ファションと文化(1)―人はなぜ服を着るのか?―
ファッションの問題は,今でこそ私の講義の中では大きな部分を占めるよういなっていますが,当初は,民衆の生活文化
としての「衣食住」の一部として簡単に扱っていました。
しかし改めて,「そもそも人はなぜ服を着るのか」を考えたとき,私も多くの人がそう答えるだろうと思いますが,暑さ寒さに適応するた
め,怪我など外からの危険から身を守るため(身体の保護)と,性器などの恥部を隠すため,と答えるでしょう。
こうした「常識」に疑問を感じるようになったきっかけは,オーストラリアの先住民,アボリジニとの出会いでした。アボリジニは,旧
石器文化を今に伝える,現存する最古の人々です。
彼らは,摂氏0度(場所によってはマイナスになります)から50度を超す気温の大きな変化の中で,ほとんど裸に近い姿で生活してき
たのです。
彼らは,暑さには皮膚から汗をかいて体を冷やし,寒さに皮膚の毛穴を閉じて熱の放散を防いで,つまり,皮膚で寒暖の変化に対応して
きたのです。
もちろん,アボリジニの人たちと,現代に生きる私たちとは歴史も文化も生活環境が違うので,服の役割や意義をそのまま比較すること
はできません。
しかし,アボリジニとの出会いは,私がファッションを身体論との関係で考える重要なきっかけになりました。
この問題に関して私が大きな影響を受けたのは,鷲田清一氏の著作でした(注1)。以下に,鷲田氏にしたがって,ファッションの起源
や意味について考えてみましょう。
鷲田氏によれば,ファッションとは,身体に何らかの変化を与える物と行為すべてを含む「身体加工」のことです。それでは,人はなぜ,
身体加工するのでしょうか?
ここにこそ,ファッションと身体との深い関係があります。
まず,私たちは自分の身体に関して驚くほど貧弱な認識しかもっていない,という事実が出発点です。
確かに,鏡に映せば体の正面の姿は分かりますが,例えば後頭部,背中,それを斜め上や横から見た姿,腋の下,などについて具体的な
認識はもっていません。
意外にも,最も不確かなのは顔です。確かに,鏡に向かって顔を見ることはできますが,それはいわば静止画像にすぎません。
他人に向けた生の顔がどんな様子をしているかをを自分で見ることは絶対にできません。
つまり,私たちは,自分の身体について,視覚的には断片的な認識しかもっていないのです。そこで,人はそれらの断片的な情報をつな
ぎ合わせて,いわば,想像された自分の体の全体像,イメージとしての身体「像」を構築しようとします。
しかし,「像」としての身体は不安定です。そこで,この心理的不安定さを補強するために身体加工をするのです。
人は,髪や爪を切り,耳や鼻に穴を開け,化粧し,身体に着ける装飾品を身に着け,髪や爪を切り,皮膚に切り込みを入れる,そして,
身体全体を覆う服を着るなど,さまざまな方法で身体に加工を加えます。
歴史的にみれば,人は繊維や布を利用するはるか以前から,まず,皮膚そのものを加工し始めました。その典型的な例が刺青(タトゥー)
や,ボディー・ペインティングです。
私の専門分野でも,東南アジア地域では16世紀くらいまで,刺青は非常に一般的で,当時の版画などによると,顔から足の先まで複雑な
模様の刺青をほどこしていました。
またつい最近まで,ニュージーランドのマオリ族は刺青やボディー・ペインティングを施していましたし,今でも儀礼的に行っています。
このように考えると,「皮膚が最初の衣服である」,あるいは「衣服は皮膚の延長である」と言い換えることができます。
以上は,視覚的に自分の身体「像」を補強する場合でしたが,実は,私たちは身体的にも,常に不安定さ,心もとなさを感じています。
それは,「わたし」という存在そのものに対する不安定さです。
何よりも,私たちは自分の身体の境界を実感できないと不安になります。そこで,人はさまざまな行為で補強します。
