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井上靖著「敦煌」は覇権争いの河西回廊を舞台に千仏洞で発見された経典の謎を解く壮大なロマン

2020年09月14日 | 斜読

book519 敦煌 井上靖 新潮文庫 1965   
 2000年8月中国西北部・シルクロードに暮らす少数民族の民家を訪問した。そのときは西園寺一晃著「中国辺境をゆく」(b018参照)を予習して出かけた。
 20年も経ってそのときの紀行文を書き始め、復習で「敦煌」を読んだ。

 1980年にNHKで放映された「もう一つのシルクロード」を見たような気がするが、まったく記憶に残っていなかった。偶然にも、紀行文を書きながら「敦煌」を読んでいるとき、「もう一つのシルクロード」が再放送された。
 録画して「敦煌 17窟の謎」を繰り返し見た。1980年放映のシルクロード調査隊に井上氏も参加していて、「17窟の謎」に「敦煌」の鍵となる経典を重ね合わせたようだ。
 ・・「敦煌」では、主人公趙行徳が西夏軍の攻撃を受け、沙州城を炎上させる直前、西夏文字に訳された貴重な経典を莫高窟に隠すところがクライマックスである・・。

 「敦煌 17窟の謎」の映像と解説によって趙行徳の偉業が映像化され、「敦煌」に著された1000年代前半の中国西北に暮らす人々のほとばしる熱気を感じることができた。
 ・・それにしても、シルクロードの紀行文を書こうと思いつき、復習で「敦煌」を選び、再放送された「17窟の謎」を偶然見るとは、縁とは摩訶不思議である・・。

 冒頭に中国西北の地図が紹介されている。本を読みながら繰り返し地図を眺めた。右下の南東が「宋国」、右上の北東が「遼国」、中央が「西夏国」、左下の南西が「吐蕃」である。
 南西の「開封」から破線が中央を西に縦断していて、順に「洛陽」「長安」「環州」「霊州」「興慶府」「西涼府」「甘州」「粛州」「瓜州」「沙州(敦煌)」、そして「∴千仏洞(=莫高窟)」が記されている。
 これは趙行徳の足跡をイメージ化した線だが、この破線こそが争奪の的であるオアシスを結んだ交易路である。オアシス都市以外はすべてゴビ砂漠か黄土高原か地肌をむき出した山脈である。オアシス都市を出ると、道は無くなり乾いた砂の世界が広がる。破線とはまたシルクロードをめぐる勢力争いをも暗示している。
 ∴千仏洞=莫高窟は行徳の最後の目的地として登場する。
 
 物語は、1026年=天聖4年、湖南の田舎を出た32歳の趙行徳が都開封で進士の試験を受けるところから始まる。・・前述地図の右下に開封が位置する。開封から敦煌までは直線で1800kmを越える。実際には道のないゴビ砂漠を進むし、戦いでは陣営と戦局を走り回り、都を行ったり来たりするから、行徳の旅路は途方もない・・。

 試験を待つうち行徳は眠ってしまい、天子の前で、チベット系タングート族の西夏国が強大となり中国西辺を脅かしているので前進基地として一城を築き、さらに塞を設け、周辺の貧民を屯田させて防備する、と熱弁をふるうところで目が覚める。

 眠ってしまい試験を放棄した行徳は、裸で切り売りされる寸前の西夏の女を救い、西夏文字の書かれた布切れをもらう。

 行徳はたくましい西夏の女、西夏の文字から、西夏を知りたいと強く思う。故郷を忘れ、開封を後にし、翌1027年、宋軍の前進拠点である霊州に入る。・・霊州の先=黄河の西は漢の時代に設けられた河西四郡(武威=涼州、張掖=甘州、酒泉=粛州、敦煌=沙州)である・・。行徳はその間に、回鶻、西夏、吐蕃の言葉を少しずつおぼえた。

 行徳は回鶻の隊商に紛れ込み涼州に向かうが、砂漠の中で西夏軍と回鶻軍の戦闘に巻き込まれる。一人砂漠をさまよい涼州城にたどり着くが、西夏軍漢人部隊の兵卒に組み込まれ、甘州に小国を築いている回鶻軍との戦いに参加させられて1年が過ぎる。・・涼州は農業も盛んで馬の産地でもあり、争奪の的になっていた。

