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2023.1京都 二条城を歩く2/2

2023年11月16日 | 旅行
日本を歩く>   2023.1 京都 二条城を歩く2/2 二の丸御殿・二の丸庭園・本丸+神泉苑+京都タワー


 式台の西に大広間が続く。大広間南廊下に面して三の間、二の間が並び、廊下は二の間で北に折れ、二の間の北に一の間が並ぶ。
 三の間の正面、二の間に続く左面の襖の境目に大げさなほど太い松が描かれ、松の枝が正面襖の右上と、左面襖の左上に枝をくねらせながら大きく伸び出している(写真web転載)。
 その松に目を取られるが、襖の上の欄間には厚さが35cmもある桧板に両面から透かし彫りした彫刻が施されていて、目を奪われる。
 左面の透かし彫りの反対側を見ようと西廊下に曲がると、二の間、一の間の続き間が目に飛び込み、圧倒される(写真web転載、手前が二の間、奥が一の間、手前右上が透かし彫りの欄間)。
 一の間=上段の間が将軍の席で、床が一段高くなり、奥に床の間、違棚、付書院を備え、右手を帳台構とし、障壁画には狩野探幽による松が描かれている。
 二の間=下段の間に描かれている松は一の間に向かって枝を伸ばす。松の枝で奥行き感を出し、将軍の威厳を高める演出である。
 1611年、家康が豊臣秀頼と面会したのも、1614年、家康が冬の陣、夏の陣の軍議を開いたのも、1626年、後水尾天皇の行幸のときも、そして1867年、徳川慶喜が大政奉還を表明したのも一の間+二の間である。テレビなどで何度も見聞きしていて知識はあっても、その現場にいると改めて歴史を実感する。
いままで見てきた遠侍、式台、大広間三の間はいずれも格天井で狩野派による絵が描かれていた。大広間一の間、二の間の天井も狩野派の絵が描かれているが、二の間は折り上げ格天井とし、一の間の将軍着座の真上はもう一段折り上げにした二重折り上げ天井としている。将軍の威厳を高める演出である。 


 大広間一の間、二の間の西廊下の北は蘇鉄の間と呼ばれる廊下が続く。庭に蘇鉄が植えられていることから蘇鉄の間と呼ばれた(写真web転載、右奥が大広間、左奥が蘇鉄の間)。
 蘇鉄の間の先は徳川ゆかりの者、将軍に招かれた者しか立入りできない。通常時の見学順路にも黒書院、白書院は含まれないらしいが、この日は特別入室期間?で、蘇鉄の間を過ぎて西の廊下を歩きながら黒書院三の間、二の間を見学する。
 蘇鉄の間の突き当たりを左=西に折れると黒書院三の間、二の間が並び、二の間を右=北に折れると一の間が続く。
 一の間、二の間には桜が描かれていて桜の間とも呼ばれる(写真web転載、二の間から一の間を見る)。将軍の背にあたる床の間には長寿、繁栄を象徴する松が描かれている。梅の花も添えられていて、春を感じさせる。
 黒書院西の廊下を進むと白書院で、南側に並ぶ二の間、三の間までが見学順路である。白書院は将軍の居間、寝所として使われた(写真web転載、外観)。
 障壁画、襖絵は水墨画で、二の間、一の間には中国・西湖の風景が描かれている。風水の水墨画が気持ちが和み、寛げるようだ。


 帰りの見学順路は、白書院二の間、三の間からUターンし、黒書院北の廊下から一の間、四の間を見て、蘇鉄の間を通り、大広間北の廊下から一の間、四の間を見学する。
 大広間四の間の障壁画は「松鷹図」と呼ばれ、天井まで伸び上がったダイナミックな松に鷹が止まってにらみを効かせている。勇壮さを感じる(写真web転載)。
 大広間四の間の北廊下を右=南に折れ、左=東に折れて、式台北の廊下から老中の間を見る。そのまま遠侍北の廊下になり、遠侍一の間、勅使の間、廊下突き当たりを右=南に折れ、遠侍若松の間、柳の間を見る。勅使の間、若松の間は朝廷の公家を迎える部屋で障壁画、襖絵は優美な雰囲気の風景が描かれ、大名を迎える部屋とは趣向を変えている。
 車寄せに戻り、外に出る。45分ほど、冷たい廊下を歩いたのですっかり冷えた。徳川の威光をこれでもかと演出した絢爛豪華さに圧倒された。戦国時代を制覇した徳川は、全国の大名のみならず朝廷、公家に対して威光の演出が不可欠だったのであろう。建築技術、絵画、工芸は極度に洗練されたと思う。
 でも、茅葺きの住まいで藁にくるまって寝ている農民とのあまりの落差に気持ちが晴れない。それも気分を冷え冷えと感じさせたのかも知れない。


