goo blog サービス終了のお知らせ 

大木昌の雑記帳

政治 経済 社会 文化 健康と医療に関する雑記帳

ムヒカ前ウルグアイ大統領(3)―日本訪問:政治を語る―

2016-04-30 21:51:49 | 思想・文化
ムヒカ前ウルグアイ大統領(3)―日本訪問:政治を語る―



この度の大地震に被災した熊本県と大分県の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

--------------------------------------------------------------------------------


ムヒカ氏は今回の訪日の間に、あまり政治的な発言はしてきませんでした。

それは恐らく、彼がすでに大統領を引退し、一人の人間として、日本という社会を見てみたかった、という気持ちがあったからでしょう。

それでも、前回の記事で紹介したように、

    現状に不満があるのなら,何か行動を起こして下さい。勇気を持って新しいことを提案し立ち上げてください。それはあなたたち
    とその後に続く世代のために。皆さんもいつかは子供や孫ができるでしょう。考えなければいけないのは,子供や孫が生きていく
    世界。彼らにどんな世界を残すのか?

という表現で、間接的ながら、若者にたいして、行動を起こすよう呼びかけています。この「行動」という言葉には、もちろん、政治的な行
動が含まれます。

東京外国語大学の講演では、もう少し具体的に、かつ、積極的に政治的な発言をしています。
   
    この世界に紛争は必ずある。だからこそ、社会全体に心をくだくことが大切になる。
    「政治に関心がない」「政治は重要じゃない」という人がいるが、政治を放棄することは少数者による支配を許すことにつながる。

この言葉はおそらく、故国ウルグアイにおいて、かつて独裁的な支配が行われていたこと、それに反対して、反政府ゲリラ活動に身を投
じた経験から、政治に無関心になると、どれほどひどい支配や暴力が少数の権力者たちによって行われるかを、彼は身をもって経験し
たからでしょう。

    民主主義には限界がある。それでも社会をよくするために闘わなければならない。皆さんのようにすばらしい大学で学んでいる者は、
    社会をよくするために闘わなければならない。最も重要なことは勝利することではなく、歩き続けること。何かを始める勇気をもつこと
    だ。

現在日本は、少なくても形式上は「民主主義」国家ということになっています。しかし、民主主義というのは、黙っていても十分に機能するも
のではない。

たとえば、選挙によってある政権が成立したとすると、形式的には「民主主義」に基づいた政権であると言える。

しかし、だからといって、選挙に勝てば何をしてもよい、というわけではない。こうして成立した政権でも、間違いを起こすことがある。

たとえば、ヒットラーが率いる「ナチ党」政権は、選挙で選ばれた合法的な政権でした。それでも、あのように悲惨なユダヤ人の殺りくを行い、
自国と周辺国の人々に甚大な損害を与えたのです。

もう一つ、ムヒカ氏が、闘わなければならない相手として、「グローバル化した社会」があります。

といっても、「グローバル化」とは、ひとつの社会現象であって、それ自体が行為主体であるわけではありません。

行為主体の実態は、グローバル化を推進しようとする勢力、つまりその時々の政権と、政権と結びついた勢力ということになります。

なぜグローバル化が問題かと言えば、それは資本が爆発的に大きくなっているからです。そこでは国境がなくなり、人々が忙しく働きます。

それによって生活を大きく変えられ、お金が重要で、そのための人生になってしまっているからです。だから、

    お金のために自分の人生をぶちこわしていいのか。そうした世界と若い人は闘わなければならない。


現在の安倍政権は、アメリカの圧力もあり、新自由主義という名のグローバリズムを積極的に推進しています。

この流れに抵抗することは、大変なことです。自らの仕事や生活を危機に陥れるかもしれません。実際、ムヒカ氏には、日本の若者は政治から
逃げているように映っているようだ。

    日本では若者が希望を持てないと聞いた。若い世代の投票率が30%程度だと聞いた。政治や社会を信じていないのだろう。それでも、
    信じられるようにしてほしい。不満を持つのはいいことだ。どうか同じ気持ちの人と何かを始めてほしい。生きるには希望が必要。そうで
    なければ人生なんて意味がない。

世界に目を向けると、

    今、世界では一分間に二百万ドルの軍事費が使われているというが、誰もそれを止められない」状況にある。そして、極めて少数の者に、
    世界の富が集中している。

つまり、一方で国家は、平和ではなく軍事に巨額のお金を使い、他方で、グローバル化の中で、金融・資本が爆発的に暴れまわり、ごく一部の人
たちに富が集中してしまっている。

現在は分配の仕方が悪いので、社会的な弱者に恩恵が及ばず、格差が拡大しています。(注1)

以上は、大学での講演ということで、若者向けにムヒカ氏らしい表現で、政治を語った内容となっています。

これとは別に、記者会見では戦争を放棄しない国や人々にたいして、次のような言葉で批判しています。

    いまだに人類は先史時代を生きている。戦争を放棄する時が来たら、初めてそこから脱却できる。
    私たちには戦争を終わらせる義務がある。それは世界の若者が完成させなければならない大義であり、可能なことだ。

人類は、いまだに戦争を放棄できない「先史時代」にあるが、そこから脱却して始めて「文明社会」へ入ることができる、しかし、それは長い道のり
で、若者が完成させるべき大義であり課題である、と展望を述べています。

この記者会見の後で、ムヒカ氏は都内で一部メディアの取材に応じて、安倍政権を批判しています。

日本が憲法解釈を変更し、他国を武力で守ることを可能にした安全保障関連法を制定したことについて、

    日本が先走って大きな過ちを犯していると思う

と、単刀直入に安倍政権を批判しています。(『東京新聞』2016年4月7日)

彼の目には、なぜ安倍政権が、自分の国を守るのではなく、他国(具体的にはアメリカ)をまもるための法律を先走って制定するのか理解できない、
と言っているのです。

記者会見との続きで言えば、日本は文明に背を向けて「先史時代」に戻ろうとしている、ということになります。

ムヒカ氏はこれまでの間接的、一般的なコメントをしてきましたが、この安倍政権の安保法制にたいしては「先走って」、と辛らつな言葉で批判して
います。

安倍首相は、この「世界一貧しい」前大統領の言葉をどのように受け止めるでしょうか?    




(注1)以上は、東京外国語大学での講演で語ったことに、私が少し補足とコメントをしたものです。講演そのものの要旨は、『東京新聞』(2016年4月
    9日)に掲載されています。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムヒカ・前ウルグアイ大統領(2)―日本訪問:日本人は本当に幸せですか?―

2016-04-23 07:40:07 | 思想・文化
ムヒカ前ウルグアイ大統領(2)―日本訪問:日本人は本当に幸せですか?―

この度の大地震に被災した熊本県と大分県の皆様に心よりお見舞い申し上げます。
---------------------------------------------------------------------------------

ホセ・ムヒカ夫妻は、今年4月、永年の念願だった、日本への訪問を実現しました。

これを期に、フジテレビは8日の夜『ムヒカ来日緊急特番:日本人は本当に幸せですか?』という特番を組みました。

ムヒカ氏が日本を訪問した重要な動機の一つは、戦後に奇跡的な復興を遂げ、非ヨーロッパ世界では、いち早く先進国の仲間入りを果たした日本の、
とりわけ若者は幸せなのか、を確かめることでした。

ムヒカ氏が、こんな問いかけをした背景には、経済的な繁栄を誇っているかに見える日本人の幸福度が世界の中でとても低い、という現実があるから
だと思われます。

コロンビア大学地球研究所2016「2015年度世界幸福度ランキング」によれば、幸福度ランキングは以下の順です。
1位(デンマーク)、2位(スイス)、3位(アイスランド)、4位(ノルウェー)、5位(フィンランド)、・・・、13位(アメリカ)・・・23位(イギリス)、29位(ウルグアイ)、
53位(日本)、そして83位(中国)となっています・・・(注1)

このようなランキングがどれだけ信用できるか、という問題はあるにしても、気になるのは、日本の幸福度ランキングが、なんと前回より7ランクも下がっ
て53位となっている点です。ということは、このままゆくと、将来はさらに下がるのではないか、と考えられます。彼は、問いかけます。
    
    私は聞いてみたい。若者たちはお年寄りたちよりも幸せなのか、と。イエスなのかノーなのか。

そして、優しい口調ではありますが、日本の現状にたいして文化的な疑問をも率直に投げかけています。
    
    日本はあまりにも西欧化し過ぎてしまい、本来の歴史やルーツはどこへいってしまったのかと問いたくなる。ちがうかね?

ムヒカ氏の目には、日本人が幸福を感じられない一つの原因は、文化的なルーツを失っていることではないか、と映っています。たとえば、車窓から見え
る看板にはヨーロッパ人女性の写真が写っていますが、「美しい日本人女性がいるのになぜヨーロッパ人モデルを使うのか」、といぶかります。

彼は、日本の発展をもたらした科学技術の進歩が、全てを破壊しかねない「危険なほどの欲望」を生み出してしまったのではないか、感じています。

    人間は一人では生きられない。エゴイズムは競争を生み、だし、科学技術の進歩を生みだしました。だが、同時に危険なほどの欲望も生みだした
    のです。その欲望は全てを破壊しかねません。
    私たちは地球上のすべての人々がいきてゆけるだけの資源をもっているんです。それなのに私たちは地球に“借金”をしている状態です。こんな
    愚かな間違いを若者に伝えなければいけない。

池上彰氏との対談では、池上氏が、日本とウルグアイの人に聞いた「今一番欲しいもの」の表を示して、ムヒカ氏のコメントを求めました。

日本            ウルグアイ
1 時間 17.3%     治安の良さ 16.2%
2 お金  16.3%     健康 13.7%
3 特にない 14.1%   時間 10.3%
4 健康(若さ)8.3%   お金 7.7%
5 車 5.1%       子ども・孫の幸せ 5.5%;家 5%

池上:  日本の多くの人は,もっと時間が欲しい,言っていますが?
ムヒカ: 何のための時間でしょうか。問題は何のために時間を使うのか,ということです。何をする時間を欲しいのですか? 子どもと過ごす時間?
     家族と過ごす時間?友人と過ごす時間? あるいは自分の人生を生きる時間?それならOKです。それとも,もっと働いてもっとお金を稼ぐ
     ための時間が欲しいのですか?それは消費社会に支配されています。
     人生は一度きりで瞬く間に過ぎてゆきます。人間としての時間をどう使うべきか。人生は時計のようなものです。ぜんまいはやがて止まりま
     す。だから何に時間をつかうのか。一人ひとりが自分に問いかけるべきなんです。なぜなら、生きることは死に向かうことだから。これは変え
     ようのない事実であり私たちの存在において最も大事なことなのです。

実は、この表を見たムヒカ氏は、お金が一番にきていないことに少し疑問をもったようで、「日本もウルグライも本当のことを言っていない。みんなお
金が欲しいでしょう」、と皮肉っぽくコメントしています。

経済的豊かさと幸福、幸せとはどんなことなのか、に関して、次のように語っています。

    富が幸福をもたらすと思わないでください。比較的豊かになると失うことへの恐怖が生まれます。富を失うことへの恐れが・・そうするとお金が
    あっても幸せを感じられません。失うことを恐れるからです。これがまさに中流階級の苦悩なのです。目標に向かって前進し戦う者は恐れるも
    のがないのでとても幸福です。なぜなら希望があるから。幸せであるということは,生きていることに心から満足していることです。毎日太陽が
    昇るのを見て感謝する。幸せとは人生を愛し憎まないこと。でもそのためには大義が必要で情熱を傾ける何かが必要なのです。

高齢化が進む日本社会についても提言しています。
    
    たとえば日本では高齢化が急速に進んでいます。一人暮らしの高齢者がたくさん孤独に苦しんでいるのです。以前のように家族は高齢者を支
    えられなくなっています。日本はこういう高齢者に公共の施設を作るべきです。どれだけお金がかかっても。国は施設を作って住まいを用意し、
    孤独な老人をサポートするべきです。日本は先進国。だから国民と政府が一体となって行動すべきです。彼らに寄り添い,高齢者を置き去りに
    してはいけない。そのために税金を使うべきです。これは社会全体で決めることです。個人も家族も1人で生きてゆけません。

現安倍政権は、老後の問題は個人個人で、各家庭で解決すべき、という方針で、「どれだけお金がかかっても」孤独な老人を社会が税金でサポート
することは考えていません。

投票に行かない、政治に無関心な日本の若者に対しては、

    現状に不満があるのなら,何か行動を起こして下さい。勇気を持って新しいことを提案し立ち上げてください。それは、あなたたちとその後に続く
    世代のために。皆さんもいつかは子供や孫ができるでしょう。考えなければいけないのは,子供や孫が生きていく世界。彼らにどんな世界を残
    すのか?
    政治の“病気”というのは,お金に執着しすぎることです。詳しく言えば政治に利害関係がないわけではありません。あるのです。しかし政治の
    真の利害はお金ではありません。人々から慕われる名誉です。人生はお金がすべてではありません。人々の愛情,名誉そして人々が決めたこ
    と。それはある人問にとってはお金よりも価値があるのです。問題は,お金の好きな人物が政治家になろうとすること。これは非常に危険です。
    汚職の原因なのです。そういった政治家を見ると,国民は政治を信じなくなります。「結局誰も同じだ」と思うようになる。それは試合を捨ててしま
    うことです。すなわち試合場をあとにするということこの絶望感こそがまさに汚職を可能にしてしまうのです。しかし,ゆっくりでも人間は少しずつ
    良くなっていけるものです。ですから皆さん,どうぞ失望しないでください。若者は世の中を新しくする希望そのものなのです。ただ・・・肉体は若く
    ても魂が老いていることがあります。これも危険です。

日本はどのように映ったか、という問いに対しては、
    
    ポジティブ、礼儀正しい,規律正しく,働き者,親切,祖先からの文化を反映している。愛すべき国民性。世界全体,特に先進国において。多くの
    不安定さを抱えています。仕事が不安定。中長期的な仕事のことを考えています。日本も失うことに恐怖をいだく。
    さまざまな困難を乗り越えてきた。日本はナショナリストで国を愛している。若い人たちは忘れないでほしい,過去に築かれたものが強さを与える
    ということを。

日本の若い人は,どのように希望を持ったらいいかわからない、という問題に対しては、「現代という文明は,多くのものを彼らに求めるからです。そして
彼らを窒息させてしまうのです。多くを望むあまり,人生の最高の時を失ってしまう」と、日本の若者に同情しています。

また、番組の司会者である宮根氏が、物があふれている世の中で,どういう風に幸せゆたかさを見つけてゆくか、と問いかけたところ、

    物欲に引っ張られてしまったら社会は存在しません。そして私たちは辛い思いをするでしょう。私たちは,分けなければなりません。基本的なもの
    とそうでないもの。
    ギリシャには中庸思想が合った。屋根が合って必要最低限の物があればよい。物欲に走ったら幸せになれない。クレバーに節度をもって生きる。

「後悔することはあいませんか?」との問いかけにムヒカ氏は、

    いつも後悔している。あれはもっとうまくやれたんではないか、と。しかし、生きることとは間違えるということ,生きるということは学ぶということです。
    同じ過ちを犯さないように。肯定的に人生を生きようと思います。毎日その朝を迎えられたことに感謝しながら生きています。 

以上の他にも、私が感銘を受けたムヒカ語録、言葉はたくさんありますが、以下に三つだけ挙げておきます。
    
    スーパーマーケットに行けばいろいろな物を買うことができます。しかし人生の“歳月”を買うことはできません・・・。買って、買って,買って,物を買い
    集めていく“儀式”に人生の時間を費やす。それが社会なんです。

大学での講演で、学生が、「本当に全世界が幸せになれると思いますか?」と質問したのに対して、次のように答えています。

    確かに私たちは神ではありません。自分にとっての幸せを探してください。世界を変えられるわけではありませんが,あなた自身は変わることがで
    きるんですよ。

13年間の投獄で悟ったことについて、

    人間の文化を変えないと何も変わらないことに気づいた。

この言葉には、いくつかの意味があるように思いました。まず、彼が投獄され拷問にあっても、彼の意志をくじくことはできなかった、つまり暴力は自分を変え
ることとはできなかった、という意味です。

も一つは、彼もかつて身を投じたゲリラ活動では結局社会を変えることはできなかった、という思いです。

いずれも、彼自身の実体験から出ている貴重な言葉だと思います。この点が、彼の言葉に力と説得力を与えているのです。さて、日本の政治家は?

