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大木昌の雑記帳

政治 経済 社会 文化 健康と医療に関する雑記帳

ファッションと文化(1)―人はなぜ服を着るのか?―

2014-05-17 09:59:28 | 思想・文化
ファションと文化(1)―人はなぜ服を着るのか?―

ファッションの問題は,今でこそ私の講義の中では大きな部分を占めるよういなっていますが,当初は,民衆の生活文化
としての「衣食住」の一部として簡単に扱っていました。

しかし改めて,「そもそも人はなぜ服を着るのか」を考えたとき,私も多くの人がそう答えるだろうと思いますが,暑さ寒さに適応するた
め,怪我など外からの危険から身を守るため(身体の保護)と,性器などの恥部を隠すため,と答えるでしょう。

こうした「常識」に疑問を感じるようになったきっかけは,オーストラリアの先住民,アボリジニとの出会いでした。アボリジニは,旧
石器文化を今に伝える,現存する最古の人々です。

彼らは,摂氏0度(場所によってはマイナスになります)から50度を超す気温の大きな変化の中で,ほとんど裸に近い姿で生活してき
たのです。

彼らは,暑さには皮膚から汗をかいて体を冷やし,寒さに皮膚の毛穴を閉じて熱の放散を防いで,つまり,皮膚で寒暖の変化に対応して
きたのです。

もちろん,アボリジニの人たちと,現代に生きる私たちとは歴史も文化も生活環境が違うので,服の役割や意義をそのまま比較すること
はできません。

しかし,アボリジニとの出会いは,私がファッションを身体論との関係で考える重要なきっかけになりました。

この問題に関して私が大きな影響を受けたのは,鷲田清一氏の著作でした(注1)。以下に,鷲田氏にしたがって,ファッションの起源
や意味について考えてみましょう。

鷲田氏によれば,ファッションとは,身体に何らかの変化を与える物と行為すべてを含む「身体加工」のことです。それでは,人はなぜ,
身体加工するのでしょうか?

ここにこそ,ファッションと身体との深い関係があります。

まず,私たちは自分の身体に関して驚くほど貧弱な認識しかもっていない,という事実が出発点です。

確かに,鏡に映せば体の正面の姿は分かりますが,例えば後頭部,背中,それを斜め上や横から見た姿,腋の下,などについて具体的な
認識はもっていません。

意外にも,最も不確かなのは顔です。確かに,鏡に向かって顔を見ることはできますが,それはいわば静止画像にすぎません。

他人に向けた生の顔がどんな様子をしているかをを自分で見ることは絶対にできません。

つまり,私たちは,自分の身体について,視覚的には断片的な認識しかもっていないのです。そこで,人はそれらの断片的な情報をつな
ぎ合わせて,いわば,想像された自分の体の全体像,イメージとしての身体「像」を構築しようとします。

しかし,「像」としての身体は不安定です。そこで,この心理的不安定さを補強するために身体加工をするのです。

人は,髪や爪を切り,耳や鼻に穴を開け,化粧し,身体に着ける装飾品を身に着け,髪や爪を切り,皮膚に切り込みを入れる,そして,
身体全体を覆う服を着るなど,さまざまな方法で身体に加工を加えます。

歴史的にみれば,人は繊維や布を利用するはるか以前から,まず,皮膚そのものを加工し始めました。その典型的な例が刺青(タトゥー)
や,ボディー・ペインティングです。

私の専門分野でも,東南アジア地域では16世紀くらいまで,刺青は非常に一般的で,当時の版画などによると,顔から足の先まで複雑な
模様の刺青をほどこしていました。

またつい最近まで,ニュージーランドのマオリ族は刺青やボディー・ペインティングを施していましたし,今でも儀礼的に行っています。

このように考えると,「皮膚が最初の衣服である」,あるいは「衣服は皮膚の延長である」と言い換えることができます。

以上は,視覚的に自分の身体「像」を補強する場合でしたが,実は,私たちは身体的にも,常に不安定さ,心もとなさを感じています。
それは,「わたし」という存在そのものに対する不安定さです。

何よりも,私たちは自分の身体の境界を実感できないと不安になります。そこで,人はさまざまな行為で補強します。

その方法は,身体と外部世界との境界にある皮膚感覚を活性化することで,見えない身体の輪郭を浮き彫りにしようとします。

たとえば日常的に,熱い湯につかったり,日光浴したり,スポーツ汗をかいたり,他人と身体を接触させたり,あぐらを組む父親のふと
ころに入ったり,異性と身体を触れ合うなどの行為を行います。

なぜこれらの行為が心地よいかというと,たとえば風呂に入ることによって,普段は視覚的には直接感覚することができない,背中や
太ももの裏の存在など,全身くまなく自分の身体の輪郭を感じることができるからです。

つまり,私たちは皮膚感覚によって心理的な安定感を補強しようとしているといえます。皮膚感覚を心理的安定と関連させて鷲田氏は,
父親のあぐらの中に子供が入り込む例を挙げています。

これによって自分の背中と父親のお腹がぴったりと接触して,子供が安心感を得ることは確かでしょう。

また,赤ん坊は,母親に抱かれて乳房から乳を飲む行為を通じて,「包まれている」=「守られている」安心感を得ているのだと思い
ます。

これは,人が存在を確認し心理的な安定感を得るうえでかなり原初的で根源的な体験だと思います。私は,この安心感は,母親の胎内
(羊水)の中にいるときの,絶対的安心感に由来するのではないかと考えています。

鷲田氏は精神病理学的な説を引用しつつ,非常に興味深い例を紹介しています。それは,断片的情報をつなぎ合わせて自己の身体イメ
ージ作り上げることに失敗したり,逆に身体イメージが壊れると,自己破壊的な行動が発生するというものです。

このような場合,「パック」と呼ばれる精神療法が試みられることがあります。これは,身体を湿布で「包み,つなぎ合わせる」とい
う治療方法で,治療中,
看護人が湿布の上からマッサージし続けると,その熱と患者の発汗と体温によりとマッサージで湿布が温かくなります。

こうして患者の全身が温かい湿布に包まれて,患者はまとまった身体イメージを回復し,合わせて壊れた自己の精神的統合に至る,と
いうものです。

まさに精神的な「胎内回帰」です。

この問題は,直接,ファションと関係ないように見えますが,実は,服を着るという行為の深層心理的な背景として,非常に重要だと
思います。

ここで,今回の記事のサブタイトル,「人はなぜ服を着るのか?」という設問をもう一度考えてみましょう。

私たちがお風呂に入って全身の境界を感覚的に感知できる気持ち良さと,上に紹介した「パック」療法の原理とを考え合わせると,
上記の設問が少しだけ解けるようい思います。

つまり服を着ることによって,服と皮膚とがこすれ合い,その摩擦により,私たちは身体の輪郭を感じることができるのです。もちろ
ん,私たちは服を着る行為に,身体の輪郭を感じる,ということを常に意識しているわけではありません。ほとんどは無意識に感じて
いることです。

それでも,この感覚が服を着ることの少なくとも一つの潜在的な機能であることも事実です。

ただし,身体の保護という観点から考えると,人は,あまりにも機能的にも目的からはずれた身体加工をします。

たとえば,尖った細い棒状の物で踵だけが上に持ち上げられたハイヒールは,足の裏を保護し,快適に歩くという目的からは程遠く,
前のめりになってしまうので,むしろ危険でさえあります。このような事例は数え上げたらきりがありません。

また,寒さから身を守るべき衣服の中でもスカートは決して防寒に有効とは思えません。また,19世紀の流行した胴を締め付ける
コルセットの着用なども,身体の保護どころか内臓を圧迫してしまう,不健康な身体加工です。

ところで,最後に,性器や生殖にかかわる部位を隠す手段として服を着る,という意味について考えてみましょう。鷲田氏によれば,
人の身体にはもともと恥ずかしい部分などというものはありえませんでした。

しかし,私たちの社会で,性,あるいは生殖にかかわる部分が,はずかしいもの,という一種の「でっち上げ」の観念によって過剰
に隠されています。

これは,「隠すべきものは何もないということを隠している」のだという。つまり,隠されている部分が明らかにされてしまえば,そ
こには何も特別な「真実」はないことが暴露されてしまうからです。

これは,「ヘア・ヌード」が解禁になって,男性のときめきがいかに萎縮してしまったかを考えれば分かります。

鷲田氏は,「隠す」という服飾の技法が,実ははもっと確かなこと(生きることの根源,他人との秩序だった関係を結ぶことなど)
を隠しているということもありうる,と指摘しています。

ファッションの機能の一つは,そのことを隠し,人の目をそらすために,スカートの開口部のフリル,ミニスカート,スリットなど
巧妙で意味ありげな身体加工を施することです。

興味深いのは,服飾のように視覚的に「巧妙に隠す」ことによる刺激が「猥雑」な刺激性をもちうるのは,感覚系を視覚中心に編成
している抽象度の高い文化(特に工業社会)においてだけです。

アボリジニだけでなく,すでにこのブログの2012年8月16日の「妖精の住むおとぎのような国」でも書いたように,幕末の日本で,
外国人が道を通ると,女性が裸のまま飛び出してきたようです。

さらに東南アジアの一部では,女性が上半身裸で農作業をしている姿を私も目にしています。

身体感覚の重要性がますます低下し,視覚的な刺激が重要性をましてきたのが,近代以来人間が歩んできた道ですが,最近ではさら
に,デジタルな「情報」による刺激が,それをさらに推し進めています。

身体・ファッション・心理との関係については,これからも繰り返し登場するキー・ワードです。次回は,「ファッションはくだら
ないか」というテーマで,ファッションが歴史的に果たしてきた役割を。もう一度社会の中に戻して考えようと思います。



(注1)鷲田清一「ファッションと身体」(『モードと身体』,角川書店,2003年,36-61ページ),同『ちぐはぐな身体:ファッションて何?』
   (ちくま文庫 2005年。ただし,初出は別のシリーズで1995年に出版)。

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「物語」の力(1)-世間は佐村河内氏の何に共感したのか-

2014-02-12 06:56:07 | 思想・文化
「物語」の力(1)-世間は佐村河内氏の何に共感したのか-

2014年2月6日,桐朋学園大学非常勤講師の新垣隆氏は記者会見を開き,自分は18年間,佐村河内守さんの
ゴーストライターだったことを告白し,併せて,このことを隠して世間を欺いたと言う点で,自分も佐村河内氏
と共犯者であることを謝罪しました。

今回のゴーストライター問題が,たんなる「騒動」で終わるのか法律的に犯罪性のある「詐欺事件」としての性格
を持つのか,今の段階では分かりません。

ただ,一つだけ確かなことがあります。新垣氏も佐村河内氏側(というのもご本人は,一切マスコミに登場しないので,
実際には代理人の弁護士)も認めているように,今まで佐村河内氏が作曲したとされてきた楽曲は,全て新垣氏が
書いたものであることです。

あるテレビ局が,作曲をしている場面の映像を撮らせて欲しい,と再三頼みましたが,全て拒否されたそうです。
新垣垣氏も,佐村河内氏は「音符を書けない」と明言しています。

もう一つ,佐村河内氏は自分では,35才の時に全く聞こえなくなった,と言っていますが,新垣氏は18年間の打ち
合わせで,「耳が聞こえないと感じたことはない」と明かしています。

この点に関して,佐村河内氏の代理人は,障害者手帳(2級)を見たことがあるので,彼は耳が聞こえない障害者である
と思います,と述べています。

ただし,今のところ,代理人の根拠は障害者手帳を見た,という1点だけです。

ある人は,全聾といっても会話ができる人もいる,と述べていますが,また別の人は,手の指がないとか身体の一部が
動かない,というように,外見からも障害が明かな状況と異なり,聴覚障害の場合,本人が検査時に聞こえないと言えば,
それを確認することはできない,と述べています。