その方法は,身体と外部世界との境界にある皮膚感覚を活性化することで,見えない身体の輪郭を浮き彫りにしようとします。
たとえば日常的に,熱い湯につかったり,日光浴したり,スポーツ汗をかいたり,他人と身体を接触させたり,あぐらを組む父親のふと
ころに入ったり,異性と身体を触れ合うなどの行為を行います。
なぜこれらの行為が心地よいかというと,たとえば風呂に入ることによって,普段は視覚的には直接感覚することができない,背中や
太ももの裏の存在など,全身くまなく自分の身体の輪郭を感じることができるからです。
つまり,私たちは皮膚感覚によって心理的な安定感を補強しようとしているといえます。皮膚感覚を心理的安定と関連させて鷲田氏は,
父親のあぐらの中に子供が入り込む例を挙げています。
これによって自分の背中と父親のお腹がぴったりと接触して,子供が安心感を得ることは確かでしょう。
また,赤ん坊は,母親に抱かれて乳房から乳を飲む行為を通じて,「包まれている」=「守られている」安心感を得ているのだと思い
ます。
これは,人が存在を確認し心理的な安定感を得るうえでかなり原初的で根源的な体験だと思います。私は,この安心感は,母親の胎内
(羊水)の中にいるときの,絶対的安心感に由来するのではないかと考えています。
鷲田氏は精神病理学的な説を引用しつつ,非常に興味深い例を紹介しています。それは,断片的情報をつなぎ合わせて自己の身体イメ
ージ作り上げることに失敗したり,逆に身体イメージが壊れると,自己破壊的な行動が発生するというものです。
このような場合,「パック」と呼ばれる精神療法が試みられることがあります。これは,身体を湿布で「包み,つなぎ合わせる」とい
う治療方法で,治療中,
看護人が湿布の上からマッサージし続けると,その熱と患者の発汗と体温によりとマッサージで湿布が温かくなります。
こうして患者の全身が温かい湿布に包まれて,患者はまとまった身体イメージを回復し,合わせて壊れた自己の精神的統合に至る,と
いうものです。
まさに精神的な「胎内回帰」です。
この問題は,直接,ファションと関係ないように見えますが,実は,服を着るという行為の深層心理的な背景として,非常に重要だと
思います。
ここで,今回の記事のサブタイトル,「人はなぜ服を着るのか?」という設問をもう一度考えてみましょう。
私たちがお風呂に入って全身の境界を感覚的に感知できる気持ち良さと,上に紹介した「パック」療法の原理とを考え合わせると,
上記の設問が少しだけ解けるようい思います。
つまり服を着ることによって,服と皮膚とがこすれ合い,その摩擦により,私たちは身体の輪郭を感じることができるのです。もちろ
ん,私たちは服を着る行為に,身体の輪郭を感じる,ということを常に意識しているわけではありません。ほとんどは無意識に感じて
いることです。
それでも,この感覚が服を着ることの少なくとも一つの潜在的な機能であることも事実です。
ただし,身体の保護という観点から考えると,人は,あまりにも機能的にも目的からはずれた身体加工をします。
たとえば,尖った細い棒状の物で踵だけが上に持ち上げられたハイヒールは,足の裏を保護し,快適に歩くという目的からは程遠く,
前のめりになってしまうので,むしろ危険でさえあります。このような事例は数え上げたらきりがありません。
また,寒さから身を守るべき衣服の中でもスカートは決して防寒に有効とは思えません。また,19世紀の流行した胴を締め付ける
コルセットの着用なども,身体の保護どころか内臓を圧迫してしまう,不健康な身体加工です。
ところで,最後に,性器や生殖にかかわる部位を隠す手段として服を着る,という意味について考えてみましょう。鷲田氏によれば,
人の身体にはもともと恥ずかしい部分などというものはありえませんでした。