 行徳は戦いのたびに気を失い、ときには重症を負うが生き延びた。

 甘州の回鶻を攻め落とすため、涼州に西夏正規軍50万人のほか雑多な人種の軍隊が集結する。全軍の統率は次期西夏王李元昊で、行徳は勇猛果敢な漢人朱王礼の部隊に編入させられる。
 西夏軍総勢20万人が甘州を攻める。行徳は朱王礼の命で決死隊となり城内へ突入、城壁で狼煙をあげるとき回鶻王族の女を助ける。
 行徳は回鶻の女と契りを結ぶ。ところが、朱王礼から西夏文字習得のため興慶へ行く許し?命令?が出る。行徳が女に1年で戻ると話すと、女は2本の首飾りの一つを行徳に預け、再会を約す。行徳は朱王礼に女の保護を頼み、興慶に旅立つ。
 
 興慶は、涼州、甘州を下した新興勢力西夏の都である。西夏国はさらに漢人の支配する河西回廊の西はずれの瓜州、沙州=敦煌を手中に治めようとし、その中間に出没する吐蕃を撃とうとしていた。
 1028年=天聖6年に興慶に入った行徳は西夏文字を習得し、漢字と西夏文字の対照表にもかかわる。1029年=天聖7年に対照表が完了する。
 行徳は宋国に戻ることもできたが、1030年=天聖8年、涼州を経て甘州に向かい、さらに西の祁連山脈の麓に築かれた朱王礼の城塞に入る。

 朱王礼に会った行徳が回鶻の女について聞くと、死んだという。翌日、吐蕃との最終決戦のため全軍集結の命が届き、行徳は朱王礼とともに甘州城に入る。

 馬に乗った李元昊が現れる。なんと李元昊に続く馬には回鶻の女が乗っていて、行徳と目が会う。翌日、李元昊が全軍の査察を終え隊列を整えたとき、城壁の上から回鶻の女は身を投げ自死する。
 ・・行徳は、女が約束を反故にしたことを悔いて自殺した、と信じる。・・女の死は朱王礼の気持ちに李元昊への憎しみを生み、のちに李元昊への反逆に走らせる。

 行徳を始め、西夏軍は回鶻の都粛州に入城する。行徳は女の自死を思い出し、毎日のように死んでいく兵卒、庶民を見て、仏教に関心を持つ。粛州の寺の法華経7巻を読み、金剛般若心経を知り、大智度論百巻を読みふけった。
 趙行徳と、朱王礼率いる西夏軍の前軍は吐蕃軍を破る。ほどなく漢人曹延恵が太守の瓜州が西夏に臣属する。・・瓜州は延恵の兄曹賢順が太守である沙州=敦煌の支城である・・。

 1032年、李元昊は、父王が死に、王に就く。朱王礼の部隊は、李元昊の命で瓜州城に入る。太守延恵は仏教への信心が厚く、経典を集めていて、行徳に経典の西夏語への訳を頼む。

 経典の西夏語訳は、西夏語を知る漢人の人手がいる。行徳は朱王礼の許可をもらい、沙州の貿易商人尉遅光の隊商に加わり興慶に出かける。・・尉遅光が終盤、沙州の経典を千仏洞に運び込む手助けをする。

 話を飛ばす。李元昊率いる西夏軍は瓜州城を焼け落とし、沙州を狙う。朱王礼は回鶻の女の恨みを晴らすため李元昊を倒すと行徳に語る・・西夏王李元昊の残忍さや、漢人の地である沙州を守ろうとする漢人の思いもあったのではないだろうか・・。

 瓜州落城寸前に逃げ出した朱王礼部隊、行徳、太守延恵、尉遅光らは沙州に逃げ込む。
 沙州王曹賢順は、ここは漢土である、曹氏は滅びても子孫が雑草のように残るといい、圧倒的な勢力の西夏軍と戦い、戦死する。
 朱王礼は恨みを晴らそうと李元昊を狙うが、戦死する。
 留守部隊として残った行徳は、沙州城が焼け落ちる前に、尉遅光に財宝と偽り膨大な西夏語訳の経典を千仏洞に運び込む。

 1043年、西夏と宋は和睦、1048年、李元昊が45歳で物故する。時を経て趙行徳がしたためた手紙が届き、経典を隠した仏洞前で供養が行われたが、仏洞はそのまま保持された。
 1900年代初め、王道士が石窟群を発見する。これがいまの莫高窟であり、世界中の耳目を集めて貴重な経典、仏教遺跡が散逸した。

  2000年8月にシルクロードを訪ね、砂漠を体験し、莫高窟の壁画に感嘆しただけでも壮大な歴史に気分が高揚した。井上靖氏は、宋や西夏の歴史に西夏文字に翻訳された経典を織り込み、趙行徳、朱王礼、回鶻王族の女、尉遅光を登場させ、「敦煌」という壮大なロマンに仕立て上げた。シルクロードの旅には必読の本であり、中国西北部の歴史を学ぶ副読本ともいえる。 (2020.9)

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