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2018.5 成田山は歌舞伎のお陰か、初代本堂薬師堂、2代重文光明堂、3代重文釈迦堂、4代大本堂と発展

2018年05月26日 | よしなしごと

2018.5 成田山新勝寺を行く ④額堂 「成田屋」 光明堂 釈迦堂 三重塔 薬師堂  ①~④フルページ+写真

 総門-仁王門-大本堂はほぼ南北軸上に配置されているが、大本堂の北側はまた高くなり、伽藍は南西・北東軸、さらに東西軸に配置を変えていく。
 成田山は標高40m弱とさほどの高さはないが、山?なのであり、高くなるほど平らな土地が少なく、伽藍の配置が地形に左右されたようだ。
 939年、成田に下った覚朝大僧正は関東平野を見渡せる山を選び、成田山新勝寺を興したに違いない。

 西翼殿の先の階段を上ると、南西・北東軸上に額堂、光明堂、奥の院が並び、東西軸に向きを変えて、醫王殿、平和の大塔が並んでいる。

 額堂=第2額堂は1861年建立で、国の重要文化財の指定を受けている(写真、ホームページ参照)。信徒から奉納された額や絵馬を飾る建物で、1階は吹き放しの・・当初、奥側は板壁が張ってあった・・、入母屋屋根、瓦葺きである。
 1階中ほどに7代目市川團十郎をモデルにした「成田屋」の石像が飾られている。

 パンフレット、webなどによると、江戸時代、人気の歌舞伎役者初代市川團十郎(1660-1704)に跡継ぎとなる男の子ができなかった。
 市川家は節目ごとに成田山に参詣していて、團十郎が跡継ぎを祈願したところ、のちに2代目團十郎を襲名する男の子を授かることができた。團十郎はたいへん喜び、成田不動尊の霊験にまつわる歌舞伎を上演したところ大当たりし、以来、「成田屋」を屋号にした。
 團十郎の歌舞伎で成田山の霊験が江戸に知れ渡り、成田山参詣が広まった・・うなぎ屋が大繁盛したのもうなづける・・。
 「成田屋」の歌舞伎はその後も人気がうなぎ登りだったようで、7代目團十郎(1791-1859)は大本堂の手前、三重塔の隣に、額堂=第1額堂を奉納した。額堂には7代目團十郎をモデルにした「成田屋」の石像も置かれた。
 成田山参詣が広まり、信徒からの額や絵馬の奉納が多く、飾りきれないので前述の第2額堂が1861年に建てられた。
 1965年、第1額堂が焼失してしまう。7代目團十郎「成田屋」の石像は第2額堂に移されたが、第1額堂の再建はされなかったため第2額堂は額堂と呼ばれることになった。

 ついでながら、12代目団十郎(1946-2013)の長男が市川海老蔵(1977-)で、屋号は「成田屋」である。海老蔵は成田山の縁で成田市御案内人に任命されているし、今春の成田山節分で勧玄くん、麗禾ちゃんと豆をまいている光景が報道された。江戸時代からの縁が続いている。
 さらについでながら、成田山の本尊は不動明王で、鬼たちも不動明王の前では改心するとされ、節分のかけ声は「福は内」だけである。

 額堂の龍や獅子の木彫、額絵を間近で見たかったが、柵が立てられ、立ち入り禁止になっている。木造の重要文化財であるし、第1額堂を火災で失っているから、火の用心のためであろう。
 額堂の先に旧本堂だった光明堂が建っている(写真)。
 1701年、現在の大本堂の場所に、この建物が本堂として建てられた。1858年、新たに本堂=現釈迦堂が建てられ、旧本堂は名を光明堂と改めて、本堂の後に移された。
 1984年、新たに大本堂が建てられ、前本堂は大本堂の西に移されて釈迦堂と名を改めた。同時に旧本堂だった光明堂は、額堂の先、奥の院手前に移された。
 移築、改修を繰り返したが、創建時の様子をよく残し、国の重要文化財の指定を受けている。本尊は真言密教の教主である大日如来で、不動明王、愛染明王を従えている。石段を上り、参拝する。

 光明堂の裏手の洞窟が奥の院である。通常は扉が閉まっているらしいが、今日は開いていた。洞窟が低いので頭を下げながら入り、黒々とした大日如来に参拝する。
 奥の院の先を右に折れると、左に2017年建立の醫王殿が建っている。ここにも特設の柱が立ち、布が下げられていて、列を作って布に参拝していた。本尊は薬師如来だから、健康長寿の御利益がありそうだ。

 最後に、1984年建立の平和大塔に参拝する。1階は写経道場などがあるらしいが、外階段で直接2階に上がり、不動明王に合掌して外に出た。
 東側は崖になっていて、降りると庭園を楽しむことができるそうだ。が、釈迦堂、三重塔は遠望しただけなので、同じ道を戻ることにした。
 右に奥の院、左に権現堂、右に光明堂、額堂、左に開山堂を眺める。階段下ではまだ「火渡り修業」の参列者が列を作っていたが、だいぶ少なくなった。


 列の隙間を通り抜け、釈迦堂=前本堂の正面に出る(写真、ホームページ参照)。1858年建立で、国の重要文化財である。総欅造り、入母屋屋根に、大きな千鳥破風、小さな唐破風を重ねているが、横に伸びているので仁王門に比べ安定感がある。
 釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩、弥勒菩薩、千手観音が安置されている。外壁には五百羅漢像、内部の木彫も細かな表現だった。


 大本堂の手前に東には三重塔が建つ(写真、ホームページ参照)。1712年建立、高さ25mで、国の重要文化財である。内部には大日如来が安置されているそうだが、非公開である。
 外部には十六羅漢像の木彫が飾られている。1980年代に古文書を参考に修復されたので、色彩が鮮やかである。

 主だった堂に参拝した。まだ見どころがあるようだが、昼をだいぶ過ぎたので、総門で一礼し、故T君に礼を言い、参道を戻った。途中、成田山といえばうなぎであろう。食事処でうなぎ定食をいただく。久しぶりのうなぎはおいしかった。

 うなぎを食べながら観光案内図を眺めていたら、参道の途中に最古の本堂=薬師堂が記されている。「最古の本堂」は気になるので立ち寄った(写真、ホームページ参照)。
 1655年、現在の大本堂の場所に建てられた最古の本堂で、初代市川團十郎も最古の本堂に参拝したはずだ。
 1701年、旧本堂=光明堂建立にあたり、旧本堂の後に移築され、1858年、前本堂=釈迦堂建設のとき、最古の本堂はいまの場所に移されて薬師堂と名を改めたそうだ。同時に、旧本堂=光明堂は前本堂=釈迦堂の後に移り、大本堂建立で旧本堂は光明堂の場所に、前本堂は釈迦堂の場所に移ったことになる。
 それぞれが健在なのは大日如来、不動明王の力であろう。最古の本堂=薬師堂は簡素であり、市の有形文化財にとどまっている。
 「成田屋」の歌舞伎で成田山参詣が広まるにつれ、旧本堂=光明堂が建ち、さらに参詣者が増えて前本堂=釈迦堂が建てられ、いまや大本堂に発展した。成田山新勝寺と「成田山」の深い縁がよく理解できる。いろいろ学んだ一日になった。(2018.5)

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