次回は、ムヒカ氏が日本政府に対してモノ申した、言葉を考えてみます。


(注1)この部分は、テレビ局の側が用意したもの。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムヒカ前ウルグアイ大統領(1)―国連演説の衝撃―

2016-04-16 08:50:57 | 思想・文化
ムヒカ前ウルグアイ大統領(1)―国連演説の衝撃―

この度の大地震に被災した熊本県と大分県の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

------------------------------------------------------------------------------------------------

2016年4月5日、ホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領夫妻が訪日しました。そこで、今回は予定の『本の紹介』を先に延ばし、ムヒカ氏について書くことにしました。

「世界で一番貧しい大統領」との愛称で知られるムヒカ氏は、かつてはゲリラに身を投じ、13年間も投獄され、過酷な拷問を受けてきました。政治体制が変わ
って釈放されるや、国民から大統領に推され、2010年から15年まで、大統領を務めました。

その間、ムヒカ氏は給料の9割を寄付し、財産と言えば古ぼけたフォルクスワーゲン1台だけ、大統領時代も官邸には住まず、質素だ自宅で暮らすなど、伝説
的な人物です。

ムヒカご夫妻は、日本に到着直後から、各地で大歓迎をうけ、夫妻は多くのマスメディアや大学での講演やインタビューに忙しい日々を送っています。

ムヒカ氏が全世界の人々の注目を集めたのは、2012年6月20日、ブラジルのリオデジャネイロで開かれた「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」において行
われたスピーチでした(注1)。

この会議では、多くの国の代表が自分のスピーチを終えると会場を去ってしまい、小国ウルグアイ大統領のスピーチが行われた時には、あまり人は残っていま
せんでした。

しかし、この時のスピーチの内容が非常に感動的で衝撃的だったため、瞬く間に世界に広まり、現在では「世界で一番貧しい大統領のスピーチ」として知られて
います。

ムヒカ氏の演説は、会議の開催に尽力した、各国の代表者と組織の代表者への感謝に続いて、次のような問いかけから始まりました。

    わたしはみなさんに問いかけます。
    もしもインドの人たちが、ドイツの家庭と同じわりあいで車を持ったら、
    この地球に何がおきるでしょう。私たちが息をするために酸素がどれだけ
    残るでしょうか?
    もっとはっきり言います。
    70憶や80憶の全人類が、いままでぜいたくの限りをつくしてきた西洋
    社会と同じように、ものを買ったりむだづかいしたりできると思いますか。
    そんな原料(資源)が、いまのこの世界にあると思いますか。・・・

まず、一方で、これまで西欧社会が「ぜいたくの限り」を尽くしてきたことを批判し、他方、開発途上国が西欧社会と同じようなぜいたくをしようとすることに警告を発
しています。

続いて、現代文明が、もっと便利で良いものを作ってきたたかげで、世の中は驚くほど発展したが、その過程で、より多くを売りより多くの利益を得ようとする社会を
生み出してしまったことを指摘しました。

人はより豊かになるために、情けようしゃのない競争をくりひろげる世界にいながら、「心をひとつに、みんないっしょに」などという話ができるのでしょうか。    

現実にはそれぞれの国が情け容赦のない競争関係に巻き込まれており、そんな状況で「心をひとつに、みんないっしょに」と言っても、本当にそんなきれいごとは
可能でしょうか、と言いにくい「現実」をずばり指摘しています。

もちろんムヒカ氏は、だからといってこのような会議が無意味であるといっているのではなく、挑戦すべき壁はとてつもなく巨大だ、といっているのです。

そして、眼の前にある本当の危機は、地球環境の危機ではなく、私たちの生き方の危機である、と強調しています。

この会議は、そもそも、環境を破壊しないで持続的な発展を目指すにはどうしたらよいかを国際的に話し合う場でした。

ところが、ムヒカ氏は、その「発展」そのものにも疑問を向けます。続けて、次のように語りかけます。
    
    人の命につてはどうでしょうか。
    すなおに考えてみましょう。私たちは発展するためにこの世に生まれてきたのではありません。
    この惑星に、幸せになろうと思って生まれてきたのです。
    人生は短く、あっというまです。そして命よりも大事なものはありません。命は基本的なものです。しかし、必要以上にものを手に入れようと働きづめに働
    いたために、早々と命がつきてしまったら・・・?

つまり、「発展」という名のもとに、人はより多くの物を手に入れようとし、結局、大切な命をも危険にさらしてしまうことを懸念しているのです。しかしムヒカ氏の目に、
これは、多くの発展途上国が陥りがちな、一種の「ワナ」だと映っているのでしょう。

というのも、飽くことなく物を手に入れ、物を作り続けるという仕組みが社会を動かしているからです。

もし、この動きがストップしたらお金の流れもストップし、不景気という妖怪が人々を襲うことになります。

しかし、世界を襲っている本当の妖怪とは、人間の欲深さ、という心のありようだ、とムヒカ氏は言います。

その欲望を満たすために、働いて、物をつくり、買い使い捨てるのが現代の消費文明ですが、ムヒカ氏は、「いままでとはちがった文化をつくるために、たたかい始
める必要があるのです」、と強い口調で消費社会への「戦い」を宣言しています。

ただし、彼は、人類が洞穴に住んでいた時代の生活にもどろう、と提案しているのではありません。

そうではなくて、私たちの生き方がこのままでよいのか、考え直さないと。そう問いかけているのです。

この背後には、古代人や民族の叡智が念頭にあったようです。国連のスピーチの最後の方で、世界中の人々に感動を与えた言葉が発せられました。

    古代の賢人エピクロスやセネカ、そしてアイマラ民族は、つぎのように言いました。
    「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、かぎりなく多くを必要とし、もっともっととほしがることである。」
    このことばは、人間にとって何が大切かを教えています。

成長戦略、成長戦略と叫び、もっともっと多くを欲しがる日本の政府は、今一度、ムヒカ氏の言葉をかみしめて、人間にとって何か大切かを考えてほしいものです。

日本の巨大企業は、法人税・所得税のないイギリス領ケイマン諸島やパナマの銀行にお金を移して税金を逃れています。

法的に違法ではありませんが、やはり飽くなき利益確保、利益隠しにあの手この手を使う企業や富裕層は、ムヒカ氏の言葉をどのように聞くでしょうか?

次回は、ムヒカご夫妻の日本滞在中の言動を中心に書きたいと思います。


(注1)この演説の日本語訳は、http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/ でも見れますが、『世界で一番貧しい大統領のスピーチ』(くさばよしみ編、
    中川学絵、汐分社)という絵本でも、やさしい言葉で読むことができます。このブログでは、絵本の訳を引用しています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不寛容の時代(3)―多文化主義は失敗したのか―

2015-12-10 08:57:00 | 思想・文化
不寛容の時代(3)―多文化主義は失敗したのか―

2015年1月のフランスにおける「シャルリ・エブド」事件や「イスラム国」の台頭がきっかけとなったと思われますが、「NHKBS1」は,2015年2月28日の
「Wisdom」で,「広がる“不寛容”―多文化は共生できるか―」という2時間番組を放送しました。

この番組は,日本の萱野稔人,津田塾大学教授をはじめ,4人の海外研究者を電波で結んでのテレビ討論会という形をとっています。

まず、多文化主義は失敗したのか、多文化主義の危機についてどう思うか、という質問にたいする4人の海外研修者の見解の要旨を示しておこう。

アラナ・レンティン氏(文化社会学者―ウエスタンシドニー大学准教授,アイルランド出身)は,「多文化主義は失敗だったのか」という質問にたいして,
そういう問題設定そのものが間違っていると答えました。

彼女は,多文化主義が終わったという表現は,政治的にも言いやすい,便利だからで,この問題を理解するためには,人種差別主義という観点から考
える必要がある,と指摘します。

多文化主義の失敗と言ってしまうと、自分たちとは異なる文化を持つ人々を「劣っている」「こうゆう輩は自分たちの一員にはとうていなりえないんだ」と
決めつけることになりかねない,というのです。

さらに彼女は,一般的には戦後の40年、50年に多文化、多民族の社会が発生したかのように言われるが、そうではない。過去の歴史を見れば,どの
国,どの時代においても,人間社会は多文化・多民族であり,国々は相互依存していた,と述べています。私も,この議論に賛成です。

ファブリス・エペルボワン(パリ政治学院教授,政治学)は,「人口の移動のペースが加速されています。世界において地域において北アフリカ,中東にお
いて色々なことが流動的です。そのことに欧米が介入している。それがグローバル対立になっている。その対立が社会に反映されている」と述べます。

こうした対立の極端な例がテロリズムであり、フランス社会の中核に対立をもたらしている。しかし、フランス人の政治家はどう対応していいか全く分かっ
ていません。政治的な解決方法を見い出すことができないでいる、というのがエペルボワンの分析です。

タリク・ラマダン(イスラム学者,オックスフォード大学教授,スイス出身)は、イスラムの立場から次のように述べます。

    「多文化主義の危機」というのは,本当の問題を議論するのを避ける言い訳に使われている。何百万の人々が今,社会に組み入れられ、統合
    されている。今や「ポスト統合化の時代」などということが言われているくらいだ。
    問題があると、ある特定の文化の問題であると決めつける,ということになっている。イスラム文化が欧米で目立つようになってきたからこそ,
    問題視されている。しかし、本当は、どう対処していいか分からないことが問題だ。ほとんどのイスラム教徒はきちっと法律を守っている社会に
    溶け込んでいる。したがって、多文化主義の失敗というのは、外交政策や国内政策や移民政策にどう向き合うのか,というその現実ということ
    で,言い訳にされ、イデオロギー的な組み立てて議論を導いているに過ぎない。

エリック・ブライシュ氏(アメリカ,ミドルベリー大学教授 ヨーロッパにおける人種と民族問題,ヘイトスピーチ問題)は、移民大国アメリカで、さまざまな
文化的背景を持った人たちが共存する多文化社会は実現できるか、との質問に、次のように答えています。

    多文化社会は実現できる。多文化主義という標語は欧州の政治家が、価値観が違うから社会が崩壊してしまう、という主張のために利用して
    いるが、現実の描写にはなっていない。
    現実は,欧州社会では多民族、多文化社会が共存している。暴力が日常的に起こっているわけではない。アメリカのカリフォルニア州は,多様
    な人種が住んでいるが,対立が起こることはほとんどない。多様性を誇りに思っている。これからのいいモデルになるかもしれない。経済的な
    余裕ができれば。

ところが、現代の国家は何を軸として統合を図るかの方法について対応を迫られています。

たとえば、民族の多様性を認め多文化主義を掲げてきたイギリスも、新たな政策に踏み出しています。

今では移民に対して,市民権資格テスト(ライフ・イン・ザ・UK)で、イギリスの歴史と文化に関する難しい試験を課しています、同様のことはオランダ,
ドイツも実施されていますが、これは差別を生みだしてしまいます。

しかし,レンティ氏は,これは必要ない,そこで生まれた人と移民との間にむしろ対立をもたらす。大切なことは、法律を守っているかどうか、働いて税金
を払っているかどうかといことだ、と述べています。

ラマダン氏は、移民は労働力として必要で,そのために移民を受け入れるが,宗教が違うからと言って差別するのは間違い。違いにばかり注目しないで,
共通の目標に向かって話し合うべきだと主張します。

最後に萱野稔人は、以上の4人とは異なり、ある種の現実主義的なコメントをします。

すなわち萱野氏は、人間は本来寛容で差別をするのはおかしい,という出発点を考え直すべきだ、という。人間はもともと異なるものに対して不寛容で,
排外的で差別をするものだ,それがこれまでたまたま経済成長があったり先進国が優位にあったために寛容になれていただけで,それが崩れたときに
は,もとの人間の本性が出ると考えるべき。

さらに彼は、理想を言って,問題解決した気分になって,しかし気が付いてみたらもっと事情が悪くなっていることが起こるから,それを一旦断ち切っ
て,出発点を見直すことが大事だ、と結論します。

以上が、不寛容と多文化主義に関する議論の要旨です。外国の討論者はいずれも、「多文化主義は失敗したか」という設問自体に疑問を抱いています。

というのも彼らは、一見、多文化主義は失敗したかにみえるが、実は欧米社会の、非西欧社会(とりわけイスラム社会)に対する差別と軽蔑こそが問題
である、と考えているからです。

寛容について、ブライッシュ氏はアメリカの現状を引用して、異民族、異文化の人たちが同時に生活していても、必ずしもお互いに不寛容になるわけでは
ない、と主張しています。

しかしヨーロッパでは、移民にたいする制限や差別、貧困、格差などが実態としてあります。

それは、政治的には、極右政党や団体の台頭、移民排斥運動などの形で表れています。

こうしたヨーロッパ側の動きに対する移民社会の側から反発が起こり、極端な場合、2005年のロンドンの地下鉄での爆発テロや、パリでの2回にわたる
テロになって噴出します。

こうした動きの底流には、ヨーロッパ経済の全般的停滞があるように見えます。

というのも、ヨーロッパの経済が順調な時には、移民にたいしても寛容で、むしろ必要な労働力として積極的に招いていました。したがって、両者の対立
は表面化していませんでした。

しかし、ヨーロッパ(幾分かはアメリカ)経済の全般的な停滞が長引くにしたがって、移民に対して非寛容になってきた経緯があります。

これは、萱野氏が言うように、教育,福祉,労働面で厳しくなってきており、移民を抱え込む余裕がなくなっているからいるからだろうと思います。

ただし、私は萱野さのように、「人間はもともと異なるものに対して不寛容で,排外的で差別をするものだ」という人間に関する本質論に、にわかに賛同す
ることはできません。

たとえば、東南アジア世界をみると、多人種、多文化の人々が、それぞれを認めて共生・共存してきた歴史の方が、対立した歴史よりもはるかに長いから
です。

不寛容は、内部に具体的な利害の対立が発生した時や、外部からの干渉などの要因によって、既存の共生・共存のバランスが崩れてしまった時に顕在
化してくるものだと思います。

この意味で、不寛容は何らかの歴史的条件の下で発生するものであるから、その原因を冷静に分析して行けば、解決策は見つかると思います。

ただ、その時重要な原則は、弱い者と強い者が対立した場合、強い者が譲ることが必要です。

しかし、現実は、その反対に動こうとしています。

パリでのテロが起こった直後、フランスの地方選が12月6日投開票されました。移民批判を重ねる極右翼政党・国民戦線(FN)が全13選挙区のうち6選挙
区の得票率で首位に立ちました。パリの同時多発テロで広がる国民の不安を取り込んで躍進したのです。

マリーヌ・ルペン党首(47)が2017年の大統領選で2大政党の候補と争う可能性が現実味を増しています。

移民の受け入れによってフランス人が職を奪われ、治安が悪化するなどと主張してきたFNの得票率は28%。サルコジ前大統領が率いる中道右派・共和党
の27%、政権与党・社会党の23%を上回わりました。

13日の第2回投票でもFNが選挙区で首位を守れば、首長にあたる地域圏議長を初めて出すことになります。

ルペン氏は7日、「(2大政党に)背を向ける時だ。(政権与党の)社会党は消滅に向かうのではないか」と語りました。

フランスは、これから移民とイスラムに対する排外主義的な不寛容をさらに強めるのだろうか? ヨーロッパに不気味な暗雲が漂い始めたようです。

また、アメリカでは、共和党の大統領候補のトランプ氏が公然と人種差別発言を繰り返しています。これに対する批判も多く出ていますが、こういう
発言が出ていること自体、アメリカ社会の一部に、極めて他文化・他人種に対する不寛容がくすぶっていることを示唆しています。

しかし、私には、この動きはヨーロッパ、アメリカだけでなく日本でも日々強まっているように思え、不安と恐怖と感じます。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不寛容の時代(2)―移民と国内統合の難しさ―

2015-12-02 05:48:25 | 思想・文化
不寛容の時代(2)―移民と国内統合の難しさ―


現在、欧米世界(ロシアを含)と非欧米世界(とりわけイスラム世界)とが敵対している場面ばかりが表面化しています。

この敵対関係は、時にテロや報復攻撃としての爆破や銃撃という暴力的な形をとることがあります。

しかし、そこまでゆかなくても、民族や宗教の違う社会集団がお互いに他を受け入れない、不寛容な場面は世界の随所にみられます。

日本は、欧米諸国と比べると移民をあまり受け入れてこなかったので、これまで民族間あるいは宗教間の対立は,あまり表面化してきま
ませんでした。

しかし最近の,中国や韓国に対するヘイトスピーチ問題を考えると,日本も他の民族や文化に対する寛容性を失いつつあるように感じます。

この背景には,これら近隣諸国との政治的対立,領土問題がきっかけとなったことは間違いありませんが,「日本は単一民族・単一文化の
国」というナショナリズムもあると思います。