しかし,私たちの社会で,性,あるいは生殖にかかわる部分が,はずかしいもの,という一種の「でっち上げ」の観念によって過剰
に隠されています。
これは,「隠すべきものは何もないということを隠している」のだという。つまり,隠されている部分が明らかにされてしまえば,そ
こには何も特別な「真実」はないことが暴露されてしまうからです。
これは,「ヘア・ヌード」が解禁になって,男性のときめきがいかに萎縮してしまったかを考えれば分かります。
鷲田氏は,「隠す」という服飾の技法が,実ははもっと確かなこと(生きることの根源,他人との秩序だった関係を結ぶことなど)
を隠しているということもありうる,と指摘しています。
ファッションの機能の一つは,そのことを隠し,人の目をそらすために,スカートの開口部のフリル,ミニスカート,スリットなど
巧妙で意味ありげな身体加工を施することです。
興味深いのは,服飾のように視覚的に「巧妙に隠す」ことによる刺激が「猥雑」な刺激性をもちうるのは,感覚系を視覚中心に編成
している抽象度の高い文化(特に工業社会)においてだけです。
アボリジニだけでなく,すでにこのブログの2012年8月16日の「妖精の住むおとぎのような国」でも書いたように,幕末の日本で,
外国人が道を通ると,女性が裸のまま飛び出してきたようです。
さらに東南アジアの一部では,女性が上半身裸で農作業をしている姿を私も目にしています。
身体感覚の重要性がますます低下し,視覚的な刺激が重要性をましてきたのが,近代以来人間が歩んできた道ですが,最近ではさら
に,デジタルな「情報」による刺激が,それをさらに推し進めています。
身体・ファッション・心理との関係については,これからも繰り返し登場するキー・ワードです。次回は,「ファッションはくだら
ないか」というテーマで,ファッションが歴史的に果たしてきた役割を。もう一度社会の中に戻して考えようと思います。
注
(注1)鷲田清一「ファッションと身体」(『モードと身体』,角川書店,2003年,36-61ページ),同『ちぐはぐな身体:ファッションて何?』
(ちくま文庫 2005年。ただし,初出は別のシリーズで1995年に出版)。
ファッションの問題は,今でこそ私の講義の中では大きな部分を占めるよういなっていますが,当初は,民衆の生活文化
としての「衣食住」の一部として簡単に扱っていました。
しかし改めて,「そもそも人はなぜ服を着るのか」を考えたとき,私も多くの人がそう答えるだろうと思いますが,暑さ寒さに適応するた
め,怪我など外からの危険から身を守るため(身体の保護)と,性器などの恥部を隠すため,と答えるでしょう。
こうした「常識」に疑問を感じるようになったきっかけは,オーストラリアの先住民,アボリジニとの出会いでした。アボリジニは,旧
石器文化を今に伝える,現存する最古の人々です。
彼らは,摂氏0度(場所によってはマイナスになります)から50度を超す気温の大きな変化の中で,ほとんど裸に近い姿で生活してき
たのです。
彼らは,暑さには皮膚から汗をかいて体を冷やし,寒さに皮膚の毛穴を閉じて熱の放散を防いで,つまり,皮膚で寒暖の変化に対応して
きたのです。
もちろん,アボリジニの人たちと,現代に生きる私たちとは歴史も文化も生活環境が違うので,服の役割や意義をそのまま比較すること
はできません。
しかし,アボリジニとの出会いは,私がファッションを身体論との関係で考える重要なきっかけになりました。
この問題に関して私が大きな影響を受けたのは,鷲田清一氏の著作でした(注1)。以下に,鷲田氏にしたがって,ファッションの起源
や意味について考えてみましょう。
鷲田氏によれば,ファッションとは,身体に何らかの変化を与える物と行為すべてを含む「身体加工」のことです。それでは,人はなぜ,
身体加工するのでしょうか?
