いくたび郷里に帰っても、山のかたちだけは変わらない。そのことは古い記憶が変わらない形で残されているようで、ときには陳腐で退屈で、目を逸らしたくなったりする。
それは退屈でやるせなかった記憶が、そのまま山の形で残されていたりするからだろう。とにかく、目のまえの山を越えなければならないと焦っていた。そんな若い日々がよみがえってくるからだろう。ふるさとの山は、懐かしくもあるが憂いでもある。
九州の中央部に標高1756メートルの祖母山という山がある。20代の初めにその山に登った。どこまでも雑木が茂っていて眺望はよくなかった。やっと空が開けたと思ったら一面の熊笹の原で、そこが頂上だった。小さな小屋があり、男がひとり小屋番をしていた。そんな淋しいところに、ひとりきりで生活できるということが驚きだった。おそらく彼が細工したものであろう、丸太を薄く輪切りにしたものに山の名を焼印で押しただけのもの、それが唯一の山の土産といえるものだった。
その日のうちに山の向こう側へ下りた。そこには古い集落があった。古い神社があり古い神楽があった。かっぽ酒という、竹の筒に入った酒をはじめて飲んだ。
もう山登りもしなくなった頃、父と妻と3人で山道をドライブして、再びその町をたずねたことがある。道路は林道のような、曲がりくねった細い道がどこまでも続いていた。途中ぽつんぽつんと民家があり、通り過ぎる村々の名前を、父は口に出しては懐かしがっていた。
そんな遠くまで、かつて父は自転車で行商に回っていたのだった。まっすぐなハンドルのがっしりした自転車と、後ろの荷台にいつも積まれていた大きな四角い竹の籠。そんな自転車で父がどこを走り回って何をしていたのか、それまで私がまったく無関心だったことに、その時はじめて気づいた。
父が死んだ後に、ふたたび山の向こうまで妻とドライブした。あえて山道を走った。道路は新しくなったり広くなったりしていたが、ところどころ林道のような細い道も残っていて、その道はかつて走った同じ道にちがいなかった。
街に入ると幾本も新しい道路や橋が架かっていて、見知らない初めての街に来たようだった。古びた石の橋から深い峡谷を覗いた。太古の阿蘇の溶岩が流れ出してできたという、切り立った崖と深い川の流れがそこにあった。
夕方になって、川沿いの道を古い神に導かれる気分でたどっていくと、岩屋戸に隠れてしまった天照大神を外に引き出そうと、八百万(やおよろず)の神々が集まって相談したという場所、天安河原に出た。いたるところに川の小石が積まれていて、まさに賽の河原のようだった。
ひとつ積んでは父のため ふたつ積んでは母のため
かつて母がよく唱えていたご詠歌が蘇ってきた。その頃の母はまだ30代だったにちがいない。自分はもうすぐ死んでしまうというのが病弱な母の口癖だった。ご詠歌を詠ったり般若心経を唱えたりしていたのも、病名がわからない病いから救われたい気持ちの、止みがたい心の迷いがあったのだろう。
そんな母が唱えていたご詠歌やお経の哀切な調べは、少年の日々を暗くした。
山のあなたになほ遠く “幸ひ”住むと人のいふ。
山の向こうには何があるか。山の向こうには何があったか。
古代の神たちが策略をねったという河原で、私はなんら唱える願いごともないまま石を積んだ。
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しばらくは試行中ですが、引き続きよろしくお願いします。