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「火の国の城 下」あらすじ

2022年11月27日 | 斜読
book543 火の国の城 下 池波正太郎 文春文庫 2002  

四年後  もよ(大介の妻)は助けてくれた於万喜から大介が殺されたと聞き、於万喜の世話で大坂城の西、今橋すじで山中忍びを隠し塗師屋を営む寅三郎の妻になる。
 一方、印判師・仁兵衛=奥村弥五兵衛は、ようやく足袋や才六・小たまが山中忍びだったことに気づく。
 家康は秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居しながら、名古屋城築城の総監督を清正に命じる、といった4年間の情勢が語られる。


名古屋築城  関ヶ原の戦い後10年、49歳になった清正は、この間に4度も江戸諸方の修改築工事、伏見屋敷の新築、江戸桜田の新築を引き受け家康に臣従を示すとともに、古今無双の熊本城に秘密の工事を加え城を完成させる。
 ・・ここでは秘密の工事はぼかされているが、のちの筋書きから秀頼を迎えるための工事と推測できる。対して淀の方は頑迷で、家康の天下を絶対に認めようとしない。大介はどう動くか?、清正の真意は?、池波流筆裁きが気になる・・。
 熊本城工事中に何度も徳川方の忍びが潜入するが、城の全容がつかめないばかりか半数が行方知れずになっていた。・・清正と千代として仕える杉谷忍び・お婆の対処である・・。
 家康は清正に忍びを放す一方で清正との婚姻関係を深め、切っても切れぬ関係に持ち込もうとする。・・家康はしたたかに表と裏を使い分け、清正もしたたかに表・裏を受け止める・・。
 名古屋城天守の工事中の夜、清正の臥所に大介が杉谷忍びの横山八十郎とともに現れる。八十郎はのちに清正の馬廻りとして敵の忍びに目を光らす。
 大介は、家康は秀頼が臣従しなければ=淀の方が家康に頭を下げなければ大坂を攻める覚悟をしたと清正に話し、淀の方説得のために高台院の力を借りるよう進言する。


その夜  高台院の枕元に大介と道半が現れ、清正の言葉を伝える。高台院は、淀の方に会いに行かねばなるまい、そのときは大介を供にする(大坂城内の情勢を探れ?の意味か)と話す。
 4年前に清正が高台院に大介を引き合わせたときに気づいた曲者はその後道半が調べ、塩部屋から高台寺の地蔵堂に通じる抜け穴が掘られていたのを見つけていた。
 高台院を辞した大介と道半が抜け穴を調べていると、3人の忍びが現れた。おとりで飛び出した道半のあとを2人が追いかけたすきに、大介が一人を倒す。道半を追いかけた2人は平吾と於万喜で、道半を見失う。平吾、於万喜たちは、大介を探すために高台院を見張っていたようだ。


熊本城  大介は、千代=杉谷のお婆、清正とこれからの動きを相談するため熊本城に向かう。
 ここで池波氏は熊本城の偉容、清正の築城術、まちづくりを語り、西郷隆盛が熊本城に陣取った明治政府と戦ったとき、加藤清正と戦して勝てなかったようなものだとの話を披露している。
 大介は=池波氏は、熊本の西、およそ8kmの石神山から見下ろし熊本城は戦いの城と実感する。・・2016年、私も堅固さと優美さを兼ね備えた熊本城を訪ね感激を受けたが、石神山には上らなかった。次回の熊本訪問を楽しみにしたい・・。
 大介とお婆は、家康の決意を考えると淀の方の暗殺が戦を避ける最善の策、淀の方亡き後、家康は秀頼を九州に移し、清正を九州から出そうとする、清正はどう出るかなどの情勢分析を話し合う。
 ・・池波氏は大介、お婆の濡れ場を挿入する。ほほえましい・・。


主計頭清正  清正は大介たちの淀暗殺の考えを見通していて、淀の方に決して害を加えててはならぬと厳命する。
 大介がお婆に清正の命を伝えると、お婆は、私たち忍びの働きで天下が変わる、それが忍び働きの本意と、暗殺の意思を変えない。


大坂城  高台院は秀頼の補佐・片桐且元に大坂行きを伝えるが、淀の方の面会拒否で実現しない。高台院は伏見・肥後屋敷の飯田覚兵衛にこのことを伝える。
 飯田覚兵衛は独断で紀州和歌山城主・浅野幸長と密談したあと、幸長から借用した大坂城絵図面を大介に写させる。覚兵衛は2頭の馬を用意させ、大介を伴って浅野幸長の屋敷に向かう。
 浅野幸長は大介を含む14騎で遠出し、日暮れどきを狙って大坂城に入り片桐且元を訪ねる。且元はやむなく幸長一行を接待、泊まらせる。
 夜半、大介は秀頼の枕元に忍び入り、幸長、清正連名の書状を渡す。幸長からの書状を読んだ秀頼の素直さ、判断の速さに、大介は天下人にふさわしいと感じる。・・池波氏の筆が躍動する。


