夢七雑録

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十条富士塚と氷川神社富士塚

2019-05-26 15:39:28 | 富士塚めぐり

(1)十条冨士塚

埼京線の十条駅から北に行き演芸場通りを東に向かうと都道に出る。この都道は旧日光御成街道で岩槻街道とも呼ばれていた江戸時代からの道である。ここを北に行くと左側に十条冨士神社があり、北区指定有形民俗文化財の十条冨士塚がある。十条冨士神社は王子神社の境外末社のようだが、十条冨士塚については十条丸参伊藤元講という富士講により管理されており、毎年6月30日と7月1日に、この富士講による大祭が行われている。

十条冨士塚は高さ6mほど。もとは古墳だったという説もある塚に、富士山の溶岩を置き多数の石造物を配置するなどして富士塚としている。新編武蔵風土記稿には、十條村に塚が二つ往還の西にあり共に由来を伝えずとあるが、その塚の一つが十条冨士塚に該当するのだろう。十条冨士塚は明治時代に整備されているが、その後も改修が行われていたらしく、今後も再整備の計画があるらしい。十条冨士にはつづら折りの道があったようだが、現在は石段と手すりが設けられていて登りやすくなっている。頂上には、明治時代に造られた冨士浅間大神の祠が置かれている。

 

富士山信仰を主体とする富士講は、食行身禄(伊藤伊兵衛1671-1733)によって庶民を対象とする富士信仰へと変化し、江戸を中心として各地に富士講が生まれる。身禄の入定後、三女“はな”が跡目を継ぎ、その次に花形浪江が跡目を継ぎ、文化6年(1809)からは丸参という富士講を開いた滝野川の安藤富五郎(1755?-1827?)が跡目を継いで、伊藤参翁と名乗る。十条の富士講はその後継として丸参伊藤元講を名乗っているようである。

 

十条冨士塚が築造された年代については、現存する石造物の銘文から天保11年(1840)以前とする説、失われた石猿の銘文から文化11年(1814)以前とする説、滝野川の寿徳寺にあった天明7年の巡拝塔の道標に“ひだりおふじいわぶちみち”とあった事から天明7年(1787)以前とする説がある。また、十条冨士塚の頂上にある祠に明治14年当所上下伊藤講中とあり、さらに明和3年・願主醍醐久兵衛とある事から、明和3年(1766)の富士塚の祠を明治14年に造り直したとする説もある。身禄との関わりは分からないが、富士を信仰していた醍醐久兵衛が、塚の上に浅間神社の祠を祀った事はあったかも知れない。ただ、表向きは由来を伝えぬ塚のままであっただろう。なお、昭和41年の銘のある伊藤元講創建350年の碑があり、元和2年(1616)の銘の供養塔もある事から、元和2年に富士塚があったとする説もあるが、身禄はまだ生まれておらず、伊藤元講も存在していない。

 

(2)氷川町氷川神社富士塚

十条冨士神社の北側の道を西に向かい、埼京線を過ぎて十条銀座を南に行き、その先を右に折れて十条仲通りを西に進み、十条通りを渡って帝京大学病院入口の交差点を南に進むと石神井川に架かる御成橋に出る。石神井川を上流に向かって歩いていくと、旧中山道が通る“板橋”に出る。ここを過ぎて高速道路下の中山道を渡って氷川町の氷川神社に行く。

氷川神社に入って右側の中山道側に、板橋区の登録記念物(史跡)になっている富士塚があるが、昭和初期の中山道の道幅拡張により富士塚の東側が削られてしまっている。富士塚の頂上には永田同行と記された石祠があり、登山道に沿って石碑や富士山の溶岩が置かれている。石祠の周辺には神社の境内整備のため末社が集められている。富士塚を築造したのは、平尾の住人で身禄の側近であった永田長四郎を講祖とする永田講である。富士塚頂上の石祠に安政2年(1855)とあるほか、弘化4年(1847)の富士塚奉納碑や、安政4年(1857)の手水鉢、安政5年(1858)の奉納碑がある事から、この富士塚の築造年代は、19世紀中頃以前と考えられている。永田講は、丸参講に次ぐ格式のある富士講であった。

 

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「十条富士講調査報告」「富士塚考続」「地域史・江戸東京」「ご近所富士さんの謎」「いたばしの文化財7」

 


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