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風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

山の向こう

2025年07月09日 | 「2025 風のファミリー」



いくたび郷里に帰っても、山のかたちだけは変わらない。そのことは古い記憶が変わらない形で残されているようで、ときには陳腐で退屈で、目を逸らしたくなったりする。
それは退屈でやるせなかった記憶が、そのまま山の形で残されていたりするからだろう。とにかく、目のまえの山を越えなければならないと焦っていた。そんな若い日々がよみがえってくるからだろう。ふるさとの山は、懐かしくもあるが憂いでもある。

 

九州の中央部に標高1756メートルの祖母山という山がある。20代の初めにその山に登った。どこまでも雑木が茂っていて眺望はよくなかった。やっと空が開けたと思ったら一面の熊笹の原で、そこが頂上だった。小さな小屋があり、男がひとり小屋番をしていた。そんな淋しいところに、ひとりきりで生活できるということが驚きだった。おそらく彼が細工したものであろう、丸太を薄く輪切りにしたものに山の名を焼印で押しただけのもの、それが唯一の山の土産といえるものだった。
その日のうちに山の向こう側へ下りた。そこには古い集落があった。古い神社があり古い神楽があった。かっぽ酒という、竹の筒に入った酒をはじめて飲んだ。

 

もう山登りもしなくなった頃、父と妻と3人で山道をドライブして、再びその町をたずねたことがある。道路は林道のような、曲がりくねった細い道がどこまでも続いていた。途中ぽつんぽつんと民家があり、通り過ぎる村々の名前を、父は口に出しては懐かしがっていた。
そんな遠くまで、かつて父は自転車で行商に回っていたのだった。まっすぐなハンドルのがっしりした自転車と、後ろの荷台にいつも積まれていた大きな四角い竹の籠。そんな自転車で父がどこを走り回って何をしていたのか、それまで私がまったく無関心だったことに、その時はじめて気づいた。

 

父が死んだ後に、ふたたび山の向こうまで妻とドライブした。あえて山道を走った。道路は新しくなったり広くなったりしていたが、ところどころ林道のような細い道も残っていて、その道はかつて走った同じ道にちがいなかった。
街に入ると幾本も新しい道路や橋が架かっていて、見知らない初めての街に来たようだった。古びた石の橋から深い峡谷を覗いた。太古の阿蘇の溶岩が流れ出してできたという、切り立った崖と深い川の流れがそこにあった。

 

夕方になって、川沿いの道を古い神に導かれる気分でたどっていくと、岩屋戸に隠れてしまった天照大神を外に引き出そうと、八百万(やおよろず)の神々が集まって相談したという場所、天安河原に出た。いたるところに川の小石が積まれていて、まさに賽の河原のようだった。
   ひとつ積んでは父のため ふたつ積んでは母のため
かつて母がよく唱えていたご詠歌が蘇ってきた。その頃の母はまだ30代だったにちがいない。自分はもうすぐ死んでしまうというのが病弱な母の口癖だった。ご詠歌を詠ったり般若心経を唱えたりしていたのも、病名がわからない病いから救われたい気持ちの、止みがたい心の迷いがあったのだろう。

 

そんな母が唱えていたご詠歌やお経の哀切な調べは、少年の日々を暗くした。
山のあなたになほ遠く “幸ひ”住むと人のいふ。
山の向こうには何があるか。山の向こうには何があったか。
古代の神たちが策略をねったという河原で、私はなんら唱える願いごともないまま石を積んだ。






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ごびらっふの日記

2025年06月29日 | 「2025 風のファミリー」



きのうの雨で洗われたように、今朝は澄みきった青空と眩い太陽がいつもより新鮮に見えた。おもわず日食グラスを取り出して太陽を覗いてみる。もちろん何の変哲もない、ただのまん丸くて白い太陽だった。まっ黒な空に切り抜かれたような白い穴だった。光と熱を失った太陽の、さみしい影を見たようだった。
通りがかりの人が、太陽と私の顔を見比べながら首をかしげていた。もしかして太陽に異変が起きたのかも、と言いたげだった。


梅雨から夏へと不安定な天候のせいもあって、寝苦しい夜が続いて奇妙な夢をみることが多かった。日食グラスで見た太陽のように、ただ白い影ばかりを見ているようだった。このブログが私の生活記録というか、日記のようなものだとしたら、この日々に何か書き残すようなものがあっただろうか。探してもただ空白のページに迷いこみそうだ。
太陽の姿も「雲を染めて。震えるプディン。」などと、草野心平の詩心があれば、すこしは美味しそうなものに見えたかもしれない。
そこで私は、作文が苦手な小学生のように、他人(?)の日記を書き写すことにした。草野心平の『ごびらっふの日記』である。