安倍首相が唱える「日本を 取り戻す」というスローガンは,「美しい」過去の日本への回帰、日本主義の強調と同時に,異文化との区別を
強く意識させます。

日本は国籍の取得を認める正規の移民はほとんど受け入れていませんが、近年の日本には,特に都市部においては,さまざまな民族や
文化的背景をもった人が住んでいます。

加えて,日本における急激な少子化のため,将来,多数の外国人労働者を受け入れることになることが予想されます。

すると,日本もいずれ,さまざまな民族や文化的背景をもった人たちと共存する多文化社会になってゆくことが想定されます。

日本と異なりヨーロッパ諸国は、かつての植民地とのつながりもあって、移民を積極的に受け入れてきました。

そこには、労働力不足を移民によって補うことが第一の目的であったことは確かですが、外国人を受け入れるからには、その根底には、異
なる文化、宗教多文化を受け入れ共存してゆく、多文化主義が当然あったと思われます。

「多文化主義」とは、異なる文化、民族、宗教が、お互いを尊重し共存してゆこうという考え方です。

多文化主義が機能するためには,そこに住む人々の,他民族・他文化にたいする「寛容性」が前提となります。

しかし近年,寛容性,したがって多文化主義が世界各地で根底から揺らいでいます。

ここで「寛容性」という言葉の意味を,もう少し補足しておきます。多民族,多文化国家といっても,全ての人たちが平等であるわけではなく,
実際には,数の上でも政治的にも優勢な多数派グループと,逆に少数派グループ(マイノリティ)とがあります。

このような状況の中で「寛容性」とは通常,多数派が少数派を尊重して受け入れる姿勢を意味します。

大雑把にいえば,20世紀末まで,多くの国で「寛容性」も「多文化主義」もある程度は満たされて,共存が保たれてきました。

1970年代に、多文化主義を国の基本的方針として定めたオーストラリアは、その代表的なくにです。

しかし,21世紀にはいると,寛容性や共存よりも不寛容と対立が目立つようになりました。

その一つの源泉が,イスラム世界の西欧世界に対する不満や反発、それにたいするアフガン、イラク攻撃のような西側からの報復です。

以上の事情を考えれば,日本よりはるかに民族的・文化的多様化が進んでいる欧米諸国が直面している問題について考えておくことは日本
の将来を考える上で大切だと思います。

ドイツは、多文化主義("multikulti")を掲げ、ヨーロッパ諸国の中でも最も多くの移民を受け入れてきました。

現在では、トルコその他の中東・アフリカからの移民が約1700万人もおり、国民の5人に1人が移民とその子孫です。

ところが、そのドイツのメルケル首相は、2010年10月、キリスト教民同盟の集会で「隣人同士が互いに幸せに暮らすという多文化のアプローチ
は失敗した。完全に失敗した。」と宣言しました。

いわば移民受け入れの優等生的存在であったドイツでも、メルケル首相に,「多文化主義」は完全に失敗したと言わせるほど,現実は理想から
は遠く離れてしまっていたのです。

同時に、ドイツで生活するからには、ドイツ語を話し、ドイツの文化価値を共有すべきである、という、フランスの同化主義と同じような主張もして
います。(注1)

イギリスのキャメロン首相も,「多文化主義政策のもと,さまざまな文化が共存できる社会を作ろうとした。しかし,その試みは失敗した。」と述べ
ています。

イギリスで最近注目されてきたのが「国家の価値」という考え方です。これは,もしイギリスに住みたければ,イギリスという国家の文化と歴史を
全面的に受け入れるべきである,という考え方です。

このため,最近では移民が完全な市民権を得るためには,イギリスの歴史や文化に関する試験にパスしなければならない制度となっています。
しかも,この試験は現地の住民にとってさえ難しい内容で,実質的に移民を排除する役割をもっています(3)。

最近の,ヨーロッパにおける,他民族・他文化の人々に対する「不寛容」の問題には,従来と異なる背景があります。

すでに述べたように,征服者としてヨーロッパ人は,最初は少数派として植民し,後に自分たちが多数派になった国では,先住民族,そして後か
ら移民として入ってきた人たちとの間に,長い間,差別や対立がありました。

しかし最近では,植民地から移民国家として独立したオーストラリアのような国ではなく,ヨーロッパ世界に取り込んだ移民と元々の住民との間
の差別や対立が噴き出してくるようになりました。

たとえばフランスの場合,主にアフリカの旧植民地からのイスラム系移民が宗主国フランス国内で,職を求め差別に反対する抗議デモなどを繰
り返しています。

また,フランス政府はイスラム系女子学生が学校にスカーフを付けて登校することを禁じており,これもイスラム系住民との間で宗教的・文化的な
摩擦を生んでいます。

イギリスにおいても,旧植民地からの移民とその子孫,さらにはイギリスからの分離独立を望む北アイルランドの住民の存在が,国の統一に大き
な障害になっています。上に述べたキャメロン首相の言葉は,こうした事情を反映しています。

また,かつては世界の多くの国から移民を受け入れ「多文化主義を」を実践してきたオランダやベルギーは,最近,「多文化主義」から「単一文化
主義」へと回帰しています(注3)。

今日,EUのように「統合」が推進されている場面がある一方,一つ一つの国の内部に立ち入ってみると,あちこちに亀裂と対立も見られます。

以上に見たように、移民を受け入れてきたヨーロッパ各国は、それぞれの社会に、不協和音を抱え、多文化主義が揺らいでいます。

次回は、こうした背景の中で、果たして多文化主義は失敗したのかどうかを、様々な立場から検討してようと思います。

(注1)http://www.bbc.com/news/world-europe-11559451)
(注2)http://blogs.yahoo.co.jp/kira_alicetear/27890580.html
    金田耕一「グローバリゼーションとナショナルアイデンティティ―多文化主義社会におけるシテxシズンシップ」『経済科学研究所紀要』
    (日本大学)第37号(2007年):41-52.  
(注3)オランダの多文化主義政策は「マイノリティ政策」と呼ばれたが,近年,これは批
 判されるようになっている。
http://www.unp.or.jp/images/age-of-migration/case11.3_aom.pdf

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対談:内田樹・白井聡『日本戦後史論』(1)―「愛国と対米従属ナショナリズム」という不思議―

2015-09-27 19:07:52 | 思想・文化
対談:内田樹・白井聡『日本戦後史論』(1)―「愛国と対米従属ナショナリズム」という不思議―

今回取り上げる,内田樹・白井聡『日本戦後史論』(徳間書店,2015年)は,以前に紹介した『永続敗戦論』が一つのきっかけとなって,
白井聡氏(以下,敬称略)と内田樹との3回にわたる対談をまとめたものです。

この本の「まえがき」で白井は,「私たちの対談は,言うなれば『真の愛国』を提示する試みだと言えるかもしれません」と述べています。

というのも,白井は世間で流通している「愛国的なもの」に対して強い違和感をもっているからです。彼は「愛国主義」あるいは「愛国心」
を二つに分けています。

一つは「パトリオティズム」で,「下から」「民衆の生活から自然に湧き上がる郷土への愛」がそのまま拡大したものであり,もう一つは
「ナショナリズム」で「上から」「国家のエリートが作為的に作り出し,民衆に押し付け・・・政府に対して従順にさせ,他国民への傲慢
な優越感を植え付ける企み」,と定義されます(4-5ページ)。

その違和感の理由を白井は,怒りを込めて,かなり激しい言葉で述べています。
    その理由は,一つには,ならず者たちの愛国主義が猖獗を極めているという事情があります。上は内閣総理大臣から下は
    ヘイトスピーチの市民活動家に至るまで,郷土への愛着は何ら感じられない一方,幼稚な戦争趣味と他国民への攻撃性だ
    けが突出した悪性のナショナリストたちが,愛国主義の旗印を独占しています。これらの輩が,愛国者面をした単なるならず
    者であることを徹底的に暴露しなければなりません(6-7ページ)。

白井は,「悪性のナショナリスト」(内閣総理大臣,つまり安倍首相を筆頭に)は,愛国面(づら)をした単なるならず者である,と切り捨て
ています。

以上が二人の議論の出発点です。

二人は,なぜ日本がこのようにひどい国になってしまったかを知るためには,今こそ戦後史を見直すべきだ,という共通認識をもってい
います。

白井は,「敗戦」を「終戦」と呼び換えることで敗戦を誤魔化し,「いい加減な敗戦処理」をしてきたことにその根本的な原因を見ています。

内田は,日本があまりにもみじめな敗戦,「負け過ぎた」ので,戦中派は反省しようにもそれだけの体力も精神力もないほど負けた。
このため,「なぜアメリカに負けたか」という問いは出てこなかった,と分析しています。

もう一つ付け加えれば,日本の敗戦は,たんなる敗戦ではなく「無条件降伏」だったのです。

この問題について少し補足しておきます。日本が無条件降伏し,占領軍の統治下に置かれたとき,日本の有力政治家,軍関係者その他
の旧支配層は,戦犯として逮捕されること(これは銃殺の可能性もあった)を極度に恐れていました。

そこで,罪を逃れ逮捕を逃れようと米軍の接触し,「自分には罪がない」「罪があるのは別の人だ」と進言したり,進んでアメリカにすり寄っ
ていきました。

敗戦直後の占領期に外務大臣を務めた重光葵は後に,「どれも理性を喪失した占領軍にたいするこびへつらいで,口にするのもはばから
れるほどだ。」と懐述しています。

とりわけ問題だったのは首相の人選で,いちいちマッカーサー総司令部の意向を確かめ,「進んで米国の対日政策にしたがって行こうとす
る熱意のある人」が条件でした。重光は,「残念なことに,日本の政府はついに傀儡政権となってしまった」と書いています(注1)。

占領期中に日本の支配層は,こうしてアメリカによって救われ,生き残った人たちだったのです。そして,その後の保守系の支配層もアメ
リカへの従属的メンタリティーを受け継いでいったと考えられます。

他方,日本の軍国主義,ナショナリズムを煽った右翼の巨魁たちは次々とCIAの手先に採用されてしまいました。

こうして,敗戦経験を正面から総括するという事業が70年も無視されてきたのだという。

白井は,敗戦の事実を直視,反省のないまま結果として悪性のナショナリストがはびこり,日本で右傾化が進行していると考えています。

右傾化に関して白井は,今の日本がファシズム化しているとの認識の上で,その背景としてドイツでナチが台頭する過程の状況と似てい
る点に注目しています。

すなわち,これまでの研究によれば,中産階級が没落してゆく状況で,社会には不安が蔓延します。このため,何かにすがりたいと思う
ようになり,ナショナリズムにすがるようになる,と考えられています。白井は言います。

あれだけ全体主義の社会的基礎の分析がなされたのに,またしても日本がかつてのドイツと同じ道を突っ走っているのは,ある意味驚く
べきことです。これほどまで,本に書かれた通りのことが起こっていいものか,と。(29ページ)

確かに,近年の日本社会では,実質賃金がずっと下がり続けており,格差が拡大しつつあります。今や,かつての「1億総中流」という状
況は死語になっています。

ただし白井は,日本のナショナリズムは,根底に「永続敗戦」という構造があるために「ねじくれている」といいます。
 
その「ねじくれている」状況を内田は,左翼はナショナリスティックに見られること(つまり右翼,帝国主義者にみられること)を神経質的に避
けてきたし,右翼は中国と韓国に対しては排外主義的に振る舞うけれど,アメリカにはおもねるというダブルスタンダードを採用して平然と
している,と指摘しています。
   
    だいたい,外国の軍隊が国内に永続駐留している事態を右翼が別に「恥」だと思っていないということは日本以外の外国では
    理解不能でしょう。本来なら,右翼が反米,反基地闘争の戦闘に立っているはずです。ナショナリストというのはそういうことで
    しょう。でも,日本の右翼は反米闘争をしない。左翼は反米で,右翼は親米(31ページ)。

内田の指摘は,そのまま自民党,とりわけ「愛国」を強調する,ナショナリストの安倍首相にピッタリ当てはまります。

以前の記事で触れた,加藤典洋は,戦後民主主義が連合国によって与えられたものであるにもかかわらず,それに無自覚になっている
状態を「ねじれ」と表現しています。

しかし,愛国・ナショナリストが対米従属主義であるという「ねじれ」はさらに大きく,ブラックユーモア以上に深刻な思考回路や精神構造の
問題があるといわなければなりません。

内田は,最近の右傾化がアメリカへの従属強化と表裏一体の関係で進行していることを指摘しています。

「親米路線・日米基軸しかない」と言う人たちは,それ以外のオプションを考えること自体を抑圧してしまい,可能性としてすら考えたことがない。

こんな人たちが政治を支配しているので,「アメリカの従属国でありながら,主権国家のようにふるまっているという自己欺瞞から抜け出せない
でいる」,と,かなり思い切った発言をします。

内田の目には,日本はアメリカの従属国であり,とうてい主権をもった主権国家,独立国とは言えないのに,日本の保守勢力や右翼勢力などの
ナショナリストは,この点を自ら騙していると映っています。

別の個所で内田は,
    世界中の国が日本はアメリカの属国だと思っていて,日本だけが自分は主権国家だと思っている。このような奇妙なことになったのは
    70年前の敗戦の総括ができていないことに起因するのだと僕は思います
とも述べています(37ページ)。

この指摘に白井は,
    おっしゃる通り,これほど奇妙な敗戦国は世界史上類を見ないのではないかと思います。負けた原因をきちんと精査できなかった第一
    の原因は,戦前から連続する支配層が,「お前のせいじゃないか」と責められることから逃れたことにもとめられるでしょう。
    その後は冷戦構造の中でアメリカ陣営に付いて,かつての敵をこれからは仲間なんだとうことにした。これが敗戦の責任を有耶無耶に
    するメカニズムです。

と内田の発言に賛同しています(同ページ)。

ところで,日本がアメリカの衛星国であり従属国であることは,本ブログの7月16日の記事で紹介したように,アメリカのオリバーストーン監督
も2013年に広島で行ったスピーチでも指摘しています。

内田は,戦後日本の国家戦略を「対米従属を通じて対米自立を果たす」という大変に自己矛盾的であるとみなし,それを「のれん分け戦略」と
呼んでいます。

これは,大旦那(アメリカ)に忠誠を尽くしていれば,丁稚,手代,番頭,大番頭にとりたてられ,やがてご褒美に店を「のれん分け」してもらい
「一国一城の主」として一本立ちさせてもらえる(対米自立をさせてもらえる)ことをアメリカに期待しているというものです。

内田によれば,政治家も官僚も学者もメディアも,みんな「のれん分け」を信じている。

しかし,現実はそれほど楽観的ではないようです。内田は,

    「日米同盟以外あり得ない」と言い募っている人たちはその外交関係が日本が従属国であるから「しかたなく」選択させられたもの
    であって,主体的に選び取られたものでない,ということから眼をそらしている。主体的に選び取られていない外交関係にどれほど
    の信頼が置けるか,少し考えてほしいと思います。

と,手厳しい疑念を語っています(36ぺージ)。

確かに,無条件降伏した敗戦直後の日本において,支配層は占領軍の下で,生き残ることに必死で,主体的に選び取ることなど考えられないし,
「なぜ負けたのか?」「なぜ負けたのか?」「誰に責任があるのか」といった根本的問題を直視することはできなかったのでしょう。

そして,冷戦の時代,日本はソ連へ対抗するためにアメリカに依存せざるを得なかったという事情もあったでしょう。

しかし,冷戦が終了した現在,安倍首相は,対米従属をさらに強めつつ「戦後レジームからの脱却」を叫んでいます。

これは一体,何を意味しているのでしょか?