私には,佐村河内氏の言うことの真偽を判定することはできませんが,本当はかなり聞こえていたのではないか,
と判断せざるを得ない状況が幾つかあります。

まず,18年間,一緒に仕事をしてきた新垣氏が「耳が聞こえないと感じたことはない」という発言はかなりの重み
があります。

また,新垣氏は「ピアノで演奏して録音した断片をいくつか聞かせ,彼がいくつか選んだものを基に,私が構成してきた
」と言っています。

これにたいして,代理人は,聞いたのは佐村河内氏本人ではなく,彼の奥さんだったと述べています。しかし,新垣氏から,
聞いていたのは奥さんだったということは一言も出てきません。

もしそうだとすると,曲を選んでいたのは奥さんだったということになります。

次に,今回の問題を『週刊文春』に発表したフリーライターの神山典士氏は,かつて佐村河内氏にインタビューをした
時に感じた“疑念”についてテレビで語っています。

神山氏と佐村河内氏が映像を見ながら話していたそうです。画面の中で人の会話はテロップで文字化されて示されている
のですが,通常,テロップは映像に少し遅れて画面に示されるのに,笑うタイミングは佐村河内氏と神山氏と全く同じだ
ったそうです。

以前,北海道で医師が複数の人間に聴覚障害の診断書を書き,それによって障害者手帳が発給された事件が実際にありました。
障害者手帳だけでは,真偽のほどは確認できません。

これ以上は推測の域をでないので,この問題について私の判断を下すことは差し控えます。私が関心をもっているのは,
不振が続くクラシック業界の今日,佐村河内氏「作曲」とされる『交響曲第一番 HIROSHIMA』が,何と発売以来
18万枚を超す売り上げを記録しているという事実です。

それでは,なぜ,この曲のCDがこれほど売れたいのでしょうか? これを検討する前に,純粋に音楽として専門家は
どう評価して
きたのかをみておきましょう。

あるクラシック音楽関係者は「有名な曲をつなぎ合わせるなど新鮮さに欠けたが,被爆二世であることを考えると表だった批判は
しにくかった」と明かしています。(『東京新聞』2014年2月7日)。

こうしたコメントにも現われているように,音楽専門家の間では,世間で絶賛された『HIROSHIMA』は,楽曲としての評価
が高いとは言えませんでした。

しかし,彼らの間でも批判しずらかったのは,佐村河内氏にまつわる,幾つかの「物語」のためだったことが分かります。

それでは,どんな「物語」があり,それらはどのようにして作り上げられてきたのでしょうか。

まず,「被爆二世という物語」。『HIROSHIMA』の初演(第一,第三楽章)は,2008年9月に広島市で開かれた
主要八カ国下院議長会議の記念コンサートでした。

この時,『HIROSHIMA』が演奏されたのは,作曲家とされる佐村河内氏が広島生まれの被爆二世だったからです。

この曲は,原爆投下後20分間の広島の状況を表現したもの,と説明されてきました。しかし,この曲は,これに先立つ
数年前に「現代典礼」というタイトルで新垣氏が作曲したものです。

しかも,最初に作曲されて何年も世に出ることはなかったのに,突然,『HIROSHIMA』というタイトルで復活して
驚いたと新垣氏は語っています(同上)。

ここで,「被爆二世」という生い立ちが,「ヒロシマ」という世界史的な悲劇の「物語」と合体したのです。

次は,「現代のベートーベン」という「物語」です。人々は佐村河内氏を,聴力を失いながらも世界的な名曲を残したベー
トーベンに重ね併せたのです。

耳が聞こえない佐村河内氏がどのようにして「音」を獲得したかについて,テレビ局の取材に応じた佐村河内氏は,身振り
手振りを交えて「音が降りてこようとするのに,頭の内に岩の壁があり,それが邪魔をしています。

その岩の壁の隙間をみつけて,かろうじて降りてきた音をひろってゆきます」というような説明をしています。

そしてテレビカメラのまで頭を壁にぶつけて,その苦悶と闘う様子を表現していました。こうして,佐村河内氏には
「現代のベートーベン」というもう一つの「物語」が付け加えられます。

これらの「物語」はさらに,佐村河内氏が東北の被災地への慰問のための訪問をしたことで,その風貌と合わせて救世主的
なイメージによって補強されてゆきます。

この時,東日本大震災で両親を失った宮城県の少女と対話して、心を通わせる、という美談が、「心の奥に深い悲しみを持
った人間同士」の魂の交流を演出し,感動を誘いました(注1)。

佐村河内氏にまつわる,こうした全ての背景や言動が創り出す「物語」に,私たちは共感したのではないでしょうか。

ところで,今回,突如として浮上したかに見える,ゴーストライター拒否宣言の背景には昨年来の経緯があります。

昨年の5月,ピアノの楽曲を提出したさい新垣氏は「これ以上はできない。もうやりたくない」と伝えましたが,
佐村河内氏から,「あなたが曲を書かないと私は自殺する」と告げられたと語っています。

この発言が本当だとすると,佐村河内氏は自殺をほのめかして脅迫しているようにさえ聞こえます。

また,新垣氏が演奏の指導をしてきた義手の少女の父親は,佐村河内さんが少女に「絶対服従を前提とした要求」
をしたため絶縁状態になったと語っています。

このような事実を知ると佐村河内氏のイメージはかなり変わってきますが,マスコミも一般に日本人も,なぜ,
彼の嘘を見抜けなかったのでしょうか。

正直に言うと,私自身,昨年3月31日に放送されたNHKスペシャル「魂の旋律~音を失った作曲家~」を見て,
素直に感動した一人です。

この映像をみて,私の頭の中には「被爆二世の天才的・哲学的作曲家」という「物語」がすっかり出来上がってしまい,
全く疑問は持ちませんでした。

私の中に,”NHKが長期取材をしたドキュメンタリーなのだから事実に違いない”という,「NHK」という
「物語」が確実にありました。

こうして,「現代のベートーベン」という「物語」は「NHK」というもう一つの物語によって補強されたのです。

今になってみると,長期取材をしたNHKの関係者は,佐村河内氏が全聾であることに,本当に何の疑いも持たなかった
のだろうか,というかすかな疑問さえ湧いてきます。

人は,一旦,ある「物語」を受け容れてしまうと,それを疑わなくなる傾向があります。こうして我が家にも
『HIROSHIMA』のCDが鎮座しています。

ただ,彼の奥様の母親は「ウソ」を見抜いていたようです。

テレビ画面に何度も映った,佐村河内氏が,『HIROSHIMA』のイメージを書いたとされる指示書を見た母親は,
「これは娘の字です。いつか嘘が世間にばれるに違いないと思った」,と語っています。

あのイメージさえも本当は奥様のものなのかもしれません。

今回の騒動を通して,私たちの行動を突き動かしているのは,「事実」よりはむしろ「物語」なのではないかという
印象を受けました。

一方,佐村河内氏彼自身,世間で出来上がってしまった「現代のベートーベン」という「物語」が日を追って大きく
なってゆく中で,それを否定することはできず,むしろそれを補強する言動を強めてゆきました。

私は佐村河内氏を責めるつもりはありません。これは,私も含めて誰もがもっている人間の弱さかも知れません。

共犯者は新垣氏だけでなく,マスコミやジャーナリズム,CDを発売した音楽会社,そして私たちみんなが共犯者として
「佐村河内守という物語」を創り上げることに加担し,そして信じたのではのではないでしょうか。

今回の一連の問題を通して,「物語」のもっている影響力の大きさと,重要性をつくづく感じました。これについては
次回にもう少し一般的な問題として考えてみたいと思います


(注1)  http://www.huffingtonpost.jp/hiroaki-mizushima/post_6818_b_4742131.html

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幸せのかたち(3)-ワイル博士の「自発的幸福」を手掛かりにして-

2014-01-20 05:20:32 | 思想・文化
幸せのかたち(3)-ワイル博士の「自発的幸福」を手掛かりにして-


今回は,アンドルー・ワイル博士の『うつが消える こころのレッスン』角川書店 2012年(原題は Spontaneous
Happiness 文字通りの意味は「自発的幸福」)を手掛かりに,「自発的幸福」について考えてみたいと思います。

ワイル博士は,アメリカの医学界の大きな影響力をもったリーダー的な存在です。

彼が目指す医療は,従来の西欧医学の特性である生物学的医学(実験や科学的分析に基づく医学)と,いわゆる東洋
医学などの伝統医療,そして心と身体の深い繋がりを統合する「統合医療」です。

統合医療については別の機会にくわしく検討しますので,今回は「幸せのかたち」を,心と身体の健康を基礎とした
「自発的幸福」という観点から考えてみたいと思います。

まず,「自発的幸福」という言葉の「自発的」という言葉についてワイル氏は,医療における「自発的治癒」という
概念と対応させています。

つまり,人体は生まれながらに保守管理し,修復し,再生し,損傷や喪失に適応する能力をもっています。

このような能力が発動されるプロセスこそが「治癒」ということの本質で,それは外部からの干渉によって生ずる
のではなく身体の内部からの自然な対応という意味で「自発的」と呼んでいます。

ワイル氏は「治癒」(heal)と「治療」(cure)とをはっきり分けて考えています。「治癒」とは上に述べたように,
人間に本来備わっている,自分で体の保守管理と修復する内側からの「自発的」プロセスです。

これに対して「治療」は,手術や投薬など外部からの医療的介入です。つまり,治癒は自然の現象であり,外界の働
きかけから独立して,内部の要因によって生じてくるものなのです。

同様のことは「幸福」についても言えます。ワイル氏は「幸福」を,「外部の要因に依存する肯定的な感情」という
従来の解釈ではなく,自らの内側から起こってくる「自発的」な感情であると考えます。

しかし,ヨーロッパには,「幸福」とは,そもそも偶然に外から与えられた「幸運」であると見なしてきた伝統が
あると言います。

たとえば,英語で「幸福」を表わす happiness の語源は古代スカンジナヴィア語で「偶然」や「運」を意味する
ハップ(happ)から派生しています。

この意味では,ハプニング(happening)という言葉が,最もその本質を物語っています。

英語の古語では,happily が「偶然に」という使われ方をしたことも,このような古くからの観念を表わしています。
(『英語語源辞典』研究社,2010: 620ページ)

ちなみに,ゲルマン語系(英語も広い意味ではゲルマン語系)のドイツ語やオランダの「幸福」は幸運(英語のラッ
キー)に相当する(Gluck, Geluk) で,やはり偶然の「幸運」という意味です。

ヨーロッパ人の通念には,「幸福」の基礎は「幸運」にあり,その幸運は人間が制し切れるものではないし,個人の
意志によってではなく,周囲の状況次第で決まる,という観念が心の奥底にあるようです。(ワイル 同上書:
17ページ)。(注1)
 
賭けに勝つというような,「幸運」の到来によってもたらされる「幸福」はあくまでも一時的なものにすぎません。

それでも,多くの人が幸福を「どこか外に」求めているのも事実です。その人たちは昇給,新しい車,新しい恋人
など,欲しいけれどなかなか手に入らないものを手にいれたら幸福になれるだろうと思い描いています。

このように,何か欲しいものを手に入れることによって得られる喜びを,ワイル氏は「満足」と呼びます。

しかし,一時的ではない持続する幸福にとっては,満足よりも「知足」(足を知る)と「静穏」こそが重要で,
それによって得られる幸福感が心の「ウェルビイング(wellbeing) =安寧」です。

では,この「知足」と「静穏」はどのようににしてもたらされるのでしょうか?少し長くなりますが,大切なところ
なので,引用しておきます。

    ものごとがうまくいっているときも,いっていないときもだが,わたしはたまに一種の深遠な気づきを得る
    ことがある。

    全ての成りゆきは「あるべきように」なされているのだ,眼前に展開している状況への,わたしの見解の方が
    的はずれだったのだという気づきである。
 
    それに気づいたとき,私のこころは解き放たれる。そのときわたしは感情の平均海面あたりにとどまり,
    そこにいることに大いなる安心を感じることができる。(ワイル,同上書,26-27ページ)

