大木昌の雑記帳

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佐々木朗期希投手―「悲劇の物語」を背負ったヒーロー―

2021-03-17 09:09:10 | スポーツ
佐々木朗期希投手―「悲劇の物語」を背負ったヒーロー―

佐々木朗希投手には、飛び抜けた天性の才能と、存在そのものに“華”があります。同時に「悲劇の物語」があります。

この二つの要素に加えて、彼の、ちょっと寂しげな表情は、彼の野球人生を、筋書きのないドラマに仕立てています。
私は、ここに強く惹かれます。

2021年3月12日。私はこの日を長い間待っていました。

それは、2020年に千葉ロッテマリーンズに入団した佐々木朗希投手が、いよいよ中日ドラゴンズとのオープン戦
に登場した日です。

私は、BSのスポーツ専用チャンネルのテレビ欄をくまなくチェックして、どこかで中継がないか調べましたが、見当
たりませんでした。

結局、試合の結果は夜のスポーツニュースと翌日の新聞で知ることになりました。

佐々木投手はこの試合では6回の1イニング、3人のバッターと対戦し、三者凡退に打ち取りました。最初のバッタ
ーは149キロで、2番目のバッターには150キロの速球でゴロを打たせてアウト。

圧巻は中日の4番ビシエドとの対戦でした。彼はこの強打者に恐れることなく152キロの直球で勝負し、彼の打球
はフェアグランドには飛ばず、見逃し三振に仕留めました。

彼が投げたのは12球だけでしたが、うち11球が速球でした。つまり、打者は変化球ではなく速球(直球)がくる
ことを分かっていながらヒットを打てなかったのです。

ビシエドに「いいところに決められて手が出なかった」と言わせるほど、完璧でした。まさに「令和の怪物」の真骨
頂を見た思いです。

試合後彼は、「マウンドから見た景色はすごく興奮した」「威力もあったし抑えられるボールが投げられたのが一番
良かった」と語り、ようやくたどり着いたプロでの初登板の結果に手応えを感じたようでした(『東京新聞』2021年
3月13、16日)。

実をいうと私はこれまでプロ野球にはほとんど興味がありませんでしたが、佐々木投手だけはずっと気にかかってい
ました。それは、佐々木投手が逸材というだけではなく、彼が“悲劇の物語”を背負っているからかもしれません。

佐々木投手は2001年11月3日生まれ。現在19歳。最新の身長は192センチ、体重は92キロです。

しかも、たんに身長が大きいだけでなく、脚の長さが体の半分くらいありそうな、ちょっと日本人ばなれした体格で、
その長身から繰り出す豪速球が魅力です。

彼が遭遇した最初の大きな悲劇は、彼が9才の時、2011年3月11日、東日本大震災で父親と祖父母を津波で失
い、住んでいた陸前高田の家も流されたことでした。一家はその後大船渡に移り住みました。それから、中学・高校
とひたすら野球に打ち込みました。

彼が一躍、世間の注目を浴びたのは、大船渡高校3年生の4月の練習試合で163キロ、という現役のプロの投手で
もめったにでない豪速球投げたことでした。

この年の夏、甲子園大会への出場をかけた岩手県予選で、順調に決勝まで勝ち進みました。多くの日本人が、彼が属
する大船渡高校が岩手県大会で優勝し、令和の怪物、佐々木投手が甲子園大会に出場することを願っていました。

しかし、おそらく佐々木投手本人もチームメートも、対戦相手の花巻東高校も観客も、誰もが想定していなかった事
態が起こりました。

国保陽平監督は、決勝での登板回避を決断したのです。その結果、佐々木投手は1球も投げることなく大船渡高は2
対―12で敗れてしまいました。

ちなみに花巻東高校は、現在アメリカのメジャーリーグで活躍している大谷翔平や菊池雄星を輩出した名門校です。

試合終了直後、監督はベンチ前で報道陣に対し、開口一番「投げられる状態ではあったかもしれないが、私が判断し
た。(理由は)故障を防ぐためです」「3年間で一番壊れる可能性があると思った」と説明しました。

程なく取材に応じた佐々木は、うつむき加減で「監督の判断なので、しようがないです。高校野球をやっている以上、
試合に出たい。投げたい気持ちはありました」「負けたので悔いは残ります」と語りました。

