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2022.4桜を歩く3 熊谷桜堤 妻沼聖天山歓喜院 

2022年06月24日 | 旅行

埼玉を歩く  2022.4 桜を歩く3 美の山 熊谷桜堤 国宝妻沼聖天山歓喜院

 2022年4月、寄居の宿を出て国道140号線=彩甲斐街道を西に走る。長瀞・宝登山大鳥居を過ぎて間もなく、蓑山の斜面にピンクが見え始める。左に折れ急坂を上り、寄居の宿から40分ほどで埼玉桜名所の一つ美の山公園第1駐車場に着く(図)。第1駐車場はほぼ満車だった。
 蓑山は秩父山系から少し離れた独立峰で、標高は581.5mだが秩父盆地や秩父山系の大パノラマを眺めることができ、ハイキングコースも整備されていて人気が高いそうだ。
 急坂の途中、駐車場近辺、山の斜面にソメイヨシノが満開を待ちかねている。標高が高いためか、長瀞の桜より少し遅くなるようだ。美の山公園情報によれば、早咲き~遅咲きの桜8000本が4月中旬~5月下旬にかけて花を咲かせていくようだ。

 入口展望台、東展望台、山頂展望台に上り広々とした風景を遠望する。桜は下に見えるため花の勢いが小さく感じる。なだらかな斜面の山頂を散策しながらソメイヨシノ越しに秩父盆地+秩父山系の大パノラマを遠望する(写真)。
 「美の山山頂標高586.9m」の標識が立っていた。蓑山=みのやま=美の山のはずだが、地図などの蓑山は581.5m、美の山山頂の標識は586.9mである。大パノラマを楽しめたのだから5mの差は些細なことなのであろう。

 美の山をあとにして国道140号線=彩甲斐街道を東に下る。次は埼玉桜名所の一つ熊谷市・荒川公園あたりの熊谷桜堤である。美の山公園から70分ほどで荒川公園に着いた(図)。荒川土手の桜並木は壮観で、圧倒される。駐車場は荒川河川敷で、かなりの人出だったが河川敷が広いため駐車場には余裕がある。
 熊谷桜堤には2kmほどにおよそ500本のソメイヨシノが複列に植えられている(写真)。単純計算で2000m÷500本≒4mごとに1本になり、密度は高い。4mごとに満開のソメイヨシノが枝を伸ばしているのだから壮観である。
 そのうえ、土手一面の菜の花も見事に花を咲かせていて、ソメイヨシノ+菜の花の絶景を作りだしている(写真)。菜の花のあいだには迷路のように小径が延びている。よちよち歩きの子どもが見えなくなりママが追いかけていった。ほほえましい光景である。
 桜トンネルを歩いて桜を楽しみ、菜の花の小径を歩いて菜の花を楽しみ、菜の花小径から桜を眺めて桜+菜の花を楽しむ。贅沢な花見になった。
 あちらこちらの桜名所を訪ねたが、熊谷桜堤のソメイヨシノ+菜の花に匹敵する絶景はほかに記憶がない。多くの人も同じ意見のようで、「日本さくら名所100選」に選定されている。

 事前に熊谷桜堤を調べていて、熊谷市に国宝妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)歓喜院があるのを知った。埼玉県内唯一の国宝建造物ならば必見であろう。荒川公園から国道407号線を北に12kmほどで、利根川に近い。ソメイヨシノ+菜の花のあと、妻沼まで足を延ばした。13:00ごろ、妻沼聖天山歓喜院駐車場に着く(図)。
 妻沼聖天山では大きな稲荷寿司が名物で昼過ぎに売り切れる、と紹介されていた。聖天山歓喜院近くの食事処(写真)でおすすめのうどんを食べながら稲荷寿司屋を聞き、食後に見に行ったが売り切れで店は閉まっていた。どんな稲荷寿司だろうか、次の機会の楽しみにする。

 妻沼聖天山歓喜院の参道は西やや北-東やや南向きで、参道、社殿をぐるりと社林が包んでいて、あいまに満開のソメイヨシノが咲き誇っている。参道の始まりは東の県道341号線で、武蔵妻沼郷、歓喜天霊場と刻まれた石柱が立っている。石柱から一直線に参道が延びるが、本殿は200mほど向こうで、あいだに貴惣門、中門、仁王門が建っているので本殿はうかがえない。
 石柱から50mほどに国の重要文化財に指定されている貴惣門が建つ。1874~1851年に造られた間口3間の八脚門である。正面からは2層の切妻屋根を乗せた楼門に見えたが、横から見ると破風が3つ重ねられていた(写真)。3つの破風は全国に4例あるそうだが、実際に見るのは初めてである。
 本殿造営の棟梁林正清が、錦帯橋の作事棟梁を務め利根川の普請で訪れていた岩国藩士と親交したことで、岩国藩士が林正清に貴惣門の図面を送り、本殿完成からおよそ100年後に棟梁の子孫林正道が貴惣門を完成させた、といったことが説明板に記されていた。人が動くと文化、技術が伝播する好例である。
 貴惣門の三重破風は雄大さを感じさせるが、邪鬼を踏みつけている右の毘沙門天像、左の持国天像も迫力がある。

