菩提寺の浄蓮寺にお参りしたのは、いつのことであっただろうか。
父の晩年に近かったことは間違いない。
妹一家の車に乗せてもらって、お墓参りをすませ、その足で浄蓮寺にお参りしたのだったと思う。
それが、春のお彼岸、あるいは、秋のお彼岸の墓参であったか、お盆のときであったのかも、思い出せない。
いずれにしても、その日から、20余年が経っている。
近いうちのにお参りしたいと思っていたことを、今日やっと果たした。
昨日電話してご都合を尋ね、午前10時ころお伺いする旨伝えていたので、ご住職夫妻は待っていてくださった。
広々とした清浄な空間、閑寂な風景など、すべてが、私の日常にはない世界である。
石組みの立派な、池のある庭園と、背景に紅葉の始まった山の見える部屋で、一時間余、ご住職夫妻とお話をした。
日々の暮らしのこと、生死のことなどが、話題となる。
強く主張はなさらないけれど、ご住職の考えや言葉の奥に、浄土真宗の教えを感じる。
お庭の趣 鯉の泳ぐ池
紅葉し始めた山
(秋が深まれば、さらに美しい紅葉の山となる由)
玄関のたたずまい
霞む高島
※ 光線の具合で、本堂、その他の写真が撮れなかったのは残念であった。
またお参りできる機を得たいものだ。
紅葉が美しいということは、新緑もきっと美しいに違いない。
「こちらから、高島が見えますよ」
と案内してくださったところで、若いご住職にもお会いした。
(お二人のお嬢さんがいらっしゃる。可愛い盛りの2歳のお姉ちゃんと、すこぶるおとなしい生後8か月のお子さんと。)
若いご住職は、不要の材木を細断しておられた。
「今も薪で、風呂を沸かしています」
と、ご住職。
本当に懐かしい!
火吹き竹で、くすぶる薪に、風を送ったことなど思い出す。
お尻のあたりの温度感覚なども。
薪の燠(おき)は、お湯が冷めるのをしばらくは防いでくれる。
昔のお風呂には、独特な趣があった。
今日は、日本海にうっすら霞がかかっていて、高島はぼんやりしていた。
私の見慣れている高島に比べ、丸っこい。
見る方角によって、島の風景も変わるのだ。
人里離れた場所なのに、海を遠望できる佳境に、浄蓮寺はある。
10月11日の
朝日新聞が、トップニュースおよび第3ページの記事、
<文化漂流・揺れる寺社>欄において、
住職いない1万2000寺
「兼務」「無住」増える
過疎・後継者不足で
との見出しのもと、社会の一問題点を取り上げていた。
が、浄蓮寺においては、次世代・次々世代と、その心配はなさそうである。
タクシーで往復するつもりだったが、帰りは送るからと言われ、お言葉に甘え、家まで送っていただいた。
奥さまの車で。
ご住職のお二人には、父母や兄の葬儀・法要で、幾度もお会いしているが、奥さまとお話しするのは初めてだった。
大きなお寺を蔭から支えていらっしゃる人にふさわしく、とても魅力的な方であった。
「浄蓮寺通信」 (69号・70号・71号)をいただき、帰宅後、さっそく学ばせていただいた。
「お念仏に聞く ー 日本の近・現代と真宗 ー」
「『回心』ということ」 (※中村久子さんの話)
「他力の信をえん(た)ひとは」 (※親鸞聖人の話)