大木昌の雑記帳

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目標なく生き,「降りる」人生を選ぶ

2013-08-22 06:45:22 | 思想・文化
目標なく生き,「降りる」人生を選ぶ


最近,何と自分と同じような考えを持った人がいるものか,と驚きと共感をもって読んだ二つの
新聞記事に出会いました。一つは,『毎日新聞』2013年6月9日に掲載された京都大学教授の
山極寿一氏の「老年期の意味―目標なく生きる重要性」というコラム記事で,もう一つは
『東京新聞』2013年8月10日の,「男の生き方 男の死に方」シリーズに書いた大村英昭氏の
『競争「降りる人」評価して』と題する記事です。

前者の山極氏によれば,老年期の過ごし方は人それぞれに異なっているが,それは,各人の
それまでの人生の過ごし方が大きく異なるからでです。

つまり,老年期の人の生き方はそれぞれ個性的であって,ひとくくりにはできない,という点
が重要です。

次に山際氏は,人類進化の過程で老年期の位置づけがどう変わってきたかみます。

遺跡からみると,人類はようやく数万年前ころから高齢者の化石が登場するようになりました。

これ以前には,人は老年期に入る前に死んでいたことになります。老年期の化石が現れたのは,
体が不自由になっても生きていられる環境(特に食糧の余剰)ができたこと,そして,老人を
いたわる社会的感性が発達したからです。

ここで山極氏は,「ではなぜ,人類は老年期を延長させたのか」という,かなり重要な問いを発
します。

これは一見,意味がない,あるいは答えのない問いに見えます。というのは,人類は意図的に
老年期を延長させるよう,進化の方向を操作することはできないし,遺伝子が何らかの意思を
もっているわけではないからです。

進化とは,ある新しい状況が現れると,その条件のもとで,種の生存にとってもっとも有利な
ように遺伝子が「結果として」変化してゆく現象です。ただし私たちは,変化を「事後的に解釈
する」ことはできます。山極氏の解釈はこうです。

老人が生きてゆくためには,食料の余剰と,老人をいたわる社会的感性が発達しなければなり
ません。

山極氏は,人類が家畜の助けも借りて余剰の食料を手に入れたことが重要な役割を果たしたこと
は疑いない,と推測します。

生産力が高まった時期は人口増加の時代でもありました。人類はそれまで経験しなかった新しい
状況に直面しました。

それは,人口増加に伴った新しい組織や社会関係を作る必要に迫られたことでした。

新しい組織や社会関係を作るには,さまざまな軋轢や葛藤が生じ,思いもかけなかった事態が出現
しました。
それを乗り切るために,老人たちの存在が必要になったというわけです。

上記の事態が進行していたのは,人類が言葉を獲得した時代でもありました。山極氏は,言葉によ
って過去の経験が生かされるようになったことが,老人の存在価値を高めたのだろう,と推測して
います。

山際氏の議論を要約すると,食料の生産増加,人口増加,そして言語の獲得がセットになって,
上記の変化が生じたことになります。確実な証拠はありませんが,これは理解できます。

しかし,次の主張は,山極氏の非常にユニークな解釈です。

山極氏によれば,老人たちは知識や経験かを伝えるためだけにいるのではないという。
むしろ,老人たちは青年や壮年たちとは違う時間を生きているというその姿が,社会に大きな
インパクトを与えることにこそ大きな価値があるという。大事な部分なので,少し長い文章ですが,
以下に原文を引用します。

「人類の「右肩上がりの経済成長は食料生産によって始まったが,その明確な目的意識は時として
人類を追い詰める。なぜなら,目標を立て,それを達成するため に時間に沿って計画を組み,
個人の時間を犠牲にして集団で歩みをそろえる。危険や困難が伴えば命を落とす者も出てくる。
目的が過剰になれば,命も時間も価値が下がる。
その行き過ぎをとがめるために,別の時間を生きる老年期の存在が必要だったに違いない。
老人たちはただ存在することで,人間を目的的な強い束縛から救ってきたのではないだろうか。
その意味が現代こそ重要になっていると思う。」

人類はあまりに目的に向かって生きるようになると,それ自身がストレスとなって弊害が生じるので,
その行き過ぎを修正するために,全く別の時間のなかで生きる老人たちが必要となる,ということに
なります。

確かに,現代社会は競争社会であり,何らかの目標を達成することでその人物が評価される社会状況
にあります。

この競争に負ければ社会から脱落させられる可能性があます。しかし,たとえ一時は勝者となっても,
次はどうなるかは分かりません。

いずれにしても,現代人は常に緊張にさらされています。この緊張が「うつ病」を引き起こしたり,
さらに自殺に追い込んだりします。

老人は存在するだけで社会的に価値があるという主張,“何も無理に目標を作って必死にそれを達成
しようとしなくてもいいんだ”という発想は,一見,非現実的に見えますが,私たちを緊張から解放
してくれます。

目標なく,別な時間を生きる人たちがいるということだけで社会全体の緊張が和らぐし,そのような人
たちの存在が,目標達成志向の社会には必要となったと,と山極しは考えます。

この主張には反論も可能です。まず,老年期の延長は,食料の安定と医学の発達の結果も大きな要因で
あって,社会の緊張を和らげるために老人たちの存在が必要になったと主張するのは,ちょっと強引な
結論にも見えます。

ただ,こうした反論を十分承知した上で,私は山極氏の議論に共感します。というのも,老人も含めて
全ての人が目標をもち,それに向かって生きていたら,社会全体が非常に高い緊張にさらされることに
なってしまうからです。