甲賀指令  10年前から伏見・肥後屋敷の飯田覚兵衛に伴野久右衛門として仕える砂坂角助は山中忍びで、覚兵衛と馬で出かける大介を見つけ、近江国・甲賀柏木の里に屋敷を構える山中俊房に伝える。
 俊房は小たまを呼び出し、大介が生きている、つぐないをせよと命じる。
 他方、俊房は砂坂角助に小さな革袋を渡し、秘密の指令をする。
 ・・俊房配下の忍びの仕掛けがじわじわ迫ってくるのを感じる・・。


対面  秀頼は幸長、清正連名の書状の通り、淀の方が止めるのを制し、大坂入りした清正、幸長と対面する。清正は成長した秀頼に感激しながらも、耳元へ戦を起こさぬため家康に会うようささやく。


始動  お婆は清正に従って伏見・肥後屋敷に入り、大介はお婆に会いに行く。お婆は、自分が忍びの判断で淀暗殺を考えるように、山中忍びも自分の判断で行動を起こすのではないかと危惧する。
 大介は、伏見・横大路でわらじなどを商う杉谷忍びの門兵衛の家に住む道半に会いに行くところを、物売り男に変装した小たまに見つかる・・小たまの方が一枚上手という設定だろうか、大介は変装を見破るのが不得意なのだろうか。池波氏は物語にメリハリ、ハラハラドキドキ仕込んでいる・・。
 小たまは山中忍びの権左とともに門兵衛の家を見張り、出てきた大介を小たまが追い、浅野屋敷に入るのを見届ける。
 門兵衛の家から続いて出てきた道半を権左が追うが、道半は蝉ぬけの術を使って権左を倒す。
 肥後屋敷の砂坂角助の部屋に頭領・俊房が現れ、蝸牛の銅版を見せて、これと同じ物を持つ者の言葉通りに動けと命じる。・・池波氏の展開が急を告る・・。


家康上洛  慶長16年、家康は3月27日に行われる後陽成天皇譲位、後水尾天皇即位の儀式に参列するため大軍を率いて駿府を発し、3月17日に京都・二条城に入る。
 この機に秀頼が家康のもとへ上洛しなければ戦いになるのは必定、清正は高台院と大介を通じて綿密に打ち合わせ、清正は陸路で、高台院は御座船で、浅野幸長も30騎を連ね、大坂城に向かう。
 高台院、清正らの説得と秀頼の決意で淀の方も折れ、28日に二条城で家康との対面が予定された。清正から、大介たち丹波忍びも秀頼の行列警護にあたるよう指示される。


鴻の巣山  話は変わって、3月23日、伏見城下から南におよそ10kmの鴻の巣山に百姓として暮らす60歳の山中忍び・仙右衛門の家に、行商人に扮した小たまが現れる。
 小たまは7人ほどの忍びと権左を探したが見つからない。仙右衛門、小たまは権左が大介一味に殺されたと確信し、頭領・俊房にはないしょで平吾と於万喜を引き込み、大介を襲撃しようと図る。
 小たまは、大坂・今橋すじで大介の妻だったもよと暮らす塗師屋・寅三郎に於万喜へのつなぎを頼む。
 24日、仙右衛門の家で於万喜は小たまから大介が生きていることを聞き、もよを囮にして大介をおびき出す作戦がまとまる。
 25日夕暮れ、大介はもよが26日戌の刻(午後8時)に鴻の巣山の百姓家に来て欲しいという手紙を読み、語り尽くしたうえでもよを塗師屋に返そう、26日の夜半に俊足で戻れば秀頼の上洛の27日の朝には秀頼行列の警護に間に合う、と決心する。
 ・・まんまと小たま、於万喜の策略に乗ってしまう大介のもろさは、忍びには許されない熱情のためであり、それが大介、そしてかつての忍びの生き様のようだ・・。
 26日朝、大介は小平太、門兵衛を秀頼行列の警護のため大坂へ先行させる。道半は、責任感の強い大介が遅れて警護に加わるという言葉に違和感を直感する。


