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yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2003 スリランカのドライゾーンでは巨大なため池ネットワークで紀元前にシンハラ王朝成立

2017年08月26日 | studywork

「スリランカのドライゾーンにおける水共生術」日本建築学会2003年度大会

1 はじめに  日本建築学会2002年度大会で、「スリランカのヴァナキュラー建築における環境共生術」と題し、ポロンナルワを事例とした貯水・配水システムとヴァナキュラーな住まい方を報告した。

 スリランカは北緯6°~9°に位置する島国で、島の北側は10月~1月に吹く北東モンスーンの時期に集中して雨が降り、ほかのシーズンはまったく雨が降らず、ドライゾーンになっている。にもかかわらず、紀元前3世紀には島の北側に位置するアヌラダプーラ、その後、同じくドライゾーンのポロンナルワ、クルネガラなどを都とするシンハラ王朝が栄えた。その背景には、高度な潅漑貯水システムがあり、いまでもこの潅漑貯水システムが、都市、農村の生活水、農業水をまかなっている。
 一方、島の南側は年間を通して雨があり、ウエットゾーンとなる。16世紀に進出したポルトガル、その後のオランダ、イギリスは島の南西海岸に拠点を築き、ウエットゾーンを開発した。
 スリランカが独立したのは1948年で、こうした潅漑貯水システムと、この潅漑貯水システムと一体をなす生活スタイルについての調査研究はまだ蓄積が少ない。本稿は、ドライゾーンに位置するアヌラダプーラを対象とした潅漑貯水システムとキリクラマ村(Kirikkulama)の水利用についての事例報告である。調査は2001年3月、2002年8月、2003年3月に行った。

2 ドライゾーンの水供給システム
  アヌラダプーラあたりは年間で約1100mmの降水があるが、そのほとんどは10月~1月に集中し、ほかのシーズンは降水がない。市街に水を供給するヌワラ湖(現地ではNuwara wewa、以下すべて人造湖)は1/100万の地図にも表記されるほど大きく、湖面の最長はおよそ5kmになる。ヌワラ湖は標高およそ300mに位置し、3方が丘陵で、市街側の1方におよそ5mの堤防を築いて貯水する。

 ヌワラ湖の南東、約11km、標高350mほどにナッチャンドゥワ湖(Nachanduwa wewa)がつくられている(次頁写真)。湖面の最長はおよそ8kmで、3方が丘陵地に囲まれ、1方に高さ10mほどの堤防を築いて貯水する。
 さらにナッチャンドゥワ湖の南、約27kmにケラ湖(Kela wewa)が位置している。標高はおよそ420mで、湖面の最長は9kmに及ぶ。やはり3方が丘陵地で、1方に高さ20mに近い堤防が築かれている。
 この巨大な3つの人造湖は水路で結ばれていて、ケラ湖→ナッチャンドゥワ湖→ヌワラ湖と水が供給されていく(右中が水路ネットワークモデル図、図の上が北、標高は図の下が高い)。この3つの人造湖・水路ネットに、同様の仕組みをもつ水系や、水路の途中につくられた小規模な人造湖が連鎖していて、全体で複合的な水供給システムが構築されている。
 その一つ、ナッチャンドゥワ湖とヌワラ湖のあいだの水路沿いにつくられているキリクラマ湖(Kirikkulama wewa、標高330mほど)を例に、水の流れを調べた。ナッチャンドゥワ湖には3つの水門・水路が設けられていて、その一つがキリクラマ湖に向かう。この水路の途中には小規模の水門・水路がいくつか設けられていて、田んぼに水が落とされる。田んぼは低い方に向かって区画されていて、田んぼの水は順次、低い方の田んぼを潤していき、最終的にはヌワラ湖に入る。模式化すると図になる(右下が水系・土地利用モデル図)。
 スリランカ・ドライゾーンでは、紀元前からこうしたわずかな雨量の水であっても複合的な潅漑貯水・水供給システムにより、水を余すことなく集め無駄なく活用する仕組みが行われてきた。地勢と雨水の流れを正確に読み取り、人造湖、水路、田んぼを的確に配したすぐれた環境共生技術といえる。

