さて、いよいよ5月29日の、洗心庵公演が迫っています。もちろん今日もその練習。
メインのプログラムは、今年度の山響の定期演奏会にちなんで、ベートーヴェン。我々が担当するのは「ラズモフスキー第3番」。折しも、昨日・一昨日に演奏した「運命」と時期の近い作品です。
ベートーヴェンを演奏する時に、いつも感じることでもありますが、作品のエネルギーがあり過ぎて、弾いている方まで力んでしまいそうになる。
何百年も前に楽譜に残された筆致に、現代の我々がここまで縛られてしまうというのは、ベートーヴェンの凄まじさであるとしか言いようがない。気をつけないと、降霊術をやり過ぎて頭がおかしくなってしまう人のようになってしまいます。アクセントやスフォルツァンドがある度に、取り乱したようになる。
楽譜に乗りうつった執念のせいなのか、我々がもつベートーヴェンへの先入観や畏れに過ぎないのかは、わかりません。
しかし本当は、ベートーヴェンも、モーツァルトやハイドンを受け継いだ、古典派の人なのです。音楽がまだまだ唯一の娯楽であり、ポップスと芸術の区別がない時代。純粋で軽妙なものがあるはずなのです。
構え過ぎずに、音楽づくりをしたいと思います。
メインのプログラムは、今年度の山響の定期演奏会にちなんで、ベートーヴェン。我々が担当するのは「ラズモフスキー第3番」。折しも、昨日・一昨日に演奏した「運命」と時期の近い作品です。
ベートーヴェンを演奏する時に、いつも感じることでもありますが、作品のエネルギーがあり過ぎて、弾いている方まで力んでしまいそうになる。
何百年も前に楽譜に残された筆致に、現代の我々がここまで縛られてしまうというのは、ベートーヴェンの凄まじさであるとしか言いようがない。気をつけないと、降霊術をやり過ぎて頭がおかしくなってしまう人のようになってしまいます。アクセントやスフォルツァンドがある度に、取り乱したようになる。
楽譜に乗りうつった執念のせいなのか、我々がもつベートーヴェンへの先入観や畏れに過ぎないのかは、わかりません。
しかし本当は、ベートーヴェンも、モーツァルトやハイドンを受け継いだ、古典派の人なのです。音楽がまだまだ唯一の娯楽であり、ポップスと芸術の区別がない時代。純粋で軽妙なものがあるはずなのです。
構え過ぎずに、音楽づくりをしたいと思います。