
この本を再読しようと思ったのは3週間ほど前、新渡戸先生の声をラジオで聴いたからです。
1922年4月18日、ジュネーブの国際連盟ではエスペラント語を学校教育に導入すべきかどうかの議論が行われていました。
1920年12月、国際連盟加盟11ヶ国は以下の決議案を提出しました。
「言語上の問題が民衆と民衆のあいだの直接のコミュニケーションを妨げているという問題を解決するため、
国際共通語としてエスペラント語を学校教育に導入する可能性を国際連盟が調査するべきである」
当時、国際連盟事務局次長だった新渡戸先生はこの決議案を支持するという演説でした。
前書きが長くなりました。
この本は日本人の道徳観を支えている「武士道」を神道、仏教、儒教の中に探り、
キリスト教、騎士道、西洋哲学と対比し、「日本の魂」を世界の人々に解き明かした名著です。
今回は本文はもとより、先生がこの本を執筆しようとしたのは何故かを記した「序文」と
元国連大使の波多野敬雄氏の「はしがき」が特に心に響きました。
波多野さんは新渡戸先生が「戦争なき状態が平和にあらず」と語っていたこと、そして
国連は「正義ある平和と正義なき平和を峻別し、正義なき平和は平和と呼ぶに値せず、
これを打ち破ってでも正義ある平和を樹立することとしている」と述べています。
ロシアのウクライナ軍事侵攻後、もしロシアがウクライナ東部を制圧して併合すれば、
一時停戦状態となるかもしれませんが、これはまさに正義なき平和で平和と呼ぶには値しないことです。
これは先日ウクライナへの武器供与を決定したドイツのショルツ首相が述べた
”Diktatfrieden”と共通するものです。
Diktatfriedenとは「過酷な条件で敗者に押し付けられた和平」を意味します。
ロシアの大統領が思い描いている、このような「和平」は到底容認できるものではありません。
ところで新渡戸先生が英語で『武士道』を執筆されたペンシルヴァニア州マルヴェルンという町の隣町デヴォンに私は高校生の時一年間住んでいました。
今度またペンシルヴァニア州を訪れることがあったら先生の行跡など辿ってみたいと思います。