3 集住のかたちと水利用
  丘陵地、人造湖、水路、田んぼからは地下浸透があり、伏流水の流れができる。キリクラマ村などの集住地は、人造湖→水路→田んぼ→の水系の比較的近くに形成され、ドライゾーンであっても湿気があり、緑が多く、生活水に水路の水や伏流水の井戸が利用される。伏流水は地層の中に何層かあるようで、浅い井戸は水質が悪かったり、乾燥時に水涸れをおこす。そのときは、水涸れのない、水質のいい近所の深い井戸の水を分けてもらう。つまり、集住地の立地は、地下の伏流水系、言い換えれば地上の人造湖→水路→田んぼの水系によっている。キリクラマ村の場合は、ナッチャンドゥワ湖からキリクラマ湖に向かうおおむね東から西向きの水路に沿った平坦な土地に集住地が位置する。

 宅地は、おおむね東西方向の道路を中心に、道路北側と南側に短冊状に連続する。宅地の幅は30mほどが多く、奥行きは100mをこえる場合もあるほど深い。宅地内の配置、住居平面は、道路を中心にして対称で、北側、南側ともに道路側に樹木や生垣、道路から10mほどの奥に主屋、主屋の裏手に井戸、さらに菜園、空き地、樹木などとなる(街並み図参照)。
 主屋は道路側にポーチ付きの入口、続いてリビングルーム(サーラヤ)、サーラヤに面して個室となるニダナカーマラヤが数室、サーラヤの奥に台所(クッシーア)の構成で、多くは台所を棟続きの別棟とし、物置が備わる。
 街並み図右下の住居L(写真、外観)の住み方と水利用を紹介する。住居は主屋の前側と後側の付属屋を並列させ、屋根を二棟にしている。二棟のあいだには谷樋を入れ、下に溜め枡をつくって、雨水を溜めている。主屋の斜め右裏手に井戸があり、斜め左奥にトイレがおかれている。家族は5人、両親と娘3人だが、娘2人はニゴンボで働いているため、ふだんは3人暮らしである。入口を入るとサーラヤ(家族が集まったり客をもてなす)である。サーラヤの北側、南側に2室ずつのニダナカーマラヤがあり、南・入口側を父、その奥をニゴンボにいる次女、北・入口側はニゴンボの長女、その奥を母と三女が使用する。谷樋が通るあたりが食事室に使われ、付属屋の井戸側の部屋がクッシーアになる。
 Lさんを始め、キリクラマ村の田んぼはキリクラマ湖の近くにあり、キリクラマ湖または水路から水を取り入れる。Lさんは庭でバナナ、果物をつくっていて井戸の水を使い、野菜は宅地の裏を流れる水路の水を利用する。一方、生活水のほとんどは自分の井戸を使うが、水質がよくないため飲料水は隣の井戸を借りる。また、沐浴や洗濯は、水路に架かった橋のたもとが共同の水場になっていて、Lさんを始め村の人が共同利用する。混み合っているときは、水路の別の水場やキリクラマ湖沿いの別の水場が利用される。
 キリクラマ村では、宅地の配置は道路→主屋→付属屋→菜園・井戸、間取りは道路→入口→サーラヤ→ニダナカーマラヤ→クッシーアと、道路を中心とし対称形で連続し、集住地を形づくる。住み方はほぼ共通し、水利用はナッチャンドゥワ湖からの水路とキリクラマ湖の水を相互扶助、共同利用していて、地域コミュニティをなしている。

4 おわりに  ドライゾーンではモンスーン季に集中して降る雨を人造湖に集め、人造湖を水路によって複層的に連続させて農業水、生活水を確保している。集住地は人造湖・水路の水系を基盤に形成され、水の相互扶助、共同利用によって農業、生活をなしている。こうした複層的な人造湖+水路が自然に広域的な社会と環境共生の認識をつくり出し、さらに、集住地の水系に沿った一体的な空間構成と共通した住み方、日常的で直接的な水の相互扶助、共同利用が濃密な地域コミュニティと水共生の意識を形づくっていると考えられる。しかし、水くみの大変さ、水質・水量の不安、都市的な住み方指向の課題も顕在化しつつある。