「○月○日。晴。」
「人の世のオーボエのような音が、けさ東の雲のなかに生れ、雲といっしょに流れていた。じぶんはるりるを思った。こんな晩年にこのような経験をするだろうなどとは夢にも思わなかったこと。夕焼けの、あの色あいにも似たこの思いは、晩年だからというので神がくだすった恵みなのだろうか。それにしてはあまりに心を乱れさせる。るりるは、これからからだも延びようという今年生れの処女である。じぶんはもう死も間近い。何ということであろうかと思う」。
ごびらっふという老いぼれ蛙のある日の日記である。自分は死にかかっているのに、生れたばかりの処女に恋している。なんと美しく熱い日記だろう。ぼくの空白のページにじわじわとしみ込んでくる。もうすこし日記を書き写したくなった。


「○月○日。曇後晴。」
「るりるの出現は、しかしじぶんの心をたしかに乱した。乱されることのかなしいさわがしさ、うれしさ、若いときの経験は、こんなではなかった。熱烈で、まるっきりそれは暑かったが、こんなしずかな、そして切ないかなしい心のとどろきではない……」。
「……ああ実際、ボタンキョウのような陽が、いまや沈もうとしていた。そのあたりから沸いてあふれるかの如き美しい音が……じぶんはしずかに眼をつぶった。るりるの頬がじぶんの頬にふれた。ふれたまま、じっとしていた。しばらくはそのままでいたが、じぶんが眼をひらくと、るりるのてのひらのニリンソウがこきざみにふるえている。青年のような勇気と力が下腹のなかから沸きあがった。じぶんのそれぞれの指尖は、るりるの腹に、いくつもいくつもの笑くぼをえぐった」。


それからどうなったか。私はすこし元気をもらった。私の空白の日記に色が付いた。ただし盗作なので心が痛んで落ちつかない。ごびらっふも言っている。「幸福というものはたあいなくっていいものだ」と。たあいない生活を書き記す、たあいない日記でもいいかもしれないと納得して、私自身の日記に戻ってみることにした。
今年は雨の季節が短かく、早くも梅雨が明けたようだと言われている。近くの田んぼで騒がしく鳴いていた蛙たちは干からびてはいないだろうか。
ぎゃわろッぎゃわろッぎゃわろろろろろりッ! 老いてもなお熱い蛙のごびらっふを真似てみるが、彼のような熱のある充実した日記は書けそうにない。






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山が近くなる日

2025年06月25日 | 「2025 風のファミリー」



いまの季節、空を仰ぐことが多い。雨の気配が気になる。雨は嫌いではないが濡れたくない。しかし、空気が適度に湿っているのは好きだ。
雨上がりの道を、カメやザリガニが這っていたりする。辺りが水の世界になったようだ。生き物の境界がなくなって、ひとも簡単に水に棲めそうな気がする。なにか原始の匂いが漂ったりしている。

いつも眺める山が、きょうは近い。そんな日は雨が降る、と祖父がよく言っていた。たぶん大気中の水蒸気が密になって、レンズのような役割をするのだろう。普段よりも山の襞がくっきりと見えたりする。山が近づいてくるのだ。
子供の頃は山が近づいてくるというのがわからなかった。山はいつも同じ、不動の山にすぎなかった。ただそこに有るものだった。

父とふたりで、にわか雨に濡れながら釣りをしていた。セミが鳴き始めたから雨はもう上がる、と父の声がした。それは夏の夕立の後だったかもしれない。
夕立の激しさもセミの喧騒も、太陽の暑さに負けまいと競い合っているようだった。夏はあらゆるものが太陽とせめぎあっているのだった。

秋の夕焼け鎌を研げ、と遠くから祖父の声。祖父は百姓だった。わずかな葡萄山と田んぼがあった。空が真っ赤に焼けるのを見ながら、あしたは稲刈りだとばかり、黙々と鎌を研いだのだろう。私の父は、そんな家をとび出して商人になった。だから私は田植えも稲刈りもしたことがない。
祖父も父もとっくに居ない。声だけが残っている。雨の山と、セミの喧騒と夕焼け……。そんなものだけが残されて、私に明日の天気を教えてくれる。






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風立ちぬ、いざ生きめやも

2025年06月20日 | 「2025 風のファミリー」



その木造の小さな教会は常に開放されている。訪れる人々は黙って入り、しばし木製の長いすに座って薄暗い室内に目を凝らす。壁も窓も、屋根を支える梁も、素朴な祭壇も、すべて木でできている。木から木へと森を抜けてきた風が、そのまま建物の中を吹き抜けていくようだ。
風も人も、そして神ですら、自由に行き来する。老成した神は、あえて手を差し伸べることはしない。ただ黙って受け入れるだけだ。そこでは、人は知らない間に神とすれ違っているかもしれない。

今から百年以上も昔、ひとりのカナダ人宣教師が軽井沢をはじめて訪れた。彼の名前は、アレキサンダー・クロフト・ショー。彼はこの地の風土に魅せられ、軽井沢で最初の別荘を建て、最初の教会を建てた。彼は、その数々の功績により「軽井沢の恩父」と呼ばれている。その古い教会を源流とするかのように、そこから街の賑わいは南へと流れるように延びている。