 貴惣門で一礼し、参道を進み、中門で一礼する(左写真)。江戸時代初期の大火に焼け残った聖天山最古の建物で、室町時代と推定されている。間口1間、入母屋屋根を乗せた四脚門である。
 仁王門で一礼する(右写真)。1894年に再建された間口5間、入母屋屋根の十二脚門で、左右に大きな阿吽の仁王像が憤怒の形相でにらんでいた。
 仁王門の先の境内中央に庭儀(ていぎ)法会を行うための石舞台が復元されている(写真)。本堂前で行われていた庭儀を偶然拝観したことはあるが、石舞台を見た記憶はない。古式なのだろうか。

 国宝妻沼聖天山歓喜院拝殿で合掌する。
 越前出身で平安時代末の武将斉藤別当実盛(1111-1183)が武蔵国長井の庄司となり、歓喜天を祭って聖天宮を開いたのが聖天山歓喜院の始まりだそうだ。
 1192年に源頼朝が参詣したときに聖天宮の修復を願い出た、1552年に忍城主が聖天堂を再建した、1604年に徳川家康が聖天堂再建を命じ50石の朱印を付した、などが縁起に記されている。修復再建が繰り返されたようだ。
 その後も災禍に遭い、前出棟梁林正清、彫刻棟梁石原吟八郎により奥殿(34㎡)が1735年着工、1741年に完成、拝殿(127㎡)、合の間(27㎡)は1755年に着工、1779年に末社を含むすべてが完成した。本殿は拝殿の奥に合の間、奥殿が続く権現造である。
 拝殿は入母屋屋根に千鳥破風と唐破風を重ねていて、金箔を用いた飾り、立体的な彫刻で格調高い(写真)。 

 拝殿左に本殿彫刻参観口があった。彫刻参観入場券700円で見学でき、ボランティアが30分説明してくれるとのことなので、入場券を購入しガイドを頼んだ。
 ボランティアガイドに案内され、合の間、奥殿の彫刻を見てその絢爛さに驚かされた(写真、右が合の間南面、左が奥殿南面)。ガイドは日光東照宮に並ぶ技法と話していたが、聖天山歓喜院本殿は規模が小さい分、絢爛さが凝縮されているように感じる。
 合の間(前掲写真右)に設けられた花頭窓は金箔の龍で縁取られ、軒下、蛙股、壁には金箔をふんだんに用い、彩色豊かな彫刻が施されている。合の間をこれほど飾る例は珍しい。
 奥殿(写真、奥殿西面~北面、前掲写真、奥殿南面)にいたっては、土台から軒先まで金箔で飾り立てた漆塗りと彩色された躍動的な彫刻で埋め尽くされている。彫刻は中国の故事を題材にしているようだ。ところどころにひょうきんな顔をした猿の彫刻が置かれている。息を呑むような絢爛さの息抜きかも知れない。
 ガイドも指摘していたが、土台を斗栱の組み物で支える技法は東照宮を初めとして数少ない。その斗栱を軒下、壁面、回廊欄干と同じように金箔で縁取りした漆塗り、彩色豊かな彫刻で埋めている。これは東照宮の土台に共通する技法である。
 東照宮建立で腕を振るった棟梁、職人たちの子孫、弟子が妻沼聖天山に再結集したのだろうか。とすると、妻沼聖天山はそれほど由緒あるということなのであろう。
 30分のガイドが終わったあと、天満社、五社大明神社、三宝荒神社の末社にそれぞれ一礼する。本殿の絢爛さに満開のソメイヨシノも影を潜めているようだ。

 熊谷市妻沼は利根川に近い。関越道に戻ると遠回りになるので、国道17号線を走り家路についた。1泊2日だったが満開のソメイヨシノ、熊谷桜堤、宝登山神社、仕上げに国宝妻沼聖天山歓喜院、盛りだくさんの花見になった。  (2022.6)

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