社会現象となった“藤井聡太”(2)―AIを超えた芸術の域―
前回は、藤井聡太棋聖が木村一基王位からタイトルを奪い、藤井二冠となったことが、テレビ、
新聞などで大きく取り上げられた背景について書きました。
今回は、藤井聡太の才能について、将棋の内容にも少し触れながら考えてみたいと思います。
藤井聡太の二冠獲得に関して、さまざまな人がコメントを寄せていますが、個人的には加藤一
二三九段のコメントが、最も的を射たもおだと思います。
人工知能(AI)の研究がいかに隆盛を誇ろうとも、藤井聡太二冠には、人間の探求
心と求道心の先にある芸術的な一手により、盤上での感動を追求し、将棋界を沸かせ
ていただけることを期待します(『東京新聞』2020年8月21日)。
加藤一二三九段(80)は、14才の藤井少年のプロ・デビュー戦で闘い、敗れた将棋界のレ
ジェンドです。
加藤九段は少年の時に“神童”と呼ばれたそうですが、藤井聡太も、やはり“神童”に近いと言える
かもしれません。
藤井少年の“神童”ぶりは、子どもの時から周囲の人を驚かせています。
小学生のころ「“どうして5分で分かることを45分もかけて教えるんだろう。授業がつまらない”
と言って驚かされたこともありました」と母親が懐述しています(注1)。すごい話です。
最近のAbema TV で対局を見ると、両者の優劣が、50:50とか、49:51とか、あるいは
終盤には95:5のように示されます。
また、どちらかが指した一手に対する相手の応手をコンピュータが、良い方から幾つかの選択肢
を示してくれます。時には、30億回、とか、私が見た最高は70億回も計算します。
同様に、実際に指した手の評価もものすごい速さで計算して数字で示してくれます。
藤井聡太の場合、コンピュータは彼が指した手をその時は最善手として評価せず、しばらく計算し
直して、やっぱり最善手だった、と評価を変えたことがあります。
藤井聡太の能力ならぬ「脳力」を、脳科学者の茂木健一郎氏は「9倍速解析脳」と命名しています
(注2)。
藤井二冠の読みの速さと深さは、ずば抜けています。二、三の実戦例を示しましょう。
藤井聡太が渡辺明棋聖(当時)からタイトルを奪取した5番勝負の何局目かで、藤井の王は、王手、
王手と連続16回も追い詰められ、単独で盤上を逃げ回りました。
一歩踏み外したらたちまち谷底に転落する状況で、コンピュータの表示では圧倒的に渡辺有利をは
じき出していました。
ところが、渡辺棋聖は結局、藤井聡太の王を詰ますことはできず、逆に、受ける手段がなくなって
いたため詰まされてしまいました。
後から分かったことですが、藤井聡太は、自分の王が30手先(交互に指して)に安全な場所にた
どり着き、自分が勝つことを読み切っていたそうです。恐るべき才能です。
もう一つ、これも渡辺棋聖との何番目かの対局だったと思いますが、藤井聡太は“ミス”をしてしまい、
しばらくタオルで顔を覆ってうなだれていました。
この対局も藤井聡太が勝ったのですが、後に、師匠の杉本八段の解説を聞いて、私は心底驚きました。
藤井聡太の“ミス”により、渡辺棋聖の方に勝つチャンスがうまれたのです。ただし杉本八段によれば、
渡辺棋聖が勝つためには、“森の中の細くて分かりにくい道を間違わずに進んだ場合に限り、たどり
着くことができる、難解な指し回しができれば、”という条件付きだったのです。(表現は多少違っ
ているかも知れませんが、趣旨は同じです)
結局、渡辺棋聖はその“森の中の細くて分かりにくい道を”を発見できず、逆転負けしてしまいました。
真剣勝負の対局中に、相手の勝ち筋を発見してしまい、それに気づいて半ば負けを覚悟してうなだれ
るとは尋常の読みの能力ではありません。
通常の棋士は、自分の勝ち筋を読むこと、あるいは負け筋を読むことはあっても、難解な相手の勝ち
筋まで読み切ることは考えられません。
最後にもう一つ例を示しましょう。木村王位(当時)とのイトル戦7番勝負のある一局で、藤井聡太
の最強の駒である飛車が、相手の銀によって取られる形になりました。もちろん、逃げることはでき
るのでプロの棋士なら、躊躇なく逃げます。AIも逃げる手を最善手としていました。
しかし藤井聡太は、最強の飛車と銀とを交換してしまったのです。これは、例えて言えば、自分のも
っている1万円と相手の千円とを交換するようなものです。こんなことは、まず棋士は考えません。
この時、藤井聡太には、このような、一見不利な交換でも、後々、交換した銀で勝ちに導くことがで
きるとの読みがあったと思われます。少なくとも絶対に不利ではないとの読みがあったはずです。
この手によって、相手の木村王位は迷いを生じ、この時も藤井聡太の勝ちになりました。