ここにこそ,ファッションと身体との深い関係があります。
まず,私たちは自分の身体に関して驚くほど貧弱な認識しかもっていない,という事実が出発点です。
確かに,鏡に映せば体の正面の姿は分かりますが,例えば後頭部,背中,それを斜め上や横から見た姿,腋の下,などについて具体的な
認識はもっていません。
意外にも,最も不確かなのは顔です。確かに,鏡に向かって顔を見ることはできますが,それはいわば静止画像にすぎません。
他人に向けた生の顔がどんな様子をしているかをを自分で見ることは絶対にできません。
つまり,私たちは,自分の身体について,視覚的には断片的な認識しかもっていないのです。そこで,人はそれらの断片的な情報をつな
ぎ合わせて,いわば,想像された自分の体の全体像,イメージとしての身体「像」を構築しようとします。
しかし,「像」としての身体は不安定です。そこで,この心理的不安定さを補強するために身体加工をするのです。
人は,髪や爪を切り,耳や鼻に穴を開け,化粧し,身体に着ける装飾品を身に着け,髪や爪を切り,皮膚に切り込みを入れる,そして,
身体全体を覆う服を着るなど,さまざまな方法で身体に加工を加えます。
歴史的にみれば,人は繊維や布を利用するはるか以前から,まず,皮膚そのものを加工し始めました。その典型的な例が刺青(タトゥー)
や,ボディー・ペインティングです。
私の専門分野でも,東南アジア地域では16世紀くらいまで,刺青は非常に一般的で,当時の版画などによると,顔から足の先まで複雑な
模様の刺青をほどこしていました。
またつい最近まで,ニュージーランドのマオリ族は刺青やボディー・ペインティングを施していましたし,今でも儀礼的に行っています。
このように考えると,「皮膚が最初の衣服である」,あるいは「衣服は皮膚の延長である」と言い換えることができます。
以上は,視覚的に自分の身体「像」を補強する場合でしたが,実は,私たちは身体的にも,常に不安定さ,心もとなさを感じています。
それは,「わたし」という存在そのものに対する不安定さです。
何よりも,私たちは自分の身体の境界を実感できないと不安になります。そこで,人はさまざまな行為で補強します。
その方法は,身体と外部世界との境界にある皮膚感覚を活性化することで,見えない身体の輪郭を浮き彫りにしようとします。
たとえば日常的に,熱い湯につかったり,日光浴したり,スポーツ汗をかいたり,他人と身体を接触させたり,あぐらを組む父親のふと
ころに入ったり,異性と身体を触れ合うなどの行為を行います。
なぜこれらの行為が心地よいかというと,たとえば風呂に入ることによって,普段は視覚的には直接感覚することができない,背中や
太ももの裏の存在など,全身くまなく自分の身体の輪郭を感じることができるからです。
つまり,私たちは皮膚感覚によって心理的な安定感を補強しようとしているといえます。皮膚感覚を心理的安定と関連させて鷲田氏は,
父親のあぐらの中に子供が入り込む例を挙げています。
これによって自分の背中と父親のお腹がぴったりと接触して,子供が安心感を得ることは確かでしょう。
また,赤ん坊は,母親に抱かれて乳房から乳を飲む行為を通じて,「包まれている」=「守られている」安心感を得ているのだと思い
ます。
これは,人が存在を確認し心理的な安定感を得るうえでかなり原初的で根源的な体験だと思います。私は,この安心感は,母親の胎内
(羊水)の中にいるときの,絶対的安心感に由来するのではないかと考えています。
鷲田氏は精神病理学的な説を引用しつつ,非常に興味深い例を紹介しています。それは,断片的情報をつなぎ合わせて自己の身体イメ
ージ作り上げることに失敗したり,逆に身体イメージが壊れると,自己破壊的な行動が発生するというものです。
このような場合,「パック」と呼ばれる精神療法が試みられることがあります。これは,身体を湿布で「包み,つなぎ合わせる」とい
う治療方法で,治療中,
看護人が湿布の上からマッサージし続けると,その熱と患者の発汗と体温によりとマッサージで湿布が温かくなります。