次回はこの問題を中心に考えてみたいと思います。



(注1)孫崎享『戦後史の正体:1945-2012』(創元社,2012)36-38ページからの引用。

お彼岸のころ,里山にある私たちの谷津田の稲刈りがはじまりました。


里山の周りではヒガンンバナが満開です。


お彼岸の茶臼山(栃木県)の上の方では既に紅葉が始まっていました。この後,紅葉は日光に移ります。


紅葉の脇ではミヤマリンドウが咲こうとしていました




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリンピック・エンブレム(2)―深まる盗作疑惑・もう撤回すべきでは―

2015-09-01 07:44:52 | 思想・文化
オリンピック・エンブレム(2)―深まる盗作疑惑・もう撤回すべきでは―

ベルギーのリエージュ劇場のロゴとの類似を指摘され,さらにサントリーのトートバックのデザインの盗作が明らかになると,佐野氏のオリンピック・
エンブレムにたいする疑惑は一挙に深まりました。

今や,このエンブレムは別のものと替えるべきだ,との意見の割合が95%もの高い数字さえ出ています。(注1)

佐野研二郎氏は8月5日に弁明の会見を開いて,オリンピック・エンブレムについては盗作を完全に否定しました。

しかし,世間は,佐野氏の言葉を全面的に信用できない,オリンピック・エンブレムは盗作ではないのか,そもそもどのようにして佐野氏の作品が選
ばれたのか,という選考過程についても疑いをもつようになってきました。

そこで,審査委員の代表、永井一正氏(86)が騒動後初めて朝日新聞のインタビューに答えて審査過程の一部を説明しました。

その前に永井一正氏について少し説明しておきます。永井正一氏は,1972年の札幌オリンピックのエンブレムをデザインしたグラフィック・デザイナー
で,このほか有名企業のロゴなども手掛けています。

こうした功績が認められて,1989年には紫綬褒章,1999年には勳四等旭日小綬賞を受賞するなど,名実ともに,この世界の大御所です。

また,前回も触れましたが,永井正一氏は,佐野協二郎氏が「博報堂デザイン」(HAKUHODO DESIGN)に勤務していた時の上司,永井一史の父親
でもあります。

以上を念頭において,永井正一さんが『朝日新聞』のインタビューにどのように説明したかをみてみましょう。

永井氏によると,審査委員は、ほかにグラフィックデザイナーの浅葉克己さんら7人。永井氏によると、応募104案は作者名を伏せた状態で番号だ
けで審査し、3案に絞った後、議論の結果、佐野氏の案が選ばれた。他の2案は原研哉さんと葛西薫さんによるものだった。

佐野氏の案に決まった後、商標を調べたところ、ほかに似たようなものがあったので、最初のイメージを崩さない範囲でパーツの位置を一部変えるな
どの微修正を、大会組織委員会の依頼で何度か施した。審査委員に修正過程は伝わっていないが、皆さん最終案を承認したはずだ。だから最初の
案はベルギーの劇場ロゴとは似ていなかった。盗作ではない。

ここで重要なことは,審査員に修正過程は伝わっていなかった,つまり修正は,他の審査委員には,なぜどのように修正されたかは,知らされないまま,
永井氏と組織委とで行われたことである。

永井氏は「個人的には、ほかの応募案や審査の過程も公表した方がいいと思う。これまで組織委からはコメントしないように言われていたが、これ以
上勘ぐられるのはよくないということで、『もう話してもらっていい』と言われていた」と述べています。

永井氏に直接取材した『朝日新聞』の記者は,永井氏も認めるように、大会組織委員会はほかの案や審査の過程を明らかにすべきだろう。その際、
ただ「似ていない」と示すだけでなく、どのような考え、筋道で佐野さんの案を選び、どのような理由で微修正を加えたのか、現代のデザインのあり方
も分かるように説明することが望ましい。そうした過程も含め、デザインを公募した意味といえる,と述べています(注2)。私も,全く同感です。

とりわけ,佐野氏の作品が,他の2案よりどんな点で優れているのかを,誰の目にも分かるように明示し比較すれば,多くの人は納得するのではない
でしょうか。 

疑惑が拡散していく状況で,8月28日,東京オリンピック組織委員会事務総長の武藤敏郎氏とエンブレム選考担当の槙英俊マーケティング局長が,
永井氏同席の上記者会見をしました(注3)。

槙氏によれば,エンブレムの基本は,1964年の東京オリンピックの際に採用された亀倉氏のデザインを継承すること(後述);そのためには,ある程度
スキルのあるデザイナーである必要があり,厳しい条件を付けた。厳しすぎるという意見もあるが,展開力も含めて考えると参加レベルと上げざるを
得なかった。また,東京オリンピック以来の,過去のオリンピックを全て経験した永井氏を審査委員会の代表として,世代と性別のバランスを考慮し,
グラフィックデザイン界の人を中心に組織委員会で人選した。

武藤氏は,佐野氏の原案が「海外の会社が持つ商標と類似点があったため」,組織委員会は2回修正をお願いしたこと,原案ではTをイメージしたもの
で,リエージュのデザインとは全く異なることを強調しました(注4)。

この会見の様子をテレビで見ていて,私の疑問はますます深まりました。

まず,永井氏も武藤氏も,「他に類似したもの」とは具体的に何かは,最後まで明かさなかったことです。それが分かれば,佐野氏のデザインが,どれ
ほどオリジナルかどうかもっとはっきりしたと思います。

次に,会見で,これまで拒否した,佐野氏の原案を公表することを拒否してきましたが,この会見で公表され,どのような段階を経て修正されたかが
示されたのは良かったと思います。

しかし,後に図を示して説明するように,佐野氏の以前のコメントや組織委の釈明は矛盾に満ちたもので,加えて,原案の元ネタと思われる図像が
発覚するなど,根本的な問題が浮上してしまいました。

「最終的な国際商標調査で似たデザインは見つからなかったため,組織委は商標申請を開始するとともに審査員八人に最終案を提示した」として
いますが,ここが問題です。

この最終案を示された8人のうち一人は「検討して,選んだのは原案。そのプロセスを経ていない」として承諾しなかったが,残る七人の了承を得て
発表した(『東京新聞』2015年8月29日)という点に大きな問題があります。

「そのプロセスを経ていない」とは,修正が審査員の手を離れて行われ,最終案が決められたこと,言い換えると,恐らく永井氏と組織委との間の
密室で行われたことを疑わせます。

以上を,実際の図を見ながら検証してゆきましょう。

図1は,原案が修正して最終案に至るまでの経過が分かる3枚で,28日の会見で明らかになったものです(『東京新聞』2015年8月29日より引用)

                      図1 原案から最終案までの修正過程
                         

佐野氏は5日の釈明会見で,「T」のフォントから,1964年の東京オリンピックで亀倉雄策氏が制作したエンブレムのコンセプト,「オールインクルー
シブ」(全てを包み込む)イメージで「大きい日の丸を落とし込む」という独自の着眼点を強調しました。

したがって,「デザインに対する考えが全く違うので,(ベルギーのロゴ)とは全く似ていない」「力を出し切って真にオリジナルなものが出来たからこそ,
自信をもって世の中に送り出せるようなものになった」ときっぱりと述べました(TBS「ニュース23」2015年8月31日より)。

しかし,修正後のロゴには,なんとなく大きな「丸」をイメージできますが,原案には佐野氏が強調するデザイン・コンセプトの「大きい日の丸」は全く見
当たりません。

この修正過程で,リエージュの劇場のロゴを参考にした可能性は十分あります。

組織委の調査で「原案には似ているデザインが見つかったため,修正をお願いした」のは,このデザインを指すのかもしれません。

しかし,角の直線的な三角形がなめらかな曲線となり,赤い丸が右下から右上に移動してしまっており,これでは,佐野氏最終案は,組織委と(おそらく
審査委代表の永井氏)との合作と思われても仕方ありません。

さらに,8月31日の報道で,佐野氏の原案は2013年の銀座で行われた,ドイツ人のタイポグラフィ(活字を用いて組版、印刷、製本などを行う技術)の
巨匠,ヤン・チヒョルト展のポスターのデザイン(図2)のものと酷似している,つまり元ネタと思われるデザインが発覚してしまったのです(注5)。とりわ
け,右下の部分は,酷似というより,そのものと言った感じです。

                             図2  ヤン・チヒョルト氏のデザイン
                          

これまで,佐野氏を弁護してきたデザイナーの中島秀樹氏さえも,自分もかつて佐野氏にパクられたことがあり,今回のヤン・チヒョルト氏の模倣はツイッ
ターの文面から確実だ,と怒りをあらわにしています(注6)。

佐野氏がこの図を見たかどうか,今のところ,その真偽は分かりませんが,このデザインは,偶然に一致したとは信じ難いほど酷似しています。

大阪芸術大学の純丘教授は,こうした経緯から,佐野氏も組織委も弁明すればするほど「ますますオリジナリティーに疑念を抱かせるだけ」と手厳
しい(『日刊ゲンダイ』2015年8月31日)。

また,グラフィックデザイナーで東洋大学准教授の藤本貴之氏は,「応募作品と違うデザインに決定したならコンペの意味がなくなってしまうというか,
それはほかのデザイナーにもチャンスがあったのかなって・・・・。結局佐野さんのデザインを採用することが目的だったんじゃないかと思われてもしか
たないと思いますね」と,問題の本質に迫るコメントをしています。(2015年8月31日,TBS「ニュース23」)

図3で,完成図とリエージュの図柄を比べてみると赤い丸があるかないかの違いはあるものの,私には,基本的なコンセプトとアイディアは酷似して
いるように見えます。

                             図3 佐野氏の修正後の最終案とリエージュ劇場のロゴ
                              


ベルギーの劇場側の弁護士が8月27日、『毎日新聞』に対し国際オリンピック委員会(IOC)本部のあるスイスでも提訴する用意があることを明らかにしました。
また劇場側は、差し止め要求をIOCが受け入れず、エンブレム使用を続けた場合、スポンサーが使った場合も含め、使用1回につき5万ユーロ(約690万円)
支払うよう求めています(注7)。今や,今回のエンブレムは国際問題になっているのです。

参考までに,図4のデザインのうち,左のものは,今回,審査委の代表となった永井一正氏が「 ポスター・ライフ 1957-2014富山県立近代美術館、2014年4月
19日(土曜)から6月1日(日曜)」に出品したデザインです(注8)。

アルファベットの「T」を構成する直方体と「日の丸」を思わせる赤い丸の組み合わせは,今回の佐野氏の原案の着想元になったのではないかと思わせます。

                             図4 永井一正氏のデザイン(左)とスペイン事務所のデザイン(右)
                             
                               

佐野氏は,「博報堂」勤務時代の上司の父親で,審査委の代表でもある永井一正氏を尊敬し,頭のどこかに,図4のロゴがあっても不思議ではではあり
ませんが,「オリジナリティ」を強調する佐野氏の発言の説得力はなくなります。

そしてその右のデザインはスペインのデザイン事務所のホームページに掲載されているものです(注9)形こそ異なっていますが,配色は(銀がないこと
をのぞけば)同じです。これも,インターネットなどでは元ネタのひとつではないか,と言われているものです。

このほか,テレビなどでも報道されているように,最近発覚したいくつか例(たとえば佐野氏のロゴの使用例として使われた写真は明らかに他人の写真
を,コピーライトの文字を消して使っているなど)をみると,佐野氏は,オリジナリティーこそが命の,本来の意味での「クリエイター」であることに疑問を感
じます。

現在,IOCもJOCも13のスポンサー企業(うち8社は使用を決めている)も,佐野氏の最終案を使うとしています。

しかし,私の率直な意見を言えば,ここまで疑惑にまみれ,国際裁判になろうとしているエンブレムは使うべきではない,撤回すべきではないでしょうか?

もし,佐野氏のエンブレムの使用を強行しても,見るたびに,盗作を連想してしまい,国民の心が一つになるとは思えません。

最後に,今回の問題を追ってて,考えたくはないのですが,募集から決定まで,どことなく,ある利害関係者が内々に決めたという印象をぬぐえません。

これは私だけの感想でしょうか?


(注1)http://gogotsu.com/archives/10832 (8月30日閲覧)
(注2)『朝日新聞 デジタル版』(2015年8月26日05時18分)26日閲覧 http://digital.asahi.com/articles/ASH8T5VXCH8TPLZU005.html
(注3)私が見たのは,日本テレビ 28日の番組「ミヤネヤ」です。
(注4)『朝日新聞 デジタル版』(2015年8月28日18時45分)http://www.asahi.com/articles/ASH8X64CMH8XUTIL032.html (29日閲覧)
    『朝日新聞』(2015年8月29日)
(注5)http://netgeek.biz/archives/47348;http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5940.html
    (2015年8月31日閲覧);『朝日新聞 デジタル版』(2915年9月1日)http://www.asahi.com/articles/ASH805QCNH80UCLV00Z.html?ref=nmail
(注6)http://netgeek.biz/archives/47594 (2015年9月1日閲覧)
(注7)http://mainichi.jp/sports/news/20150829k0000e050227000c.html?fm=mnm 
    (2015年8月30日閲覧)
(注8)http://newsland.jp/2234より。(2015年8月28日閲覧)
(注9)スペインのデザイン事務所作 「ヘイ スタジオ」のホームページより。 http://heystudio.es/ http://rohika01.com/toukyougorin-2-864 (2015年8月30日閲覧)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記オリンピック・エンブレム(1)―疑惑の背景と問題の本質―

2015-08-28 05:55:48 | 思想・文化
オリンピック・エンブレム(1)―疑惑の背景と問題の本質―

事の発端は,2020年東京オリンピックのエンブレムのロゴマークに対して,7月24日に発表された直後に,ベルギー王立リエージュ劇場のロゴと酷似している,
という疑惑が浮上したことです。

8月14日には,リエージュ劇場のロゴをデザインしたオリビエ・ドビ氏と劇場代理人が,国際オリンピック委員会(IOC)に対して,東京オリンピック・エンブレム
の使用差し止めなどを求める訴訟を,リエージュの民事裁判所に起こしました。

この間に,8月5日,佐野研二郎氏は記者会見で,オリンピック・ロゴに関して「私のキャリアの集大成と言える作品です」と自分のオリジナルなデザインであ
ることを強調した後で,「デザイナーとして,パクるということをしたことは一切ありません」,と断言してました。

しかし,その後,サントリーの「オールフリー」のキャンペーン賞品のトートバック30点のデザイン(全て佐野研二郎氏の名前で出されている)のうち,8点に盗
作の疑いがあると,ネットユーザーからの指摘がもちあがります。

とりわけ,中にBEACHと書かれた木製の矢印のデザインは,細部や傷に至るまで,アメリカ人のデザイナー,ザリコー氏のデザインと全く同じです。

その他,例えば,フランスパン(バッケット)の図は,パソコン上で重ねてみると,焦げ具合からパンの細かな形状にいたるまで,寸分の狂いもなく重なります。

こうした事態を受けて,佐野氏は盗用の疑いのある8点を取り下げることをサントリー伝え,サントリーも8月13日に取り下げることを発表しました。つまり,これ
ら8点に関しては事実上,盗用(盗作)であることを半ば認めたことになります。

そして翌8月14日,佐野氏の事務所は,ホームページで謝罪文を掲載していますが,その内容にはなお疑問は残ります(注1)

この謝罪文は,主としてBEACHと書かれた矢印のデザインに関する弁明で,それは,佐藤氏の指示に従って,事務所のスタッフが作成したものであり,それが
他人のデザインをトレースしたものであることを知らなかったこと,社内の連絡体制の悪さ,スタッフ教育が不十分であったこと,そして,アートデイレクターとし
て管理不行き届きによる問題があった,という内容です。

つまり,このデザインはスタッフが制作したもので自分は直接関与してこなかった,と言っているのです。政治家の不祥事(特に金銭的な)が発覚すると,これは
秘書がやったことで,自分は知らなかった,という言い逃れを思い起こさせます。

いずれにしても,佐野研二郎の名前で発表しているのですから,その制作過程でデザインをチェックし,全責任を負わなければなりません。

次に,佐野氏はこの謝罪文で,コピーとか模倣という言葉を一切使わず,トレースという表現を4回使っています。

トレースというのは,図案の上にトレーシング・ペーパーを載せて,上からなぞって書き写すことです。

しかし,BEACHのデザインにしても。フランスパンのデザインにしても,これはなぞって書き写したものではなく,明らかにパソコンで取り込んだ,コピーその
もの,つまり完全なパクリです。

パクリだとすれば,知的財産を盗んだことになるので,トレースという,この業界ではある程度認められている行為を示す言葉を一貫して使っています。この点にも,
私は釈明に納得できません。

模倣されたザリコー氏も,「彼はトレースしたと説明したが,(トートバックのデザインは)私のデザインと完全に一致している。まるでフォトコピーだ」と,まことに正当
な反論をしています。

ちなみに,彼のデザインは「どこかで見たような作品も多く,一部では“トレース王子”と揶揄する声」も業界にはあったようです(『週刊文春』,2015年8月27日号,
28ページ)。

佐野氏は,BEACHのデザインについては,従業員が盗用をしたことを認めました。しかし,取り下げた他の7点については,誰が制作したものかは明らかにしてい
ません。

とりわけ,フランスパンのデザインは,パクリがはっきりしているのに,デザイン元が一般人のブログということもあり,何の言及もありません。

もし,一つでもパクリが含まれていたら,8月5日の会見で「デザイナーとして,パクるということをしたことは一切ありません」と,言い切った彼の立論は崩れてしまい
ます。

もうひとつ私が気になったのは,はっきりと盗用を認めた場合でも,その元となったデザインのデザイナーに対して,一切に謝罪していないことです。

さて,次に,本題のオリンピック・エンブレムの問題について考えてみましょう。

この佐野氏のエンブレムが発表されて,ベルギーの劇場とそのロゴをデザインしたデザイナーから著作権侵害のクレームが寄せられた当初,日本人のデザイナーも
マスコミも,おおむね佐野氏を擁護する雰囲気が強かった。