AIは過去の対局を全て記憶し、ある場面では何が最善手を計算します。それは、おそらく99%まで
は確率駅には合理的で正しいのでしょう。
しかし、この場合の“最善手”とは、あくまでも計算上のことで、実戦の場では、さまざまな人間的な迷
いや勘違いが起こります。藤井聡太も時にはミスをおかします。ただ、彼の場合ミスが通常の棋士に比
べて圧倒的に少ないのです。
かつてテレビのインタビューで、“藤井さんもコンピュータ(AI)を使うんですか”と聞かれ、一般的
な研究の他に、AI将棋への対策を研究するために使います、という趣旨の発言をしています。
多くの棋士がコンピュータのAIを活用して力をつけようと必死の努力を始めている中で、藤井聡太は
その先の道を走っているのです。
藤井聡太は棋士個人としても、すばらしい成績を残していますが、将棋界全体にとっても大変大きな貢献
をしています。
2017年4月、時の名人位の棋士が初めて将棋ソフトに敗北し、棋士の多くが「存在意義がなくなるのでは」
と不安を漏らしていました。
当時はまた、将棋界は屋台骨が揺らぐ「緊急事態」にありありました。トップ棋士の不正疑惑の処理をめぐ
り、日本将棋連盟に批判が向けられ理事5人が辞任や解任となり、棋士たちがバラバラになっていました。
そんな時、藤井聡太というスターがすい星のように登場し、空気を一変させました。将棋を知らない人まで
も、あどけない「藤井君」の活躍に目を細めたのです。
各地の将棋教室は満員になり、「内輪もめややめようと棋士が一つにまとまった。まさに救世主が現れた感
覚だった」(当時将棋連盟の専務理事 脇謙二氏の弁)。(『東京新聞』2020年8月22日)。
藤井聡太が初タイトル(棋聖位)を取った今年の7月、ある同業の棋士は、「彼(藤井聡太)は、将棋界に
神様がくれた『ギフト』かもしれない」とまで称賛しています(『東京新聞』2020年7月17日)。これは
言い得て妙です。
最近の日本では、テレワークとかリモート会議とかオンライン授業などの普及が盛んで、コンピュータとAI
を使えない人間は人にあらず、といった風潮があります。
現実はそうかもしれませんが、私はこのような風潮にどこか違和感を抱いていました。しかし、藤井聡太の将
棋を観戦し、加藤一二三九段や他の棋士のコメントを読むと、人間的な要素は、まだまだ健在であることに、
ふと安心感を持ちます。
時に、AIも瞬には読み切れないような深淵な手を放つ。「積んでいるエンジンが違う」という敗戦棋士の嘆
息が、藤井聡太の規格外ぶりを表わしている(『東京新聞』2020年8月21日)。
若干18才の藤井王位は、機械では計り知れない人間の奥深さを体現しています。
『東京新聞』(2020年8月21日)の社説は、今回のタイトル奪取も含めて藤井将棋について次のように総括
しています。
AIが人類の知能を超えてしまう状況の到来も懸念される現代、その活躍は将棋という枠を超え、A
I時代にもなお人間が主役であり得る希望を示すと言えようか。
藤井聡太は新記録や冠数にはおどろくほど関心がないと、師匠の杉本八段は言います。ただ、「強くなるとい
う目標はどこまで行っても変わらない。強くなりさえすれば、結果は付いてくる、と真っ直ぐに信じている」と
考えているようです。(『東京新聞』2020年8月24日)
最後に、私がもっとも好きな藤井聡太の言葉を書いておきます。史上最年少(17才)で初タイトル(棋聖位)
を獲得した時のコメントです。今や、将棋はAIとの共存の時代に入ったと指摘し、その時代に人間が将棋を指
すことについて聞かれ、
盤上の物語というのは普遍のもの。その価値を自分も伝えられたら
と答えています(『東京新聞』2020年7月17日)。
AIであれ人間であれ、将棋には普遍の「物語」がある、と言い切っています。本当に、これが17才の“少年”
がいう言葉なのでしょうか!!今まで、棋士の口からこのような言葉を聞いたことはありません。
ふと、藤井聡太は、ただの人間ではなく本当は“宇宙人”なのではないか、と思うことさえあります。
これからは、多くの棋士が「打倒藤井」を目指して闘いを挑んでくるでしょう。私にとっては、まだ当分の間、
ワクワクを味わえそうです。
(注1)『デイリー新潮』(2016年9月15日号掲載)
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/09201030/?all=1
(注2)『日刊スポーツ』(2020年6月7日21時35分)
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202006060000640.html