次に,大村氏の記事を検討してみたいと思います。大村氏の記事は,「男の生き方,男の死に方」とい
う視点から,対象を「男」に限定していること,必ずしも老人に限定しているわけではない,という点
で山極氏の論考とは異なりまず。大村氏は浄土真宗の僧侶でもあり,その宗教的視点も入っているとは
思いますが,それを除いても共感できる点があります。

大村氏の議論を簡単に言えば,若い男性にとって競争から「降りる」生き方も一つの意味のある選択と
して評価できる,という点につきます。彼の議論の要点を整理してみましょう。

現代では男女の置かれている状況が,男性にとって非常に「生きずらい」社会になっています。世の中は,
ものつくり中心の工業社会から,情報・サービス産業中心の社会に転換しました。

腕力や体力が必要で危険が多いところほど,開発されたソフトのおかげで機械やロボットが主な動力源
になっています。つまり,男性優先の職場は縮小してきたし,男性の優位性も低下してきたのです。

こうして,男女のジェンダー・イメージにも変化が生じました。かつての「女らしさ」のイメージであっ
た,慎み深さ,恥じらい,「良妻賢母」などは,ほとんど死語になっています。

しかも,女性の場合,専業主婦も含めて他に男性より選択肢がある分,多少,余裕があります。

これに対して,「男らしさ」の理想像イメージはほとんど変化していません。

つまり,競争場に出て(将来を見越して)今は禁欲的に頑張って勝ち抜くこと,これが男らしい典型で
あるとうイメージは変わっていないのです。

こうして,男性は必至の形相で「就活」に励み「正規雇用」を確保しようとします。

2,3年で辞めてしまう新規採用者に対して,「根性がない」のなんのと非難する中・高年の人たちは,
競争に勝ってこその男という,旧態依然のジェンダーイメージを表しています。

こんな中でも探せば,あえて競争場からは降りて,かつその体力を生かして,重度心身障害者のため,
有償ボランティアの形で支援する人,あるいは要介護者の支援をも兼ねた「ユニバーサル就労」の現場
に就こうとする人など,優しいというより本来の意味で「雄々しい」男性も結構います。

だから大村氏は,「競争に勝ってこその男」という,旧態依然のジェンダー・イメージをもっている中・
高年は考えを変え,こういう男性こそ「男の中の男」だと評価できる斬新な「ものがたり」を作ること
が大切ではないか,と主張しています。

確かに,女性は選択肢が増えて,昔と比べれば生きやすい社会になりましたが,男性は相変わらず「一家
の大黒柱」としての役割を社会も期待し,本人も覚悟を決め,歯を食いしばって働いているのが現実です。

しかし,そのプレッシャーに耐えられない人は心身を病んで精神的な問題を抱えたり,極端な場合には自殺
に追い込まれています。

それに気が付いた若者の一部に,競争から「降りて」福祉やNPOなどの世界に入っていく若い男性が
います。大村氏は中・高年も社会全体も,こうした生き方を評価すべきだと考えます。

さて,山極氏と大村氏は対象も視点も異なりますが,両者の論考の背後には,人は何らの目標をもち,

それを達成しなければならない,という近代社会の目的的人生観から,そろそろ離れるべきだ,競争から
「降りる」のも一つの立派な生き方だ,という共通の認識があります。

思えば,私がこのブログを初めて最初に書いた記事が,五木寛之氏の『下山の思想』でした。五木氏は
この本で,日本はもう坂を登りきって峠にたどり着いているので,これからは下山のつもりで,ゆっくり
歩んでゆけばいいんだ,と主張しました。

何年か前,民主党政権の時に「仕分け」で,スーパーコンピュータの開発に関して民主党の蓮舫議員が,
「一番でなければだめなんですか?二番じゃだめなんですか?」と問い詰めました。

当時テレビは,蓮舫議員は何も分かってはいない,と言わんばかりに,半ば嘲笑するように,この言葉を
繰り返し流していました。

もし,日本がこれからも,経済の分野で常に世界一を目指し続けるとするなら,それは激烈な競争の中に
身を置くことになります。

そして,競争に負けるということは,すなわち自らを“落伍者”とみなすことになります。

日本は本当に,これからも坂道を登り続けるのでしょうか?それとも,五木寛之が言うように,もう
「下山」の道を選ぶ時がきたのでしょうか?

どちらを選ぶにしても,最も大切なことは,国民の大部分が幸せになることです。

仮に,技術競争に勝利して世界のトップに立ったとして,そのために国民が苦しい思いをし,心身を病ん
でしまったら,その勝利はどんな意味をもっているのでしょうか?

これまでの政治家は,とにかく経済的に豊かになれば国民は幸せになる,あるいは幸せになるには,
何をおいても経済的に豊かになることだ,と言い続けてきました。だから,政府の主要な課題はいつも
景気の回復,景気浮揚でした。

もちろん,私は豊かであるより貧困の方が良いと言っているわけではありません。

しかし,現在の平均的日本人の生活水準を半分に下げても,世界の多くの国の人たちよりずっとめぐま
れています。

また,私の専門領域の東南アジア諸国をみると(シンガポールは例外かもしれません),日本よりはる
かに貧しく,日本は比較を絶して豊かです。だからと言って,東南アジアの人たちが日本人より不幸で
あると感じているわけではありません。

高度成長期やバブルのころ,「24時間闘えますか」といったコマーシャルのセリフが流行りました。

このような超過重な労働条件下ではありましたが,日本人は確かに経済的に豊かになりました。

しかし,それによって幸福感が増したというデータはありません。

日本ではまだまだ少数派かもしれませんが,経済的豊かさ=幸福,という単純な図式に疑問を抱いている
人がいます。そして,こうした人たちの新しい価値観は少しずつ浸透してきているように思います。

そして,このような人たちが,少しずつ日本を変えてゆく存在になってゆくのだと,私は期待しています。

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