それは,これだけ文字(アルファベット)を単純化すれば,他のデザインと似てしまうことは十分にあり得る,また,佐野氏が,ベルギーのロゴを見たことはないと言って
いる,という点が根拠となっていたようです。

しかし,サントリーのトートバックの問題が発覚すると,人々の心に,オリンピックのロゴが果たして模倣であるかどうか,という問題とは別に,佐野氏の言葉そのものに
対する不信感が湧いてきました。

これは,あるテレビ局のアンケートで,現在採用されているエンブレムを取り替えて別のものにすべきだという意見が85%以上にも達していたことに現れています。これ
が ”民意“です。

しかし,佐野氏は,オリンピックのエンブレムは断じてオリジナルなものであることを,記者会見でも事務所のホームページの謝罪文でも,強く主張し続けています。

オリンピックに関連したグッズや広告などあらゆるロゴの使用にたいして,従来の事例から計算して200憶円もの途方もない金銭がロイヤリティーとしてデザイナーに入る
ことになりそうです。

佐藤氏は,今回のエンブレムは,事務所ではなく,個人として応募したものであることをホームページではっきり書いており(注2),エンブレムが公式に採用されることによ
る金銭的利益は,佐藤氏に払われることになります。

ただ,私が問題にしたいのは,法律的にどうか,ということではなく,今回のエンブレムの受賞作品が決定されるプロセスが本当に公平であったかどうか,という点です。

まず第一に,今回のエンブレムへの応募資格には,①東京ADC賞、②TDC賞、③JAGDA新人賞、④亀倉雄策賞、⑤ニューヨークADC賞、⑥D&AD賞 ⑦ONE SHOW
DESIGNのうち二つ以上受賞していること,という,非常に高いハードルが設けられていました。

このため,応募数は,過去のオリンピック・エンブレムの公募とくらべて10分の1以下の104点(4点は外国からの応募)でした。

ファーイースト国際特許事務所の平野泰弘弁護士は,「応募資格の厳格化によって,意識的に応募者を絞っている。受賞が条件の各賞とは,審査員も重なっている。恣意
的な選考も考えられる」と指摘しています(『東京新聞』 2015年8月18日)。

ちなみに,佐藤氏の受賞歴を,現職の多摩美術大学統合デザイン学科のホームページ(注3)その他によれば,2014年に受賞が急増し,応募資格を楽々クリアしています。

今回に限り,なぜこのような資格条件が付けられたのか,オリンピック委員会からも審査委員会からも説明されていないため,上記の条件そのものが,佐藤氏の受賞歴に合わ
せて設けられたのではないか,との憶測を呼んでいるのです(注4)。

第二に,オリンピック・エンブレムの審査員の構成です。審査委員長は永井一正氏で,彼は日本グラフィックデザイナー協会特別顧問,デザイン界の大御所であり,佐野氏が
「博報堂デザインに(HAKUHODO DESIGN)で勤務していた時の上司,永井一史の父親です。

また,審査員の長嶋りかこ氏は,博報堂時代の部下であり,同じく審査員の一人である高崎卓馬氏は,サントリーのトートバックのデザインでは一緒に仕事をした仕事仲間です。

また,他の審査員である浅葉克己氏は,『 2014毎日デザイン賞 』(受賞者は長嶋りかこ氏)の審査に際して,佐野研二郎,永井一正,永井一史らとともに,調査員でもありました
(注5)。

こうしてみると,オリンピック・エンブレムの審査委員は,博報堂関係者と仕事仲間など含め,八名全員が広告・デザイン関係者という“内輪”で固められていたとえいます。

こうした事情を反映してか,「募集段階から業界には『どうせ出来レースでしょ』という不雰囲がただよっていた」ようです(『週刊文春』2015年8月27日号,28ページ)

当初よりオリンピック・エンブレム問題を指摘してきた,純丘曜彰・大阪芸術大学芸術学部教授は,東京五輪エンブレムの会見で,佐藤氏はデザインのラフスケッチやラフカンプを
示そうとしなかった。これは小保方さん事件でいえば“実験ノート”に相当するものです。彼がこれらを示し,発想の経緯を証明できれば,盗作の疑いはすぐに晴れたにもかかわ
らずです,と疑問を呈しています(同上)

私としては,104の応募作品のうち3案(佐野研二郎、原研哉、葛西薫)が入選したが、どのような経緯で決まったのか知りたいし,できたら他の2人の作品も見てみたいです。
さて,今後,この問題はどのように展開してゆくのでしょうか?

著作権問題に詳しい山際敦彦弁護士は,
    著作権侵害の成立には『依拠性』と『類似性』の二つの要件が必要です。佐野さんが会見で『(リエージュ劇場のロゴを)見ていない。両者は似ていない』と主張したのは,
    弁護士の助言に従い,二つの要件を否定し,法的に問題がないと訴えようとしたのでしょう,
とコメントしています。一方,トートバックの事例は明らかに類似しており,依拠性も推認される可能が高く,早期に取り下げる決断をしたのだと思う,とも語っています(同上)。

一方,オリンピック・エンブレムに関するベルギーからの提訴では,提訴した側は,佐野氏が劇場のロゴを見て模倣したことを立証しなければならないのですが,これは非常に
困難です。

佐野氏とオリンピック委員会は弁護士とも綿密に検討し,これが法廷に持ちこまれても十分に勝算があると踏んでいるのでしょう。

五輪エンブレムについての私は直感的に,佐野氏のロゴは,どうみても基本的なアイディアと実施の図柄の両方の面で,模倣作品(盗作)であるとの印象をもちました。従って,
大部分の“民意”と同じく,別のデザインに取り換えるべきだと考えます。

先に引用した大阪大学の純丘教授は,「私の目からすれば,五輪エンブレムは,現実的には盗作というほかありません。ただ,それは法的に争えばどちらに転ぶか分からない
と述べています(『週刊新潮』2015年8月27日号,35ページ)

以上を総合して考えると,今回の問題の底流には,『東京新聞』(2015年8が鵜18日)が指摘しているように,新国立競技場の問題と同様,「密室の決定に問題」があるのです。

 
エンブレムは,法律的に問題なければ良い,というのものではなく,誰もが快く受け入れ気持ちが一つになるようなデザインにすべきです。今のままだと,見る度に疑惑を思い出し,
後味の悪いものになってしまいます。


(注1)http://www.mr-design.jp/ 2015年8月20日閲覧。
(注2)佐野氏は,このエンブレムに関しては,事務所ではなく個人として応募した,とホームページの謝罪文で明言しています。上記ホームページ参照。
(注3)http://www.tamabi.ac.jp/dept/itd/faculty/02/index.htm 参考までに,佐野氏の最近の受賞歴を占めておきます。
    1999年 みうらじゅん賞(ニャンまげ)
2013年 毎日デザイン賞/One Show 金賞/亀倉雄策賞
2014年 D&AD Awards / ブランディング部門 イエローペンシル One Show デザイン部門/シルバーペンシル(ポスター)/ ブロンズペンシル(タイポグラフィ)/ 
ニューヨークADC 金賞・銀賞 /カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル デザイン部門
(注4)http://newsland.jp/2234 2015年8月20日閲覧
(注5)http://mainichi.co.jp/design/m/








        

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本田圭佑のプロ意識(3)―本田圭佑のストーリーは始まったばかり―

2015-02-03 22:08:28 | 思想・文化
本田圭佑のプロ意識(3)―本田圭佑のストーリーは始まったばかり―

“本田圭佑のストーリーは始まったばかり。これからの筋書きは自分で決めること”

恐らくこれは,彼の気持ちをトータルに現わした本心でしょう。

本田は,アスリートの他に多彩な顔をもっています。一つは,彼が折に触れて発する言葉です。

既に前の記事でもいくつか引用しましたが,サッカーに関する言葉であっても,一般の人にとって参考になる,
人生観や生きる姿勢が現れている場合が数多くあります。

それらは時として,まるで思想家か哲学者にでもなったような言葉として出てきます。

中でも私が気に入っているのは,NHKのインタビューで語った,”過去は変えられないけれど,未来は変えられる”
という言葉です。

“過去は変えられない”とは誰でも言えます。しかし,“未来は変えられる”という言葉の背後には,“変えてみせる,
そして実際に変えることができる”,という強い意志と自信がなければ言えません。

これと関連して,”一年後の成功を想像すると、日々の地味な作業に取り組むことが出来る”という言葉もかなり示唆的です。

同じことを,”「こうなりたい」を「こうでなければならないに変える”」とも表現しています。

ある講習で,物事に成功し目標を達成するためにはまず,達成した時の自分の状態や姿を“ありありと”想像することだ,
という考え方を聞いたことがあります。

成功の到達点を“ありありと”(非常に具体的に)想像できれば,今,そのために何が足りなくて,
何をすべきかが明らかになるから,という意味です。

本田は,まさにそれを地でゆく生き方をしています。しかし,高い目標を掲げると,当然,それは自分自身を
追い込んでゆくことになります。

本田はこうして自分自身を追い込んでゆきますが,そこにはもう一つ,追い込まれたら死に物狂いで頑張るものという,
彼の“哲学”があります。

この際,彼の頭には自らを,泳ぎを知らなくても,水の中に放り込まれた動物が死に物狂いで泳ぐ姿になぞらえています。

こうしてみると,本田は自信に満ちているというより,自分を意図的員に困難に追い込み,それを克服してゆくという生き方を
実践していると言った方がいいかもしれません。

そこには当然,リスクもあります。しかし彼は,”リスクのない人生なんて,逆にリスクだ。
僕の人生なんてリスクそのものなんで”と言っています。

意外に思うかもしれませんが,本田はサッカー選手であることこそが人生の全てだと考えているわけではありません。
経済紙『News Picks』とのインタビュー(2014年11月9日)で,
  
    前にも言ったと思うけど,自分にとってサッカー選手はウォーミングアップだから。人生の一部・・・・。
    
と答えています。(注1)

では,サッカー選手の他に,彼はどんなことをしているのでしょうか。

彼は日本で「ソルティーロ=Soltilo」というサッカー・スクールーを2年半で30校経営する,経営者でもあります。

彼の目標は,ロシア・ワールドカップまでに,日本の国境を越えて世界に300校を開設することだと言います。

彼はビジネスにも野心があるのでしょうか?これについて彼は,
    ”だって俺が何歳で会社作ったか知ってる? (星稜高校を卒業して)名古屋グランパスにいたときだからね。

彼がどんな事業を行う会社を設立したかは分かりませんが,本田は二十歳そこそこで,会社を設立したのです。

サッカー・スクールは,「名前を貸しているだけ」とか、「フランチャイズでやっている」と思っている人が多いと思うけど,
それは違う,という。

彼は真剣なプロジェクトとしてやっていて、ビジョンにこだわっており,自分で作った練習のメニューから技術な指導法
などを日々,スクールのコーチに伝えています。

    サッカースクールって儲かると思っている?   
    だって収入は何? 選手の月謝。それ以外にないよね。どうやって儲かるの。月謝ナンボ取るの
    しかも何十人に給料払っているの。それぞれのスクールに常駐しているコーチは1人じゃないよ。
コートも自前じゃないよ。
    お金のためにやっていると思われたら、たまったものではない。
    お金のためにやっているのはCMやん。当然、ビジネスでしょ。そこはきれいごとではないと思う。
    むしろそういうもので得たお金を、スクールに投下しているよね。

以前彼は,テレビやマスメディアのCMには出演しませんでしたが,現在では,東洋タイヤ,メルセデス,ドコモ,
オリンパス,日本マクドナルド,アクエリアスなど,10社13本のCMに出ており,ほとんどテレビに登場しない
日はないくらいです。

彼にとって,こうしたCM出演は,サッカー・スクールを維持するためでもあります。

なお,東洋タイヤの場合,彼個人だけではなく,ACミランのプレミアスポンサー契約をしており,ミランの財政に大きく
貢献しています。

ではなぜ,そこまでしてサッカースクールに力を入れるのだろうか?どうやら二つあるようです。

一つは,小さい子供子どもたちに世界で通用する選手を育成することです。彼の表現を借りると「ソルティーロ
が自分を超える」「ソルティーロが世界を超える」日のために。

二つは,あまり明確には言っていませんが,どうやら,自分の理念を,サッカーを通してできるだけ多くの人に
伝えたい,との希望があるようです。

彼はかつて政治家を目指したこともあるようですが,政治の世界では運や派閥があって難しいので
”政治家ではない世界の動かし方もあるのかなってね”。

本田は将来を見据えた活動の場を求めて,アメリカのある人物に会いに行ったそうです。インタビューアーが,
それは誰?と聞いたところ,“そんなの言えるか”とかわされてしまいました。

ところで,本田はインタビューでもテレビコマーシャルでも,公式の場に出る時はスーツとネクタイを付けた
フォーマルなスタイルが多いことに気が付きます。

このほか,時計やストール,サングラス,バッグなどその時々のTPOに応じて,かなりファッションに
気を使っています。

今や,テレビへの露出が増えて,彼のファッションは常に注目されるようになっています。

彼は,人と会うと時にきにきちんとした服装でいるのは「相手に対するリスペクト」を表わすためだ,
と言っています。

もちろん,ファッションが大好きだという面はあると思いますが,これだけテレビに登場するようになると,
本田圭佑はもはやそのファッションも含めて“商品”でもある。

個人としては,本田圭佑とはこんな人間である,という自己表現でもあります。

本田は,家庭人としての姿をめったに見せませんが,2013年6月,日本に帰国した際に空港の廊下を歩く時,
幼児(1歳8か月くらい)を抱いている姿を現わしました。

本田圭佑は興味が尽きない人間です。彼は,次の次のワールドカップには,年齢的にも出場はできないと
考えています。

その時,彼がどんなストーリーを描くのか,楽しみです。

いずれにしても,私にとって本田圭佑はサッカー選手としてよりも,一人の人間として興味が尽きません。



(注1)NewPicks https://newspicks.com/news/699083/body/ (2014.11.9参照)
    いわゆる「本田語録」「本田名言集」のたぐいはWeb上にたくさんありあます。
    たとえば,http://blog.livedoor.jp/tangomin/archives/9314322.html
    http://wisdom.xn--lckknw6bc11b.jp/post.htmlを参照されたい。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本田圭佑のプロ意識(2)―ACミラン移籍の舞台裏―

2015-01-28 05:45:40 | 思想・文化
本田圭佑のプロ意識(2)―ACミラン移籍の舞台裏―

本田のACミランへの移籍話は何度も浮かんでは消え,日本のスポーツジャーナリズムは,
「エアー移籍」(架空の移籍)とからかっていました。

ところが,前回も書いたように,2013年12月に本田のACミランへの移籍が正式に決まりました。
この間に何があったのでしょうか。

本田の移籍がスムーズにゆかなかった一つの理由は,所属のCSKAモスクワとACミランとの条件(恐らく金銭面での)
が合わなかったという事情です。

もう一つは,本田が走るスピードが遅くスタミナがないと評価されていたからだと思われます。それでは,
なぜミランはその本田を獲得に踏み切ったのでしょうか。

時間を2013年1月に戻して本田の行動を,前回紹介したNHKのインタビューをとおして見ましょう。

2013年1月の短いオフ,彼は沖縄県の石垣島でキャンプを張っていました。その時彼は個人的に,ケニアから,大阪マラソンの
優勝者と2013年の世界陸上1000メートル銀メダリストとなった,世界のトップランナー二人を石垣島に呼びました。

10日間のキャンプ中,本田は速く走ること,スタミナをつけることに集中します。

ケニアのランナーからは,呼吸の仕方や腕の振り方などを学びます。そして,「もうだめだ,とは絶対言うな」と叩き込まれます。

そして,キャンプの終盤ともなると,ケニアのランナーたちと対等に走れるようになっていました。これ以後も本田は,
課題克服のため,必死に走り続けました。

この成果は,同年6月のコンフェデレーションズ・カップでの彼の動きに現れました。

この時本田は,この大会で良いところを見せれば,世界のトップ・クラブに注目されるはずだ,だから自分にとっては
ビッグ・チャンスだと語っていました。

試合は,ブラジル戦,イタリア戦とも負けて,日本には全くいいところがなかったように見えました。
本田自身失意に打ちのめされたかのように,試合後のインタビューで,今は何も考えられない,と早々に立ち去ってしまいました。

しかしこの時,実は本田の運命を変える重大な決定がなされようとしていたのです。

イタリア戦で最後まで走り続け,シュートを打ち続け,イタリアを苦しみ続けた本田をみてACミランの代理人は
さっそくACミランの最高経営責任者ガリアーニ氏に電話で報告します。

「実際に試合を見て,彼がかなり走る選手であることを目の当たりにしました。」,と。

彼はまた,本田について「とても質の高い選手で何よりも強い体力をもっていました」と語っています。

代理人は,これまでの,足が遅く体力がないという本田に対する評価を覆し正反対の評価をしたのです。

こうして,この年の夏からミランは本格的に本田の獲得に乗り出しました。一部のスポーツ紙では7月には
移籍するのではないか,といわれていました。

しかしCSKAモスクワとの交渉で条件的な)が合わず,結局,本田とCSKAモスクワとの契約が切れる12月を待って
正式に移籍がきまったのです。

自分の課題となっている壁を見つけ,それをひたすら練習によって克服しようとするところに本田のプロ意識を見る思いです。

彼は「壁があったら殴って壊す 道がなければ自分でつくる」,と語っています。移籍の経緯をみると,
まさにそれを実行したことがわかります。

さて,ACミランに移籍してからの本田はどうだったのでしょうか?

