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大正の人

2016-06-25 11:11:30 | 日記
兄代わりだった3人の叔父(父の弟)たちは、すべて大正生まれだった。3人とも23年、32年、28年と短い生涯だった。いちばん上の叔父はミッドウェー海戦での直接の戦死だったが、2番目、3番目の叔父も、間接的には戦争による死だったと思っている。大正生まれで、開戦時に最も年少であった人は19歳である。そのことだけを考えてみても、戦争による死者は大正人がとても多かったことが想像できる。
随筆同好会では多くの大正人に出会った。中でも、2人の女性と親しくなった。S子さんは山口瞳さんの直筆を手に入れてくださり、我が家の表札用にプレゼントしてくれた。E子さんには家庭医学というか陰陽学のようなものを教わって、私は夕食後に果物を食べるのをやめた。男性では海兵の出身で復員してからは松倉海事の社長になるT氏に海軍のことを多く教わった。T氏はあの吉田満さんが書いた『戦艦大和』の中で、戦争と友情と結婚の物語として紹介されている。
山口瞳さんは大正15年の生まれである。山口さんは私が最も敬愛する人物であって、山口さんの著書からどれだけ多くのものを学んだかは測るに余る。 入院中にクセになった、その続きで毎朝ベッドの中で山口さんの『男性自身』シリーズを読んでいる。晴れの日は朝日の光で読めるが、今は雨期。明るいライトをつけるかどうか、家人の寝息を計ったりしている。

はじめまして

2016-06-25 10:52:18 | 日記
45歳のときにはじめて従姉のR子に会った。R子は私と同い年で3カ月だけ私より早く生まれている。母の姉の娘である。私の妹とは仲が好く、その日も妹が彼女を鎌倉へ連れて来てくれた。R子は高名な哲学者の息子と結婚し、数年後に離婚して母親との2人暮らし、T女子医大に勤務していたが、医師でも看護婦でもない。みやげに超高級洋酒であるロイヤルサルートをくれたので驚いた。R子は小料理屋ですぐに焼酎を注文した。それが似合っていて、酒は強そうだった。話していて、頸(つよ)い女性を感じた。美人であると言っていい。妹の話によると、R子は母親の介護が大変であるようだったが、そういう家族疲れの雰囲気はなかった。それからも電話で話すことはあったが、いつも第一印象も同じものが伝わって来た。叔母が亡くなったときに見舞いに焼酎を送ったら、「ありがとう。焼酎でも呑むしかないわね」と、電話のむこうで笑った。叔母の介護が終わって力が抜けたのか、R子は長生きしなかった。ロイヤルサルートのボトルは豪華な箱の中に、さらにビロード地の青布に包まれて立っている。つまりカッコよさがある。R子にもカッコよさがあった。頸さというのは、ひとつの姿勢の好さのようなものを生むと私は思う。

幼いころ住んでいた家の仏壇には、遺影を入れたスタンドが3つあった。私の父とその弟と妹だった。この3人が、私にとって、見覚えのない顔だった。父とは1年間一緒に暮らしたのだが、そのときの私は今日でいう0歳児だった。遺影で見る叔父叔母は、詰襟の学生服と双葉女学園の制服だった。あちらへ行ったら、その2人には「はじめまして」とあいさつするのが正しいのだろうか。 父との再会には何と言えばいいのだろうか。

丸大根

2016-06-25 10:42:49 | 日記
教室のドアを勢いよく開けて中年の男性が入って来た。丸刈り頭に丸めがね、体型も丸かった。カーキ色の上下は陸軍の制服の改造で、下半身はニッカーポッカーのズボンだった。「おはよう!」、丸刈り頭が言い、生徒たちが「おはようございます」と返した。昭和22年4月、私が、茨城県R町小学校の6年生になった日だった。丸刈り頭は新顔だった。「私は今日からみんなの担任になる。名前は~」と言ってチョークをとり、黒板にラクタイと書いた。「私の名はこれだ。落第と覚えてくれ。でも、本当はラクタイの反対で、板倉だ」と教室中を笑わせた。まもなくラクタイや落第ではなく、板倉先生には丸大根という渾名がつけられた。丸大根の授業はユーモラスで楽しかった。 丸大根はよく怒った。男女半数ずつの60人学級であったが、30人の男生徒の中で殴られたことのないのは1人もいなかった。敗戦からまだ2年、大人たちはみんなイライラしていた。食べ物も着る物もなかった。教師たちのイライラが生徒に向けられることが多かったというより、その程度の教師しかいなかった。そのことを私は中学に進んでからの方が強く感じた。殴られた生徒は殴った教師を恨み、そして軽蔑した。暗くイヤな世の中だったといえば、それまでであるけれど。

丸大根は別だった。殴られた男子たちの誰ひとりとして、丸大根を恨んだり軽蔑したりはしなかった。彼が怒るときは必ず生徒側に落ち度があったからであり、その落ち度には決まって(たとえば、女生徒を泣かせるといったような)卑怯とか狡猾といったようなものがあったからだった。私が殴られたのは授業中の私語であって、それが常習犯だったからだ。私語による授業妨害を丸大根は見逃さなかった。
板倉先生を懐かしむ生徒はたくさんいたと思う。もちろん私もその一人である。この人については、まだまだ書き足りない・・・。

セコい

2016-06-25 10:36:59 | 日記
「なんでそんなセコい手であがっちゃうんだよ、もったいねぇじゃんか」、私が安上がりするのを背後で見ていたヤクザの兄ちゃんAが言うと、その横にいた兄ちゃんBが「学生だから、仕方ねぇよな」と柔らかい口調で続けた。昭和32,3年頃、東京三軒茶屋の雀荘である。私はそこへ高校3年生の頃から顔を出していた。AもBも麻雀は私より下手だった。半荘が終わって、トップになった私が数枚の百円札を手にすると、Aが「結構上手いじゃんか」と小声になった。
舛添騒動は海外でも報じられ、米国のニューヨークタイムズ紙は、都民はセコい都知事に怒っているというようなことを書き、そこで、SEKOIという新語を用いたから、やがてそれは世界語として使われるようになるかもしれない。
たとえば、貿易交渉の折に、P国がQ国に対し無理と思える関税引き下げを要求すると、Q国の代表が「Oh! SEKOI!」と叫ぶような場面が見られるかもしれない。

セコく生きてきたから大金持ちになった人がいる。そういう人は金持ちになってからも財布のヒモが固い。金持ちでない友人と呑んでもワリカン主義である。家族にも倹約を強いる。彼は生命保険には入らない。自分は決して死ぬことはないと信じている。そういう人、あなたの近くにいませんか?