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2017 星形要塞の五稜郭と復元された箱館奉行所を見て歴史を学び直す

2017年08月23日 | 旅行

2017.8 北海道 大沼・函館を行く ④星形要塞五稜郭、復元された箱館奉行所を見る

 
五稜郭
は新撰組副長・土方歳三(1835-1869)終焉の地として知られる。立てこもった城砦が日本では類を見ない五角形の星形であることは、小説、ドラマ、図、写真などを通して知っているが、訪れたのは初めてである。
 五稜郭の始まりはペリー艦隊来航にさかのぼる。1853年、黒船で浦和に来航したアメリカ合衆国海軍ペリー提督は、徳川幕府に開国を迫った。翌1854年、幕府は日米和親条約を結び、下田と箱館を開港することを決定する。同年、ペリー提督は港の検分のため箱館を訪れ、翌1855年、箱館港が開港した・・1858年には日米修好通商条約が結ばれ、函館、新潟、兵庫、長崎の5港が開港された・・。

 話は変わって、蝦夷を治めるために1802年、蝦夷奉行が箱館に設置された。やがて箱館奉行と名を変え、松前藩に場所を移し松前奉行となり、蝦夷を幕府直轄にした1821年、奉行所が閉じられた・・若干、不正確があるかも知れない、b98~b105井上ひさし著「五千万歩の男」やb176~b181司馬遼太郎著「菜の花の沖」に詳しい・・。
 話を戻す。箱館が開港されたので、外国との交渉や防衛、治安、蝦夷統治のため、1854年、港に近い箱館山の麓=現在の元町に箱館奉行が再設置された。箱館奉行はさらには蝦夷開拓、産業振興をも担い、その後の函館の発展の基礎を築いたようだ。
 奉行所の守りのため城砦を計画することになり、箱館諸術調所で西欧の先進学問を研究していた武田斐三郎教授が、港が見下ろせる現在の場所に、ヨーロッパの城郭都市をモデルに五角形の星形の五稜郭を設計し、1857年に着工され、1864年に完成して、箱館奉行所が移された。1867年、大政奉還、1868年、五稜郭の箱館奉行所に箱館府が置かれた。

 ヨーロッパの古い城砦は円形、四角形が基本である。これは剣+弓矢、旧式の鉄砲を武器とする戦いから考案された作り方である。大砲の技術が進化すると、堀や土塁を広くして大砲が届かない作り方に変化した。石垣は大砲の爆発に耐えられるように厚みを増し、三角形に突き出す稜堡が設けられた。
 三角形に突き出していると攻撃範囲が広くなり、稜堡が複数あれば互いに守りあいやすくなる。五角形の星形城砦は、15世紀半ばごろからイタリアを始めとするヨーロッパで築城されるようになった。五角形の星形が大きくなると稜堡と稜堡のあいだが広がりすぎるので、防御力を高めるため中ほどに三角形の出塁が設けられるようになる。
 五稜郭では、橋が架かって正面入口となる右手に一カ所だけ設けられ、半月堡と呼ばれている(次頁写真、前頁の五稜郭タワーから見下ろした写真の右手が半月堡)。タワーからは五角形の星形城砦の形がよく分かるが、地上に降りると堀がジグザグし、土塁が広く石垣が低いことは見て分かるが、五角形になっているのは想像しにくい。五稜郭タワーから見下ろしておくと理解を助けになる。
 半月堡の説明板も理解の参考になった。同じように土塁・石垣など、要所に説明板が置かれていて、五稜郭の特徴が説明されている。図が大きく、ふりがなも付けられ、英語の説明もあり、前向きの姿勢が伝わってくる。加えて、それらの説明を収録したパンフレットがあると、それを手に五稜郭探検ができると思う。残念ながらパンフレットは見つからなかった。さらなる前向きを期待したい。
 復元された箱館奉行所は五稜郭の中央に配置されていて、屋根に見張り用の太鼓櫓を乗せ、堂々たる構えである(写真)。瓦は赤みを帯びている。凍結を避けるための釉薬だろうか。黒瓦だったらかなり重々しい感じになっただろうが、赤みのため華やいだ印象を感じる。開港により外国の商館が建ち、領事館や寄留地もつくられ始めたから、応じた風格を現そうとしたに違いない。