前回は、藤井聡太棋聖が木村一基王位からタイトルを奪い、藤井二冠となったことが、テレビ、
新聞などで大きく取り上げられた背景について書きました。
今回は、藤井聡太の才能について、将棋の内容にも少し触れながら考えてみたいと思います。
藤井聡太の二冠獲得に関して、さまざまな人がコメントを寄せていますが、個人的には加藤一
二三九段のコメントが、最も的を射たもおだと思います。
人工知能(AI)の研究がいかに隆盛を誇ろうとも、藤井聡太二冠には、人間の探求
心と求道心の先にある芸術的な一手により、盤上での感動を追求し、将棋界を沸かせ
ていただけることを期待します(『東京新聞』2020年8月21日)。
加藤一二三九段(80)は、14才の藤井少年のプロ・デビュー戦で闘い、敗れた将棋界のレ
ジェンドです。
加藤九段は少年の時に“神童”と呼ばれたそうですが、藤井聡太も、やはり“神童”に近いと言える
かもしれません。
藤井少年の“神童”ぶりは、子どもの時から周囲の人を驚かせています。
小学生のころ「“どうして5分で分かることを45分もかけて教えるんだろう。授業がつまらない”
と言って驚かされたこともありました」と母親が懐述しています(注1)。すごい話です。
最近のAbema TV で対局を見ると、両者の優劣が、50:50とか、49:51とか、あるいは
終盤には95:5のように示されます。
また、どちらかが指した一手に対する相手の応手をコンピュータが、良い方から幾つかの選択肢
を示してくれます。時には、30億回、とか、私が見た最高は70億回も計算します。
同様に、実際に指した手の評価もものすごい速さで計算して数字で示してくれます。
藤井聡太の場合、コンピュータは彼が指した手をその時は最善手として評価せず、しばらく計算し
直して、やっぱり最善手だった、と評価を変えたことがあります。
藤井聡太の能力ならぬ「脳力」を、脳科学者の茂木健一郎氏は「9倍速解析脳」と命名しています
(注2)。
藤井二冠の読みの速さと深さは、ずば抜けています。二、三の実戦例を示しましょう。
藤井聡太が渡辺明棋聖(当時)からタイトルを奪取した5番勝負の何局目かで、藤井の王は、王手、
王手と連続16回も追い詰められ、単独で盤上を逃げ回りました。
一歩踏み外したらたちまち谷底に転落する状況で、コンピュータの表示では圧倒的に渡辺有利をは
じき出していました。
ところが、渡辺棋聖は結局、藤井聡太の王を詰ますことはできず、逆に、受ける手段がなくなって
いたため詰まされてしまいました。
後から分かったことですが、藤井聡太は、自分の王が30手先(交互に指して)に安全な場所にた
どり着き、自分が勝つことを読み切っていたそうです。恐るべき才能です。
もう一つ、これも渡辺棋聖との何番目かの対局だったと思いますが、藤井聡太は“ミス”をしてしまい、
しばらくタオルで顔を覆ってうなだれていました。
この対局も藤井聡太が勝ったのですが、後に、師匠の杉本八段の解説を聞いて、私は心底驚きました。
藤井聡太の“ミス”により、渡辺棋聖の方に勝つチャンスがうまれたのです。ただし杉本八段によれば、
渡辺棋聖が勝つためには、“森の中の細くて分かりにくい道を間違わずに進んだ場合に限り、たどり
着くことができる、難解な指し回しができれば、”という条件付きだったのです。(表現は多少違っ
ているかも知れませんが、趣旨は同じです)
結局、渡辺棋聖はその“森の中の細くて分かりにくい道を”を発見できず、逆転負けしてしまいました。
真剣勝負の対局中に、相手の勝ち筋を発見してしまい、それに気づいて半ば負けを覚悟してうなだれ
るとは尋常の読みの能力ではありません。
通常の棋士は、自分の勝ち筋を読むこと、あるいは負け筋を読むことはあっても、難解な相手の勝ち
筋まで読み切ることは考えられません。
最後にもう一つ例を示しましょう。木村王位(当時)とのイトル戦7番勝負のある一局で、藤井聡太
の最強の駒である飛車が、相手の銀によって取られる形になりました。もちろん、逃げることはでき
るのでプロの棋士なら、躊躇なく逃げます。AIも逃げる手を最善手としていました。
しかし藤井聡太は、最強の飛車と銀とを交換してしまったのです。これは、例えて言えば、自分のも
っている1万円と相手の千円とを交換するようなものです。こんなことは、まず棋士は考えません。
この時、藤井聡太には、このような、一見不利な交換でも、後々、交換した銀で勝ちに導くことがで
きるとの読みがあったと思われます。少なくとも絶対に不利ではないとの読みがあったはずです。
この手によって、相手の木村王位は迷いを生じ、この時も藤井聡太の勝ちになりました。
