ぶらぶら人生

心の呟き

避難訓練と散歩

2018-10-23 | 身辺雑記
     10月23日午前中

 10時半から、避難訓練が行われた。
 出火場所は、3階の西廊下という想定で。

 4階の居住者は、4階のエレベーター前に集合、という簡易な訓練であった。
 デーサービスや諸用で不在の人もあって、集合したのは6人だけだった。

 下の写真は、エレベーター前のカウンターに飾られたバラ。
 3階に住んでおられる方が、活けられたのだとか。(ご自宅で育てられたバラ)

 3、4階には、茶道や華道の道を極めた人など、プライドの高い女性が多いらしい。
 隣室のOさんも茶道の師範。

   

      

       

     


 11時過ぎ、近くの畑へ白茄子を見にいった。
 雨が降ったらしく、地面が濡れていた。これから本格的に降りそうな空模様であった。

 白茄子は、前回見たときと、あまり違いがなかった。
          その花と実
    

    


 今日、再び転倒。
 ズックに履き替えるのを忘れて、前回転んだときのつっかけで、新聞を読みに行ったのが失敗のもと。
 転倒の場に、施設の方がおられたので、体温や血圧など測ってくださったが、全て平常で、血圧の上は101。体温も36・8。
 前回より、軽傷? 左頬と右膝下を打った感じ。
 それでも、先生は、午後様子を診にきてくださった。
 
 午後は、文庫本一冊を読みあげたし、後になって、異常が出ることもあるまい。
 友達のRさんが、ブログで転倒のことを知り、
 「もう大丈夫?」
 と、お見舞いの電話をくださった。
 「また今日、転んだの」
 と、伝える。
 危なっかしいことこの上なし!
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今日の天空

2018-10-22 | 身辺雑記
            早朝
    

    

            昼空
    

            夕空
    

    

    

            夜空
    
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家から施設へ

2018-10-21 | 身辺雑記
 石蕗の花が、一気に増えた。
 庭のあちこちに、黄色が目立っている。

    

 夕陽を眺めるつもりでいたが、隣室のOさんが話しに来られ、その機を逸した。
 食事前、南廊下から見た黄昏の風景。

    
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新聞より

2018-10-20 | 寸感
 17日に帰宅し、溜め読みした朝日新聞より。

※ 10月13日(土)・カルチャーのページ「万葉こども塾」
  引用歌
  [わが情(こころ)焼くもわれなり愛(は)しきやし君に恋ふるもわが心から]
                            (作者不詳)

  この歌の解説文の中で、筆者の中西進さんが、名言として紹介されていた言葉。
  「人生は感じる者にとっては悲劇であり、考える者にとっては喜劇である。」 
  なるほど、と思う。

※ 10月14日(日)朝日歌壇より二首。
  高野公彦・永田和宏選
  [「生き抜く」と言えば疲れる「生き延びる」くらいがちょうどいい秋の風
                           (京都市)森谷弘志]
  高野公彦選
  [眼科に行き耳鼻科に寄りてその帰り心電図撮る今日の遠足
                         (海老名市)山内美津子]

  高齢者の増える時代を反映し、老いを歌った歌が目につく。
  自らが老境にあって、老いを実感すると、老境は、想像以上に過酷である。
  日々、どう過ごせば楽しめるのかを模索しながら生きている。

  過日、夕方6時のニュースを見ようとテレビをつけたところ、齋藤孝さんが、
  「老いを楽しむことですね」(?とか)おっしゃって、番組が締めくくられるところだった。
  老いを楽しむ? と、頭を傾げた。
  日々の中に楽しみがないわけではない。
  が、それは決して、老いを楽しんでいるわけではないような気がする。
  <老いを楽しむ>という表現は、どういう風に解したらいいのだろう?