ここで「感情の平均海面」とは,絶望と苦悩を一方の極とし,至福状態を他方の極とした時,その中間の状態,気分の
ぶれのない中立的な状態をいいます。

こうして,自らの「いたらなさ」「未熟さ」「誤り」を知り,全ての成り行きは「あるべきように」なされているのだ
と受容することが「安寧」の境地にいたる道だというのです。

ワイル氏は,「安寧」によりネガティブ(否定的)な感情をポジティブ(肯定的)な感情に変えることができる,
と主張します。

このような考え方は,西欧医学の医師の言葉というよりむしろ,以下に紹介する仏教の僧侶の言葉のように響きます。

鎌倉の一法庵住職の山下良道氏は『東京新聞』(2014/01/18)で,「身体通し心配を手放す」という記事を寄稿してい
ます。要約すると次のような考え方です。

私たちの心の安寧を乱す要因の一つが「心配」です。これは「何かに対する心配」というかたちをとります。たとえば
健康,将来の生活,仕事の正否などが対象となります。

この時私たちは,「心配の対象」が自分の苦しみの原因だと思ってしまいます。だから必死でそれをコントロール
しようとしますが,
世の中のほとんどのことこはコントロールできません。その結果,もう心配が止まらなくなります。

しかし,仏教では逆に,あなたの本当に苦しみの原因は「心配の対象」(健康,将来の生活など)ではなく,「心配その
もの」だというのです。

したがって,苦しみの本当の原因である「心配を手放す」ことこそが,苦悩から逃れる方法ということになります。

では,どうしたら「心配を手放す」ことなどできるのでしょうか?そのもっとも有効な方法として山下氏は身体の微細な
感覚をみることを勧めます。

仏教瞑想の指導者だけでなくセラピストの関心も,この点に集まりつつあるようです。

具体的な一つの方法として次のようなことを紹介しています。

   目をつぶって,手のひらを膝の上に置きそれを感じてみよう。最初は何も感じられず,心は明日の重要なミーティング
   の心配を始めるかも知れない。
   そのことに気づいたら,また手のひらに戻ろう。だんだん不思議なことが起こってくる。最初は手のひらの表面がぴり
   ぴりし始め,さらに手のひらの奥で微妙なエネルギーが動き始める。その流れはやがては微細な感覚の海となる。
   その海へ飛び込んでみよう,そのとき,われわれの思考も,心配を始める一切のネガティブな感情も,自然と止って
   いるだろう。

ワイル氏は,呼吸法の重要性を強調しますが,いずれにしても,大事なことは,従来の西欧医学が軽視してきた,心と身体の
相関性や不可分性こそが,現代医療が遅ればせながら注目し始めた領域です。

西洋医学の医師と仏教の僧侶とが奇しくも同じことを言っていることも象徴的です。最後に,ワイル氏が指摘している,
幸せになるための重要なヒントを紹介しておきましょう。

彼が示すヒントとは,他者に親切に,他者のために何かをする利他的行為です。これにより私たちは深いところで持続的な
幸福を感じ,心身の健康を高め,結果として死亡率まで減らしてくれることを示す幾つかの報告があります。

医学的にはこのような他者のために何かをすることで脳の快楽中枢が活性化することが分かっています。以下に,幾つかの
報告を紹介しておきましょう。

3000人超のボランティアを対象とした調査(おそらくアメリカで)によれば,持続的にボランティア活動をしている人
の健康度は,していない人より10倍も高いことが判明したという。

また,他の研究者は,55才以上で,二つ以上の組織でボランティア活動をしている人は,何と死亡率を44%も低下させ
る可能性があるというデータを得ています。

さらに,2000年に発表された「社会資本基準調査」によると,調査対象となった3万人のうち,時間かお金を寄付した人は,
しなかった人よりも42パーセントも幸福度が高いことを報告しています。

他者を助けるという行為は,幸福度を高めるだけでなく,健康を増進させ命をも長引かせる絶大な効果があるようです。
(ワイル,同上書,252-253ページ)

ちなみに,私が現在所属する明治学院大学はキリスト教系の大学で,建学の精神は,「他者のために尽くせ」(Do for Others)です。
私自身,実践できているかどうか分かりませんが,この言葉は,いつも心の中にはあります。


(注)ラテン語グループでは,イタリア語の「幸福」に相当する語は falicita で,これは英語の felicity と同様,ラテン語の
   felicittem に由来し,語源的には「天からの恵み」を意味します。この意味では,やはり,幸福は外からやってくるという
   観念があったようです。(『英語語源辞典』研究社,2010より)
   ただし,同じラテン語グループのフランス語で「幸福」は bonheur (文字通りの意味は bon=良い,huer=時),つまり
   「良い時間」で,他の言語圏と少し異なります。
   ちなみに,日本語の「幸せ」は,本来「しあわせ=仕合わせ」の当て字で,「することが合う」つまり,タイミングが合う
   ことです。また,古くは「さち」(「幸」も当て字)は,
   狩猟や漁猟で得た獲物を指します。猟には偶然や幸運がつきものですから,「さち」もやはり「幸運」と同様だと思われます。
   (杉本つとむ『語源海』2005:304ページ」

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幸せのかたち(2)-「巡礼」 本当の自分と出会う心の旅-

2014-01-14 06:27:03 | 思想・文化
幸せのかたち(2)-「巡礼」 本当の自分と出会う心の旅-

巡礼」というテーマには,“歩みを一旦止める”という点では前回の「途中下車」と共通するところがあります。

「巡礼」とは本来,宗教的な聖地への旅を指しますが,ここではもう少し広く,たとえ宗教的でなくても,個人にとっての

“聖地”や精神的な目的の旅も含めることにします。

「巡礼」という問題を考えたきっかけは,今から20年以上も前のことですが,小学校の教師をしているオランダ人教師と
の対話からです。

私は,このオランダ人教師の家に荷物を置かせてもらい,ノルウェーから地中海の一部,アドリア海まで,一ヶ月半ほどか
けてヨーロッパを北から南へ縦断する一人旅をしました。

旅の間,他に話す人もない時間がほとんどで,いつも自分と対話するしかありませんでした。

当時私は,かなり深刻な問題を抱えていましたので,旅の間中,ずっと,自分自身と対話し,それまでの人生を振り返ったり,
今後のことを考えていました。

旅から再びオランダに戻り,オランダ人教師にこの旅の話をしたところ,

“あなたはこの家から旅を始め,そしてまたここに戻って来た。今回の旅はあなたにとって「巡礼」だったんだね”と言いました。

このヨーロッパ縦断の一人旅の前まで,私はこんなに長くそして真剣に自分と向き合ったことはありませんでした。

その後で,彼は友人の「巡礼」の話をしてくれました。私と話した当時,この教師の友人はオランダからスペインの有名な聖地
(場所は忘れました)へ徒歩で向かう「巡礼」の途中でした。

彼はとりわけ宗教心が厚くそのために聖地の巡礼に出たわけでなく,一つの目的地としてスペインの聖地を選んだだけのようです。

彼は旅先から,時々,友人に絵はがきを送っていたので,絵はがきをもらった人たちは,彼が今(といっても絵はがきが届くのは
数日後ですが)どこで,何をしているのか分かるようになっていました。

今なら,インターネットや電子メールを使ってリアルタイムでコミュニケーションをとることができますが,絵はがきという古典的
な方法も,巡礼という状況を考えると,むしろ似合っているような気もします。

しかもこの旅は,野宿中心の,ほとんど無銭旅行に近い極貧の旅のようでした。実は,このような極貧の旅をすることは,若者の間
では決して珍しいことではないようです。

実際,この話をしてくれたオランダ人教師自身も似たような旅を経験したとのことでした。

彼は大学を卒業後,オランダからイギリスに渡り,イギリスの中を徒歩で歩き回ったそうです。

彼の場合も,ほとんど野宿をしながらの貧乏旅行で,農家の軒下で夜を明かしたり,庭になっている未熟な果物を食べてお腹をこわしたり,
それはひどい状況だったそうです。

ヨーロッパでは,日本のように大学卒業と同時に就職するとは限りません。まして,大学生が3年次の終わりから“就活”を始め,
4月の1日に一斉入社式を行う,といった日本ではおなじみの慣行はありません。

もちろん,大学卒業後すぐに就職する人もいますが,しばらく,いろいろな人生経験をする人も少なくありません。

この教師に,何のためにこんな苦しい旅をするのか,と尋ねたところ,この友人は,“本当の自分に出会うための巡礼みたいなものだ”
と答えました。

最初のうち,「巡礼」という言葉の意味が良く分かりませんでしたが,話しているうちに少しずつ分かってきました。

彼によれば,こういう「巡礼」は,大学を出て社会に入る前に,もう一度自分自身を見つめ直すため,“本当の自分に出会う”ための,
いわば“こころの旅”だということです。

状況は全くちがいますが,“本当の自分に出会うため”という言葉は当時の私の心に,とても自然に受け容れられました。

というのも,この一人旅を考えたころ私は深刻な問題を抱えて悩んでいました。そこで,気分を変えるくらいの気持ちで旅に出ること
にしたのでした。

もちろん,旅に出たからといって問題が解決したわけではありませんが,心の整理がついて,かなり気持が軽くなっていました。

後から思えば,あの一人旅は,やっぱり彼が言うように「巡礼」だったんだと納得しました。

私には,比較的最近に経験した「巡礼」があります。それは,長い間の念願だった,四国の「お遍路」をしたことです。

これは本来の宗教的な「巡礼」と言えるかもしれません。

この時は,わずか1週間という短い旅でしたが,お遍路姿に身を包み,“歩き遍路”として最初から最後まで歩いて,
お寺を巡りました。

それぞれのお寺では,まず空海(弘法大師)を奉った「大師堂」で「般若心経」を唱え,次に本堂でもう一度「般若心経」
を唱えます。

私が夕方,あるお寺にたどり着いた時,本堂の周囲を一人の60才くらいの巡礼者が本堂の周りをゆっくりと歩きながら
朗々と「ご詠歌」を詠っていました。

彼の声は,辺りが赤く夕日に染まる静寂の中でひときわ美しく響き渡り,私は深く感動しました。彼は1年かけて八十八個所
のお寺を巡ると言っていました。

最初のうち「大師堂」の前で「般若心経」を唱えるとき,あまり声を大きく出すことができず,恥ずかしさもあって,小声で
唱えていました。

しかし,回を重ねるうちに,だんだんと声が出るようになりました。そして,次第に,「祈り」の世界に入り込んでゆきました。

私は普段はそれほど信仰心がある方ではありませんが,それでも,こうしてお経を唱えていると,無心になり,何とも
すがすがしい,大げさに言えば至福の気持ちになります。

お遍路をしていると,色々な人たちと出会います。辛い状況にあって救いを求めやってきたと思われる人もいるし,何か精神的
なものを得ようとして来ている人もいます。

バスを仕立てて団体を組んでやっている人,マイカーで回っている人,さらには自転車で回って居る人もいます。

しかし,基本はあくまでも「歩き遍路」だと思います。

自分の足で歩いてお寺にたどり着き,そこでお経を唱えると,仏教徒ではない私でも,不思議と心が少し浄化される思いになります。

お遍路をしていて気が付いたことがありました。それは,普段の生活の中で,自分は「祈り」という行為から本当に縁遠くなっていた
ということです。

巡礼とは,その期間や距離が長くても短くても,一旦,日常生活を止めて自分を見つめ直すという意味で,やはり精神的な
「途中下車」でもあります。

言葉にすると,「自分を見つめ直す」,「自分と対話する」,「本当の自分と出会う」という表現になり,ちょっと格好を付け
すぎの感じもします。

しかし,忙しく,心配を抱えて,心がかき乱されることが多い現代社会では,「巡礼」は心の平静さや自分らしさを取り戻す
ために意味のある行為だと思います。

私の経験では,話す相手が自分しかいない一人旅が,「巡礼」に適していると思います。

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幸せのかたち(1)-人生の「途中下車」-

2014-01-09 11:29:42 | 思想・文化
幸せのかたち(1)-人生の「途中下車」-

私が大学1年生の時,偶然に,ある雑誌で「途中下車」というコラムを読んで,深い感動というか,衝撃をうけました。
それは,こんな内容の実話です。

あるアメリカの青年が,鉄道で東海岸から西海岸に向っていました。しかし,途中のある駅で見た夕陽があまりにも
美しかったので,彼はそこで列車を降り,結局その土地にずっと住むことになった,という話です。

