夢七雑録

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東京の古民家めぐり・一之江名主屋敷(江戸川区)

2017-12-11 20:09:07 | 東京の文化財

瑞江駅で下車し、瑞江駅西通りを北に向かう。今回は高速道路の手前を左に入ったが、高速道路を潜って、その先の角を左に入る方が分かりやすいかも知れない。一之江名主屋敷は、いなげやの横を入ったところにあり、長屋門が入口になっている。この屋敷は一之江新田を開発し代々名主をつとめた田島家の屋敷で、敷地を含めて江戸時代の姿が保存されていることから、東京都の史跡に指定されており、江戸川区の景観重要建造物にも指定されている。入館料は100円で、月曜は休館日になっている。なお、田島家初代の田島図書は、堀田姓の武家であったが、関ケ原の戦いに敗れたあと当地の田島家に身を寄せ、この地域の開発に当たったと伝えられている。

長屋門は、武家奉公人が居住する長屋と一体になった武家屋敷の門で、江戸時代の初めには武士以外の者が建てる事は許されていなかった。その後、帰農した武士については特別に許されるようになり、やがて、名主や村役人、旧家なども長屋門を建てるようになった。一之江名主屋敷の長屋門は江戸時代後期に建てられたと推定されており、屋根は寄棟造りの茅葺であったが、現在は茅葺型の銅板葺きになっている。

長屋門をくぐると、その先に中庭をはさんで、寄棟造り茅葺屋根の東向き部分と、入母屋造り茅葺屋根の南向き部分を、L字型に組み合わせた曲り屋(中門造り)のような主屋がある。最初に建てられたのは、住まいとして使われていた東向きの部分で、直屋(すごや)と呼ばれる長方形の棟だけであったらしい。この棟には、安永3年(1774)の棟札があったと伝えられているが、それ以前にあった主屋の部材を利用した再建だったようである。

土間として使われている南向きの部分は、天保9年(1838)より前に増築されたと考えられている。この増築により主屋は、母屋と厩を一体化した南部の曲り屋のような形態になったが、田島家では直屋から直角に突き出した角屋(つのや)と考えていたようである。受付への入口は東側にあり、入ると土間になっている。手前の土間は農作業用として使用されドマと呼ばれていた場所で、大黒柱から先にはカマドのあるカッテ、その先は土間と板間があるダイドコロになっている。

田島家の屋敷は、名主としての接客の場と、日常生活の場に分かれている。生活の場は土間のほか、イタノマ、ナンド、ナカノマ、ホトケマから成る食い違い四間取りで、ナカノマ以外は板間になっている。写真は囲炉裏のあるイタノマで、その奥にナンドが見える。

接客の場は、ゲンカン、ツギノマ、オクザシキ、イリカワ、コザから成り、畳敷きである。写真は次の間(ツギノマ)から式台が設けられた玄関(ゲンカン)方向を見たもので、4畳の玄関には2畳の小座が付属している。外に見えているのは長屋門である。

8畳の次の間(ツギノマ)から、2畳の床の間が付いた8畳の奥座敷(オクザシキ)を見る。

上の写真は外縁(濡れ縁)と座敷の間の廊下、イリカワ(入側)で、畳敷きになっている。ここからは南側の庭が見えるようになっている。

外に出て、江戸末期の様子を復元したという池泉回遊式の南庭に行ってみる。池はそれほど大きくはないが、築山をつくり、州浜を設け、雪見灯籠や三重塔を置いている。

屋敷の北側と西側には、防風林として植えられたケヤキやムクノキなどが茂っている。林の中の道を歩いていくと、屋敷の北西側に屋敷神が祀られていた。

屋敷の西側と北側には堀がある。今は空堀になっているが、以前は水が溜まっていたらしい。一之江名主屋敷がある春江町は低湿地で、中世には集落も無かったようなので、江戸時代になって田島家が最初に屋敷を構えたのだろう。中世の土豪屋敷のように堀をめぐらした名主屋敷の例は他にもあるが、田島家としては何よりも水害対策として堀を掘り、堤を築く必要があったと思われる。堀が東側と南側にもあったかどうかは分からないが、今は東側の敷地内に内堀が造られていて、水が溜まっている。

北側の堀を渡ると、以前は無かった広場があり、展示棟が建てられていた。北側にあった公園を敷地内に取り込んだらしい。堀を渡り返し、屋敷畑を通り、長屋門へと急ぐ。明治24年に建てられた蔵は見ていないが、すでに日は傾いている。今回は割愛して外に出る。

 

東京9区文化財古民家めぐりの記事は、今回をもって一先ず終わりとするが、古民家は他にもあるので、折を見て取り上げたい。


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