 1867年に大政奉還されるが、土方歳三らを含む旧幕府脱走軍は開陽丸を旗艦とした8隻の軍艦に乗り込んで蝦夷に上陸し、明治元年1868年、五稜郭に入城、箱館を占拠する。同年、松前藩を倒し蝦夷地を平定する。
 翌明治2年1869年、明治新政府軍の大部隊が蝦夷に上陸、戦闘が開始される。土方歳三は旧幕府軍陸軍奉行並みとして奮戦するが、銃弾を受けて戦死する。旧幕府軍の幹部は新政府軍に降伏し、五稜郭を開城する。
 明治4年1871年、箱館奉行所を始めとするすべての建物が解体され、後に公園として開放された。1952年に五稜郭が特別史跡に指定され、石垣、土塁などの遺構が当時の姿を残して保全されることになった。
 1983年ごろから図書館に保管されていた箱館奉行所に関する古文書、絵図面の本格的な調査が始まり、箱館奉行所再建の機運が高まった。2010年、箱館奉行所の主要部分が当時の姿に再現された(前頁写真)。もう一度、堂々たる構えを眺め、路面電車・五稜郭公園前に戻る。

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三島由紀夫著「夏子の冒険」はアイヌ部落での熊退治を主軸に目の輝きを追い求める夏子を描いている

2017年08月21日 | 斜読

book448 夏子の冒険 三島由紀夫 角川文庫 1960
 北海道を舞台にした本を探していくつか見つけ、図書館でパラパラめくり、この本を選んだ。三島由紀夫(1925-1970)が26才のころ、1951年の出版であるから、10年一昔の言い方でいえば大昔のことになるが、私が始めて北海道に渡ったのが1964年だから時代背景はさほど違和感がなかった。私の時代では、女性の生き方、結婚について昔ながらの考え方が少なくなかったが、徐々に女性の自立や古い因習にとらわれない新しい結婚観も認めららつつあった。三島氏は、夏子にその先駆けを象徴させたようだ。また、夏子も恋人になる井田毅も純朴に表現されている。三島氏45才の壮絶な自決をニュースで知ったが、夏子の冒険を描いたころは意外と三島氏自身も純朴だったように感じる。
 目次で物語の展開が想像できる。
第1章 情熱家はどこにいるの?/第1章では夏子の生き方が解説される。夏子は、p15あの中のどの男のあとについて行ってもすばらしい新しい世界へ行ける道はふさがれている・・と思い、p16誰のあとについて行っても愛のために命を懸けたり、死の危険を冒したりすることはない・・と考え、函館のトラピスト修道院に入る決意をする。一度言ったらあとに引かない夏子を知っている母、伯母、祖母が同行し、函館に向かうことになる。ところが、上野駅で寝台車に乗り込むとき、猟銃を背負った青年が通りがかった。夏子は青年の目の輝きに「あれだ」と叫ぶ。
第2章 これぞ情熱の証/この章では、夏子は青函連絡船で井田を探しだす。夏子は井田の目を見て、p30・・海をじっと眺めているその目の輝きだけは決してざらにある者ではない・・と確信する。
第3章 美しい浮世の一日/夏子たちは湯の川温泉に泊まるが、夏子は宿を抜け出し、井田の旅館を訪ねる。函館山に登る途中、p38・・この人は何も言わないでも通じる人・・と思う。
第4章 函館山の頂にて
第5章 恋に落ちぬこそ不思議/夏子の問いに、井田はかつてアイヌので秋子と知り合ったことを話す。続きは6章へ。
第6章 麦藁帽子/井田は秋子が好きになった。結婚しようと考えた矢先、4本指のどう猛な熊に襲われ、命を落とす。
第7章 やさしい片腕/井田はさっそく仇討ちに出かけたが、見つけられなかった。その後せっせと働き、長期休暇を取って仇討ちに出かけるところだと、話す。それを聞いた夏子は仇討ちに同行すると決意する。
第8章 寝耳にお湯/母、伯母、祖母が温泉に入っているあいだに夏子は書き置きを残して、井田のもとに向かう。以下28章までが井田と夏子の熊狩りの話が時に挫折しそうになり、時に一線を越えそうになり、時にユーモアを交え、展開していく。アイヌの人たちの暮らしがていねいに描写されている。
第9章 たのもしからぬ情熱家
第10章 狩の旅第1日
第11章 御褒美は事成るのちに
第12章 閑日月
第13章 思わざる神の裁き
第14章 友情の見せどころ
第15章 第二の狩
第16章 帰りなんいざ
第17章 親切の種類
第18章 襲われて
第19章 会見記
第20章 不二子証人となる
第21章 戦闘準備
第22章 狩猟家気質
第23章 苦難の恋人
第24章 蘭越古潭の夜
第25章 登場人物一堂に会す/アイヌので母、伯母、祖母は井田と初対面する。
第26章 詫びるのも奇妙な成行/母、伯母、祖母は井田に好感を抱く。
第27章 闇にうごめく物影/4本指の熊退治作戦が展開する。
第28章 身の毛のよだつ来訪者/熊はなんと母、伯母、祖母が泊まっている部屋に侵入してくる。
第29章 生きのかぎり忘れぬ一夜/井田は夏子とともに屋根に上っていて、熊が部屋から出てきたとき見事ミッドランド銃を命中させる。
第30章 エピロオグ/熊を仕留め、仇討ち成就した井田と夏子は、p258・・二人の恋がもっとも純粋に高まった・・青年の顔は神話時代の英雄の王子のようにみえ、夏子の顔は献身的な媛のそれであった・・二人の心は・・完全に合体していた・・。しかし、帰りの連絡船で井田が平凡な家庭の夢を語ったとき、夏子はp266・・それは煙草の箱に入った銀紙のような安っぽい輝きに変わっていることに気づき、井田のもとを離れてしまう。船室に戻った夏子は、母、伯母祖母に向かって、修道院に入ると宣言する。
 顧みて、すっかり若いころの冒険心を失った自分に気づかされた。夏子の期待に応えたくても、目の輝きを失わずに生きるのはなかなか至難・・。