こうして「令和の怪物」、完全燃焼しないまま佐々木朗希の最後の夏が終わりました。

国保監督は、大学卒業後、米独立リーグでプレーした経験を持っていますが、アメリカでは「選手の肩は消耗品」と
いう考え方が支配的でした。そしてこの時点で佐々木投手は4試合に登板し、既に435球を投げていたのです。

監督は「3年間で(佐々木が)一番壊れる可能性があると思った。故障を防ぐためですから。私が判断しました」と
も言いました。実際、彼は中学の時、疲労骨折をしています(注1)。

この登板回避にたいしては賛否の声が野球界から上がりました。たとえば張本勲氏や金田正一氏は、絶対に投げさせ
るべきだった、とコメントしましたが、桑田真澄氏は「監督と佐々木投手の勇気に賛辞を贈りたいと思う」とコメン
トしています。

同様に賛辞を贈ったのは、元プロ野球選手の大野倫氏。沖縄水産高校時代、夏の甲子園で773球を投げて準優勝。た
だし決勝戦では疲労骨折しながらも登板し、その後も肘の故障に苦しんだそうです(注2)。

当時私も、決勝なんだから、少し投げさせてみて無理ならすぐに交代すれば、と思っていましたが、長い目で見れば、
やはり登板回避はやむを得なかったと思います。

佐々木投手は2020年のドラフトで千葉ロッテマリーンズに1位指名で入団しました。

私は、いつ試合に出るかずっと待っていましたが、この年はついに練習試合さえ登板の機会がありませんでした。

そして、冒頭で触れたように、2021年3月12日のオープン戦でのプロ初デビユーとなりました。ドラフトで入団が
決定してから、なんと1年5カ月ぶりの登板でした。

このオープン戦のチケットは発売と同時に売り切れてしまったことからも、どれだけ世間の期待が大きかったが分か
ります。

では、この間、井口資仁監督や吉井理人投手コーチは彼に何をさせていたのでしょうか?この二人は、かつてアメリ
カのメジャーリーグで活躍した名選手です。

佐々木投手はゲームには参加しませんでしたが、ほとんどキャンプからずっと1軍のチームに帯同していました。お
そらく、1軍選手とともに行動して、何かを学ばせたかったのでしょう。

そしてひたすら体力作りのトレーニングに取り組ませていたのです。監督とコーチは、プロとして年間を通して投げ
ていくだけの体力が出来上がっていないから、何より体力作りが重要だとの考えで、1年間は戦力には含めない、と
いう方針でした。

言われてみれば、佐々木投手は高校時代にはとにかく基礎体力をつける余裕も 与えられず、投手という体力の消耗
が激しいポジションをこなしてきました。

大船渡高校の監督が、「3年間で一番壊れる可能性があった」と判断したように、佐々木投手の体は限界にいていた
のです。

ロッテ球団としては、彼を登板させれば観客動員という意味では非常に効果があったことは分っていましたが、監督
とコーチの方針を認めて佐々木投手の体力作りに専念させたのです(『東京新聞』2021年3月16日)。

同期の高卒ルーキーがオープン戦で活躍していたにもかかわらず、彼はじっと、ひたすら体力作りに励んでいました。

ここにも「悲劇」とまではゆかなくても、私はどことなく「悲哀」を感じてしまいます。

では、この「空白の1年」を彼はどう感じていたのでしょうか。彼は「昨年はすごく意味のある1年だった」と前向に
とらえています。

佐々木投手を登板回避させた大船渡高校の監督といい、ロッテマリーンズの監督、コーチといい、長い目で佐々木投
手を育ててゆこうという、先を見つめた温かい配慮があります。こうした人物に巡り合えたことは彼にとって、とて
も幸運だったと思います。

願わくば、「球界の宝」として無理をさせず、私たちに感動を与えてくれる選手に育ててほしいし、佐々木投手も、
それに応えるような投球を見せてほしいと思います。

(注1)『JIJI.com』(2019年10月5日)https://www.jiji.com/jc/v4?id=rsasaki1908030001
『デイリー新潮』(デジタル版)https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08051701/?all=1&page=1
(注2)Wikipedida 「佐々木朗希」
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高く足を上げて投げる、佐々木投手                                   バランスの取れた体の動き
  


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