  森谷さんは、老いの日々をどう生きたらいいかを考え、「生き抜く」なんて大変!
  自分では制御できない命のおもむくままに、一日一日を生きてゆこう、と、
  秋風の寂寥感と老いを重ねつつ、思われたのかと思う。
  「生き延びる」という表現はちょっと不満。しかし、それにかえる表現も思い浮かばず……。

  山内さんの病状は、緊迫したものではないらしい。
  老いは、体のいたるところに現れる。その対処に追われつつ、病院通いをなさっている。
  大変なことだが、それを遠足ととらえ、疲れつつも楽しんでおられる様子。
  老人にありがちな光景。
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虹に遭う

2018-10-19 | 身辺雑記
 諸用があって山口へ行ってきた。
 雨が降ったり止んだり。
 薄色の虹に遭う。
   

 山一薬局へ寄り、漢方薬を処方してもらう。
 60歳のころから、お世話になっているので、私の体の弱点を知っていてくださる。
 今日はツボをおさえてもらったり、2か月分の薬をいただいたり……。
 <手当て>とは、よく言ったものだ。
 ツボをおさえられると、飛び上がるほど痛い。汗が滲み出る。が、やがて体から毒気が抜けたように軽くなり、楽な気分になるから不思議だ。

 しかし、自分で試みると、一向に効果がない。痛くもないし、快くもならない。
 自分で自分の手当をするのは、大変難しい。
 が、今日求めてきた漢方薬を飲んでいれば、多少は効用があるだろう。
 
 
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庭の秋、山の秋

2018-10-18 | 小庭の四季
 秋は、日毎に深まっている。     

           庭の秋
    
           石蕗の花
    

    
   石蕗の後方には万両の実(わずかに赤みを乗せて)

            秋明菊
    

          ホトトギスの花
    

           藪柑子の実
           色づき始めて
    


            山の秋

       
         木通(アケビ)の実

 Tさんが、久々に写真を送ってくださった。
 アケビを眺めて、山の秋を想う。
 そこに漂う空気も感じられ……。


            <付録>
     裏口に放置している籠にとまった秋の虫
    

 私が、周囲をバタバタしていても、秋虫はじっとしている。
 何をしているのだろう?
 ただ休んでいるのか?
 動じない姿に、私がたじろぐ。
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津田医院

2018-10-18 | 身辺雑記
 ひと月一回の健診日。
 血圧、脈拍ともにかなり高い。(いつものことながら)
 それとは関係なく、このところ、体調は多少下降気味。

 原因は、<老い>と判断。
 一日一日、確実に老いているのだから……。

      廊下に活けられていた花
     
         ブッドレア?

 ではないかと、その名を教えていただいた。
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帰宅の日の朝陽

2018-10-17 | 身辺雑記
 朝陽は美しく、一日の活力を与えてくれる。
 さて! と、意を固める一瞬。

   
         6時28分

   
         6時39分

   
       時刻は同上(拡大撮影)
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暗唱

2018-10-17 | 身辺雑記
 弱っているのは、体力ばかりではない。記憶力も大いに鈍っている。
 上田三四二さんの、兼好法師について書かれた一文を暗記しようと試みる。
 いつも思うことだが、戦前の教育を受けた人の漢語力には感心する。

 兼好の生の認識の根底は「如幻の生」である。如幻の生は、言いかえれば倏忽の生である。その先途なき、いつなんどきともしれぬ死に曝された生に処するのに、兼好は寸隠愛着と諸縁放下による心身永閑の境をもってする。第二百四十一段は、そういう兼好の心術のもっとも端的な表明と言ってよい。

          上田三四二『徒然草を読む』より

 持参した『徒然草』 で、第二百四十一段を音読する。
 有名な「望月のまどかなる事は、暫くも住せず、やがて欠けぬ。」で始まる一文。


 昨日、バス停で出会った風景。
 野草のやさしいそよぎと、雲のたたずまいを眺めつつ、バスを待つ。

       

       

       
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喫茶店で

2018-10-16 | 散歩道
 転倒後の痛みは、尾を引くだろうと思っていたのに、急速によくなった。
 今朝は、ラジオ体操も、ほぼ普通にできた。
 何という回復力! と、少々驚いたり、安堵したり。