シーズンの最後に移籍し,他の選手とのコミュニケーションも取れず,チーム全体の方針や特徴なども分からない中での
試合出場はかなり困難だったようです。

しかも,1日体を動かさないと取り戻すのに3~4日かかると言う本田が,移籍当初はミランの経営陣や関係者との食事や
メディアへの対応のため,ほとんど練習ができませんでした。

彼のデビュー戦で,格下のチームとの試合で後半の19分だけ出場しましたが,良いとこを見せることができず,
チームも負けてしまいます。

その後も試合にはでるものの,ゴールはおろかアシストさえできませんでした。

期待が大きかっただけに,地元メディアは本田に厳しい目を向けます。たとえば,“本田はおもちゃの兵隊だ。無駄で使いものならない”
といった言葉を投げつけます。

しかし,2014年の3月,それまでの監督はチーム低迷を理由に解雇され,セードルフが新監督として就任します。

この交代をきっかけに,彼は見違えるような活躍をするようになります。

内外の目を引き付けた,ある1シーンがあります。それは,4月25日の試合に本田は怪我をおして出場したときです。

ミランがゴールに比較的近いところでフリーキックを与えられました。これまでなら文句なしに,ミランのトップ選手である
カカが蹴る場面でした。

しかし,本田は自分が蹴るといって譲らず,ボールを持って離しませんでした。

この時は本田が折れてカカにキックを任せますが,ここにも本田の強気の姿勢が出ています。

ちなみに,同じような場面は後の試合にも訪れました。その時本田は最後まで譲らす,彼のフリーキックは見ごとに
ゴールをとらえたのです。まさに「有言実行」という本田の真骨頂です。

ところで,2013年度シーズンオフから本田は日本に帰国せず、欧州に滞在してフィジィカル系のトレーニングをやり直し、
肉体改造に取り組んでいました。

その成果は2014年のシーズンに確実に出始めます。つまり6月までの12試合に6得点,というすばらしい結果を残したのです。

「練習での態度は、まさにプロそのもの」という監督の信頼を得て、早々に結果を出したことで、クラブ内外からの賛辞を集めました。

上記のガリアーニ氏は「今年のホンダは強さばかりではなく、品格がある」と手放しの喜びようでした。(注1)

またセードルフ監督は,
  
  本田には粘りがあります。試合中90分絶対に集中力が落ちません。これはすばらしい
  ことです。ほかの選手にも要求したいことです。彼の姿勢をみて私でさえも刺激を受け,
  他の選手にも良い影響を与えられればと考えています,
と絶賛しています。

本田は,同僚のカカやバロッテッリという世界の超一流選手に対して,
  
  自分にはカカやバロッテッリのような身体能力は残念ながら僕にはないですから。彼
  らのような豪快なゴールを今後も決められるか分からないですけれど。ただ彼らにな
  いものをもっているという自負があるんで,それを最大限に生かせば,世界一に到達で
  きるんだっていうことを,今までやってきた自分を信じて,その信念を貫いていきたい
と語っています。


この自負や信念の背後にはもう一つ,彼独自の才能や天才という存在に対する考えがあります。
  
  天才なんかこの世の中にほぼいないと思います。ただ,才能の差は若干なりともあると
  いうのも認めます。ただ,若干でしょ,ということを僕は言いたいんです。
  ライオンと格闘するわけです,馬と競争するわけです。相手が別の生き物だからとか,
  あいつだからっていう考えは馬やライオンにすればいいんですよ。そんな,天地がひっ
  くり返るほどの差はないでしょって。だから僕よりも才能のある選手に僕は今までも
  勝ってきたし。なぜならそんな差はなかった。その差は大きいとみるか越えられるとみ
  るかは自分次第。それをみんな自分の限界を決めてしまって,挑戦することをやめてし
  まう。だから夢がかなわないなんていうことになる。

ライオンと格闘し,馬と競争するなら話は別だが,同じ人間なら,才能の差は“若干でしょ”と言っているのです。

ここには彼が実体験をとおして感じた強烈な自信が込められています。(注2)

NHKとのインタビューの最後に,「プロフェショナルとは?」と問われて本田は,その質問は準備してなかったので,
ちょっと考えさせて下さいと言い,しばらく考えた後,
  
  プロフェショナルとは,自分にとってのプロフェショナルとは,自分のしている仕事に
  対して真摯であること,すなわち一生懸命であること,真面目であること
と,答えています。

意外にも平凡な答えに聞こえます。興味深いことに,この言葉は偶然にも,本田の入団の記者会見に立ち会った二人のイタリア人
ジャーナリストが語った,本田に対する,“真摯な姿勢”,“真面目な姿勢”という評価と同じでした。

本田は時として,非常に初歩的なミスをします。彼が本当にサッカーの才能があるかどうかは分かりませんが,
一人の人間として興味深い人物であることは確かです。

(注1)
   http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20141202/soc1412020830001-n1.htm
(注2)本題の,サッカーに関する語録は多くのウェブサイトでみられる。たとえば,
    http://wisdom.xn--lckknw6bc11b.jp/post.html (2015年1月20日参照)はよくまとめてあります。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本田圭佑のプロ意識(1)―夢を諦めない男―

2015-01-21 05:23:08 | 思想・文化
本田圭佑のプロ意識(1)―夢を諦めない男―

前回のカズ,葛西,イチローはそれぞれ別の立場でプロ意識をもっていますが,今回はもう一人,気になっているアスリート,
サッカー選手の本田圭佑を取り上げてみたいと思います。

本田圭佑,1986年生まれ。大阪府摂津市出身。現在27歳。2008年に結婚。男の子が一人。

家族や親族には多くのアスリートがいる,アスリート一家という環境に生まれ育ちました。

本田圭佑を語る時,必ず引用されるのが,彼の小学校の卒業文集です。その一部を引用します。

  ぼくは大人になったら,世界一のサッカー選手になりたいというよりなる。
  世界一になるには,世界一練習しないとダメだ。
         (中略)
  Wカップで有名になって,僕は外国から呼ばれてヨーロッパのセリエAに入団します。
  そしてレギュラーになって10番で活躍します。
  一年間の給料は40億円はほしいです。
         (中略)
  セリエAで活躍しているぼくは,日本に帰りミーティングをし10番をもらってチームの看板です。

この年齢の男の子が夢を語る場合には,「~したいです」あるいは「~なりたいです」というふうに,漠然とした夢として表現します。

しかし本田は,「なりたいというよりなる」,「セリエAに入団します」,
「活躍します」など,夢のような話を,断定的に言い切っています。ここに本田の強い意志を感じます。

本田は,実際に2013年12月にロシアのCSKAモスクワから,小学校の卒業文集にあるように,セリエAに移籍し,
背番号もエースナンバーである10番をもらいます。

しかし,本田は必ずしも順調に現在にたどり着いたわけではありません。中学生の時,ガンバ大阪のユースチームへの昇格内定
が得られず,高校は石川県の星稜高校に進みます。

星稜高校時代,チームは全国大会でもベストフォーに進出し,本田もサッカー界で少しずつ頭角を現します。

高校卒業後は名古屋グランパスに入団しますが,2001年,21歳の時オランダの2部リーグのVVVフェンローに移籍しました。

VVVでは最初のうちあまり活躍できず,“役立たずの日本人”と批判されました。しかし,2008年のオリンピック後に目覚ましい働きをし,
“ゴール・ハンター”と呼ばれるようになりました。

そして2010年,ロシアのCSKAモスクワに移籍した後も好調は続き,主力選手として活躍しました。

この年は,同じく日本を代表するサッカー選手の香川真司がドイツ,ブンデスリーグ1部リーグの
ブルシア・ドルトムントに移籍した年です。

そして香川は2012年にはイングランド・プレミアリーグの名門チーム,マンチェスター・ユナイテッドに移籍し,
そこでの活躍が日本のみならず世界の注目を浴びました。

このころ本田は,いつの日かCSKAモスクワからヨーロッパの名門チームへの移籍を目指して試合と練習に打ち込んでいました。

それが,評価されて2013年12月,ついにACミランへの移籍が決まった時,サッカー界のビッグニュースとなりました。

このころからの彼の心境を,NHKの「プロフェショナル―独占密着 知られざる本田圭佑 “世界一”へさらなる前進
 500日の記録―」という特別番組で2回にわたって語っています。(注1)

インタビューの冒頭で,「奇跡」はあると思いますか,という問いに対して,やや考えた後,

  ”あるんかなと思う一方,奇跡はないと僕は言い切りたい。という意味は,奇跡を起こすのはあくまでも自分の行動だと思うんで,
  偶然ではない。いかにも奇跡というものが偶然に起こったように語るけど,それは必然だったと考えるべきだと思うんですね”,
と答えています。

ここには,あくまでも自分の道は自分で開いて行く,という強い意志が感じられます。

それだけ自分にプレッシャーをかけているとも言えます。

ACミランへの移籍が決まった時,彼はエースナンバーの10要求したそうですが,これこそ究極の,自分へのプレッシャーです。

歴史と栄光に輝く名門中の名門,ACミランは当時,グループの下位に低迷し,ファンは本田の加入に大きな期待を寄せていました。

もし期待を裏切るようなら,ファンからもメディアからも激しいバッシングを受けることは本田も分かっています。
  ”がっかりされることは分かってるんですよ。僕のクオリティはそのレベルだから,まだ”。

本田は,自らACミランのエースナンバーを要求したけれど,自分の実力がまだそのレベルに達していない,
“凡人”であるとも冷静に分析しています。

  凡人がね,メッシやクリスティアーノと張り合おうと思ったら,毎日,鬱ですよ。いかに暗闇にいるか。かなり変人やと思いますよ。

こうして,自分にプレッシャーをかけるのは,”ちょっとでも良くなりたいから”だ,と言います。

  批判されたり重圧を背負いたくなければ行動しないのが一番なんですね。でもそういうのは好きじゃないし,
  やはりハラハラドキドキしていたいし,それが悔しい時があろうと,常に挑戦者でありたい”。

ここでも彼は自ら困難な状況に追い込んでゆく,精神的なタフさが現れています。

本田のミラン移籍話は何回も浮上しては消え,そのたびに彼はがっかりした,という。しかいがっかりしている暇はない,
と自らを鼓舞してひたすら練習に励みます。

  僕の場合,困難に向き合っている時間が長いのか,それを楽しめないようじゃ人生やっていけないと思うんですよね。 

こうした全ての期待と重圧を自らすすんで引き受けてゆく本田の姿には,鬼気迫る迫力があります。

しかも,“だけどそんな体験ができるのはオレしかいないでしょ”,と,普通の選手ならホラとして嫌われそうなことを
平然といいます。

そこには彼の根本的な人生観が反映しています。“自分の夢をそんなに簡単に諦められるか,って話でしょ”。

本田は,夢を追い続けるけれども,それは自身で高い壁を作ることを意味しています。そのあたりのことを次のように表現しています。

練習や試合では,弱い自分が毎日出るが,その弱い自分を一つ一つ打ち負かしてゆく。こうして信念が少しずつ太くなってゆく,
と述べています。

彼は,精神的にタフな人間だと思われていますが,自分の内なる弱さをも十分自覚しています。

しかし,その弱さを打ち負かすことで少しずつ信念が確固たるものになり精神的に強くなってゆく,という生き方を選択します。

それは,次のようにも表現します。“自分はミスを犯すが,ミスを犯すことを恐れない。年齢を重ねると安定を求めるが,
自分は若手のようなミスを犯している。それを一つ一つクリアしてゆく”,と。

この部分は,自分はまだまだ若手のように挑戦的でありたい,という気持ちと同時に,ミスというものは,
それを克服していくことによって自分を成長させてくれるものでもある,という彼独特の哲学をも示しています。

以上書いたように,本田圭佑は,自分の夢をどこまでも追い求め,自分にプレッシャーをかけ,そしてそれをバネに
成長してゆこうとするアスリートです。

これは多くのアスリートが思っていることであり,また実行していることでしょう。しかし,本田が他のアスリートと異なるのは,
そのようなことを公言し,そして実現していることです。

うまくゆけば喝さいを浴び,うまくゆかなければ単なる「ホラ吹き」と馬鹿にされます。

それを承知で彼は敢てリスクを犯します。その背景には自信と誇り,そして“世界一練習しなければ”という卒業文集の通りの練習です。

一言でいえば,これらが全て,彼のプロ意識なのです。

次回は,ACミランに移る際の裏事情と,それを遠して本田圭佑のプロ意識に迫ってみたいと思います。


(注1)2014年6月2日,9日放映。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アスリートのプロ意識―三浦知良・葛西紀明・イチロー―

2015-01-14 05:47:50 | 思想・文化
アスリートのプロ意識(1)―三浦知良・葛西紀明・イチロー―

2015年1月2日の夜,「レジェンド(伝説)を生きる」というNHKのラジオ番組で,「キング・カズ」(カズ)こと
三浦知良(47歳)と,「レジェンド葛西」(葛西紀明 42歳)の対談を偶然聞きました。

カズは日本で最年長のプロ・サッカー選手であり,葛西は最高齢の日本を代表するスキー(ジャンプ)の選手です。

NHKがこの二人を取り上げたのは,アスリートとしては引退してもおかしくない年齢に達しながらも,
この二人が共に現役でがんばっているからだと思われます。

年齢にこだわらず前向きに生きている二人に,現役を続けるその心境を語ってもらい,聞いている人に元気を与えて
ほしいという意図でこの対談を企画したのでしょう。

NHKの意図は良く理解できますが,二人の話を聞いていると,二人の間には違いも感じました。

葛西選手は昨年のソチ・オリンピックで個人で銀メダルをとり,団体でも日本チームに銅メダルをもたらした
原動力となりました。

つまり葛西選手は日本のジャンプ界をけん引する現役バリバリのトップ・アスリートです。

これに対してカズは,現在横浜FCというJ2(二部リーグ)に属していて,昨年は1年間に2試合,
わずか4分の出場機会しか与えられませんでした。

このように見ると,この二人が,年齢が高いにも関わらず現役でがんばっているという共通性はあるものの,
それぞれの立ち位置が違うため話す内容もかなりの違いがありました。

葛西選手は4年後のオリンピック出場への意欲を語り,さらに,これからの日本のジャンプ界はどのように
進むべきかといった広い視野からの展望を語っていました。

私も,葛西選手に次のオリンピックにも是非出場してほしいと願っていますし,彼はそれだけの実力も
気力も十分持っていると思います。

何より,年齢だから,といった観念を吹き飛ばしてくれる葛西選手を尊敬しています。

葛西選手が,いわば山の頂点に立ち,スポットライトを浴びながら自らの将来と日本のジャンプ界
についての抱負や展望を語るのは,実績から言っても当然です。

これにたいしてカズは,プロのサッカー選手ならもちろん,J1でプレーしたいと語っていました。

しかし現実は,そのJ2においてさえ,ほとんど出場できなかったのが現実です。

それでも,いつかはJ1でプレーし,さらに日本代表チームのメンバーとしてワールドカップにも出たい
という意欲を語っていました。

葛西選手との対比で言えば,カズの姿は「山のふもとから山頂を見つめつつ,それに向かって日々努力
している」というふうに例えられます。

二人の対談で私がもっとも感動したのは,次のようなカズの本音でした。

J2の試合に出れなかった選手たちは,試合のあった翌日にアマチュアのサッカー・チームや他の
J2のチーム,時にはJ1のチームと練習試合をすることになっているそうです。

