子供の頃、大きな木には神様が宿っていると聞かされたことがある。
大きな木の肌に耳をつけると、神様の声が聞こえるという。そのようにして、いちどだけ神様の声を聞いたことがある。言葉はわからない。ただ川が流れているような音だった。
いまでも夜中にふと目覚めたとき、川が流れるような水音を聞くことがある。子供の頃の古い感覚が耳元にもどってくる。神様ではないかも知れないが、私を超えたものの存在の、音にならない音、言葉にならない言葉のささやきに、つい耳をすましてしまう。
水が流れている。木の葉が流れてくる。
いつの間にか夢の中にいて、葉っぱの1枚1枚が言葉に変わっていく。拾いあげて並べると、詩のようなかたちになっている。躊躇いもなく抵抗もなく、流れを受け入れていく心地よさ。
川が流れる音とは、眠りへと誘われていく、あるいは眠りから覚醒していく、音楽のようなものだったのだろうか。目覚めると夢と同じ、木の葉1枚すら残ってはいないが。
水や木の葉が言葉になるとき、睡眠と覚醒のあいだを流れていたものは何だったのか。それこそが真実の言葉だったのだろうか。だとすれば、そのような言葉を掴みとることは容易ではない。そこには、虚と実を分ける薄い皮膜のようなものがあるのだろうか。
目覚めたのち、耳をすまし目を凝らしてもみても、そこにはただ夢の跡を細い川が流れているだけだ。
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