 すると、たちまち単調な生活から、解放されたくなる。
 諸用をあれこれ思い出し、街に出ることにした。

 久しぶりに、<ギャラリーうつわ>に行ってみようと、カレンダーを確かめる。と、今日は16日、月一回の休業日である。
 とにかく、昼過ぎのバスで、イオン前まで出る。
 さて、と考えながら、益田川を越える。
 河畔はススキの原となっていた。

            10月半ばの益田川
       

       
        (権現山が、左手に小さく見える。)


 行き先を迷った末、結局は、リバティーへ行く。
       

       
             コーヒーとプリン

 奥まったところの席に座り、なだ いなださんのエッセイ<つまり教養とはなにか><勲章についてのひとりごと>の二篇を読んで休息する。
 他に三人組、二人組の客があり、それぞれ会話が弾んでいるようであったが、全く読書の邪魔にならない。
 施設の廊下から聞こえる人語の煩わしさがないのは、どういうわけだろう?

 最初のエッセイでは、文豪・森林太郎の名前の読み方について、<もりばやし たろう>と読んだ人の例をあげ、教養について書いてある。一般人であれば、<もり りんたろう><もりばやし たろう>のどちらの読みだってありうるだろう。が、文豪の名前だけに、読み方を知るか知らないかが、教養に関わってくるわけである。
 しかし、教養とはなにかと問われれば、うまく説明するのは難しい。
 筆者は、フランスのエドワール・エリョの「すべてを忘れ去った後に、まだそこに残されているもの、それが教養だ」という定義を紹介しながら、筆者自身、「わかったような、わからないような定義である」と、述べておられる。
 教養の有無は、人と人との交わりにおいて、なんとなく分かるけれど、明確に定義するのは難しい。

 今日、午前中、南廊下へ新聞を読みに行ったとき、6号室のSさんが手押し車にすがって出てこられ、私の側に座られた。そこへ戦時下、予科練に入っておられた3号室のTさんも加わられ、3人で雑談することになった。
 Tさんが旧制の浜田中学校を卒業されていることは、本人が語られたので知っていた。が、Sさんについては、経歴をうかがったことがない。
 が、終戦時が話題となったとき、学徒動員で呉にいて終戦を迎えたと話された。年齢(90歳)からして、旧制の女学校に在籍中であったことは想像できた。なるほど! と納得したのだ。人柄から滲み出るものから、それとなく教養のある人だと、私は感じていた。
 Tさんにしても、Sさんにしても、何をもって教養があると感じるのかと問い詰められると、その解答はやはり難しい。しかし、幾度か言葉を交わせば、ひとりでに感じられる、不思議な人間的な魅力の有る無しが、教養と関わるものではないだろうか?

 森林太郎=森鴎外については、以前、朝日新聞に安野光雅さんが、面白いことを書いておられた。以前のブログにも書いたことだが、若者が、「モリオウガイって、どんな貝?」と、尋ねたというお話。貝の名前と間違われるとは! と、思わず笑ってしまったが、森林太郎を<もりばやし たろう>と読んだという話を聞けば、やはりちょっと恥ずかしい気がする。知っていて当然と思われることを知らなければ、常識や教養が疑われるということだろうか。
 しかし、森鴎外といえども、若い人にとっては古典的人物かもしれないし、私自身、そんなことも知らないの? と思われることは多々あり、人の教養を云々できるような人間ではない。

 教養は、派手やかではないが、その人の内面から滲み出るもののようだ。

 コーヒーを飲みながら読書するという、短い至福のときを過ごし、お店を出た。

 河畔の桜並木の紅葉を眺めながら、イオンへ。
       

 曙橋に向かう道が、思いのほか急坂に思えた。そして、曙橋そのものも、僅かながら弓状になっていて、上り下りがあるのを感じた。
 歩くことを通しても、85歳という現実を突きつけられる。

 所用を済ませ、タクシーで帰る。




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