 二の丸御殿の西に特別名勝に指定されている二の丸庭園が広がる(写真)。池の中央に蓬莱島を配した書院造庭園である。1626年の後水尾天皇の行幸にあわせ、小堀遠州が手を加えたそうだ。
 都の喧噪を忘れさせ、石を組みながらも自然のなかを回遊している気分になりそうである。


 二の丸庭園の西が本丸である。本丸を囲んで方形の内堀が掘られていて、東橋を渡り、本丸櫓門から入る。本丸櫓門は1626年の後水尾天皇行幸にあわせて造られたらしい(写真)。万が一敵が攻め込んできたときは木橋を落とし、銅扉で鉄砲を防ぐ造りである。
 後水尾天皇行幸のときは、二の丸御殿から2階建ての畳廊下が天守閣まで設けられ、天皇は地上を歩くこと無く天守閣に上ったと伝えられている。
 天守閣は焼失し、いまは天守台が残されている。天守台に上り、本丸御殿をながめる(写真web転載)。
 現在の本丸御殿は1893年に移築された桂宮御殿で、重要文化財に指定されている。見学はできない。
 天守台を下りたあと、西橋を出て、北の清流園をながめ、北大手門を遠望する(写真、重要文化財)。東大手門とほぼ同じ大きさ、同じ造りである。
 南に折れ、展示収蔵館を見る。障壁画の原画が展示されている。障壁画を間近で鑑賞できるが、二の丸御殿のそれぞれの部屋の障壁画、襖絵、天井絵の方が歴史を実感できる、と思う。
 番所を通り、東大手門を出る。


 堀川通から二条城の外堀に沿って南に歩き、押小路通を右=西に曲がって少し歩くと神泉苑の北門がある。苑内に入ると法成就(ほうじょうじゅ)と呼ばれる大池があり、法成就池の中島に建つ善女龍王社に渡る朱塗りの法成橋が架かっている(写真web転載、左に法成橋、右に善女龍王社)。
 50代桓武天皇のころ、大内裏は現在の御所より西に位置していて、794年、桓武天皇は大内裏の南東隣に宮中付属の庭園を造園した。神泉苑の始まりである。南北4町≒440m、東西3町≒330mで、乾臨閣、釣殿、滝殿が設けられ、歴代天皇が行幸し、宴遊、相撲、賦詩(ふし)、さらに桜の花見などを楽しんだそうだ。
 各地が大干魃に襲われた824年、弘法大師空海が神泉苑でインドの善女龍王を勧請して祈雨の法を修したところ恵みの雨が降り続いた。恵みの雨が貯まって大池となり法成就池と呼ばれ、善女龍王を祀る善女龍王社が建立された。
 願い事して法成橋を渡り、善女龍王社に参拝すると願いがかなうといわれているので、健やかな日々を願い善女龍王社に参拝する。
 善女龍王社の南には石橋が架かっている。石橋を渡り、天満宮、弁天堂、鎮守稲荷社に一礼し、鎮守稲荷社から先は通行止めなので、参道に戻り南に建つ大鳥居で一礼する(写真、正面奥が善女龍王社)。


 大鳥居は御池通に面していて、御池通を東に歩き、堀川通を左=北に折れて宿に戻る。一休みし、キャリーバッグを受け取り、押小路通を西に7~8分歩いて二条駅から京都駅に向かう。
 ランチには少し早かったので高さ131mの京都タワーに上った。京都タワーは1964年、山田守の設計で、厚さ12~22mmの特殊鋼で円筒形の塔身をつくるモノコック構造で造られた。当時、古都の景観を損なうと反対運動が起きた。私もそう思いこれまで上ったことが無かったが、建設以来50年を過ぎた。古都の景観に違和感はあるが、存在は否定できない。
 塔から南の東寺五重塔(左写真)や北の東本願寺(右写真)に一礼する。古都の象徴を残しながら、京都は少しずつ変容している。
 京都タワーを下り、食事処をいくつかのぞいたがどこも時間がかかるという。新幹線に直結した構内の総本家にしんそば松葉に入り、生ビールで喉を潤し、天麩羅そばを食べた。
 京都には歴史が圧縮されている。歴史を掘り起こし、新しい知見を学んだ。いい旅になった。 
 (2023.10)

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