神とはすれ違ったままだったが、私は満たされた気分で教会を出た。薄暗い林のそばの人がほとんど通らない裏道を抜けると、室生犀星の旧宅がある。以前にも訪ねたことがあるが、今回もなんとなく立ち寄ってしまった。親戚のおじさんのような、角ばった無愛想な犀星の顔が浮かんだ。いつも庭を眺めていたという、板張りの縁側に座って犀星の気分になってみた。
彼が愛した庭苔は、今もきれいに庭を覆っている。かつて、その庭の一角に雨ざらしの木の椅子があったらしい。そこで、じっと目を閉じて座っていたのは、若い詩人の立原道造だった。「彼はいつも眠そうだった」と犀星の目には写っていた。

自転車に乗ってやってきた若い女性が、ためらうように木戸から入ってきた。ショートパンツから伸びた白い脚が、やわらかい絨毯のような苔のあいだを軽やかに縫った。その白い脚を追って、犀星ならその屈折した艶っぽい文体で、ひとりの女性をいきいきと記述しただろう。道造なら、過ぎた日のいつかの夢のような風景にして、美しい詩を書いたかもしれない。
私はといえば、長い髪を追いかけて、ただ自転車の風になりたかった。風にもなれなかった私は、とぼとぼと通りの人ごみに混じって歩いた。

とつぜん「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が頭に浮かんだ。ポール・ヴァレリーのそれではなく、堀辰雄の『風立ちぬ』の中の言葉としてだった。白い脚の残像に、小説のあるシーンが誘発されたのかもしれない。
次第に結核が悪化していく若くて美しい恋人がいる。とつぜん風が立ち、彼女が描きかけていた画架を倒してしまう。まだ乾ききっていない絵の具にくっついた草の葉を、彼女はパレットナイフでていねいに取り除いていく。限られた日々を、必死で生きたいと願う若い命の残像がそこにあった。

風の流れのように、川の流れのように、休暇のあいだだけ訪れる人たちで、街の通りは賑わっていた。
蕎麦を食べるために店先で30分並び、注文してから15分待った。食べるのは1分で充分だった。
木の神の恩寵は、必ずしも合理的ではないのだ。生きるため、空腹を満たすためには、ときには現代の神と妥協しなければならないのだった。
風立ちぬ、いざ生きめやも。蕎麦食いぬ、いざ生きめやも!




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夢に続きはあるか

2025年06月12日 | 「2025 風のファミリー」



眠りに入ったら目が覚めるまで、夢など一切みないという人もいるが、私は就眠中ずっと夢を見ているような気がする。もしかすると、目覚める直前だけ夢を見ているのかもしれないが、夢から開放されてぐっすり眠ったと感じることは少ない。ときには夢に疲れて起きてしまうこともある。
記憶に残らない夢もあるし、妙に鮮明に残る夢もある。どちらかというと記憶に残るような夢をみるときは、体調や情緒が不安定なときが多い気がする。それに反して、楽しい夢で目が覚めるときは体も心も安定している。もちろん、私の勝手な夢解釈ではあるが。

このところ頻繁にみる夢は、乗りたい電車の行き先がわからずに乗り遅れるとか、道に迷ってしまってなかなか家に帰れないとか、注文を受けた仕事が複雑すぎて、しきりに頭を悩ませているとか、後ろ向きな夢が多い。
焦っていたり自分の弱さを責めたりしているのは、夢の中だけではなさそうで、気温が不安定で季節的にも眠りづらい環境ではあるが、日常生活で言葉が曖昧になりつつある妻との対話で、戸惑いやすれ違いも多くて、自分でも意識できない深いところで気持ちが淀んでいるのかもしれない。

子供の頃のように、ライオンや妖怪に追いかけられる夢はもう見ないし、親が死んで悲しんでいる夢ももう見ない。無知で臆病だった子供の時代はとっくに過ぎたし、両親ともすでにこの世に居ない。
それでも、子供がえりしたり、死んだ親と会えたりするのが夢の世界だ。夢の続きをさらに見たいと思ったりする、そんな夢を見るときは心身ともに穏やかなようだ。
いろいろな生活の変化にも少しずつ慣れて、ぼちぼち平穏な夢が戻ってくることを今は期待している。

人間は眠ることによって脳も再生すると言われている。できることなら、夢の中では自分が思うがままの夢をみて、思いきり充足されたいものだが、夢の中で、夢を自由に操作することはできないものだろうか。
そんなことも考えて、自己催眠とやらの訓練をしたことがある。手や足がだんだん温かくなるなどと、意識するが意識しないという、意識の深いところで意識するという難しい訓練である。すると手足が次第に温かくなってくる。
そのようなやり方で意識下の意識を動かすことによって、夢の世界も自分の思うように動かせたら楽しいかもしれない。馬鹿な寝言か夢物語と言われそうだが。




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