寝たきりの病人の看病で毎日がすぎて、もう限界、って人いませんか? どう考えたらいいんでしょう。また、そういう悩みを抱えた方に、どうアドバイスしてあげたらいいんでしょうか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方──女性のための幸福論』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
私には、看病して疲れておられるご家族のかたに、あえてムチ打つ気持ちはありません。しかし、家族に病人が出たという厳しい環境のなかで、いかに朗らかに、いかに明るく、いかに希望に燃えて生きられるかということが、あなた方の魂を光らせるための試練になっているのです。
考えてみれば、ヤスリをかけられるときには、その金属は痛くて悲鳴をあげているように思われるかもしれませんが、その後にはピカピカに光るものです。また、サンドペーパーをかけられてピカピカに光っていく木もあります。木目は、ザラザラしたもので何度も何度も擦られるとき、もし人間のような気持ちがあるとすれば痛いのでしょうが、それでも、その時期を通り越してみると、みごとにピカピカに輝く、美しい素材になっていくことがあります。
人生もこれと同じなのです。あらゆる苦しみや悲しみも、魂を光らせるためのヤスリだと思ったときには、どんなものでも耐えていけるのです。
むしろ、そうした悲しみのときにこそ、宗教的な飛躍というものが訪れることがあります。そうしたときにこそ、人間は救いを求め、魂の領域において一段と飛躍をすることができるのです。
ですから、病人が出たからといって、それを自分の不幸の言い訳にすることなく、そうした病人が出たことによって、自分が魂の修行の機会を与えられたことに感謝をし、そして、そのなかで己れの心の修行をすることです。
そしてまた、病人が家庭に出たということで、与える愛、尽くす愛、奉仕とはなにかということを考えさせられもするのですから、これはまさに、他人に対する献身の心を学ぶ機会ではないかと思います。
愛というものは、その基礎に忍耐と寛容を伴っているものなのです。調子のいいときだけ相手を愛する。たとえば、夫が調子がいいときだけ夫を愛する、妻が美しいときだけ妻を愛するのは簡単ですが、夫が仕事上で失敗したり、妻の美貌が衰えてきたときに、なおも愛するということはなかなか難しいことでしょう。しかし、それでも愛していこうとするその忍耐と寛容の心が、やはり愛というものを裏打ちするものだと思うのです。
病人も同じです。家族として仲よくやってきた者のなかに不幸が起きたなら、それを辛抱強く見守ってやることが大事です。(中略)
すべての運命を恨むことなく、すべてを自分の魂の糧として選びとっていくなかに、真なる幸福というものは光ってくると思うのです。
(118~121ページ)
家族に病人が出た厳しい環境のなかで、いかに朗らかに、明るく、希望に燃えて生きられるかが、金属にヤスリをかけたときと同様に、魂を光らせるための試練になっている。
病人を不幸の言い訳にすることなく、これによって魂の修行の機会を与えられたことに感謝し、他人への献身の心を学ぶ機会として、そのなかで心の修行をすることである。
すべての運命を恨むことなく、すべてを自分の魂の糧として選びとっていくなかに、真なる幸福というものは光ってくる──。
うーん、厳しくも温かい、仏のアドバイスですね。
やっぱり、こういう問題にぶちあたったときの考え方の基本は、「人生は一冊の問題集である」という観点なのだと、改めて私は思っているのです。
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『幸福のつかみ方──女性のための幸福論』
大川隆法著 |
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