夢七雑録

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14.面影橋から江戸川橋

2009-11-21 13:44:48 | 神田川と支流
(112)面影橋
 「面影橋」を渡った先の会社の入口の横に、山吹の里の石碑がある。石碑は再利用品らしい。山吹の里の場所は諸説あるが、所詮、伝説に過ぎぬ故、論議を楽しんでいるだけなのだろう。「面影橋」の名の由来は、姿を写す池があったからという説など諸説ある。何れにしても、ここには、古くから橋があったらしい。この橋を通る古道は、鎌倉街道中道の東回り道だという説がある。その経路は、二子の渡しから、等々力、渋谷、千駄ヶ谷を経て、面影橋から池袋を経て岩淵に出るという。橋から北へ宿坂を上がる道が、その古街道という事になるが、今回はパス。桜の下の遊歩道を歩いて、次の橋へ行く。

(113)三島橋

 次の橋は「三島橋」。源頼朝が三島神社を勧請した事から、三島という地名(字)が生じ、それが橋の名になったという。ここに橋が架けられたのは、終戦より何年か前のことらしい。橋から下を覗くと、川の中まで伸びた桜の枝の下に、黄褐色の露岩が続き、その近くをカルガモが三羽、音も立てずに泳いでいる。

(114)仲之橋
 桜の下の遊歩道を歩いて、「仲之橋」に出る。面影橋と豊橋の中間に架けられたので、この名が出たらしい。架橋は、昭和になってからだろう。この辺りの川底には、露岩が長々と続いている。上総層群とかいう、東京の基盤になっている地層で、神田川の改修で掘下げた際に露出したものを、そのまま残しておいたようだ。神田川の川床はコンクリートが多いが、高戸橋から下流は、自然のままの川底にしてあるという。

(115)豊橋

 最初の架橋は明治の終わり頃だろうか。橋の名は、近くの豊川稲荷に由来する。豊川稲荷は、豊川の妙巌寺を発祥の地とする仏教系の稲荷で、伏見稲荷とは系統を異にするが、所詮、民間信仰ゆえ、あまり区別して考える必要はないのかも知れない。橋から下を見ると、上総層群の露岩がここまで続いているのが分かる。地層の一部が顔を出したもの故、一枚岩の範囲を越えた露岩というわけだ。それに、堆積した砂礫でもあり、見栄えは良くない。ここから、「新江戸川公園」は近いが、行くのは止めにして、桜の道を先に進む。

(116)駒塚橋

 もとは「駒留橋」と称したが、いつの頃からか「駒塚橋」と呼ばれるようになったという。駒留橋の由来については諸説あるらしい。川の中をちょっと覗き、両岸の桜を眺め、北側の水神社を遙拝してから、また歩きだす。近くの芭蕉庵は、神田上水の工事に芭蕉が参加したと伝えられる事に因み、後年、作られたものだが、今回は黙って通り過ぎる。

(117)大滝橋
 次は、花見の中心地にある「大滝橋」。親柱はレンガになっている。初架橋は昭和になってからだろうか。江戸時代、この辺りには、関口大洗堰があり、神田上水と江戸川を左右に分けていたという。公園内には堰の柱も据え付けられているが、じっくり見るほどのこともないので、先を急ぐ。

(118)一休橋
 江戸時代、「関口橋」と呼ばれていた橋が、今は通称に従い「一休橋」となる。その由来は、一休蕎麦という店が近くにあったという説と、一橋から一休に転じたという説がある。橋の由来についての碑が右岸にあるらしいが、読めそうになく、読む気もないのでパス。橋の上から、桜の影になっている江戸川橋の方を眺め、それからまた歩きだす。

(119)江戸川橋
 江戸川公園も終わりに近づくと、「江戸川橋」が間近に見えて来るが、巨大な取水口が何とも目障りだ。ここには、創架時期が分からないほど古くから、橋があったらしいが、今の橋は何代目になるのだろう。この橋から北に音羽通りを進めば護国寺に出るのだが、今回は立ち寄る暇は無さそうだ。道を渡り、橋の下流側を見ると、暗渠が口をあけている。池袋駅の西口付近に発する弦巻川と、池袋駅東口付近に発する水窪川とは、別々の経路を流れたあと、音羽通りの左右を流れていたが、現在はすべて暗渠となり、江戸川橋の手前で合流して、この暗渠の口から神田川に落ちている。


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