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2017 函館の周遊バスで元町を眺め+航空法により高さを107mに抑えられた五稜郭タワーへ

2017年08月20日 | 旅行

 2017.8 北海道 大沼・函館を行く ③大沼から函館へ 周遊バスで元町を眺めたあと五稜郭タワーに上る
 8月6日・日曜、部屋はツインベッドの洋室である。林の先は曇っていて、窓を開けるとひんやりした風が入ってくる。西日本は猛暑+熱帯夜のうえ、台風5号が近づいていて、天気が崩れるらしい。北海道は天気が違う。

 フロントによれば団体は8時出発が多いそうだ。逆算すると、6時ごろから朝湯?、7時ごろから朝食になろう。混みあっている朝湯は止め、朝食も遅らせることにして、朝の散歩に出た。ホテルの周囲には沼が散在し、林が広がっていて(写真)、そのあいだに散策路が整備されている。森の散策マップには、エゾリス、ニュウナイスズメ、シジュウカラ、ゴジュウカラ、アカゲラなどが紹介されているが、野鳥に疎いから見分けがつかない。ホテルの東の舗装された道を500mほど歩くと、左が沼になる。沼の外れから北の散策路に入る。林のあいだから鳥のさえずりは聞こえる。違うさえずりも聞こえるが、同じ種類の鳥か、異なった種類か聞き分けはできない。森林浴では樹木が発散するフィトンチッドによるストレス解消が期待できるといわれるが、鳥のさえずりや虫の鳴き声も気持ちを和らげる効果がありそうだ。起伏があり、上ると沼の先にホテルの別館が見える。丘を回り、沼の縁を歩いていると、もとの道に戻った。
 20~30分歩いたようだ。8時に近かったので、朝食会場に向かった。団体は食べ終わったようで、空き始めていた。沼側の席をとり、北海道産の食材を活かしたビュッフェ式の朝食を頂いた。

 函館大沼プリンスホテルをチェックアウトしたあと、新函館北斗駅行きの路線バスで駅に向かった。新函館北斗からはJR函館本線で函館駅に向かう。かなり混んでいた。日曜だから函館市街に出かける人も多いようだが、荷物を持った観光客も少なくない。20分ほどで函館駅に着いた。