この話は,たんなるロマンチックなアメリカ人青年のエピソードとしてではなく,私の人生観の中心的なイメージ
として現在にいたるまでずっと心の中で生き続けています。

ところで,今年(2014年)1月2日の『テレビ東京』で放映された「YOUは何しに日本へ?」という番組で取り上げ
られたドイツ人の若者の話は,上に書いたアメリカの青年の「途中下車」の話とよく似ていました。

正月の2日ということもあって,この番組を見た方も多いと思いますが,見たことがない人のために番組の内容を
簡単に説明しておきます。

これは,番組のスタッフが成田空港の到着ロビーで日本に来た外国人に話しかけ,「あなた(YOU)は何しに日本へ?」
と問いかけます。

その中で,面白そうな外国人に,日本にいる間,密着取材させてもらって良いかどうかを聞き,OKならばテレビ局の
取材スタッフが付いて回る,という番組です。

正月に放映されたのは,2013年度に公開された外国人の話の中から最も興味深かったものを選び,再編集と補足取材
をして,再度放映されたものです。

このドイツ人は成田空港で,「YOUは何しに日本へ?」と問われて,“以前,日本に来て,日本海の夕日を見たとき,
あまりにも美しかったので,もう一度,見たかったから”,と答えました。

しかも今回は,青森で自転車を買い,日本海に沿って西へ西へと走る予定だ,とのことでした。

彼は,幸運にも青森の自転車屋さんで,40年前の売れ残りのマウンテンバイクをわずか5000円で買うことが
できました。マウンテンバイクは彼が欲しいと思ってタイプの自転車でした。

彼は意気揚々と,本州の北の端,竜飛岬から日本海沿いに西へ西へと走り,九州の鹿児島まで行き,そこから陸路と
一部海路を含めて東京まで4000キロの自転車旅行をして帰ってきます。

最後に彼は,未練を残しつつ自転車を番組の取材スタッフにプレゼントして日本を発ってゆきました。

さて今回の記事では,彼の自転車旅行の話を紹介するのが目的ではありません。そうではなくて,彼がなぜ,日本に
やってきたのか,その背景にどんなことがあるのかを考えてみたいのです。

まず,私たちに少なからず驚きを与えたのは,“もう一度日本海の夕日を見たい”,というただそれだけの理由で日本
を訪れ,自転車で旅をしたことです。

確かに,彼が最初に見た夕陽は,とても美しく感動的だったに違いありません。私も,かつて新潟県のある海岸で夕陽
を見たことがあります。

ここは,夕陽を見るの場所として観光名所にもなっています。

太平洋側で育ち今も住んでいる私は,海辺の夕陽を見ることはこれまで数え切れないほどあります。しかし,太平洋
に沈む夕陽は,日本海に沈む夕陽とではどこか違う気がします。

それは多分に,日本海地域の,濃い青色の海の色と澄んだ空気の影響だと思われます。

それにしても,このドイツ人青年のように,夕陽の美しさに惹かれてもう一度,日本を訪れるというのは,なかなか
できることではありません。

今回,再度放映するにあたって,取材スタッフは1年ぶりに彼に会うためにドイツに行き,前回の訪日の時には聞け
なかった彼の思いや,ドイツでの生活について話を聞くことができました。

この青年(27才くらい)は旧東ドイツの都市に住んでいました。彼が取材スタッフに語った内容は,「幸せのかたち」
を考えるとき,さまざまなことを考えさせてくれました。

彼はドイツを出て,まずアイルランドに行き,モスクワに寄って日本に来たそうです。

そして日本を発った後アメリカに渡り,叔母に会うためにカリフォルニアからフロリダまで,やはり自転車を買って
旅をしました。

しかし,その自転車は600キロ走ったところで壊れてしまったそうです。

そして,最後にフロリダからドイツへ戻るのですが,出発から帰国まで4ヶ月の長旅でした。こうい行動は,日本の
同年代の青年には,ちょっと想像できません。

さらに驚くべきことに,彼は今,友人に誘われてバイクでアラスカからカナダ,アメリカを縦断し,南米の先まで旅を
しようかどうか考えている,とのことでした。

こんな話を聞くと,私たちは“彼はどうしてこの大旅行のお金を工面したんだろうか”,とか,“もし仕事をもって
いたとしたら,どうして4ヶ月も休暇をとれたんだろうか”,など日本の現実を考えてしまいます。

ドイツで見た彼は,LEDの電光掲示板のセットやイベントの電飾を担当する技師でした。そして,くわしい話は
しませんでしたが,ある程度お金が貯まったので,職を離れて旅行に出たようです。

日本人なら,帰国した後,再び就職できるんだろうか,こんな生活を繰り返していて,老後はどうなるんだろか,
といった
余計な心配をしてしまいます。

しかし,彼の言葉からは何の気負いも不安も感じられません。ただただ,自分がしたいことをしただけで,何ら特別な
ことではない,という雰囲気なのです。

彼の,これまでの経歴を聞くとさらに興味深いことが分かります。彼は,自分で改造したキャンピングカーで1年間
暮らしていた,と語っています。

その間,生活費はどうしていたのか,彼は語ってくれませんでした。おそらく,失業保険か時々の臨時的な仕事で
生活していたのだろうと推測されます。

それよりも,ただ単純に,そのようなことはごく普通のことで,特に説明する必要がないと思っていたのだろうと思います。

彼には,老後に備えて貯金をしておこうという発想はまるでなさそうです。アラスカから南米への旅を考えていること
からも分かるように,ある程度お金が貯まったら,また休暇をとって旅に出るかもしれません。

こうして,何度も人生の「途中下車」を繰り返しながら,今後も生活していくことになるでしょう。

実際,私のこれまでの海外生活を通して見聞きした経験からすると,彼のように生きる若者ははそれほど珍しくない
からです。

大学2年生の時,友人と3人で中東を3ヶ月ほど車で旅をしたことがあります。確かイラクだったと思いますが,ゾウと
一緒に歩いている4,5人の若者と砂漠の真ん中で出会いました。

彼らはインドでゾウを買い,徒歩でゆっくりドイツまで旅をするんだ,と言っていました。おそらく年単位の旅に
なるんだと思います。

また,オーストラリアに留学中に出会ったある学生は,突然,大学を離れて牧場で働き始めました。彼なりの,
学生という生活からの「途中下車」なのです。

久しぶりに大学の寮に戻ってきた彼は,毎日本を読んだり,芝生の上で昼寝をしたり,ボートを漕いだりして過ごして
いました。彼は,寮に来たのは“リラックスするため”と言っていました。

最近テレビで紹介されたアメリカ人は,たまたま屋久島を訪れて,“島に到着して10分で,この島に永住することを決めた”
と語っています。

現在彼は,屋久島でガイドをして生活しています。

美しい夕陽を見てしまったために,文字通り列車を降りて,その地での永住を決意してしまったアメリカ人青年や,日本海
の夕陽の美しさに惹かれて日本を再訪したドイツ人の若者と同様に,このアメリカ人・ガイドも屋久島という世界に深く心
を動かされて「途中下車」し,この島での永住を決意したのです。

人が「途中下車」をするきっかけは様々ですが,上に紹介したドイツ人やアメリカ人の青年に共通しているのは,夕陽の
美しさや自然のすばらしさに,生き方を変えてしまうほど深く感動する感性です。

「途中下車」の期間は一生に及ぶこともあるし,オーストラリアの学生のように1年くらいの場合もあるし,今回紹介した
ドイツ人青年のように,
数ヶ月単位の場合もあります。

「途中下車」というのは,それまの生活のありようを一旦止めて,自分の人生を振り返り,今後の生き方を模索することです。

欧米の若者は,あまり気負いもなく,外から見ている限りごく当たり前に「途中下車」します。

「途中下車」は,心の余裕と,自分や社会に対する信頼がなければできません。というのも,まず,今まで歩いてきた人生の
コースを一時的であれ,中断しようと思うこと自体,ギリギリの生活に追われていては考えられません。

また,それまでの歩みを中断しても,確実に元に戻れる保障があれば別ですが,それは保障されていません。それでも一旦,
歩みを止めてみようとするには,ある程度,自分に対する自信があるからでしょう。

最後に,自信の有無とは関係なく,「途中下車」をするこうした若者たちは,将来とか老後の生活に関して,あまり心配
していないようです。

それは,社会制度の問題なのか,個人的な楽観的性格なのかは断定できませんが,これらの若者は実に幸せそうに見えます。

こういう「幸せのかたち」もあるんだな,という印象をもちました。

ひるがえって,日本の若者はどうだろうか。何かに感動して,それまでの人生から,たとえ短期間だけでも「途中下車」
することは,大部分の若者にとって難しいでしょう。

これには,一旦職場から離れると再就職は難しい,あるいは老後の生活を社会が保障をしてくれないという,日本の特殊事情
もあるでしょう。

しかし,問題の本質は,そのような事情ではなく,今まで歩いてきた道から,一旦離れてしまうほど,夕陽や島の自然の美しさ
に感動するという感性と,人生の「途中下車」という発想をもっているかどうか,という点にこそあります。

こうした人たちをみていると漠然と,成熟した社会,感性の豊かさ,それぞれの「幸せのかたち」を考えさせられます。

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川から日本を見る(3)-「塩の道」と文化の形成-

2013-11-29 04:58:02 | 思想・文化
川から日本を見る(3)-「塩の道」と文化の形成-


前回の記事では、日本における川の舟運についてその概略を書きました。そこでは、明治期以前(場所によっては大正
初期,さらには昭和初期まで)の日本では川が人や物の運輸交通に大きな役割を果たしていたことを説明しました。

とりわけ、川の舟運は、米や木材のように重いものを大量に運ぶ場合には、不可欠の運搬手段だったといえます。

海から内陸に物資を輸送する場合、人々は、川の舟運が利用できる遡行限界まで舟を利用し、そこからは馬や牛の背
に乗せて最終目的地まで運んだのです。

逆に内陸から海に向かう場合、舟が利用できる場所まで家畜や人間の背で運び、そこで舟に積み替えて下流に向かって
荷物を運びました。

この際、川沿いには幾つもの川の港、つまり「河岸」が発達し、これらは舟運と共に発展してやがて町や都市になって
ゆきました。

今日の内陸都市は、かつては直接間接に、川の舟運と関係し、河岸であった例が少なくありません。

たとえば、阿武隈川中流の福島、北上川上流の盛岡・現北上市・水沢市、利根川沿いの多数の町や都市がそうです。

下の写真は、荒川(または利根川)で使われていた「高瀬舟」(実物大に再建された舟。千葉県立関宿城博物館所蔵)で、
2013年8月に埼玉
県立川の博物館特別展示で公開された)。(注1)

写真 高瀬舟(大型の高瀬舟では1000俵の米俵を積んだ、という記録もある)