こうして患者の全身が温かい湿布に包まれて,患者はまとまった身体イメージを回復し,合わせて壊れた自己の精神的統合に至る,と
いうものです。
まさに精神的な「胎内回帰」です。
この問題は,直接,ファションと関係ないように見えますが,実は,服を着るという行為の深層心理的な背景として,非常に重要だと
思います。
ここで,今回の記事のサブタイトル,「人はなぜ服を着るのか?」という設問をもう一度考えてみましょう。
私たちがお風呂に入って全身の境界を感覚的に感知できる気持ち良さと,上に紹介した「パック」療法の原理とを考え合わせると,
上記の設問が少しだけ解けるようい思います。
つまり服を着ることによって,服と皮膚とがこすれ合い,その摩擦により,私たちは身体の輪郭を感じることができるのです。もちろ
ん,私たちは服を着る行為に,身体の輪郭を感じる,ということを常に意識しているわけではありません。ほとんどは無意識に感じて
いることです。
それでも,この感覚が服を着ることの少なくとも一つの潜在的な機能であることも事実です。
ただし,身体の保護という観点から考えると,人は,あまりにも機能的にも目的からはずれた身体加工をします。
たとえば,尖った細い棒状の物で踵だけが上に持ち上げられたハイヒールは,足の裏を保護し,快適に歩くという目的からは程遠く,
前のめりになってしまうので,むしろ危険でさえあります。このような事例は数え上げたらきりがありません。
また,寒さから身を守るべき衣服の中でもスカートは決して防寒に有効とは思えません。また,19世紀の流行した胴を締め付ける
コルセットの着用なども,身体の保護どころか内臓を圧迫してしまう,不健康な身体加工です。
ところで,最後に,性器や生殖にかかわる部位を隠す手段として服を着る,という意味について考えてみましょう。鷲田氏によれば,
人の身体にはもともと恥ずかしい部分などというものはありえませんでした。
しかし,私たちの社会で,性,あるいは生殖にかかわる部分が,はずかしいもの,という一種の「でっち上げ」の観念によって過剰
に隠されています。
これは,「隠すべきものは何もないということを隠している」のだという。つまり,隠されている部分が明らかにされてしまえば,そ
こには何も特別な「真実」はないことが暴露されてしまうからです。
これは,「ヘア・ヌード」が解禁になって,男性のときめきがいかに萎縮してしまったかを考えれば分かります。
鷲田氏は,「隠す」という服飾の技法が,実ははもっと確かなこと(生きることの根源,他人との秩序だった関係を結ぶことなど)
を隠しているということもありうる,と指摘しています。
ファッションの機能の一つは,そのことを隠し,人の目をそらすために,スカートの開口部のフリル,ミニスカート,スリットなど
巧妙で意味ありげな身体加工を施することです。
興味深いのは,服飾のように視覚的に「巧妙に隠す」ことによる刺激が「猥雑」な刺激性をもちうるのは,感覚系を視覚中心に編成
している抽象度の高い文化(特に工業社会)においてだけです。
アボリジニだけでなく,すでにこのブログの2012年8月16日の「妖精の住むおとぎのような国」でも書いたように,幕末の日本で,
外国人が道を通ると,女性が裸のまま飛び出してきたようです。
さらに東南アジアの一部では,女性が上半身裸で農作業をしている姿を私も目にしています。
身体感覚の重要性がますます低下し,視覚的な刺激が重要性をましてきたのが,近代以来人間が歩んできた道ですが,最近ではさら
に,デジタルな「情報」による刺激が,それをさらに推し進めています。
身体・ファッション・心理との関係については,これからも繰り返し登場するキー・ワードです。次回は,「ファッションはくだら
ないか」というテーマで,ファッションが歴史的に果たしてきた役割を。もう一度社会の中に戻して考えようと思います。
注
(注1)鷲田清一「ファッションと身体」(『モードと身体』,角川書店,2003年,36-61ページ),同『ちぐはぐな身体:ファッションて何?』
(ちくま文庫 2005年。ただし,初出は別のシリーズで1995年に出版)。