清瀬駅北口を出て、けやき通りを歩く。けやき並木が続く歩道の所々には、彫刻作品が置かれている。途中の郷土博物館は帰りに寄る事にし、郷土博物館東の信号の次の角を左に入る。道はやがて下り坂となり、坂の下で左に曲がると左側に富士山神社(浅間神社)の鳥居があり、富士塚が見えてくる。この富士塚は中里富士と呼ばれ、東京都の有形民俗文化財に指定されている。なお、富士塚の所有者は東光院(丸嘉講武州田無組中里講社)になっている。寺の土地を借りて富士塚を築いたのだろうか。
この富士塚は、柳瀬川の右岸段丘の端に、周辺より9m高く赤土で築かれている。富士塚には、高田富士に倣って富士山の溶岩を用いたものが多いが、中里富士のように溶岩を用いない例もある。中里富士の築造は丸嘉講武州田無組中里講社で、「清瀬村中里富士講社起源」によると、文政8年(1825)再築で、明治7年に七尺五寸高く再築とある。中里富士の祠の銘に文政8年とあるので文政8年再築は確からしいが、最初の築造年については分からない。丸嘉講の開祖は赤坂伝馬町の近江屋嘉右衛門で、品川富士を築いたのも丸嘉講に属する品川丸嘉講である。丸嘉講田無組は、近江屋嘉右衛門の弟子の安右衛門(善行道山)によるところが大きく、「清瀬村中里富士講社起源」では、享保18年(1733)に田無を経て中里に経典が伝えられたのが、田無組中里講社の始まりとしている。
中里富士の登山路は電光型で傾斜も急ではなく、土留もされているので歩きやすく、頂上も滑りにくい工夫がされている。山頂にある石造物のうち、左から2番目が仙元大菩薩の祠、その隣の石碑には大日如来と思われる像が刻まれている。中里富士には、○の中に嘉と記した講紋を付けた丸嘉講の石碑のほか、合目石、小御岳の石碑、富士山登拝の途中に参詣する高尾山や道了尊の石碑、小祠などが建てられている。なお、麓の右側にある地蔵菩薩や庚申塔は年代からみて富士塚を築造する以前のものだろう。中里富士は全体として、江戸時代の神仏習合の姿を残しているように思える。
中里富士には火の花祭りの説明版が置かれていた。火の花祭りは吉田の火祭り(鎮火祭)をもとにした祭で毎年9月1日に開催されているそうだが、まだ見た事はない。この行事は東京都の無形民俗文化財(風俗習慣)に指定されており、山頂での儀式のあと、巨大な藁束に点火するという。その灰を持ち帰ると火災除けや魔除け、畑にまくと豊作になるらしい。なお、都内では駒込の富士神社でも山仕舞い行事として篝火をたく鎮火祭が行われている。
<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「富士山文化」「富士信仰と富士講」「ご近所富士さんの謎」