ところで、舟運が大きな役割を果たしたのは、米や木材の運搬や人の移動だけではありませんでした。人々の生活に
とっては、塩こそが絶対に欠かせない生活物資でした。

塩は生物としての人間にとって必要不可欠の物質であることは太古の昔から現代まで変わりません。アフリカでは
あの広大なサハラ砂漠を横断し、内陸のヒマラヤ山地のネパールやチベットには、はるばるインド洋から舟と家畜の
背で塩が運ばれました。

事情は日本でも同じです。岩塩が採れない日本では、内陸に住む人たちは海で作られた塩を手に入れる必要があります。

冷蔵庫の無かった時代に、野菜や魚などの海産物を保存するには、乾燥させるか塩漬けにするしか方法がなかったからです。

とりわけ、冬に野菜が採れない寒冷地では、春から秋にかけて収穫した野菜を塩漬け(漬物)にして冬を乗り切らなければ
なりません。

戦国時代に、今川氏と北条氏の経済封鎖で太平洋側からの塩を絶たれて困っていた武田信玄に、それまで敵対していた
上杉謙信が日本海の塩を送って助けた、「敵に塩を送る」という故事にもあるように、塩が絶たれると、人々の生活は成り
立たなかったのです。

そこで、人々は万難を排して、生活必需品である塩を手に入れようとしたのです。他方、沿岸で塩の生産をしていた地域
では確実に売れる商品として、塩の販売ルートを開拓してきました。

下の図1は富岡儀八『塩の道を探る』(岩波書店、岩波新書 1983年)より、図2は平島,裕正『塩の道』(講談社 1975)
引用した全国の「塩の道」の概略図です。

これらの図からも明らかなように、「塩の道」は全国に張り巡らされ、とりわけ内陸奥深くまで塩が川の舟運が利用されてい
たことが分かります。

図1 全国塩の道図(北海道を除く)





言うまでもなく、「塩の道」は、塩だけを運んでいたわけではありません。川を上る舟は塩以外にも前回紹介した、京都の
ひな人形や雑貨が最上川を上って運ばれたように、衣類や様々な加工品なども運ばれました。

ここで、興味深いのは、関東以西の「塩の道」と、いわゆる主要街道との関係です。たとえば、関東から西に向かってみて
みると、川はおおむね南北に流れています。これが、ほとんど「塩の道」となっていました。

ところが、東海道と山陽道は「塩の道」を直角に貫いています。川をそのもの、あるいは川と連結した「塩の道」は生活に
必要な物資や商品を運ぶ「民衆の道」だったのです。

これにたいして、江戸時代に整備された街道とは、主要な都市と都市を最短距離で結ぶ道で、主に政治の中心であった江戸
の幕府権力が地方を支配するために作った、「権力の道」「政治の道」でした。

ただし、関東から東の阿武隈川、北上川、最上川などは南北に走る脊梁山に沿って南北方向に流れており、これらの河川
では、「民衆の道」「生活の道」としての「塩の道」と「権力の道」とは機能的に重なっていました。

もっとも、全ての「塩の道」が川の舟運を経由していたわけではありません。舟が使えない浅くて小さな川しかないところ
では、人や物の運輸交通は陸路を使わざるを得ませんが、その場合でさえ、できる限り川筋に沿って道が作られていました。

なぜなら、川筋というのは山間部のもっとも低い場所を流れ、登り降りがもっと少ない、という地理的に有利な条件がある
からです。

こうした陸路も含めて、ここでは「川の道」という考え方も採用します。

「塩の道」は、物だけでなく、文化や宗教も伝えました。というのも、物が動くときには人も一緒に動いていたので、言語、
風俗、習慣、宗教、広い意味での文化なども伝わったからです。

たとえば、利根川と荒川の流域に現在までも継承されている大杉神社信仰をみてみましょう。

茨城県稲敷市阿波に大杉神社があります。ご神体が大着なすぎの木であることからこの名が付きました。

伝承によれば、「神護景雲元年(767年)、大和三輪で修行を終えて故郷の二荒山に向かう途中の勝道商人の勝道上人が,
疫病に苦しむ当地の惨状を救おうと巨杉に祈念しとところ,病魔を退散させた」。

これより以後,大杉大明神として祀られることになった。この大杉は霞ヶ浦や北浦を航行する船からもよく見えたため,船乗り
のランドマークにもなり,大杉神社は船乗りたちの航海安全の神として広く信仰を集めるようになりました。

各地からの人や物が往来する水路は物流の根幹であると同時に,疫病の伝染経路でもありました。大杉神社はやがて航海安全と
疫病退散の神として,舟運関係者によって利根川水系を中心に荒川・新河岸川,鬼怒川,渡良瀬川,久慈川,那珂川の流域全体
にひろまっていったのです。

現在でも,大杉神社信仰の勧請地は関東北部の河川流域に存在しています。興味深いのは,大杉神社信仰の伝播にあわせて
「大杉囃子」という芸能も広まったことです。

この囃子は元和年間(1615~1623年)に,十二座神楽とともに「悪魔払いの囃子」として紀州から伝えられたとの伝承があり、
現在でも大杉神社信仰がある幾つかの場所では,村を廻る厄払いのお囃子が祭りとして行われています(注2)。

これは,舟運を媒介として信仰と芸能がセットになり,流域文化を形成していった好例です。次に、方言や信仰の分布と河川
交通との関係を見てみましょう。

越中(現在の富山県)の方言は、隣接する越前(福井県)や越後(新潟県)よりも岐阜県の飛騨地方と同様の方言が多いのです。

また、信仰面でも、越後に信州戸隠山への信仰が伝播し,戸隠講が広く分布するが,越中では地元の石動山,立山への信仰が篤く,
戸隠信仰の分布はありません。

越中・加賀と飛騨・美濃方面との間には神通川その他多くの南北流する河川があり、越後と信州との間には信濃川をはじめとして
幾つかの河川が両地域とを結んでいて、民俗文化分布の諸相に行政区画とは別の地域の系統の境界線を形成させた重要な要因とな
ってきたことがわかります。(注3)

また、天竜川中・下流域では、南信州・愛知県東部、静岡県西部が一つの文化圏をなしており、そこでは方言も共通し、「花祭り」
という古来からの神事も共通しています。

このような例はたくさんあります。こうした事例から、近代以前の日本では川舟や川に沿って作られた道がヒト・モノ・文化の
移動と伝達の手段となって、長い年月をかけて地域文化が形成されてきたことが分かります。




(注1)「高瀬舟」の大きさは、全長が25メートルから30メートルほどです。なお舟の名称は場所によって異なります。「高瀬舟」の他に、
    同規模の舟としては「ひらた舟」などもある。
(注2)埼玉県立川の博物館『和船大図鑑~荒川をぐなぐ舟・ひと・モノ』2013年:26-27ページ。
(注3)北見,俊夫 1981 『川の文化』(日本書籍 1981)(205-6)

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川から日本を見る(2)-川の舟運ネットワーク-

2013-11-23 08:45:04 | 思想・文化
川から日本を見る(2)-川の舟運ネットワーク-


私はここ数年、「流域文化圏形成」という研究テーマを追いかけています。これは、日本の地域文化がどのように形成され
てきたのかという問題です。

日本は、単一民族による単一文化圏であるという、非常に大ざっぱな言い方をするときがあります。もし、日本語を共通語
とする、という意味でなら、そのような言い方も可能かも知れません。

また現代は、文化も情報もテレビやラジオ、インターネットが全国を覆っているので、あたかも日本全体が文化的に一枚岩
であるかのような印象さえもちます。


しかし、日本語という言語的な共通の被いを取り除いてみると、その下には多様で豊かな地域文化圏が幾つも息づいている
ことが分かります。

ここで「文化圏」とは、共通の文化を共有するゆるやかな地域というほどの、漠然とした概念です。たとえば、関西文化圏
とか、東北文化圏といった文化圏が考えられます。

もっとも、実際には、一口に「東北文化圏」といっても、青森県と、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県などでは、
それぞれ独自の文化をもっています。さらに、たとえば同じ山形県でも山形市周辺と、最上地方とではやはり違いがあります。

こうして細かく見てゆくと、地域文化圏というのは、県単位よりずっと狭い範囲まで分かれてゆきます。

私の関心は、それぞれの大小の文化圏はどのようにして形成されてきたのかという問題です。通常、文化に関する研究は、
すでに存在する文化を与えられたものと考えて、その特徴なり構造を解明することに焦点が当てられます。

ここでいう「文化」とは、茶道とか能とか日本画などの高尚な文化ではなく、人々の日常生活の中での食べ物、方言、祭り、
行事、習慣など民衆の文化を指します。

こうした民衆文化に関しては、はっきりとした起源などはわかりにくいため、どのようにして、ある文化が形成されてきた
のか、という歴史的な問いかけがなされることはめったにありません。

ただし、日常生活のうち、衣食住などの生活文化の多くは、それぞれの地域の自然(気候)条件によって大きく左右されます。

たとえば、北海道や東北地方と九州や沖縄とでは、気候の違いによる衣食住の違いがあります。

もちろん、地域文化の形成がすべて自然条件によって生まれたわけではありません。それは、人の移動や活動によって歴史的
に形成されるものでもあります。

つまり、ある地域の文化は、周囲からまったく孤立しているのではなく、人の行き来を通じて、他の地域とも何らかの影響を
受けたり与えたりしながら形成されてくるものなのです。

以上の、事情を考えると、文化の形成には人々の移動のルートや方法が大きく関係していることが分かります。

現代は、道路(車)、鉄道、さらには飛行機がヒト、モノ、情報の移動の主要な手段になっており、このことが、日本の文化
状況を、均一化へ推し進めています。

さらに、近代の日本は、東京圏、中京圏、阪神圏など、海に近い沿岸都市圏を中心に発展してきたため、沿岸部は先進地域、
そして内陸部は人々の動きから取り残された「後進地域」と考えられがちです。

しかし、現在の地域文化が形成された近代以前には、人は陸路を徒歩や馬に乗って移動するか、舟(船)で移動するしかあり
ませんでした。

今回は、河川の舟運を中心とした河川ルートに焦点を当て、ヒト、モノ、情報の移動について考えてみます。

河川ルートは、文字通り川舟(船)で、またある時は川に沿った陸路で、あるいは、最も一般的だったのは、川の舟運を利用
できる最上流まで舟で、そこから先は陸路で人や荷物で移動したのです。

現在の河川、とりわけ東京から西にある河川は、途中で発電や農業用水、工業用水、飲料水のために水を取られてしまっています。

さらに深刻なのは上流の森林が荒れているので、降った雨が直ちに海へ流下してしまいます。このため、平常時の河川では、
表面を流れる水は非常に少なくなってしまっています。

江戸時代には、「越すに越されぬ大井川」と言われた大井川でさえ、現在では見る影もありません。現代では、関東以西の本州の
河川の本流は、河床の下を流れる伏流水だと言われるほどです。

しかし、江戸時代と明治期くらいまで、ある程度の規模を持った河川では、程度の差はあっても、ほとんど舟運が利用されてい
たのです。

そして、舟運が行われていた河川では、川の港、つまり「河岸」が整備されていました。

川の舟運は、以下に触れる北上川の例に見られるように、江戸時代よりはるか昔から行われていました。

しかし、江戸時代になると、物の生産と流通が盛んになり、河岸が整備され舟運が組織的に運営されるようになりました。

また、江戸には各藩から幕府への年貢米、あるいは江戸屋敷の維持管理に必要な財政を賄うために大量の藩米が江戸に送
られました。

米は馬の背に乗せて運ぶこともできましたが、1頭の馬はせいぜい2俵(1俵は約60キロ)しか運べません。

したがって、年間に何万俵もの米を馬だけで運ぶことは、膨大な数の馬と馬子が必要となり、これは、不可能ではないにしても、
輸送コストと期間がかかりすぎ、現実的ではありませんでした。

