と涙で汚れて真っ黒になる暮らしの中で、同じような境遇の人々を思いやり、自然の雄大さ激しさ厳しさに目をみはり、子供たちが時に口にする言葉や行動の中に思わぬ命の輝きを見てハッとする。
私は吉野さんの文章読んだ時、「何、これ!?」と思わず驚嘆の声を上げてしまいました。
「春」に出てくる雌鶏。「かなしやつ」で北海道開拓民に志願した「満直(みつなお)さん」。
そして、自身の長男のことを書いた「洟をたらした神」
こんなにも心に響く文章を今まで知らなかったなんて…
畑仕事に追われる両親は、子供に充分にかまってやれる時間がなく、幼い妹を背負わされた6歳の男の子は、それでも甘えもせず、せがみもせず、元気に遊ぶ子供たちを遠目で見ながら、妹に聞かせるように一人歌をくちずさみます。
突っ放されたところで結構ひとりで生きている。
そのすぐ上の姉も、幼い時のこと、畑からの帰り道、夕暮れの中で父親のうしろを歩きながら、なにげにこんな言葉をつぶやきます。
何にもねえから、花煮てくうべな。
おてんとうさまあっち行った―
朝から晩まで畑仕事に追われる日々の中でも、子供たちに詩を読んで聞かせたり、ふとある小説の一説が浮かんできたり、文学や芸術がすぐそばにあるというのも、私にとっては衝撃でした。
子供に着せる物にも困窮し、医者を呼ぶにも躊躇してしまい、幼いわが子を失う悲しみ…
決して激することなく、哀れみを誘うでもなく、淡々と、しかしそれだからこそナイフのようにこちらの心に突き刺さってくる文章。
ちょっと例えようのない読書体験でした。
もう一冊の茨木のり子さんは、1926年大正15年、大阪生まれ。愛知県西尾市育ち。
脚本、童話、エッセイなども書かかれている詩人の方。
2006年に亡くなられましたが、20歳で敗戦を迎え、その時の頃を詠った作品「わたしが一番きれいだったとき」も、この作品集に収められています。
私が衝撃を受けたのは「汲む」という作品。
大人になることはすれっからしになることだと思っていた少女の頃の茨木さん。
そんな時、素敵な女性にこう言われます。
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました
私はどきんとし
そして私は深く悟りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだ。醜く赤くなる、子供の悪態にさえ傷つく、頼りない牡蠣のような感受性。それらを鍛える必要なんてなかったんだ…
年老いても咲きたての薔薇
柔らかく
外に向かってひらかれるのこそ難しい
自分の中に、もういい大人なんだから落ち着かなきゃ、とか、物事をスマートにこなすことこそオシャレな大人、という感覚があって、自分の中の何かっていうとすぐビックリし、慌てふためく本性を恥ずかしいと思っていました。
でもそれで大人の態度を目指しちゃうと、どんどん内向きになって、窮屈感も感じていたんですよね。
なんだかスッキリ。茨木のり子さんってすごい!
その他、この本にはエッセイも収められているのですが、戦争中、美しいものがどんどん無くなってしまう中で、星を見ることだけが唯一で、星座早見表を手放さなかったとか、戦後、精神の飢えを満たそうと多くの人が三好達治の一冊の詩集を並んで買ったとか、すごく興味深い記述もありました。
歴史の教科書だと、こういうことは教えてくれませんからね。
『洟をたらした神』はこのブログにもコメントを下さる春庭さんのご紹介で手に取りました。
この場を借りて、お礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
茨木のり子さんの作品は、いつもおじゃましている本好きさんのブログがきっかけ。
そこでは本だけではなくて、素敵なカフェや本屋さん、ガリ版刷りの私家本なども紹介されているのですが、森茉莉さんや高柳佐知子さんを取り上げることもあって、いつもいろいろ教えていただいています。
二冊とも、貴重な出会いになりました。
実は先日、こんなことがありまして。
とある年配の男性と会話していて、ストレス発散に何をやっているのかって話になったんですね。
そこで私は「本を読む」と答えたんですが、その方は「本を読んで発散できるかぁ?」と疑問を呈してこられました。
その時はいろいろ説得しようと試みましたが、この二冊の本を読んで、自分のやっていることは実はストレス発散じゃないんじゃないかと思ったんです。
ストレスを別のことで発散しているんじゃなくて、ストレスを本を読むことで消化している感じ?
別のことでストレスを忘れるんじゃなくて、もともとストレスに感じていたことって、こう考えれば、あるいはこう受け止めれば、そもそもストレスじゃないんじゃないか、と考え方見方を変えてみる。
いろんな本があって、いろんな時代、いろんな立場や境遇の人によって書かれた本があるから、その中には今の自分にピッタリな言葉や文章がどこかにあるはず。
それが自分の心にピッタリはまったら、その時点でその問題はもうストレスじゃない。
そんな行為を、読書を通してやっているんじゃないか? と。
もっとも、それを見越して甘い言葉をかけてくる不埒な輩(本)もいるので、そこの真偽の見極め方は難しいのですが…
ともかく、この二冊の本を読んで、「また頑張ろう」という気持ちになりました。
それだけでも、すごい力ですよね。
ますます読書が好きになりました☆