そんな練習試合でもカズはベストを尽くし,サッカーができることに喜びを感じて全力でプレーをする,
と語っていました。

だから,練習試合で90分の試合時間のうち,たとえば60分で交代させられた時,監督の指示には
従いますが,やり場のない悔しさと怒りを感じるそうです。

選手交代は自分の努力でなんとかなるものではないし悔しい。しかし,”一生懸命練習したかどうかは
プロの場合関係ない。結果が全てだから”。

そんなときカズは,交代後すぐに別のグランドに直行し,とにかく悔しさと怒りが収まるまで走ります。
そうして気を静めずにはいられない心境になのだ,と正直に語っています。。

昨年の1年は,“ほとんど試合に出ることができなかったけれど,自分のできることを一つ一つ積み重ねる
ことができた,これはとても大きな成果だった”,と振り返り評価しています。

かつて,日本のJリーグ設立の立役者で,長い間“キング・カズ”と呼ばれたほどの実績も名誉もある
超一流の選手が語る,このような謙虚さと,真摯な姿勢に本当のプロ意識を感じました。

カズの話を聞いていて,いつかテレビのイチロー特集で彼が語っていた話を思いだしました。(注1)

イチロー42歳。アメリカのベースボール界の現役選手としてはもう限界と言われ続けてきました。

イチローはニューヨーク・ヤンキースに移籍して以来,代打か代走,あるいは守備固め要員として使われる
ことが多くなりました。

球場につくとまず,自分がスターティング・メンバーに入っているかどうか確認するそうです。

全く出場機会がない試合もかなりありました。

こんな不安定な状況の中で,さすがのイチローも落ち込む時もありますが,それでも日々のトレーニング
は欠かさずコツコツと行います。

試合の正確な勝ち負けは忘れましたが,ある試合ので9回の裏,スコアは1対9で,もうとっくに決着は
ついていました。

ヤンキースの監督は,現役の選手を休ませるために,代打を送ることを考えていました。このような場面では,
テストも兼ねて新人の選手を代打に送るのが普通です。

その日,イチローはそれまで全く出番がありませんでしたが,ひょっとして自分に代打の指名がくるかも
しれないと考え,その時に備えて,控室で一生懸命,素振りを繰り返してしていたのです。

そして,監督はイチローを代打に指名しました。この時,確かイチローはヒットを打ったと記憶しています。
もちろん,試合の勝敗には何の影響もないヒットです。

その時の心境をイチローは,
   このような場面で代打に指名されるのは,普通に考えれば屈辱ですよね。だけど僕は,このような
場面での1打席打でも   ベストのバッティングをしようとします
という趣旨の発言をしたと記憶しています。

イチローは,これまで日本だけでなく,アメリカに渡ってからベースボール史上数々の記録を塗り替えてきた,
カズと同様,超一流の選手です。

そのイチローでさえ,まるで新人のようなひたむきさと謙虚さを失っていません。

このような姿勢は,2001年、メジャーリーグで日本人選手史上初となる首位打者になりイチローが小泉内閣
から「国民栄誉賞」の授与を打診されたときにも示されました。

  国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら
現役を引退した時にいただきたい
と受賞を固辞しました。

また2004年、メジャーリーグで最多安打記録を更新した時も「国民栄誉賞」の授与を打診されましたが,
この時も固辞しました。

私がこの二人を人間としてもプロとしても尊敬しているのは,通常は引退を考える年齢に達しているのに
頑張っている,という点だけではありません。

そうではなくて,むしろ私は,カズの場合には練習試合でも全力でプレーし,イチローの場合なら,試合の結果
には何の影響もない打席でも,最善のバッティングをしようとする,本当のプロ意識,プロ精神に胸を打たれます。

カズは昨年暮れに,横浜FCと2015年度の契約をしました。イチローはまだ行く先がきまっておらず,
今年も野球ができるのか,どこでできるのか分からない状況です。

二人が今後どのような道をたどるのか分かりませんが,これまでの彼らの言動は既に十分,私たちに感動
を与えてくれました。

そして,いつの日かカズがユニフォームを脱ぎ,イチローがバットを置いたとき,この二人こそ「国民栄誉賞」
を受賞するに値する人間だと思います。

その時まで,たとえ1分間だけの出場でも,練習試合でも,1打席だけのバッティングでも,プロとしての誇り
と強い意識を見せて欲しいと願ってやみません。

次回は,もう一人,私が気になるアスリート,本田圭佑を取り上げたいと思います。

(注1)イチローについてはこのブログで2013年8月27日,9月1日,9月5の3回にわたって
「イチローの本当のすごさ」という記事で詳しく書いています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立大学から文科系消える?―文化を軽視する安倍政権と文科省―

2014-09-16 05:35:11 | 思想・文化
国立大学から文科系消える?―文化を軽視する安倍政権と文科省―

「国立大学から文科系消える?」という新聞の見出しを見たとき,あまりにあり得ない内容に,何かの間違いではないかと
思いました。(『東京新聞』2014年9月2日)

しかし記事を読んでみると,間違いではないことがわかりました。記事によると文部科学省(文科省)は先月(8月)4日,同省の審議会
「国立大学法人評価委員会」(以下「評価委員会」と略す)の議論を受け,国立大学の組織改革案として「教員養成系,人文社会科学系の
廃止や転換」と各大学に通達した,とあります。

文科省はあくまで「覚悟」レベルの話で,即時の廃止などは考えていないとことわっています。しかし,「覚悟」のレベルとは具体的に
何を意味するのか,文科省の対応はますます疑惑を抱かせます。

安倍政権はこれまで重要な政治課題を推進するために,まず審議会を設置し,その諮問を根拠に法案を国会に上程するという手法を
多用してきました。

たとえば,集団的自衛権の閣議決定の際には,安倍氏の私的諮問機関である,いわゆる「安保法制懇」の提言に基づいて,
閣議決定の原案が作成されたことは記憶に新しい事例です。

安倍首相の場合,(というより自民党政権下では),私的であれ公的であれ,審議会での議論は政府の意向にそった方向で集約され,
その意向に墨付きを与えることがほとんどです。

というのも,審議会のメンバーを任命する際,政府の方針に賛成する人を中心に選ぶから,当然と言えば当然です。(反対者も数人
入れることもあります)

今回,国立大学の組織改革案を出した「評価委員会」は,2003年,国立大学の法人化に合わせて設置された審議会です。

しかし,これまで10年以上にわたって,政府は大学教育に関して,このように乱暴な方針は打ち出してきませんでした。

「評価委員会」の答申文書には,問題の部分は次のように書かれています。

  「ミッションの再定義」を踏まえた速やかな組織改革が必要ではないか。○ 大学院の博士(後期)課程においては、法人のミッション
  に照らした役割や 特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、国立大学の機能別分化の促進の観点、
  又は学生収容定員の未充足状況の観点等 人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割を総合的に勘案しつつ、
  大学院教育の質の維持・確保の観点から、入学定員や 18歳人口の減少や人材需要等を踏まえた組織見直し計画を策定し、
  組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むべきではないか。(注1)

上記の「ミッションの最定義」とは,国立大学法人が果たすべき役割・使命を再度確認しなおすことを意味します。

この答申全体の方向は,18歳人口の減少を背景として,大学の役割を再構築し組織改革をすべきである,という点にあると思います。

ここで,人文系学部とは,具体的には芸術,文学,人類学,歴史学など,文化的な分野を指し,社会科学系とは経済学,社会学,
政治学などを指します。つまり,受験カテゴリーでいえば「文系」ということになります。

答申では,これら「文科系学部」は廃止ないし社会的要請の高い分野へ転換をすべきだとしています。

しかし,なぜ,こうした廃止や転換が必要なのか,その必然性や合理的な理由がはっきりしません。

それでは,「社会的要請の高い分野」とは何か,が問題となります。「文系」を廃止するという文脈から考えれば,「理系」分野という
ことになります。

つまり,政府は大学と大学院の教育を,直接お金にならない文科系をつぶして,産業振興に貢献する技術者を育成する方向に転換したい
と考えているのです。

この背景には,技術立国日本の発展,産業振興のためには,文科系などは無駄な投資だとの考えがあるのでしょう。

文科省の担当者は,「今回の通達は文科系学部の廃止や理系への転換を提案しているのではないない。先に示された役割に基づいて,
改革してほしいだけだ」と説明しています。

「覚悟」レベルの話といい,「改革してほしいだけだ」という弁明は,当の国立大学にとっては,半ば脅迫に近い通達であると
受け取られます。

というのも,もし要望に沿った改革をしなければ,その大学の評価に影響し,予算その他で不利になる可能性があるからです。

この通達には,当然,現場からは強い反発の声が上がっています。愛知教育大学講師の今村氏(哲学)は,「つまりは,国立大学は
職業専門学校に特化しろということだ」と批判しています。

また文化学園大学の白井聡助教は「(大学改革を推進する)安倍首相は直接金もうけできる方法以外の学術は,役に立たないという認識。
彼の人生ではそうだったんでしょう。

言い換えれば,学術は彼の知性を形成しなかったといことでは」と皮肉っています。

私も,白井助教とまったく同じ印象をもちました。しかし,この「改革」は確実に大学という,本当の意味で教養や知性をはぐくむ
場を荒廃させます。

文化とは,何が真で何が偽であるか,何が善で何が悪か,何が美で何が醜であるか,という,私たちの価値判断の根底に横たわる
究極の基準です。

文化の具体的な内容は国や地域によって異なりますが,これらの基準なしに物事を判断することはできません。また,文化や教養は,
人間としての倫理観,豊かな情操を養うための不可欠な要素です。

自然科学は人文・社会科学と異なり,原理的に,価値の問題から離れているので,暴走すると危険な結果を生むこともかなえられます。
たとえば,物理学者にとって原爆の発明や開発は野心を掻き立てるに違いありません。しかし,それが人間として許されるかどうかは
別問題です。

また,生物医学者にとってクローン人間を作ることは,ある意味で大きな功績になるかもれませんが,それはその社会の倫理や文化
にとって許されるかどうかは問題です。

他方,社会科学は,たとえば経済,政治,地域社会など,私たちを取り巻く社会事象がどのような原理や構造で動いているかを客観的に
解明する学問分野です。

社会科学において価値の問題をどう扱うかはさまざまな見解があります。資本主義と社会主義という政治経済学は,立場は異なりますが,
それぞれの価値観をもっていて,どちらかが絶対的に正しいとは言えません。

いずれにしても,価値の問題を避けて通ることはできないでしょう。

経済の分野でいうと,たとえば,法律には違反しないけれど,他人の弱みに付け込んで経済的利益を得る行為があったとすると,
その行為は文化的・倫理的には批判されるでしょう。

同様に,政治の世界でも,今の安倍政権のように,議会で絶対多数をもっていれば,どんな法律でも通してしまうとすれば,
それは合法的かもしれませんが,少数意見の尊重という民主主義という,一つの政治文化としては問題視されるでしょう。

私自身は,学部も大学院も経済学を専攻しましたが,その後,研究としては東南アジアの歴史を対象とし,講義では文化諸側面
(絵画,音楽,ファッション,スポーツなど)を話しています。

確かに,文化でお腹がいっぱいになるわけではありませんが,私たちの周囲から,たとえば音楽が消え,スポーツがなかったとしたら,
どれほど物やお金があっても,豊かな人生を味わうことはできないでしょう。

ヨーロッパが数百年も世界をリードしてきたのは,必ずしも科学技術や戦争で世界を征服してきたからではありません。
その大きな原動力は,文化の力なのです。

もっといえば,科学技術そのものも,ヨーロッパ文化の一部なのです。物事を数百年という長期の視点で見ると,歴史を根底で
動かしているのは文化であることがわかります。

最後に,一つだけ日本人の文化意識に関するエピソードを紹介しておきましょう。あるイギリス通の知人から聞いた話です。

ずいぶん前の話ですが,日本から財界の代表団が貿易交渉のためロンドンを訪問しました。昼の話し合いが終わり,イギリス側
の代表が,「夜の会合まで時間があるから,ロンドン市内にある美術館でもご覧になったらどうですか」とアドバイスしました。

ところが,日本の代表団の人物は,私たちは経済交渉にきたのであり絵には関心がありません,と答えました。

この反応に,イギリス側のメンバーはとても驚き,親しい人に,「たとえどれだけ経済的な利益があっても,文化を評価しない
連中とは取引なんてしたくない」,と語ったそうです。

経済産業省,文科省の大臣および官僚は,文化についてどれほどの理解と敬意をはらっているのでしょうか?

金だけを追いかける文化は,国際社会から軽蔑されることはあっても尊敬されることは絶対にないでしょう。

この意味で,私は今回の文科省の通達は,日本の大学教育に非常に深刻な危機をもたらすものとして反対です。


(注1)文科省 国立大学法人評価委員会の答申
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kokuritu/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/08/13/1350876_02.pdf

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファッションと文化(3)世界の中の日本のファッション―

2014-05-31 07:11:59 | 思想・文化
ファッションと文化(3)―世界の中の日本のファッション―

それでは,今日,国際会議などの国際的な場では,ほとんどの人がスーツのようなヨーロッパの衣服を着ています。
こうした状況をみると,あたかも世界の服装はヨーロッパ・スタイルに席巻されているかのような印象を受けます。

しかし,それぞれの国の日常生活では,事情は異なります。たとえば,インド,アラブ世界,中南米,東南アジア諸国,
アフリカなどの非西欧世界では,今でも伝統的な民族衣服が主流です。

非西欧世界の中でも,日本のファッション文化は,他の非西欧社会とはやや特殊な歴史的な展開をしてきました。

その特殊性の一つは,明治期に,日本のファションが劇的な変化を遂げたことです。明治維新までの日本人の服装
は,豪華であるか質素であるかは別にして,おおざっぱに「和服」または「きもの」でした。

日本の伝統的な服装は,明治維新とともに激変し始めるのですが,それは日本が「近代化」「西欧化」に大きく舵
(かじ)をきったことと連動しています。

明治期日本の基本的な国策は「富国強兵」で,西欧式の近代的機械工業と西欧式の近代軍事組織を導入し,西欧と
対抗できる経済力と軍事力と経済力をつけて,西欧に「追いつき追い越せ」というものでした。

当時の雰囲気は,日本はもはやアジアの一員であることから抜け出し,ヨーロッパ世界へ入るべきだという,
「脱亜入欧論」という言葉に象徴されます。

こうした時代の変化の中で,ファッションにどんな変化が生じたのでしょうか。

明治10年代後半には外国の国賓や外交官を接待するための施設として「鹿鳴館」が建設され,そこでは,日本の
外交官夫人などを中心とした日本人が,舞踏会用のイブニングドレスなどの夜会服に身を包んでいました。これは
当時の日本人のファッションとしては画期的なことでした。

「鹿鳴館時代」(明治16~20年)に西欧的ファッションが日本に登場したことの象徴的な意味は非常に大きか
ったことは間違いありませんが,その人数は日本人全体からみれば,ごくごく一部にすぎませんでした。

これに対して,新たな軍隊の創設は,一般の国民を巻き込みました。つまり,早くも明治6年(1873年)には徴兵
令が出され,兵役が国民の義務となったのです。

明治期からの軍服は,江戸時代までの侍の服装とはまったく異なり,イギリス,ドイツ,フランスの軍服をモデル
にしたヨーロッパ式の軍服でした。
日清,日露戦争から第二次世界大戦の敗戦まで,軍服は日本人にとって身近な「国民服」の一部になっていったの
です。

軍服とならんで,ヨーロッパの制度を真似た行政制度の導入により,国から市町村までの官公庁の職員も急速に西
欧式の服装に変わってゆきました。

民間部門でも,西欧をモデルとした銀行,一般の企業,工場その他の商業施設が増えるにつれて,そこで働く人た
ちは,伝統的な和服から西欧の服装に変わってゆきました。

もちろん,この変化は職業,地位,地域によってことなりました。一般庶民よりは上層階層の方が,農村地域より
は都市の方が,農業などの自営業者よりは官公庁や企業に勤める勤労者のほうが変化は速かったとは言えます。

この変化は明治期に完結したのではなく,大正期や一部には昭和にはいるまでファションの変化は後戻りすること
なく続きました。

250年以上も続いた徳川時代の固定的な身分制度が崩壊し,全く新しい西欧文化が流入して,日本は激動の時代
を経験しました。

その過程で,日本人はファッションに目が覚めたともいえます。

日本人の服装は,第二次大戦後になると,地域や職業にかかわらず,ほぼ完全に西欧化していました。

この間,明治維新から85年ほどの短期間の出来事です。

85年は長いようですが,衣食住という生活の基本構造の一角を占める衣服の変化がこれほど短期間に変化したこと
は驚異的で,非西欧世界のなかで日本の他にありません。

何がこの急激な変化をもたらしたのでしょうか?明治期から現代を二期に分けて考えてみましょう。

まず第一期は,明治維新から第二次大戦の敗戦までの時期です。すでに書いたように,この時期は軍事力でも経済
力でも欧米に「追いつけ追い起せ」という「富国強兵」政策がファションの変化への推進力になったことは確かです。