また、建築資材の木材を運ぶには、遠く山から陸路で牛馬に引かせて運ぶことは事実上無理でした。

これにたいして、船がもつ輸送力は比較を絶して大きかったのです。米を川舟で運ぶ場合、100俵くらい(馬50頭分)は無理
なく運べたし、木材も筏流しと組み合わせて山から下流へ運ぶのがもっとも速くコストも安かったのです。

こうして、川の舟運が利用できるところまでは陸路で運び、そこからは舟で運ぶという陸路と舟運との組み合わせが、日本全国で
発展してゆきました。

舟運のその大ざっぱなイメージを描くために、まず、今回は江戸時代の東日本における河川の舟運と陸路とのネットワークを、
小出博『利根川と淀川』から引用します。

(地図をクリックすると拡大図になります)




この図からもわかるように、東北日本ではかなり多くの河川で舟運が行われていました。とりわけ注目に値するのは、今日、内陸都市
と考えられている都市がかつては舟運の主要な拠点としての河岸であったという事実です。

たとえば福島は、阿武隈川流域ではもっとも古く大きな港まちであったし、「杜の都」、といわれた盛岡は北上川上流部の最大の河岸
でした。

そして、現在でも、盛岡市内では川幅いっぱいに水が流れています(写真参照)




北上川に関しては、中流から下流にかけての河岸や航行に必要な情報が描かれた絵図(江戸時代)が今日も残されています。(注1)

注目すべきは、、平安末期から鎌倉初期にかけて、日本で三大都市の一つとして繁栄を極めた藤原三代の拠点都市、平泉も北上川の
河岸の一つだったという事実です。藤原氏は、平泉から北上川を上って東北の奥地から北海道、そして直接間接にシベリア大陸との
交易をしていとこと、またまた北上川を下って、太平洋に出て、京都、博多、そして宋との貿易もしていたことも最近の考古学的調査
で分かってきました。

次に、当時は日本で最大の人口を抱えた江戸と地方との交通運輸を支えた利根川を例に見てみましょう。下の地図(小出博『利根川
と淀川』より引用)には利根川水系の河岸の所在を示しています。

これで見ても分かるように、利根川は渡良瀬川や鬼怒川、そして江戸川などの支流や分流に主なものだけでも200近くの河岸があったのです。






江戸時代にも100万人の住民を抱えた江戸は、その人口を養うために膨大な物資を日本全国から集めていたのですが、その重要な交易は
利根川の舟運なしには考えられません。


利根川の本流の最も上流にある河岸は沼田で、そこから峠を越えると越後の国に到達しました。他方、信州との交易路としては、高崎城の
外港であった、倉賀野が遡行限界でした。

江戸から信州へは、ここで荷物を下ろし、馬や牛の背で碓氷峠を越えて、塩尻まで運ばれました。

逆に信州から江戸へは碓氷峠を越えて倉賀野で荷物を船に移し、利根川と江戸川の分岐点である関宿または境から江戸川に入り、行徳から
舟堀川と小名木川を経て隅田川にはいり、江戸市中の無数の運河や堀割に運ばれました。

時代劇などで、掘り割りに面して建ち並ぶ店や倉庫の光景がよく出てきますが、それはこのように長旅を経て江戸に到達した荷物の積み
下ろしをしていた河岸だったのです。

次に、支流としては渡良瀬川と鬼怒川が主要な川で、これらの河川を通じて東北南部の物産(特に米と木材)が江戸に運ばれました。

さらに、東北の沿岸地域からは、銚子から利根川を上り、関宿か境で江戸川を下り、上に述べたルートに従って江戸市中に入ったのです。
1671年には、東北から直接に江戸湾に入るルートが河村瑞賢によって開拓されますが、銚子沖を通過することが危険だったので、利根川
経由の河川舟運は後まで存続しました。

江戸には河川だけではなく、海路で江戸湾から直接に市中に入ることも可能でした。大阪などの西から来る船は、そのようなルートを
取っていましたが、それについては、日本の海運史として別に検討する必要があります。

次回は、舟運の様子、運ばれた荷物、とりわけ舟運と「塩の道」との関係についてもう少し詳しく紹介します。



(注1)北上市立博物館 2009(初版 1983)『北上川の水運』(北上川流域の自然と文化シリーズ 5)

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川から日本を見る(1)-富山和子著『水の文化史』を手掛かりとして-

2013-11-18 22:45:38 | 思想・文化
川から日本文化を見る(1)-富山和子著『水の文化史』を手掛かりとして-

日本が高度経済成長の真っ盛りにあった1980年、日本の歴史・文化・環境をセットで考える非常に重要な著作が出版
されました。それが、今回、ここで取り上げる、富山和子著『水の文化史』(文芸春秋社)です。

当時私は、森林保護の問題に関わっていて、出版されたばかりのこの本を読んで非常に感動しました。

当時、人々の心は高度経済成長と、次々に登場するクーラーや冷蔵庫などの家電製品や車の購入に奪われ、荒れる
一方の森林などに関心を持つ人はほとんどいませんでした。

また、このころ私はイワナやヤマメを追う渓流釣りにも熱中しており、長野県と岐阜県の県境を流れるある川の源流
に近い渓流をしばしば訪れていました。この渓流では時々大きなイワナが釣れたので、お気に入りの渓の一つでした。

ある時、その渓(たに)を訪れてみると、まったく様相が変わっていて、イワナの影さえ見えないどころか、深い渓
が土砂で埋もれてしまっていました。

近くの村の人の話では、数日前の台風で上流の土砂が渓に流れ込み、4メートルほども渓が埋まってしまったとの
ことでした。

私は、それを確かめるために、川の上流に向かって歩き、ついに土砂が流出した現場に行き着きました。

その現場を見て思わず、うなってしまいました。渓の山側の急斜面は杉の人工林だったところでしたが、まるで
バリカンで毛を刈るように、広い面積がきれいに刈られていました。いわゆる「皆伐」という伐採のやり方です。

太い木だけを選別して、間引くようにして伐採する方が山の斜面の表土を守るためには良いのですが、それは効率
が悪いので、皆伐が行われることもあります。表面が草や灌木で覆われる前に大雨が降ると、表土はたちまち渓に
押し流されてしまいます。

この時、森林と川との不可分な関係を身をもって感じました。森は、降った雨を一時吸収し、長い時間をかけて少し
ずつ川に流してゆくのだ、という当たり前のことを実感したのです。

このような体験もあったので、富山氏の著作は、森林の問題が、実は川の問題と密接に関連していることを、再確認
させてくれました。

最初にこの本を読んだ当時、私の関心は森林と川との関係に限られていました。しかし、あれから30年以上も年月
が経ち、今年(2013年)に中央公論社から新書版で再販されたのを機に、もう一度読み返してみて、この本は、
タイトルにあるように、あくまでも水の「文化史」であることを再確認しました。

これは私にとって、非常に重要な“発見”でした。というのも、私はここ3年ほど、「流域文化圏形成の研究」という
小さな研究プロジェクトを行っており、富山氏の著書の内容と深く関わっていることが分かったからです。

このプロジェクトについては、次回に少しくわしく説明します。

富山氏は、日本の交通体系において水運(主に河川の舟運と、それに連結する海運)に着目して、日本の歴史と文化の
成り立ちを解明した、この分野の研究の開拓者です。富山氏が切り開いた素晴らしい世界を、少しだけ紹介しましょう。

富山氏はまず、大和の地(現在の奈良県)に花開いた飛鳥・奈良の古代文化と国家とはどのようにして成立したのか、
そして成立し得たのかという問題を、淀川水系を例に説明します。

ここで「淀川水系」とは、最終的に淀川に注ぐ、桂川(加茂川と桂川)、瀬田川-宇治川、木津川を指します。

そして、これらの河川は、現在の山崎のあたりで合流します。ちなみに、サントリーの本拠地、山崎は、酒作りに欠
かせない水が集まる場所です。

富山氏は、とりわけ、ここで重要な役割を果たすのが琵琶湖で、琵琶湖-瀬田川-宇治川-木津川という、いわば
大和盆地の都を支えた幹線ルートに着目します。

まず、藤原京や奈良の都(平城京)の建設、さらには東大寺をはじめ何と七大寺建立都を造営するために必要な膨大な
木材は、琵琶湖の東側、大津市の南で瀬田川の上流に位置する田上山から切り出されました。

切り出された木材は、舟で琵琶湖との唯一の出口である瀬田川を下り、やがて宇治川と名前が変わり木津川と合流します。
そこで一旦、陸揚げされ、荷を整えて再び木津川を遡って大和の地に運ばれました。

軽い荷物は牛馬や人の背でも運べますが、木材は基本的に水路(川や湖)の水運を利用します。

木津川とは名前のとおり、木を運ぶ川で、地名の「木津」は「木の港」という意味です。これらの川は、もちろん、木を
運んだだけでなく、大陸からの貢物や庄園の年貢も運ばれた道でもありました。

やがて、都が京都に移ると、淀川水系のうち桂川が、京都を支えるもう一つの幹線ルートとして登場しました。

桂川は、真っ直ぐに下って淀川となり、大阪湾に注ぎます。

京都に都が置かれると、京都と奈良は木津川と桂川を介して結ばれたのです。そして、淀、桂、鳥羽は京都の外港(河港
=河岸)として栄えた港町でした。

ここまでは、古典的な歴史が教えるところですが、富山氏の発想のすばらしさは、この先です。

先に、淀川水系の説明の際に、琵琶湖を出発点として挙げておきましたが、実は、ここに大きな意味があるのです。

つまり、奈良や京都に入ってきた物資の多くは、日本海側の北陸、東北地方から若狭湾の若狭港や鶴賀で陸揚げされ、陸路
を経て琵琶湖の港、塩津へ運ばれ、舟で琵琶湖を大津へ渡り、奈良へ運ばれたので背鵜。

当時、奈良と北陸そして東北とは非常に密接な関係があり、東大寺建立のころ、東大寺の庄園の多くは北陸と東北にあったのです。

富山氏の言葉を借りると、奈良時代は日本海側こそが「表日本」でした。日本海側からは、木材だけでなく、さまざまな
海産物、米、絹などありとあらゆる物産が、海路と陸路を経由して琵琶湖に入り、大和に運び込まれたのです。

都が京都に移ってからも事情は同じで、京都に入る物産は、日本海から陸路で、あるいは琵琶湖経由で京都に運ばれたのです。

そして、京都は桂川の舟運も利用できたので、大陸からの物資や文化は瀬戸内海からも桂川を経由して京都に入ったのです。

こうして、淀川は瀬戸内海、奈良、京都という都、海路で北陸と東北とを結んでいたのです。

富山氏のもう一つの、優れた発想として、上記のルートを経由して、淀川は東北の大河川、最上川とも結ばれていたことを指摘します。

最上川流域は、古来「最上の紅花」で有名でした。紅花はエジプトや中東が原産といわれており、日本には6~7世紀に伝えられ、
平安時代には日本各地で栽培されました。最上川流域では、室町時代から栽培されるようになったようです。

紅花は非常に高級な染料で、同じ重さなら金と同じ価格だったと言われています。古代にあって、紅は神聖な色だったのです。

京都の商人が最上地方に買いに紅花を買いに来たり、在地の紅花商人が、京都に紅花を売りにもゆきました。こうした二重の
取引で、最上地方の紅花以外のさまざまな物産が京都に行き、京都の繰綿、木綿、水油、のちには砂糖、雛人形などの雑貨が
最上地方にもたらされました。

京都からもたらされた雑貨は最上の商人達によって、流域の各地で売りさばかれました。

最上を経由する物産は一旦河口の港、酒田で陸揚げされ、京都へは大型の外洋船に積み替えられ、京都からの物産は川船に積み
替えられました。

こうして、最上流域の奥深くに京都の文化が入り込み、現在「紅花博物館」となっているかつての紅花商人の館には、多数の京都
のひな人形が展示されています。そして、古い京都の言葉が現在でも最上地方には残っています。