死闘  3月26日酉の下刻(午後7時)、大介は浅野屋敷を出る。先回りして潜んでいた道半がつける。
 そのころ仙右衛門の家ではもよが寅三郎の元へ戻るか、大介に会うか、葛藤しながら大介を待つ。
 仙右衛門は縁の下に7個の火薬を仕掛け、平吾が火をつけて逃げだし、大介、もよを爆死させようと準備する。於万喜、小たま、忍び5人は爆風から身を守るため外に穴を堀り半身を沈め、二人を待ち構える。・・何も知らぬ大介がどう切り抜けるか、気になる・・。
 百姓家に続く松並木の手前で大介の前に道半が現れ、百姓家は甲賀山中の忍び仙右衛門の家と教える。
 大介と道半が話し合っているのを見た於万喜、小たま、忍び5人が二人に迫り、隠れようとした道半の背中に飛苦無が命中、倒れた道半に於万喜がとどめを刺す。
 道半は死んだと思い大介を追おうとした於万喜を、道半は最後の力を振り絞って切り倒す。その道半を小たまが切り倒す・・まさに死闘が展開し、さらに死闘が続く・・。
 大介は忍び2人を切るが、駆けつけた小たま、平吾と斬り合いになる。大介は傷を負いながらも小たまの片腕を切り落とし、平吾を切り倒す。小たまは間もなく息を引き取る。
 大介はさらに3人の忍びを倒し、私事のため道半を死なせたと後悔しながら逃げる。・・もよはどうなったか?・・。


二条城  3月27日朝、肥後屋敷に清正から祝宴を準備せよと連絡が来る。料理人・梅春が献立を考える。覚兵衛に仕える伴野久右衛門=山中忍びの砂坂角助が手伝いのため梅春に会いに行くと、梅春は蝸牛の銅版を見せ、角助が山中俊房から預かった革袋を受け取る。
 ・・史実では清正の死は諸説あるが、毒殺説も根強い。梅春が忍びで角助から受け取った革袋の毒で清正を殺すのは想像できるが、清正に信頼される料理人、覚兵衛に仕える伴野久右衛門、さかのぼって百姓の仙右衛門、足袋やなどなど、大勢の忍びを10年以上前からめぼしいところに忍び込ませていたのが、家康に与しようという山中俊房の戦略だったようだ。・・。
 逃げ戻った大介は門兵衛、小平太と秀頼の行列警護に加わる。大阪城を出た秀頼一行は淀城で一泊、28日に二条城で家康との対面する。19歳の秀頼は6尺2寸と大きく、態度もりりしく、輝いていて、家康は戦慄を覚える。
 二条城での祝宴を終えた秀頼は高台院宅に寄り、豊国社に参拝し、清正の案内で肥後屋敷に向かう。


祝宴  秀頼を肥後屋敷に迎えた清正は、家康との対面が滞りなく終わったのを喜び、梅春の料理を秀頼に振る舞う。角助は梅春が誰にいつ毒を盛るのか気がかりで身が縮む。
 祝宴を終え、清正は秀頼とともに御座船で大阪城に向かう。
 仙右衛門の百姓家が焼け落ちた話しが挿入される。もやはどうなったか?気になるが、池波氏は終盤で塗師屋・寅三郎は女房とのあいだに子をもうけ仲良く暮らしたと語り、読み手を安心させる。
 翌28日、伏見に戻った清正は重臣の労をねぎらい、梅春の料理で祝宴を開く。お婆も呼ばれ、夜半、清正は熊本に来て働いてくれと話す。お婆の語りで家康の次の狙いが語られる。


無  4月7日、清正が発病、その後長く床につく。
 16日、大介がお婆に会いに来て、道半を死なせてしまったと告げる。お婆は、大介に清正のために働くことが忍びの本意と話す。
 20日、清正は大坂城へ出向き秀頼に挨拶後、船で熊本に向かう。料理人梅春も同行するが、途中、清正は血を吐いて倒れ、梅春は姿を消す。
 5月27日、清正は熊本城に入るが重態で、6月中旬に子どもの虎藤に相続させる願いを出させ、6月24日、50歳で息を引き取る。
 その後は史実の通り、豊臣恩顧の有力者が次々他界し、慶長19年、家康は大坂城攻略を始め、ついに豊臣家は滅ぶ。
 家康没後、2代秀忠は山中俊房が死んだ年に70歳を越えた笹井丹右衛門を旗本に取り立てる。
 丹右衛門が寝ているとき、大介が天井から丹右衛門の口元に糸で眠り薬を垂らす。気づいた丹右衛門に、山中年房を討ち取った、次は梅春といい、宙に逃げた梅春の腕を切り落とす。
 翌朝、江戸城大手門前に捨てられた遺体の高札に「加藤清正を毒殺したので誅す」と書かれていた。大介が山名忍びへに無念を晴らし、物語が終わる。 


 史実を下敷きに、家康、清正、高台院、秀頼、淀の方の心情を掘り下げ、家康、清正の確執に大介、道半、杉谷のお婆、山中忍びを絡め、忍び働きの人間離れした鍛錬と熱い熱情を描き出している。
 教科書は表舞台、勝者の歴史を学ぶが、勝者の反対側には敗者がおり、表舞台に隠れた裏がある。池波氏を始めとする歴史小説は勝者と敗者の確執、心情、表と裏の虚々実々を、著者の筆裁きで描き出していて、歴史を読む力がつくとともに、現代をどう生きるかの知見にもなる。 
 (2022.9)
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