AIは過去の対局を全て記憶し、ある場面では何が最善手を計算します。それは、おそらく99%まで
は確率駅には合理的で正しいのでしょう。
しかし、この場合の“最善手”とは、あくまでも計算上のことで、実戦の場では、さまざまな人間的な迷
いや勘違いが起こります。藤井聡太も時にはミスをおかします。ただ、彼の場合ミスが通常の棋士に比
べて圧倒的に少ないのです。
かつてテレビのインタビューで、“藤井さんもコンピュータ(AI)を使うんですか”と聞かれ、一般的
な研究の他に、AI将棋への対策を研究するために使います、という趣旨の発言をしています。
多くの棋士がコンピュータのAIを活用して力をつけようと必死の努力を始めている中で、藤井聡太は
その先の道を走っているのです。
藤井聡太は棋士個人としても、すばらしい成績を残していますが、将棋界全体にとっても大変大きな貢献
をしています。
2017年4月、時の名人位の棋士が初めて将棋ソフトに敗北し、棋士の多くが「存在意義がなくなるのでは」
と不安を漏らしていました。
当時はまた、将棋界は屋台骨が揺らぐ「緊急事態」にありありました。トップ棋士の不正疑惑の処理をめぐ
り、日本将棋連盟に批判が向けられ理事5人が辞任や解任となり、棋士たちがバラバラになっていました。
そんな時、藤井聡太というスターがすい星のように登場し、空気を一変させました。将棋を知らない人まで
も、あどけない「藤井君」の活躍に目を細めたのです。
各地の将棋教室は満員になり、「内輪もめややめようと棋士が一つにまとまった。まさに救世主が現れた感
覚だった」(当時将棋連盟の専務理事 脇謙二氏の弁)。(『東京新聞』2020年8月22日)。
藤井聡太が初タイトル(棋聖位)を取った今年の7月、ある同業の棋士は、「彼(藤井聡太)は、将棋界に
神様がくれた『ギフト』かもしれない」とまで称賛しています(『東京新聞』2020年7月17日)。これは
言い得て妙です。
最近の日本では、テレワークとかリモート会議とかオンライン授業などの普及が盛んで、コンピュータとAI
を使えない人間は人にあらず、といった風潮があります。
現実はそうかもしれませんが、私はこのような風潮にどこか違和感を抱いていました。しかし、藤井聡太の将
棋を観戦し、加藤一二三九段や他の棋士のコメントを読むと、人間的な要素は、まだまだ健在であることに、
ふと安心感を持ちます。
時に、AIも瞬には読み切れないような深淵な手を放つ。「積んでいるエンジンが違う」という敗戦棋士の嘆
息が、藤井聡太の規格外ぶりを表わしている(『東京新聞』2020年8月21日)。
若干18才の藤井王位は、機械では計り知れない人間の奥深さを体現しています。
『東京新聞』(2020年8月21日)の社説は、今回のタイトル奪取も含めて藤井将棋について次のように総括
しています。
AIが人類の知能を超えてしまう状況の到来も懸念される現代、その活躍は将棋という枠を超え、A
I時代にもなお人間が主役であり得る希望を示すと言えようか。
藤井聡太は新記録や冠数にはおどろくほど関心がないと、師匠の杉本八段は言います。ただ、「強くなるとい
う目標はどこまで行っても変わらない。強くなりさえすれば、結果は付いてくる、と真っ直ぐに信じている」と
考えているようです。(『東京新聞』2020年8月24日)
最後に、私がもっとも好きな藤井聡太の言葉を書いておきます。史上最年少(17才)で初タイトル(棋聖位)
を獲得した時のコメントです。今や、将棋はAIとの共存の時代に入ったと指摘し、その時代に人間が将棋を指
すことについて聞かれ、
盤上の物語というのは普遍のもの。その価値を自分も伝えられたら
と答えています(『東京新聞』2020年7月17日)。
AIであれ人間であれ、将棋には普遍の「物語」がある、と言い切っています。本当に、これが17才の“少年”
がいう言葉なのでしょうか!!今まで、棋士の口からこのような言葉を聞いたことはありません。
ふと、藤井聡太は、ただの人間ではなく本当は“宇宙人”なのではないか、と思うことさえあります。
これからは、多くの棋士が「打倒藤井」を目指して闘いを挑んでくるでしょう。私にとっては、まだ当分の間、
ワクワクを味わえそうです。
(注1)『デイリー新潮』(2016年9月15日号掲載)
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/09201030/?all=1
(注2)『日刊スポーツ』(2020年6月7日21時35分)
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202006060000640.html