 駅も駅前も整備されていて、賑わっていた。50数年前の面影はない。その後は函館空港を利用したので、函館駅前の発展には気づかなかった。インフォメーションで地図をもらい、4番バス乗り場に向かう。4番乗り場からは、元町ベイエリア周遊号が20分おきに出ていて、210円で元町の主な観光スポットをバスから眺められるし、今日の宿のラビスタ函館ベイ前にも止まる。地図を見ながら車窓を見物した。
 主な停留所は、函館駅-朝市-函館ビール-ラビスタ函館ベイ-明治館-金森洋物館-西波止場-十字街-ロープウエイ-元町-旧イギリス領事館-中華会館-元町公園-東浜桟橋-ラッキーピエロ-明治館-ラビスタ函館ベイと続く。元町のだいたいの位置関係がつかめた。乗り降り自由の1日券だともっと便利だと思うが、この周遊号は1回限りである。明治館に続くラビスタ函館ベイ前で降りた。

 まだ11時半でチェックインには早い。フロントに荷物を預ける。少し歩いて、魚市場通から路面電車に乗り、五稜郭を目指した。路面電車はレトロな電車もあるらしいが、往復とも2両連結だった。軌道を走る路面電車は、初めての土地でも路線ルートが分かりやすい。車内はバスほどの段差がない。一般に路面電車優先で渋滞にあいにくく、10数分間隔で運行しているので便利である。路面電車の復活を期待したい。
 1日乗車券、2日乗車券もあるが、ほかに路面電車を利用する計画がなかったので1回券にした。五稜郭公園前で降りる。ところが降りてから五稜郭まではずいぶんと距離があった。バスの五稜郭公園入口の方が五稜郭に近い。函館駅から五稜郭に直行するなら、バスで五稜郭公園入口に向かう方が便利である。

 7~8分歩くと五稜郭タワーが見えた。まずタワーに上る。もともとは五稜郭築城100年を記念して、1964年に展望台高さ45mのタワーがつくられた。2006年、老朽化を理由に現在のタワーに建て替えられた。老朽化もあろうが、展望台高さが45mしかなかったのも理由ではないだろうか。建て替えでは、航空法の高さ制限108m以下にかかるため、最高高さは107mに抑えられた。
 展望台は2層で、上階の床は高さ90mになる。展望台からは五稜郭の全容が手に取るように見えるし、市街、函館沖を行き交う船舶、函館山も一望できる。高さは迫力を感じさせる。展望台には函館+五稜郭の歴史を紹介するパネルや模型などが展示され、ボランティア?のガイドが説明をしていた。

 展望台にもレストランがあったが混んでいたので食事は後にして、五稜郭に向かった。

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2017 大沼公園の千の風モニュメントに失望するも、ホテルの温泉+新鮮な和会席で気分爽快

2017年08月19日 | 旅行

 2017.8 北海道 大沼・函館を行く ②千の風モニュメントに失望、ホテルの温泉+新鮮な和会席で気分爽快
 大沼湖畔周遊道路
に戻り、南に走ると、右にJR大沼公園駅が見える。ホテル、レストラン、商店、土産店などが並ぶ通りから左に曲がる。芝生が広がり、広場ではグループ、家族連れが休暇を楽しんでいる。西大島橋のたもとに自転車を止め、大島の路を辿って千の風モニュメントを目指す。

 秋川雅史氏の「千の風になって」は心に響くすばらしい歌である。この歌はアメリカ合衆国の「Do not stand at my grave and weep」がもとで、2001年に新井満氏が日本語訳し、原詩の一節「I am a thousand winnds that blow」を「千の風になって」と訳し、それがタイトルになった。
 新井氏が「千の風になって」を訳したのが大沼だったので、千の風モニュメントが作られたそうだ。感動的な「千の風になって」を訳した場所だから心にしみる風景が展開すると期待したが、亀の甲羅のような石貼り模様の盛り上がりに、「千の風になって 名曲誕生の地」の石版がはめ込まれているだけだった。大沼の先の空の広がりが、「・・千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」のイメージのようだが、モニュメントは期待が外れた。

