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とりあえず

2016-06-08 23:14:25 | 日記
「とりあえずビール」という言葉が流行語みたいになっているようだ。居酒屋に行って席に着き、ウエイトレスが持ってきたおしぼりで手を拭きながら、アウラリと壁に貼られたメニューを眺めながら、というときに用いるべきセリフである。呑ん平にとっては、よい時間だ。さて今夜はカツオのたたきにするかいややはりマグロの刺身でいくか…。
ボクちゃんが「とりあえず」を覚えた。両親とお兄ちゃんの一家4人でレストランに行ったとき、父親が「とりあえずカレー」と言ったのを聞いていたのであって、4歳の耳学問は早い。ボクちゃんが「とりあえずカレー」と言うのをからかって、「トリアエズカレーは鶏肉が入っているんでしょ?おいしい?」とウチの娘が訊いたら、「違うよ、とりあえず、カレー だよ」と笑い、言葉の意味と正しい使い方を知っていたようだ。
午後5時までは避難勧告だったのに、5時を過ぎると急に避難指示に変わって、だからとるものもとりあえずここへ逃げて来たといったような会話が、水害などの避難所で、よく聞かれるだろう。
「このたびは、 ぬさもとりあへず たむけやま もみぢのにしき かみのまにまに」。小倉百人一首の中にある一首であるが、私の頭ではよくわからない。「とりあえず」の語は私には難解である。わかるのは、「とりあえずビール」や「とりあえずカレー」あたりまでということになる。

とりあえず

2016-06-08 23:14:25 | 日記
「とりあえずビール」という言葉が流行語みたいになっているようだ。居酒屋に行って席に着き、ウエイトレスが持ってきたおしぼりで手を拭きながら、アウラリと壁に貼られたメニューを眺めながら、というときに用いるべきセリフである。呑ん平にとっては、よい時間だ。さて今夜はカツオのたたきにするかいややはりマグロの刺身でいくか…。
ボクちゃんが「とりあえず」を覚えた。両親とお兄ちゃんの一家4人でレストランに行ったとき、父親が「とりあえずカレー」と言ったのを聞いていたのであって、4歳の耳学問は早い。ボクちゃんが「とりあえずカレー」と言うのをからかって、「トリアエズカレーは鶏肉が入っているんでしょ?おいしい?」とウチの娘が訊いたら、「違うよ、とりあえず、カレー だよ」と笑い、言葉の意味と正しい使い方を知っていたようだ。
午後5時までは避難勧告だったのに、5時を過ぎると急に避難指示に変わって、だからとるものもとりあえずここへ逃げて来たといったような会話が、水害などの避難所で、よく聞かれるだろう。
「このたびは、 ぬさもとりあへず たむけやま もみぢのにしき かみのまにまに」。小倉百人一首の中にある一首であるが、私の頭ではよくわからない。「とりあえず」の語は私には難解である。わかるのは、「とりあえずビール」や「とりあえずカレー」あたりまでということになる。

ケチ

2016-06-08 23:07:42 | 日記
山口瞳さんが、「サラリーマンになるということは、ケチになることである」と書いた。サラリーマンは、決まった収入の中で、よりよい生活をしたいと望んでいる。だからケチにならざるを得ないといったような解説である。 私もサラリーマン生活をしている頃は、なんとか、よりよい生活をしたいと考えていた。より上等なスーツを着て、より高級な酒を呑みたいと考えていた。もともとケチな性格である。しかし、私は同時に、だらしのない人間であり、ケチなくせにムダな金を使ってしまうようなところがあった。家人もケチである。私と違ってムダ金は使わない。頭の中に家計簿が入っている。我が家は家人のおかげで、60年近い生活を保ってきたのだ。
かなり前の話になるが、ある日、娘が会社の先輩であるHさんに誘われて夕食に付き合った。Hさんは直接の上司ではないが、H夫人と娘は仲良しである。Hさんは呑ん平である。どんどん酒を追加し、料理をパクつく。娘は呑めないからウーロン茶で料理に箸を伸ばすことになる。そして、会計の時間になって、伝票が来て、そこには7,800円の文字があった。それを見たHさんは、娘に向かって「3でいいよ」と言った。娘はそれが、「3,000円出してくれ。ワリカンだけど700円はオレが負担するよ」という意味であることを悟るのに少し時間がかかったそうだ。最後に山口さん流の書き方を真似れば、「最後に笑うのはHさんのような人である」ということになる。

奇跡

2016-06-08 23:00:03 | 日記
偶然がいくつか重なると奇跡と言われる場合がある。きわめて難しい、確率的に不可能に近いことが現実に起きた(あるいは為された)場合も、奇跡と言われることがある。
男性の精子の何千万個あるいは億という数の中から、女性の卵子と結びつくのはわずか1つ(時には2つか3つ)であるが、それが妊娠という結果になるということを、中学生の頃に何かの本で読んだ。何千万分の一の的中というのは偶然中の偶然というより奇跡とする方が、言葉として正しいのではないだろうか。したがって、この世に生まれてきた人間はすべて奇跡の人ということになる。 先週北海道で田野岡大和君が山の中で行方不明となり、7日後に自衛隊の演習場で保護された。この出来事について、幸運の連続とか奇跡の生存といった言葉がテレビや新聞に躍った。建物のカギ、目の前にあった水道、マットレスのことなど、将に偶然の累積であって、マスコミの用いた言葉は正しいと思う。

前記の誕生のことのみならず、人生というものの中で、誰もが多くの偶然に出会うはずだが、その中でも大きいのが、人との出会いだと思う。 6年前、私の身体に奇跡が起きた。生命の奇跡が起きた。胸部大動脈瘤の破裂であって、九死に一生という言いあkたがあるが、それは99死に1生と言うべきものだった。そのことは前に詳しく書いたので省略するが、すべては人との出会いと時間の偶然によるものだった。