富山氏は、淀川-琵琶湖-(海路)-最上川というルート、つまり川-湖--海-川を一つの糸で繋いだのです。これは素晴らしい
アイディアです。

しかも、そこでは単に物産の交易だけでなく、京都の文化が北陸に伝わり金沢が「小京都」と呼ばれたり、京染め(友禅)が、北陸
の加賀友禅となったり、あるいは京風のデザインが能登や北陸の漆器に使われたりしたことからも分かるように、京都と北陸、
東北地方は、後々まで文化の面でも深い関係を保ったのです。

富山氏の研究に付け足すことは余りありませんが、一つだけ、補足しておきたいと思います。

以前から私は、なぜ、奈良という内陸の孤立した場所に都が置かれたのか不思議でなりませんでした。

他方、奈良時代には中国、朝鮮など大陸との交流も盛んに行われ、それは仏像などを見ても明らかです。それにも関わらず、海に近い
場所ではなく、交通不便な内陸盆地に都を置いた理由が分からなかったのです。

しかし、川に関する文献を調べてゆくうちに、実は、奈良は大和盆地に流れ込む何本もの川が合流し、堺で大阪湾に注ぐ大和川の
舟運を利用していたことが分かりました。

つまり、上に述べた淀川水系の他に、大陸の文物や九州、四国、瀬戸内の物産は、大和川を遡り支流の佐保川に入り、何と平城京の
中まで舟で到達することができたのです。

今年の春に、このコースを大阪湾からたどり(ただし、大和川は江戸時事代に途中から淀川に付け替えられた)、奈良盆地に入り、
佐保川沿いに平城京跡地まで自動車で走りました。

大和盆地を流れる何本もの支流は「河合」という町で合流しますが、そこの廣瀬神社があります。この神社の境内に建っている看板
の説明書きによると、ここには、桓武天皇以来、毎年、洪水防止と豊饒を祈願に来ました。

そして、神社のすぐ隣が大和川の港で、古来から明治時代の初めまで市場があって賑わっていたことが書かかれています。

奈良の都は、孤立していたどころか、水の都といってもいいほど水と水運に恵まれた場所だった事が分かります。

これで、長年の疑問がようやく解けました。

次回は、富山氏の著作から離れて、私自身が調査した感想を中心に、「流域文化圏形成の研究」について書きたいと思います。

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目標なく生き,「降りる」人生を選ぶ

2013-08-22 06:45:22 | 思想・文化
目標なく生き,「降りる」人生を選ぶ


最近,何と自分と同じような考えを持った人がいるものか,と驚きと共感をもって読んだ二つの
新聞記事に出会いました。一つは,『毎日新聞』2013年6月9日に掲載された京都大学教授の
山極寿一氏の「老年期の意味―目標なく生きる重要性」というコラム記事で,もう一つは
『東京新聞』2013年8月10日の,「男の生き方 男の死に方」シリーズに書いた大村英昭氏の
『競争「降りる人」評価して』と題する記事です。

前者の山極氏によれば,老年期の過ごし方は人それぞれに異なっているが,それは,各人の
それまでの人生の過ごし方が大きく異なるからでです。

つまり,老年期の人の生き方はそれぞれ個性的であって,ひとくくりにはできない,という点
が重要です。

次に山際氏は,人類進化の過程で老年期の位置づけがどう変わってきたかみます。

遺跡からみると,人類はようやく数万年前ころから高齢者の化石が登場するようになりました。

これ以前には,人は老年期に入る前に死んでいたことになります。老年期の化石が現れたのは,
体が不自由になっても生きていられる環境(特に食糧の余剰)ができたこと,そして,老人を
いたわる社会的感性が発達したからです。

ここで山極氏は,「ではなぜ,人類は老年期を延長させたのか」という,かなり重要な問いを発
します。

これは一見,意味がない,あるいは答えのない問いに見えます。というのは,人類は意図的に
老年期を延長させるよう,進化の方向を操作することはできないし,遺伝子が何らかの意思を
もっているわけではないからです。

進化とは,ある新しい状況が現れると,その条件のもとで,種の生存にとってもっとも有利な
ように遺伝子が「結果として」変化してゆく現象です。ただし私たちは,変化を「事後的に解釈
する」ことはできます。山極氏の解釈はこうです。

老人が生きてゆくためには,食料の余剰と,老人をいたわる社会的感性が発達しなければなり
ません。

山極氏は,人類が家畜の助けも借りて余剰の食料を手に入れたことが重要な役割を果たしたこと
は疑いない,と推測します。

生産力が高まった時期は人口増加の時代でもありました。人類はそれまで経験しなかった新しい
状況に直面しました。

それは,人口増加に伴った新しい組織や社会関係を作る必要に迫られたことでした。

新しい組織や社会関係を作るには,さまざまな軋轢や葛藤が生じ,思いもかけなかった事態が出現
しました。
それを乗り切るために,老人たちの存在が必要になったというわけです。

上記の事態が進行していたのは,人類が言葉を獲得した時代でもありました。山極氏は,言葉によ
って過去の経験が生かされるようになったことが,老人の存在価値を高めたのだろう,と推測して
います。

山際氏の議論を要約すると,食料の生産増加,人口増加,そして言語の獲得がセットになって,
上記の変化が生じたことになります。確実な証拠はありませんが,これは理解できます。

しかし,次の主張は,山極氏の非常にユニークな解釈です。

山極氏によれば,老人たちは知識や経験かを伝えるためだけにいるのではないという。
むしろ,老人たちは青年や壮年たちとは違う時間を生きているというその姿が,社会に大きな
インパクトを与えることにこそ大きな価値があるという。大事な部分なので,少し長い文章ですが,
以下に原文を引用します。

「人類の「右肩上がりの経済成長は食料生産によって始まったが,その明確な目的意識は時として
人類を追い詰める。なぜなら,目標を立て,それを達成するため に時間に沿って計画を組み,
個人の時間を犠牲にして集団で歩みをそろえる。危険や困難が伴えば命を落とす者も出てくる。
目的が過剰になれば,命も時間も価値が下がる。
その行き過ぎをとがめるために,別の時間を生きる老年期の存在が必要だったに違いない。
老人たちはただ存在することで,人間を目的的な強い束縛から救ってきたのではないだろうか。
その意味が現代こそ重要になっていると思う。」

人類はあまりに目的に向かって生きるようになると,それ自身がストレスとなって弊害が生じるので,
その行き過ぎを修正するために,全く別の時間のなかで生きる老人たちが必要となる,ということに
なります。

確かに,現代社会は競争社会であり,何らかの目標を達成することでその人物が評価される社会状況
にあります。

この競争に負ければ社会から脱落させられる可能性があます。しかし,たとえ一時は勝者となっても,
次はどうなるかは分かりません。

いずれにしても,現代人は常に緊張にさらされています。この緊張が「うつ病」を引き起こしたり,
さらに自殺に追い込んだりします。

老人は存在するだけで社会的に価値があるという主張,“何も無理に目標を作って必死にそれを達成
しようとしなくてもいいんだ”という発想は,一見,非現実的に見えますが,私たちを緊張から解放
してくれます。

目標なく,別な時間を生きる人たちがいるということだけで社会全体の緊張が和らぐし,そのような人
たちの存在が,目標達成志向の社会には必要となったと,と山極しは考えます。

この主張には反論も可能です。まず,老年期の延長は,食料の安定と医学の発達の結果も大きな要因で
あって,社会の緊張を和らげるために老人たちの存在が必要になったと主張するのは,ちょっと強引な
結論にも見えます。

ただ,こうした反論を十分承知した上で,私は山極氏の議論に共感します。というのも,老人も含めて
全ての人が目標をもち,それに向かって生きていたら,社会全体が非常に高い緊張にさらされることに
なってしまうからです。

次に,大村氏の記事を検討してみたいと思います。大村氏の記事は,「男の生き方,男の死に方」とい
う視点から,対象を「男」に限定していること,必ずしも老人に限定しているわけではない,という点
で山極氏の論考とは異なりまず。大村氏は浄土真宗の僧侶でもあり,その宗教的視点も入っているとは
思いますが,それを除いても共感できる点があります。

大村氏の議論を簡単に言えば,若い男性にとって競争から「降りる」生き方も一つの意味のある選択と
して評価できる,という点につきます。彼の議論の要点を整理してみましょう。

現代では男女の置かれている状況が,男性にとって非常に「生きずらい」社会になっています。世の中は,
ものつくり中心の工業社会から,情報・サービス産業中心の社会に転換しました。

腕力や体力が必要で危険が多いところほど,開発されたソフトのおかげで機械やロボットが主な動力源
になっています。つまり,男性優先の職場は縮小してきたし,男性の優位性も低下してきたのです。

こうして,男女のジェンダー・イメージにも変化が生じました。かつての「女らしさ」のイメージであっ
た,慎み深さ,恥じらい,「良妻賢母」などは,ほとんど死語になっています。

しかも,女性の場合,専業主婦も含めて他に男性より選択肢がある分,多少,余裕があります。

これに対して,「男らしさ」の理想像イメージはほとんど変化していません。

つまり,競争場に出て(将来を見越して)今は禁欲的に頑張って勝ち抜くこと,これが男らしい典型で
あるとうイメージは変わっていないのです。

こうして,男性は必至の形相で「就活」に励み「正規雇用」を確保しようとします。

2,3年で辞めてしまう新規採用者に対して,「根性がない」のなんのと非難する中・高年の人たちは,
競争に勝ってこその男という,旧態依然のジェンダーイメージを表しています。

こんな中でも探せば,あえて競争場からは降りて,かつその体力を生かして,重度心身障害者のため,
有償ボランティアの形で支援する人,あるいは要介護者の支援をも兼ねた「ユニバーサル就労」の現場
に就こうとする人など,優しいというより本来の意味で「雄々しい」男性も結構います。

だから大村氏は,「競争に勝ってこその男」という,旧態依然のジェンダー・イメージをもっている中・
高年は考えを変え,こういう男性こそ「男の中の男」だと評価できる斬新な「ものがたり」を作ること
が大切ではないか,と主張しています。

確かに,女性は選択肢が増えて,昔と比べれば生きやすい社会になりましたが,男性は相変わらず「一家
の大黒柱」としての役割を社会も期待し,本人も覚悟を決め,歯を食いしばって働いているのが現実です。

しかし,そのプレッシャーに耐えられない人は心身を病んで精神的な問題を抱えたり,極端な場合には自殺
に追い込まれています。

それに気が付いた若者の一部に,競争から「降りて」福祉やNPOなどの世界に入っていく若い男性が
います。大村氏は中・高年も社会全体も,こうした生き方を評価すべきだと考えます。

さて,山極氏と大村氏は対象も視点も異なりますが,両者の論考の背後には,人は何らの目標をもち,

それを達成しなければならない,という近代社会の目的的人生観から,そろそろ離れるべきだ,競争から
「降りる」のも一つの立派な生き方だ,という共通の認識があります。

思えば,私がこのブログを初めて最初に書いた記事が,五木寛之氏の『下山の思想』でした。五木氏は
この本で,日本はもう坂を登りきって峠にたどり着いているので,これからは下山のつもりで,ゆっくり
歩んでゆけばいいんだ,と主張しました。

何年か前,民主党政権の時に「仕分け」で,スーパーコンピュータの開発に関して民主党の蓮舫議員が,
「一番でなければだめなんですか?二番じゃだめなんですか?」と問い詰めました。

当時テレビは,蓮舫議員は何も分かってはいない,と言わんばかりに,半ば嘲笑するように,この言葉を
繰り返し流していました。

もし,日本がこれからも,経済の分野で常に世界一を目指し続けるとするなら,それは激烈な競争の中に
身を置くことになります。

そして,競争に負けるということは,すなわち自らを“落伍者”とみなすことになります。

日本は本当に,これからも坂道を登り続けるのでしょうか?それとも,五木寛之が言うように,もう
「下山」の道を選ぶ時がきたのでしょうか?

