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風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

どこかで川が流れている

2025年05月19日 | 「2025 風のファミリー」



子供の頃、大きな木には神様が宿っていると聞かされたことがある。
大きな木の肌に耳をつけると、神様の声が聞こえるという。そのようにして、いちどだけ神様の声を聞いたことがある。言葉はわからない。ただ川が流れているような音だった。

いまでも夜中にふと目覚めたとき、川が流れるような水音を聞くことがある。子供の頃の古い感覚が耳元にもどってくる。神様ではないかも知れないが、私を超えたものの存在の、音にならない音、言葉にならない言葉のささやきに、つい耳をすましてしまう。

水が流れている。木の葉が流れてくる。
いつの間にか夢の中にいて、葉っぱの1枚1枚が言葉に変わっていく。拾いあげて並べると、詩のようなかたちになっている。躊躇いもなく抵抗もなく、流れを受け入れていく心地よさ。
川が流れる音とは、眠りへと誘われていく、あるいは眠りから覚醒していく、音楽のようなものだったのだろうか。目覚めると夢と同じ、木の葉1枚すら残ってはいないが。

水や木の葉が言葉になるとき、睡眠と覚醒のあいだを流れていたものは何だったのか。それこそが真実の言葉だったのだろうか。だとすれば、そのような言葉を掴みとることは容易ではない。そこには、虚と実を分ける薄い皮膜のようなものがあるのだろうか。
目覚めたのち、耳をすまし目を凝らしてもみても、そこにはただ夢の跡を細い川が流れているだけだ。


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しばらくは試行中ですが、引き続きよろしくお願いします。


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名もない花よりも

2025年05月15日 | 「2025 風のファミリー」



近くの公園で、黄色い花が咲き誇っている。以前は名前があったが、いまはない。といっても、それはぼくだけの認識にすぎないのだが。
その花には名札があった。そして名前があった。たしか、ギリシャ神話の女神のような名前だった。誰かのいたずらで、いつのまにか名札がなくなってしまった。あまりに長い名前だったので、私は覚えることができなかった。だから、名札がなくなると同時に、名前もなくなってしまったのだった。

もちろん、花は名前があろうがなかろうが関係なく咲いている。私だけがその花の名前を失って、私のなかで、その花の存在をあやふやにしているにすぎない。
名前といえば、私にはネットで使う名前がある。日常生活では通用しない名前だが、ネットでは、その名前がないと私は存在しないことになる。いや、名前があるだけでは駄目なのだ。なんらかの言葉を発信しないかぎり、誰も立ち止まってはくれない。言葉を発したときにだけ、私の名前は存在し、それに付随して、たぶん、私も存在していることになる。

言葉というものが、どれだけのことを伝えることができるものか、私にはよく分からない。けれどもネットでは、言葉以外にコミュニケートする手段がないと思い込んでいる。もちろんイラストや写真、顔文字やスタンプなどでも伝達はできる。言葉の不十分な部分を視覚的に補うことはできるだろう。だがそれは、単なる情報になりがちだ。私的な意思や感情を伝えるのはかなり難しい。言葉の直接性には及ばないと思う。

私の場合、詩と散文で言葉を発信してきた。以前は詩のほうが多かった。だが最近はほとんど散文での表現になっている。詩と散文、このふたつにどんな違いがあるのか、ずっと考えている。考えているばかりで、まだはっきりとは解らない。旅の記録を書いても詩になってしまう時期もあった。いまは詩を書きたいと思っても散文になってしまう。
詩モードと散文モードというものがあって、その切り替えのスイッチが、うまく作動できていないのかもしれない。

詩も散文も言葉を介在する。しかし、言葉を超えたところに詩は存在し、言葉に留めたところに散文は存在する。そんな気もしている。
名もない花を、名もないままに見る。咲いているものを咲いているままに見る。花のこころを受けて、情感のスイッチが切り替わるとき、そこからどんな言葉を拾いだしたらいいのか迷う。
ネットでの、私の名前は花よりも軽い。黙って咲いていることはできない。ひたすら言葉を発信しなければ、私の名前は存在しない。ネットは夜の闇のようなものだ。蛍のように、光を放ったときだけ存在する。ただ咲いている、名もない花に及ばない。