この時同時に,服装においても欧米と対等になろうとする日本人の心理が上層階級を中心に強く働いていたのです。

最初に西洋のファッションを目の当たりにした日本人,とりわけ女性は,そのあでやかに,理屈抜きに圧倒されて,
西欧のファッションに強烈なあこがれと,おそらくは白人にたいする劣等感を抱いたのではないでしょうか。

ヨーロッパでも富裕な市民階級が王侯貴族の真似をして上流社会に這い上がろうとする上昇志向が大きな要因にな
っていたことを考えれば,日本においても,先進文化をもっていた西欧社会のファッションを真似ようとしたこと
はごく自然だったのです。

というのも,ファッションは個人にとって,「自分の限界を超えようとする」欲求の表われだからです。

しかし,大正時代の「モボ・モガ」の時代を除けば,昭和の日本は重苦しい戦時体制下にあり,多くの日本人には
ファッションを気づかう雰囲気はありませんでした。

第二期は,第二次大戦後です。日本人は戦前の重苦しい雰囲気から解放され,戦後復興から高度経済成長の軌道に
入ると,経済的にも余裕が出てきました。

経済的な余裕に劣らず重要な変化は,戦前の古い倫理観から解放されたことです。たとえばミニスカートは,倫理
観や価値観の転換なしには普及できなかったはずです。

日本人は新しいファッションを追い求めるようになり,ファッションはめまぐるしく変化する,まさにファッショ
ンという言葉が,「流行」を意味するようにようになったのです。

この一連の変化は非常に激しかったので,それらをここで一つ一つ説明する余裕はないので,戦後日本のファッシ
ョンの特殊性について,何点かに絞って考えようと思います。

日本には二つの傾向が混在しています。一つは,ファッションの本場であるヨーロッパの最新のファッションを追
いかけ模倣しようとする傾向です。

ヨーロッパのブランド品を競って買い集める行動は,明治時代から現代までずっと続いており,西欧に対する劣等
感とあこがれがないまぜになったメンタリティーを反映しています。

たとえば,一般のOLや主婦,女子学生までもがブランド品をもっていることは珍しくありませんが,これはヨー
ロッパでは考えられません。

日本は,ヨーロッパファッションの輸入国と考えられますが,逆に,日本が世界に向かって発信し輸出している領
域もあります。

たとえば,若い女性のカジュアル・ファッションに関しては,日本は世界をリードしているとさえ言えます。

今や「東京ガールズコレクション」は世界の若者向けファッションの重要な発信源になっています。

また,日本ではすでに下火になった「ゴシック・ロリータ」ファションはヨーロッパやアメリカの若者の間では,
依然として人気を集めているし,ロリータ・ファッションの流れを汲む,メイド・ファッションも根強い人気があ
ります。

一言でいえば,日本の若者ファッションのコンセプトである「カワイイ」は,今や国際語となっています。

キャリーパミュパミュがフランスをはじめヨーロッパで人気があるのも,彼女の独特のファッションによるところ
が大きく,パリで行われた彼女のコンサートにはメイド・ファッションに身を包んだ大勢の若者が押し掛け,大い
に盛り上がりました。

こうした若者ファッションの分野で日本が主要な発信国の一つとなっていることには理由があります。まず,日本
発の若者ファッションは,
数千円からせいぜい数万円の,若者でも買えるカジュアル・ファッションが中心です。

欧米のデザイナーやブランドは,桁の違う高額なファッションを手掛け,若者向けの安い若者ファッションを相手
にしていません。

そこで,欧米の若者から日本の若者ファッションが注目されているのです。

大人のファッションに関しては今でも,パリ,ミラノ,ニューヨークのコレクションが大きな影響力をもっており,
伝統的には欧米のディナーたちの主要舞台となっていました。

しかし,1980年代後半からは,川久保玲,山本耀司,三宅一生などの日本を代表するデザイナーが欧米の主要なコレ
クションに出品し,これらのデザイナーのブランドは,今や世界のファッション界で高い評価を受けています。

おそらく,非西欧世界のデザイナーで欧米のファッション界で高い評価を得ているのは,日本人だけでしょう。この
点でも,日本は特異な位置を占めています。

日本のデザイナーの中でも,私はコム・デギャルソンの代表,川久保玲の作品や考え方に最も大きな影響を受けまし
た。

彼女は欧米の真似でもなく,ヨーロッパ人のエキゾチズムをくすぐるジャポニズムを持ち出すこともしません。

彼女は,17世紀以降,ヨーロッパのファッションを主導してきたフランスをはじめとする欧米諸国が維持してきた
ファッションのルールを壊し,全く新たな世界を提示し続けています。

彼女については独立して取り上げるつもりですが,たとえば,それまでのファッションではタブーだった「黒」で固
めた服,穴の開いた服,女性の背中に男性の背広の腕がだらりとぶら下がった服(男性性,女性性の再検討),コブ
だらけの服(身体と衣服との関係を逆転させる)などです。

ファッションは,とても面白く,かつ奥が深いので,今回の3回におよぶ記事でも,まだ入り口に到達しただけです。

いつか,機会があったら別の角度から触れたいと思いますが,今回は,一旦,ここで終わりにします。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
『いぬゐ郷だより』7

5月は,幕張にある「いぬゐ郷」の畑,結いゆいファームでの野菜の播種や苗の植え付けを行いました。
現在,ジャガイモ,ネギ,ニンニク,スナップエンドウ,オクラ,ウリ類,トウモロコシなど10種類以上が,雑草とともに元気に育っています。
また,野菜ではありませんが,ハーブ・コーナーには,ローズマリー,タイム,オレガノ,イタリアンパセリ,ミントも健在で,
「いぬゐ郷」のコミュニティ・カフェの料理にも使っています。
このほか,畑にばらばらに生えていたイチゴを一か所に集めて「イチゴコーナー」を作りましたが,今年は小さいけれどおいしいイチゴが成りました。
昨年,私の庭から移植した「ワイルドベリー」(ラズベリーの野生種,フランス語でフランボワースと呼ばれる)の根があちこちに若木を発芽させ,
実をつけ始めました。今年の秋までにはジャムができそうです。

一方,佐倉の谷津田を借りて,種のばら撒き法による陸稲栽培を行っています。その傍らで,周辺の里山の整備を集中的に行っています。


固い荒地にしっかりっと根付いたワイルドベリーの苗。もう実をつけています。


借りている田んぼの横の里山


里山の木の伐採風景


里山に作業用の階段を作る。二本の竹の杭に木を渡した階段。

いぬゐ郷HP http://www.inoui-go.com/index.html
いぬゐ郷Facebook https://www.facebook.com/Inoui.go



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファッションと文化(2)―ファッション(流行)はくだらないか?―

2014-05-24 06:28:23 | 思想・文化
ファッションと文化(2)―ファッション(流行)はくだらないか?―

前回は,「人はなぜ服を着るのか」というテーマで,ファッションを身体論の観点から考えました。そこでのキーワードは,
「身体加工」でした。

考えてみると,地球上のあらゆる生物の中で,自ら身体に加工を加える生き物は,人類だけです。この意味で,身体加工とは
類という種が行う際立った文化であるといえます。なぜなら,文化とはそもそも「自然を加工すること」に他ならないからで
す。(注1)

ところで,身体加工の仕方は,個々の文化や社会によって異なります。そこに私たちは,それぞれの民族や社会の固有の文化
を見ることができるのです。

以上を前提として,再び文化としてのファッションについてもう少し具体的に見てみましょう。

まず,「ファッション」という言葉には,「流行」という意味と,今日もっとも普通に使われる「(しばしば最新の)流行り
の服装」という意味があります。

「ファッション」という英語が普及する前は,フランス語では女性名詞の「モードmode」という語が使われました。そして,
「モード」という語は,古くは(1)個人の生き方,振る舞い方,考え方,(2)ある時代・国・環境に固有な集団的な生き
方・考え方,を意味していました。(注2)

「モード」が「流行」という意味で使われるようになったのは18世紀以降のことで,「ある一定の社会内で上品とみなされる,
集団的な好み,一時的な生き方・感じ方,つまり「流行」という今日的な意味で使われるようになりました。

ところで,ファッションを歴史と社会の文脈の中で学問的に論じたのは,フランスの歴史学者,フェルナン・ブローデル
(1902-1985年)の『日常性の構造』でした。(注3)

以下に,ブローデルの所説を紹介しながら,服装と流行の両面からファッションの問題を考えてみたいと思います。(文中の
ページ数は,上記の本のページを表わす)

世界のさまざまな文化・文明圏の服装の歴史を検討すると,一旦,ある服装が一旦定着してしまうと,数百年の間,それが続
いてきたことがわかります。

インド,アラブ・イスラム圏,中国などの主要な文化圏では,服装に関してほとんど不動の伝統が支配してきました。特に
インドやアラブ・イスラム圏に見られる,大きな布を体全体に巻き付ける服装は今日でも一般に見られます。

また,現在の東南アジア地域でも広く見られる,筒状の布を腰の回りに巻き付ける衣服,アンデスのインディオたちが着る
ポンチョ,日本の「キモノ」なども数百年の長きにわたって変化してこなかったのです。

今日,ファッションといえばヨーロッパを指すように思われていますが,西ヨーロッパにおいてさえ,3~5世紀から12
世紀ころまで長い中世の間,のローマ文化の影響を強く受けた時代の伝統服,女は足まで垂れ,男は膝まで届く長衣を変わら
ず着ていました。

ブローデルは,ファッションが長期にわたって変化しなかったのか,あるいは逆に,どんな時変化するのかを問いかけて,
相互に関連した二つの状況を挙げています。

一つは,その社会の人々がおしなべて貧困な状態にある時で,このような状況ではファッションは変化しません。

このような時,人々はその土地で得られる最も安価に手に入る素材を使った衣服を着ることになります。

貧困な社会では安定しきっていてすべてが不動を保っているであろうし,富もなければ移動の自由もない,したがって変化
の可能性もありません。

このような社会の場合,服装を変化させる刺激や誘因がないからです。ファッションが変化するには,社会の中に経済的な
余裕が生じていることが必要なのです。

二つは,社会に階級分化がない場合です。そもそも,ヨーロッパで連続的にファッションが変化していった構造的な要因は,
王侯貴族などの上流階級が,自分たちより下層の人々との差別を見せつけるために,豪華な服装や服飾品を身に着けること
でした。

しかし,庶民の中でも富裕層(たとえば商人など)が現れると,彼らも上流階級の人々の真似をするようになります。

すると,上流階級の人々は,さらに新しく豪華なファションを身に付けるようになります。

ブローデルは,上流階級の夫人が髪飾りを高くすると,市民階級の富裕層の女性も高くするので,さらにこの競争は激しく
なり,最後には上流階級の女性の目が全体の半分ほどになってしまったほどである,と書いています。(447ページ)

こうした豪華さの追いかけっこを,時系列を追って見てみると,その一連の変化が「流行」という意味のファッションとし
てとらえることができるのです。

上流階級は富裕な市民と競争する一方で,ヨーロッパでも日本の江戸時代でも,庶民が豪華な服装を身に付けることを禁ず
る「奢侈禁止令」や「贅沢禁止令」を出してきました。

ブローデルは,「したがって奢侈禁止令は,諸国政府の叡智であるとともに,それ以上に成金に模倣された上流階級の腹立
ちに呼応するものであった」と断じています。

しかし,ヨーロッパで起こったように,ごくささやかであっても上位の社会階層の印である豪華な衣服を着たいという欲求
を抑えることができなかったようです。

このため,ヨーロッパでは,従来より斬新で豪華な服装や装飾が絶え間なく作り出されてきたのです。

ブローデルは,上に挙げた本の「服装と流行」という章の冒頭で,「服装はかって気ままに変化するように見えて,いたる
ところで社会的対立をあらわに示している」(420ページ)と述べていますが,それは,このような状況を指しています。

ところで,もう一度,今回の記事のサブタイトルである「ファションはくだらないか」というテーマについて考えてみまし
ょう。

ブローデルは,この点に関して:
   みずからの伝統と断絶してゆく社会にこそ,未来は開かれていたのである。伝統は美徳ともなり,監獄ともなる。
   ・・・あらゆる進歩のための道具である革新にたいして門戸を開くためには,衣服とか靴とかの形とか,帽子・髪型
   にまで心を労するような,ある種の落ち着きのなさがおそらく必要だったのではあるまいか。

と述べており(438-489ページ),ファッションのもつ社会変化のへ影響の重要性を指摘しています。

そして,その進歩や革新とは,「見たところ流行は,振る舞いにおいても,きまぐれにおいても,かって気ままなようで
はある。しかし,実際には,流行が進む道は,まえもって大幅に定められているのであって,その選択範囲は結局のところ
限られている」というのです。(434ページ)

私がファッションは決してくだらないものではない,と考えるのは,ある社会の支配的なファッションとその傾向をみると,
その社会の文化や,大げさに言えば文明が現在どんな性格を持ち,どちらの方向にむかっているのかを知る重要な手掛かり
になるからです。

世界のファッション史を見てみると,確かに,ファッションがもっとも激しく変化してきたのはヨーロッパ(特に西ヨーロ
ッパ)ですが,同時に社会変化がもっとも大きかったのもヨーロッパでした。

ブローデルの説に従えば,これはたんなる偶然ではなく,ファッションと社会の変化とは分かちがたく結びついているから
です。これを,身体観に現れた変化から見てみましょう。

中世ヨーロッパでは,キリスト教(正確にはカソリック)的な倫理観から,肌を露出することが禁じられてきました。

既に書いたように,この間にヨーロッパのファッションはほとんど変化しませんでした。

ブローデルは,ヨーロッパで伝統的なファッションが大きく変わり始めたのは,1350年ころからだと述べています。このこ
ろから,男性は全体に短く窮屈な衣服を着るようになり,女性の衣服は体の線がはっきりと出て,しかも胸が見えるように
襟ぐりが広く深く切り込まれるようになりました。

伝統擁護者や年長者の目には,憤慨に値するほどでした。

1350年ころといえば,イタリアでルネサンスが花開いた最盛期でもあります。ルネサンスは「人間復興」の主張とともに,
古い伝統を打ち破るかのように,新しい人間観,とりわけ身体観が堂々と登場しました。

人間の肉体は,覆い隠すべき醜いものではなく,美しいものだと,という身体観です。

それらが特に顕著に表れたのは絵画の世界で,たとえばラファエロの聖母子像に描かれたマリアは,もはや天上の「聖人」
としてではなく,胸のふっくらとしてふくらみが薄い絹の衣服から透けて見える成熟した「女」として描かれています。

またボッティチェリーの絵には全裸の女性が頻繁に登場します。

絵画に現れた身体観の革命的な変化は,間違いなく,その後のヨーロッパ文明が向かおうとしていた方向を示していました。
すなわち,中世的な「神による人間の支配」を脱して人間性を取り戻すという方向です。

もちろん,この方向は簡単に,一気に進んだのではなく,17世紀のカソリックとプロテスタントの壮絶な宗教戦争を経て,
そしてさまざまな科学的発展を経て,行きつ戻りつしながら,しかし大筋では後戻りすることはありませんでした。

ファッションの世界では,17世紀にはフランスがヨーロッパのファッションに圧倒的な影響を与えるようになり,それは今
日まで引き継がれています。

以上のように考えると,確かにヨーロッパ世界は,過去の伝統を断ち切り,ある種の落ち着きのなさを伴いながら,進歩と
革新の道をもっとも早く歩み始めました。

世界史的には,ルネサンスは中世的な世界から近世・近代への扉を開いたといえるでしょう。

しかし,ヨーロッパ発の「進歩と革新」が果たして人類に幸福をもたらしたかどうかは,また別の問題です。

ファッションが現代の日本と世界でどんな意味をもっているのか,何を目指しているのか,については,また別の機会に書
こうと思います。


(注1)文化の定義にはそれぞれの立場によって異なりますが,この記事の文脈では,「自然を加工すること」が適当だと思います。
    鷲田清一『ちぐはぐな身体』32ページ。
(注2)フェルナン・ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀:I-1 日常性の構造』(みすず書房,1985:
    p.427-429の脚注30,p.443)

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
『いぬゐ郷だより6』 5月4日,食べることの意味を考えるため,二羽のニワトリを解体しました。そして,頭部と足,内臓の一部を除いて,
全てを利用しました。その写真は「いぬゐ郷」のホームページでみることができます。

いぬゐ郷HP http://www.inoui-go.com/index.html
いぬゐ郷Facebook https://www.facebook.com/Inoui.go

/font>

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする