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2023.1京都 二条城を歩く1/2

2023年11月15日 | 旅行
日本を歩く>  2023.1 京都 二条城を歩く1/2 東大手門・唐門・二の丸御殿


 京都3日目、部屋から晴れ渡った風景を眺める。二条城のはるか西の彼方は嵐山、嵯峨野だろうか(写真)。2018年4月に京都三尾の神護寺、西明寺、高山寺を参拝した(HP「2018.4京都を歩く」参照)。人里離れた古寺巡礼で多くの知見を得た。旬の筍料理を堪能した。山並みを眺め、京都三尾の旅を思いだした。
 今日は目の前の二条城を歩く。2010年1月の京都の旅で二条城を歩いている(HP「2010.1京都を行く 二条城」参照)。復習しながら新たな発見をしたい。
 宿をチェックアウトし、キャリーバッグをフロントに預ける。堀川通を渡り、1300円の入場券を買い、東大手門から入城する(写真、重要文化財)。
 二条城は徳川初代将軍家康(1542-1616)が、京都御所の守護と将軍上洛のときの居城として1603年に築城した。造営総奉行は京都所司代の板倉勝重である。豊臣恩顧の武将が健在のなか徳川の威信を示すため、堅固さと壮麗さが求められたと思う。
 当初は現在の二の丸部分が建てられ、家康は二の丸御殿に入城した(次頁図web転載)。
 話が飛んで、3代将軍家光(1604-1651)は、1626年の後水尾天皇の行幸にあわせて城の拡張整備を進め、東西600mほど、南北400mほどの広さに外堀を巡らせ、二の丸の西に内堀を巡らせた本丸が配置された。本丸の南西隅には伏見城から移築した五重6階の天守閣が建てられた(天守閣は1750年に落雷で焼失し、再建されなかった)。
  話を戻して、108代後水尾天皇は徳川家康の計らいで1611年に即位する。家康は即位にあわせて上洛したとき、豊臣秀頼(1593-1615)と二条城で会見する。一説には18歳の秀頼と会った家康は秀頼の凜々しい姿を見て、禍根を残さないために豊臣宗家の滅亡を決意したといわれる。家康は1614年に二条城で大坂冬の陣、夏の陣の軍議を開き、二条城から出陣し、1615年、豊臣家は滅亡する。
 時代が下って1863年、14代家茂が3代家光以来になる二条城に入城、1866年、慶喜が二条城で15代将軍を継ぐ。1867年、15代慶喜は二条城大広間で大政奉還を表明する。
 二条城は徳川幕府の始まりと終わりを象徴している、といえよう。


 東大手門は正門で、2階に櫓を乗せた櫓門として造られた(前掲写真)。1626年、後水尾天皇を迎えるとき、2階櫓から天皇を見下ろすのは不敬であると2階櫓を外し、1662年に改めて2階櫓をのせたそうだ。
 柱の上端、下端に金箔を貼った飾金物が付けられている。テレビで城郭研究者が飾金物の一ヶ所に千鳥がいる、と紹介していた。飾職人の遊び心らしい(写真)。目立ちすぎると思うが、造営奉行が見逃してくれたようだ。


 東大手門右に城を警固する武士の詰め所である番所が建つ(写真)。かつては12の番所があったそうだが、現在はこの番所のみが残っている。


 二の丸は築地塀が巡らされている。東大手門から左に折れ、次いで右に折れると、築地塀のあいだに唐門が建つ(写真、重要文化財)。桧皮葺切妻屋根、前後を唐破風とした四脚門である。上部には彩色鮮やかな松竹梅、鶴と亀、蝶に牡丹など長寿、吉祥を表す彫刻、龍、虎、唐獅子など聖域を守護する霊獣が彫刻されている(写真)。
 1626年の後水尾天皇の行幸にあわせ、1625年に建てられた。唐門は柱幅に対し背が高く、屋根が大きく伸び出している。後水尾天皇を迎えるため豪華絢爛さが演出されたのであろうが、同時に、全国の大名に徳川家の威信を示す効果もあっただろうし、豪華絢爛は家光好みだったのであろう。


 唐門の先に国宝・二の丸御殿が見える。唐門あたりからは分からないが、二の丸御殿は東南の遠侍、その西に式台、その北西に大広間、北に蘇鉄の間、北西に黒書院、北に白書院と6棟の建物が雁行に連なっている。部屋数はのべ33、総畳数は800畳を超える。
 室内の障壁画、襖絵は狩野派により描かれ、欄間彫刻、飾金物で装飾され、将軍徳川の威厳を見せつけている。
 遠侍南手前の車寄せが観光客の入口になる(写真、右手前が車寄せ、その左奥が遠侍、あいだに式台をはさみ左が大広間)。
 日射しはあるが1月中旬の京都は寒い。見学順路の廊下は冷え冷えする。家康を始めとする将軍、家臣はこの寒さでも威儀を正していたのだから、頭が下がる。
 見学順路は一方通行で、遠侍南廊下→式台南廊下→・・・・黒書院南廊下→白書院南廊下→黒書院北廊下→大広間北廊下→・・遠侍北廊下と二の丸御殿を一巡する。廊下は歩くとキ~キ~のような音が出る仕掛けの「鶯張り」である。内部は撮影禁止だがweb上にはたくさんの写真が掲載されている。


 遠侍は来殿者の控えの間で、南側に並ぶ柳の間、三の間、二の間を見る。それぞれの部屋には狩野派による竹林に虎、豹が描かれている(写真web転載、二の間)。
 中国の古書に母虎から産まれた3匹のうち1匹は豹柄と書かれていて、どこにでも変わり者がいるといった意味との説がある。当時、虎、豹を見る機会は無いから、来殿者は虎、豹に驚かされ、感心したに違いない。
 廊下を曲がると式台の南廊下に続く。式台では、来殿者が献上品を差し出し、将軍への取り次ぎが行われた。障壁画は長寿、変わらぬ繁栄を象徴する常緑の松が描かれている。
   続く(2023.11)


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