 

 

「2025 風のファミリー」




 


おどまかんじん

2025年04月30日 | 「2025 風のファミリー」



浮浪者のことを、九州では「かんじん」と呼んでいた。今ではもう聞かれないかもしれないが、私が子供の頃には、その言葉はまだ生きていた。
そして今も記憶に残る、ふたりのかんじんがいた。ひとりは女のかんじんで、おタマちゃんと呼ばれていた。おタマちゃんは、汚れたボロボロの着物を重ね着していた。当時は子供たちも貧しく汚い服装だったから、おタマちゃんが特別だったわけではない。ただいつも大きな風呂敷包みをぶらさげていて、まるで着物と風呂敷包みが歩いているようなのが異様だった。
子供たちがからかうと、おタマちゃんは真剣に怒って追いかけてくる。足はそんなに速くないので、追われて逃げ惑うのも、子供たちには遊戯のようなものだった。手をぶらぶらさせて踊るような仕草もしていたから、すこし気が触れていたのかもしれない。

おタマちゃんが何処から来て何処へ行くのか、だれも知らなかった。
もうひとりは男のかんじんで、水島将軍と呼ばれていた。彼はらい病に罹っているという噂があり、足を引きずるようにしてゆっくり歩いていた。子供たちがからかっても、そんな声など聞こえないように無視していた。およそ将軍らしい身なりでも風貌でもなかったけれど、大人たちがいうには、彼はかつては軍人だったらしい。彼もまた、何処から来て何処へ行くのか、だれも知らなかった。
いま考えてみると、ふたりのかんじんに親しげな名前がついていたのが不思議だ。彼らは物乞いをしていたわけではなかった。住まいがあるのかどうかも分らなかったが、ふたりとも周りの大人たちとは違っていた。だからやはり、そんな大人はかんじんなのだった。

かつて田舎の道路は、子供たちの遊び場だった。とつじょ遊び場に侵入してくるふたりのかんじんは、子供たちにとっては排除すべき邪魔な人間で、自分たちがテリトリーを争えるのは、かんじんしかいなかったのだ。
他にもかんじんはいたのに、ふたりだけに名前がついていたということは、やはり特別なかんじんだったのだろうか。名前があるということは、それを知る大人たちの近くで、かつては普通に生活していたのかもしれなかった。彼らはある時から、大人たちの世界からはみ出してしまった。おタマちゃんは気が触れたことで、水島将軍はらい病に罹ったことで、不思議な放浪生活が始まったのかもしれない。
 
『五木の子守唄』で歌われるかんじんは、乞食でもホームレスでもなく、ただ貧乏であるということだ。現代でも貧富の差というものはあるが、昔はかんじんとよかし、貧しい人と富める人とは、はっきり分かれていたのだろう。貧しいということはカネがなくモノもないという、ただそれだけのことだったのだ。
現代では貧乏でも、日常着るものや食べるものまで窮している人は少ないだろう。けれども自分は貧しいと自覚する人は少なくない。まわりの生活が眩しすぎて、まわりの人々が「よかし」ばかりにみえてしまう環境はある。もはや現代のかんじんは、かんじんだなどとは呼ばれないし、子供たちにからかわれることもないが、いつの世もかんじんはさみしく哀しい。

 

 

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記憶の花びらが

2025年04月22日 | 「2025 風のファミリー」



このところの妻の言動や行動に惑わされていると、だいぶ以前に亡くなった母のことがしばしば思い返される。当時、母の近況が書かれた手紙を妹からもらったことがある。
新しい介護施設に移って2週間、環境が変わったけれど、母にはなんら変わった様子もみえないという。
妹は1日おきに施設を訪ねているが、そのたびに、初めて訪ねてくれたと言って淋しがるらしい。それでいて、ケアマネージャーには、娘が毎日来てくれることが唯一の楽しみだと言ったりするという。まばらになった記憶が、時と場所をこえて繋がったり切れたりするようだった。

