風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

わが輩も猫である

2024年02月26日 | 「2024 風のファミリー」

 

・・・わが輩も猫である。
きょうも目が合ったあいつは、わが輩のことを野良としか呼ばない。名前なぞ無いと思っておるのだろう。だが名前はあるのだ。どこかの知らないおばちゃんが名付け親だから、気に入ってはいないが一応の名前はある。どうせありふれた名前だから、名前のことはどうだっていい。漱石大先生の猫だって名前はなかったのだ。それよりも、わが輩の庭でぼうっとしているあいつだって、わが輩からみれば名無しの権兵衛にすぎない。あんな奴は馬鹿に決まっておる。毎朝同じことばかりしている。きっと、それしか出来ないのだろう。ただ歩いてるだけ、ただ座ってるだけ、それでなにが楽しいんだかわからない。そんな暇があったら、ヨモギ草でも摘んでいったらどうか、それが生き甲斐というもんだろう。

あいつは、ただぼうっとしているのではないと言うだろう。なんでも、頭の中で言葉とかいうものを探しているようだ。なんだか詩や小説のようなものを書いてるつもりらしい。それって、あの漱石大先生の真似事ではないか。不遜にもほどがある。大先生のことは、わが輩らの間では伝説になっているから、いささかのことは知っておるつもりだ。だが容貌からして、あいつは大先生には到底およばない。わが輩や大先生には立派な髭があるが、あいつには汚い無精髭しかない。そんなんで大先生の真似をしようなんて、身のほど知らずというもんだ。やはり馬鹿にちがいない。

言葉なんてものは、わが輩らには数語もあれば事足りるってもんだ。だが、あいつは言葉を持ちすぎて、使い方も分からずにもて余しておる。ガラクタばかりかき集めて、やたら詰め込むことしか知らない。大切な言葉もそうでない言葉も、ちゃんぽんにしてパニックになっておる。だから朝からあくびなんぞして、頭を冷やしておるのだろう。きのう集めすぎた言葉のガラクタを、やっきになって整えようとしているにちがいない。言葉には推敲とかいうものがあるらしいが、ガラクタをいくら推敲しても、残るのはガラクタなのだ。

わが輩には、増えすぎた言葉は、単なる煩悩としか思えない。言葉が少ないおかげで、わが輩らはシンプルな生活が出来ておる。朝だろうが夜だろうが、腹が減れば何かを食う。春夏秋冬、暑いときは日かげ、寒いときは日なたが寝床だ。発情したら素直に恋もする。言葉が無ければ思考も思案も必要ない。明日を思い煩うこともない。漱石先生ものたまっておられる。「猫などは単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る。おこる時は一生懸命におこり、泣くときは絶体絶命に泣く。」すなわち「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、行屎送尿(こうしそうにょう)」だと。あいつがどんなに語彙豊富だとて、こんな立派な言葉は持ち合わせてはいないだろう。

あいつは馬鹿だから、瞑想などしても煩悩を増やすばかりだ。行住坐臥なんてもんじゃない。指定席のごとく、いつも同じ汚いベンチに座っておる。そんなところでいくら瞑想もどきをやったって、行屎送尿なんて高尚なものどころか、単なる野ぐそに立ちしょんべんだ。言葉の使い方を知りたいのなら、煩悩を整理したいのなら、わが輩の庭を土足で歩き回ったりせずに、高い山にでも登れ。吉野の大峯山へ行け。三百六十五日、いやもっと、千日も山道を駆けてみろ。だが、あいつには出来まい。きのうの道をきょうも歩く。きのうのベンチにきょうも座る。きのうの言葉をきょうも反芻する。無駄なことばかりしておる。言葉が少ないぶん、わが輩の方がはるかに明晰だ。

どうだ、これだけ言われれば、空っぽの頭にもすこしは血が上っただろうか。逆上もよほど大切なものだと漱石先生もおっしゃった。「逆上を最も重んずるのは詩人である」と。「この供給が一日でもとぎれると彼らは手をこまぬいて飯を食うよりほかになんらの能もない凡人になってしまう」と。もっとも、詩人は逆上などという俗な言葉は使わない。「インスピレーションという新発明の売薬のような名」をもったいそうに唱えるらしい。彼らの武器は、インスピレーションと言葉だ。だが、それだけでは詩は書けない。詩は煩悩だ。解脱だ。インスピレーションからの解脱、言葉からの解脱だ。どう転んでも、あいつには無理だろう・・・




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