夢七雑録

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木曽呂の富士塚

2016-11-03 18:02:41 | 富士塚めぐり

国指定の重要有形民俗文化財の富士塚は4件あり、そのうち下谷坂本、江古田、豊島長崎の各富士塚は既に紹介済みなので、今回は木曽呂の富士塚を取り上げる。武蔵野線の東浦和駅を出て右へ、東浦和駅前の交差点を左に下って、見沼代用水西縁を渡り、右へ行くと見沼通船堀がある。その南側に行き、通船堀を左に見ながら、竹林の中を歩いて行く。

竹林の途中に通船堀についての説明板があった。その中から抜き出した地図を上に示す。通船堀は、見沼代用水の東縁及び西縁の水路と芝川の間に設けられた運河で、国の史跡に指定されており、木曽呂の富士塚もこの史跡に追加指定されている。竹林の道が終わったところで橋を渡り、通船堀を右に見ながら進むと、途中に芝川と見沼代用水との水位差を調節するための閘門式の関があった。桜の頃を想像しながら、堀に沿って先に進むと芝川に出る。

芝川を右に行き八丁橋を渡ると水神社がある。この神社も通船堀の史跡に追加指定されている。芝川に沿って北に少し行くと、見沼代用水東縁と芝川を結ぶ通船堀に出る。通船堀を右に見ながら進むと、ここにも閘門式の関が設けられている。さらに進むと、行く手に木曽呂の富士塚が見えてくるが、樹木が茂っているため全体の姿はつかめない。

見沼代用水東縁に出て右へ行き、橋を渡って先に進み、信号の手前を左に入る。道はやや上りとなる。そば店があった場所の先、日本料理の看板を左に入ると、浅間神社の鳥居が見えてくる。木曽呂の富士塚は、その左側にある。

木曽呂の富士塚は台地の上にあり、塚の高さは5.4m、直径は20m。寛政12年(1800)に、丸参講によって盛土で築かれている。この富士塚を発願した蓮見知重(蓮見知道居士)の石碑の裏には、その由緒が記されている。なお、石碑の上にある大日如来像は修復されているようである。

北側から富士塚に登る。頂上には火口を模した深さ1mほどの穴があったそうだが、今は殆ど埋まってしまっている。頂上からの眺めは樹木が茂っているため今は良くはないが、葉が枯れ落ちた頃に来れば、富士山を遥拝する事も出来るのだろう。

頂上から南側に下りると、富士塚の南側を下っていく道があった。この道を下りていくと、途中に胎内らしきものがあったが、今は入れないらしい。この辺りの斜面はかなり崩れたらしく、改修したようである。見上げると、崖上に富士嶽神社の石宮らしきものが見えた。

麓の道まで下りて右に行くと、ここにも胎内らしきものがあった。この付近の斜面も崩れたらしく、改修したように見える。この胎内も入れないらしいが、昔は南側と西側の胎内がつながっていたという。ところで、胎内も富士塚の構成要素の一つとすれば、台地上に築かれた高さ5.4mの塚に加えて、この斜面も富士塚に含まれることになる。通船堀から眺めると、見沼代用水東縁の上に、富士山の姿を写しとった高さ12mの木曽呂富士が聳えているという事である。

 

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告4」「富士山文化」

 


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