手紙の中で妹は、
「わたしたちは、まばらではあっても記憶が1本の糸で繋がっているのだけれど、ばあちゃんにはもうその糸が無くなって、花びらが舞ってるみたいなのかもしれません。その花びらの1枚がひらひらと目の前に落ちてきたとき、その1枚の記憶がとつぜん蘇ってくるのかもしれません」と書いてあった。
介護施設の窓からは、以前に月参りをしていた稲荷神社の鳥居が見えるので、母は喜んで手を合わせているという。当時は駅前で商売をしていたことなども介護スタッフに話したという。その頃のことは、母の記憶からすっかり抜け落ちていると思っていた妹にとって、そんなことは驚きだったという。

また入所者の中に、顔が合うと手を上げてにっこりするおばあさんがいるらしく、その人のことを母は、アベのおばあちゃんだというのだが、アベのおばあちゃんというのは、妹が子供の頃に相当なおばあちゃんだったから、今でもおばあちゃんで健在かどうか、妹には信じがたいという。
先日は、不眠症ぎみの母が眠れないでいたら、誰かが一晩中そばで付き添っていてくれたという。そのような親切な人がいるのかどうか分からないが、それも記憶の花びらの1枚だったのかもしれないと、そのような手紙だった。

どこかで満開の山桜などが咲いていて、ときどき花びらが風に乗って舞い降りてくる。アベのおばあちゃんだったり、お稲荷様だったりして、花びらはとつぜん母の枕元に舞い散ってくる。そうやって母の記憶の中から、たくさんの花びらが降ってくれれば、それもすばらしいことかもしれないと、その時は思った。
いまは妻の周りで花びらが舞い散っている。記憶の花びらが窓から舞い込んできたり、雲の向こうに舞い上がったりする。1枚1枚の花びらは花の真実であろうが、その花びらがどこから舞ってくるのか判然としないことが多くて、私は日々花びらの風に翻弄される。

 

 

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花は咲き 花は散り

2025年04月17日 | 「2025 風のファミリー」



あっという間に、花から若葉の季節にかわった。
季節の足が速すぎるような気がする。私の脚がだいぶ重くなってきたせいもあるかもしれない。桜という言葉を失ってしまった妻は、もっぱらピンクピンクと言いながら花を追った。季節と駆けっこするつもりはないけれど、なんとなく周りのいろいろな動きに、置いてきぼりにされている思いがする。引きこもりがちの春だったから、仕方ないといえば仕方ないか。

季節の歩みが遅いと感じていた頃もあった。
その頃は若かったのだろう。先走っていたり慌てていたりすることが多かった。速いということがなにより優先と、習慣づけられていたのかもしれない。せっかちといえばせっかちだった。
それが生来のものだったのか、それとも躾けられたものだったのかよくは分からないが、背後にいつも父の声がしていたことも確かだ。

「はよせえ、はよせえ(速くしろ速くしろ)」という父の声が今でも聞こえてくる。
私がのろまだったのか父がせっかちだったのか、どちらかだったのかもしれない。何かをしようとすると、背後に父の声がしてくる。ぼんやりしていても聞こえてくる。ついつい何かをしなければと焦ってしまう。何かをやり始めると、早くしてしまえと尻を叩かれているような気分になる。

いつのまにか歩くのも速くなった。食べるのも喋るのも速くなった。
仕事をするのも速かったと思う。おかげで得をしたこともあるが損をしたことも多い。
会社で仕事をしていたときは、手早いぶん仕事量が増えて、いつも忙しくて疲れ気味だった。サラリーマンをやめ独立してからは、早くこなせた分は、それだけ収入が増えて良かった。大阪人はせっかちが多いから、速いということは仕事上は利点にも信用にもなるのだった。

大阪では「せえて、せきまへん」という言葉をよく使う。急ぐけれど急がない、といった矛盾した言葉だ。「せきまへん」の方を真に受けてゆっくり構えていると、まだかまだかと催促してくる。何事にしろ大阪では、せっかちになる環境は整っているのだ。
季節の移り変わりも、大阪では早足なのかもしれない。きっと地面の底でも、根っこの親父たちが「はよせえ、はよせえ」と急かしているのだ。

 

 

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