 広場に戻り、ポロト館に向かう。3時ごろにポロト館に自転車を返す。JR大沼公園駅まで歩く。大沼ダンゴが名物らしく、団子屋の看板がいくつかあり、なかでも老舗の店は賑わっていた。胡麻、飴、醤油の3種類があり、四角い折りの中に一口サイズの団子が並んでいて、上に味付けがかぶせてある。串に刺した団子と違い楊枝で団子を刺し、味付けをからませて食べる。夕食をしっかり味わうために眺めるだけにして、店を出た。
 JR大沼公園駅はこぢんまりした建物だった(写真)。50数年前の記憶はないが、新しい感じがするから建て替えかも知れない。外気温は22°で、風がひんやりする。隣に国際交流プラザという建物があったので、なかで無料送迎バスを待つことにした。大沼の歴史や自然を紹介したパネルが展示されていた。
 4時ごろ、ホテルに戻る。さっそく温泉に向かう。ホテルは斜面地に立地していて、温泉は地下1階だが、浴場の下は沼で、その先に林が広がっている(写真は4階の部屋からの眺め、温泉とほぼ同じ光景)。林は果てしないように見え、その先の広大な大地を想像させる。露天は小ぶりだったが、まだ客は少ない。のんびり大地の雄大さを眺める。気分が癒やされてくる。ストレスは万病の元だそうだから、眺めのいい露天で気分をほぐすとストレスが解消されるに違いない。サイクリングの足をほぐし、たっぷり温泉からの眺めを楽しんだ。

 湯上がりに売店に寄ったら、札幌限定サッポロクラシックビールが置いてあった。北海道に来るたびに飲んだ懐かしい味である。4階の部屋で広々とした風景を眺めながら、サッポロクラシックを味わった。気分が壮大になる。

 ホテルは、温泉以外は浴衣、スリッパは御法度である。着替えてメインダイニングに向かう。今日の夕食は寿司コース匠である。和会席なので北海道の地酒・男山を頼んだ。先付け:毛蟹のむしりに始まり、前菜:大沼産川海老時雨煮・ワカサギ南蛮漬け・子持ち昆布、吸い物:大沼産ジュンサイの茶碗蒸し、お造り:イカソーメン、焼き物:大沼黒牛炙り焼き、酢の物:天然鰤焼きしゃぶ、にぎり寿司:トロマグロ・蝦夷アワビ・生ウニ・穴子・ズワイ蟹・ボタン海老・ホタテ貝・ホッキ貝・厚焼き玉子、止め椀:ふのり味噌汁、水菓子の会席である。大沼産、北海道産を基本してとても新鮮だった。イカは、直前にガラスの器に入れてこれからさばきます、と見せてくれた(写真)。イカには申し訳ないが、すばらしい食感だった。おいしく頂き部屋に戻る。

 露天が小ぶりだったので時間が遅くなると混み合うだろうから、部屋に戻って一息してから温泉に出かけた。星空を期待したが、あいにく雲がかかっていた。風が心地いい。縁に寄りかかり、昔を思い出す。
 50数年前の大学1年のころは貧乏旅行だったが、若さの勢いがあった。毎日毎日、大地のエネルギーに刺激され、新しい発見を求めて、宿代を節約するため夜行列車を乗り継ぎ、東に西に、北に南に動き回った。
 50数年経ったいまは、一つ一つをじっくり楽しむようになった。目の前のありのままを眺め、その背景の自然や人々の歴史文化に思いを馳せるようになった。経験、体力、気力がそうさせるようだ。
 湯に身を任せ、風に当たりながら、50数年前の自分といまの自分を思い比べたりしているうち、入浴客が増えてきた。瞑想どころではない。湯を上がる。/余談。寝る前に温泉に向かったカミさんによると、外国人の団体で芋洗いを超えた混みようになっていて、大きい声が響き渡り、温泉を楽しむどころではなかったそうだ。翌朝、ホテル前に大型観光バスが4台?も並んでいたから、混みようが想像できる。北海道は人気の観光地の一つらしいから、個人旅行は団体が利用しない小さな宿の方が良さそうである。

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