どちらを選ぶにしても,最も大切なことは,国民の大部分が幸せになることです。

仮に,技術競争に勝利して世界のトップに立ったとして,そのために国民が苦しい思いをし,心身を病ん
でしまったら,その勝利はどんな意味をもっているのでしょうか?

これまでの政治家は,とにかく経済的に豊かになれば国民は幸せになる,あるいは幸せになるには,
何をおいても経済的に豊かになることだ,と言い続けてきました。だから,政府の主要な課題はいつも
景気の回復,景気浮揚でした。

もちろん,私は豊かであるより貧困の方が良いと言っているわけではありません。

しかし,現在の平均的日本人の生活水準を半分に下げても,世界の多くの国の人たちよりずっとめぐま
れています。

また,私の専門領域の東南アジア諸国をみると(シンガポールは例外かもしれません),日本よりはる
かに貧しく,日本は比較を絶して豊かです。だからと言って,東南アジアの人たちが日本人より不幸で
あると感じているわけではありません。

高度成長期やバブルのころ,「24時間闘えますか」といったコマーシャルのセリフが流行りました。

このような超過重な労働条件下ではありましたが,日本人は確かに経済的に豊かになりました。

しかし,それによって幸福感が増したというデータはありません。

日本ではまだまだ少数派かもしれませんが,経済的豊かさ=幸福,という単純な図式に疑問を抱いている
人がいます。そして,こうした人たちの新しい価値観は少しずつ浸透してきているように思います。

そして,このような人たちが,少しずつ日本を変えてゆく存在になってゆくのだと,私は期待しています。

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ある森の番人の物語-畏敬と祈り-

2013-07-25 08:09:27 | 思想・文化
ある森の番人の物語-畏敬と祈り-


私は中学3年生の時に山岳部を作り,近くの山歩きを始め,高校では山岳部,大学時代には「探検部」で山に通い続けました。

当時は,頂上に到達するために体力にまかせてひたすら歩くだけで,周りの景色をゆったり眺めたり,自分が歩いている森の
木々や足下の植物をじっくり観察することもありませんでした。

後に,森林インストラクターの勉強をするようになって,樹木について学びましたが,それも,知識として木の名前や生態を
覚えることに集中し,森を全体として感じたり,味わったりすることはありませんでした。

ところが最近,長野県のある町で素敵な森の番人と出会いました。彼を仮にAさんと呼ぶことにします。彼は幾つかの森を
1人で管理していますが,それらの中で私は彼の「畑」と,管理を委託されている二つの森を案内してもらいました。

まず,Aさんが「畑」とよぶ不思議な森ですが,ここにはさまざまな樹木と灌木,草などが,一見雑然と生えています。

この「畑」はどうみても自然の森ですが,そこに生えている植物は,いわゆる薬草・薬木で,漢方薬の原料であったり,
あるいは日本人が古くから用いてきた薬用植物群だったのです。

現在の日本では,医師の8割が何らかの漢方薬を処方していますが,その原料のほとんどは中国からの輸入です。

しかし,中国が豊かになるに従って,国内の需要が増えたこと,そして原料そのものが少なくなってきたため,日本への輸出は
減っており,価格もかつての倍くらいに高騰しています。

こんな事情があるので,私はかねがね,日本の耕作放棄地を利用して薬木,薬草を栽培すべきだと考えてきましたが,Aさんは
既に実践していました。

次に案内されたのは,Aさんが4年間かかって整備した里山の森です。彼が,この森の管理を頼まれたとき,そこは冷蔵庫,
テレビ,洗濯機,プラスチック,タイヤ,トタン板,ガラス破片などが散乱する「ゴミの山」と化していたそうです。

たまたま,彼が森の清掃をしていると,ゴミを積んだ軽トラックから,老夫婦がゴミを森に捨てている所に出くわしました。

「わるいことだと思わないか」と言うと老婆の方が,「おめーはどこのやろか。皆がやっているのに,なんで俺達だけが怒られるのか」
と開き直り,くってかかてきたそうです。

森の番人は,散乱したゴミを一つ一つ手で片づけ,今ではとても気持ちのいい,森本来の美しさを取り戻しています。

この森の一角に,森のコンサートを開催するために,手作りのステージと観客席(といっても,だだ,丸太を並べて座れるように
してあるだけなのですが)も作られています。

そこは,いるだけ心が安らぐ静謐な空気に満たされていました。

「ここで演奏される音楽は人間に聞かせるものではなく,森の神様に捧げる音楽なんです」というAさんの言葉を聞いたとき,
私は驚きと深い感動を覚えました。

彼は決して自分を大きく見せようとか,格好良く見せようという人ではありません。ごく淡々と,おそらく彼の心の中では当たり前
のこととして,ぼそっと語ったのです。

実際には,コンサートの聴衆は人間なのですが,気持ちとしては本当に,森の神様に捧げる気持ちで今までコンサートを主催してきた
のだと思います。

最後に案内されたのは,ほとんど自然のままの森でした。ここには注意すればそれと分かる程度の,何となく人が歩いた踏み跡
を歩くことになります。

この森は「神聖」な森で,私たちの心を癒してくれる「癒しの森」でもあります。

身近な大切な人を失って,深い悲しみに沈んでいる人たちが,この森を訪れ,そして,数時間,森の中で過ごしているうちに,
多くの人が思い切り泣いて,そして悲しみを少しだけ和らげて森から出てくるそうです。

この森の随所に,大きな岩があります。昔はこの岩の上で修行者たちが修行をしたそうです。この意味でも,この森は神聖な森だったのでしょう。

特別「神聖」な森でなくても,私たちは森の中にしばらくいると,ストレスや緊張から解放されて,とても穏やかな気持ちになります。

森の枝や葉を吹き抜ける風の音や,かすかに聞こえる沢水の音,目にしみる新緑,木々と山の土がかもし出す森の香り,これら全てが私たちの
心と体の深いところに染み渡り,浄化してくれるような気がします。

この森には野生のワサビが繁殖していたり,渓流にはサンショウウオやイワナがいるそうです。

ジブリ映画の「もののけ姫」の舞台となった,あの原始の森を思い出させます。

さて,Aさんは,木々や草の名前は言うまでもなく,それらの生態や,食べられるかどうか,どこをどのように食べるのか,そして,
その薬効は何か,に至るまで実に深い知識をもっていて,歩きながらそれらを説明してくれました。

彼と森をあるいていると,森に関する知識の深さと,自然観察の精緻さ,そして自然に対する深い畏敬の念が感じられます。

彼は時々,「神」あるいは「神聖な」という言葉を使いますが,それらは何か特別な宗教的言葉というより,森羅万象に神を感じる,古代の日本人が
もっていた精霊信仰,自然信仰から発せられる言葉といった方がいいでしょう。

案内の終わり頃に,Aさん森に対する神聖な気持ちを強くもつようになった一つの感動的な物語を語ってくれました。(注)

その物語とは,実際にあった,こんな出来事だったのです。

2000年5月の連休前後のある日,彼がいつものように切った丸太,落ち葉,枝,乾いた蔦を山と積み上げて燃やし始めました。
ふと気が付くと,彼の周りから黒い煙がモクモクと上がり,そのうち勢いよく燃え始めました。

彼は,長靴で踏んで消していったのですが,するとすぐ右の方で燃えはじめ,さらに火はあちこちに飛んでゆきました。彼は命がけで消し続け
ましたがが,火はあちこちの飛び火し始めていました。

その時,後ろから奥さんの声がしたので振り返ると,別の積み上げた木や草の山が燃え始めていたことに気がつきました。必至で走り回り,
奥さんの方に飛んでゆきました。体はカァーと熱くなり燃えるようだったそうです。

煙を吸い込んで,ぜいぜいしていました。彼は座り込んでしまい,じっと見ていると奥さんが一生懸命に消している姿がぼんやりと見えました。
彼は消して回るのを止めて,祈り始めました。

「神様,助けてください。」「頼む,頼むよう,何とかして」,必死に大声を上げて叫びました。涙顔で頼みました。

「時間よ止まってくれ。森の神様,俺の残された一生を森のために,樹木のために差し上げます。だからどうか火を消してください。」
「火を消してくださったら,命を山の神に預けます。」

彼はひたすら祈り続けました。すると,あれほど燃えていた火が,少しずつ消えていったのです。彼はただただ驚き,恐れおののき,
偉大な森の神のなせる技を自分の目ではっきりと見た,と言います。

自分の目の前で,「本当に消えた。祈りが通じた。消えた。消えた」。全身の力が抜けてその場にへなへなと倒れてしまいました。

しばらく意識を失っていましたが,ぼんやりと意識がもどってみると,傍らの山桜の木が立木のまま下から半分まで幹と枝が焼けているのが
見えました。

この時彼は,火の勢いがいかに激しかったかを思い知らされました。そして,思い出したのです。

「山の神,森の神に命を預け,残された一生を森のため,樹木のために尽くすと誓った。だから,火を消してくれたのだ。ことの重大さが
ひしひしと感じ,彼は誓います。

「生き様を変えよう。森に命を預けたのだ。森の下僕になってこれからは生きよう」と。

こうしてAさんは,森の番人として以前にも増して,心を込めて森の管理をするようになるのです。

この物語に疑問を持つ人は,きっと雨が降ったに違いない,と思うかも知れません。あるいは,彼が祈らなくても,命を差し出さなくても,
自然に消える状態だったにちがいない,と思うかも知れません。

その可能性は十分あります。しかし,私にとって,なぜ消えたかという本当の理由が,祈りであったのか,たんなる偶然であったのかは,
どうでもいい話です。

大切なのは,Aさんの,自然にたいする私心のない愛着と,自然に寄り添って生きている姿勢,それら全てを支えている,自然への畏敬の念です。
これらが,いざというときに祈りという行動になって出たのだと思います。

Aさんは,森を管理をする一方,子どもたちのための,「森の学校」のような行事をいくつか組んでいます。

彼は,小さいとき,自然に親しんでおかないと,大人になっていきなり自然と親しみましょう,といってもなかなか難しいと考えています。

自然の森には,虫や蛇や,蚊のような小動物から,イノシシや熊のような大型獣がいます。また,うっかり触ると皮膚が“かぶれ”
てしまう植物もあります。

歩く道もアスファルトのように平らではなく,上りや下りがあり岩や石がゴロゴロしています。

しかし,目にしみる新緑,木々をわたる爽やかな風,木や土の香り,鳥の鳴き声,やさしく響く川のせせらぎの音,静寂,言葉では表現できない
複雑な空気の味,山菜や野生の果物など自然の恵,などなど,数え切れないほどの良さがあります。まさにこれら全てが「神様の贈り物」なのです。

文明は,人間の叡智によっていかに自然を克服するかという方向で発展してきました。そこには人間の誇りと同時に傲慢さもあります。

しかし自然の大きな営みを心と体で感じ取り,自然に寄り添って生きることで,私たちは謙虚になり,優しくなります。

Aさんは,人間の祖先は森から出てきたのだから,森に帰ったとき本当の安らぎを得ることができる,と言います。

わざわざ遠くに出かけなくても,自然は身近にいくらでもあります。ほんの少し,心を自然に寄り添ってみるだけで,何かを感じることができる
にちがいありません。




(注)この物語は,2000年5月の日付を持つ2ページほどのワープロでタイプしただけのコピーにも書かれていますが,それは後で分った事です。私の胸には,やはり直接に語ってくれた時の方が強く響きました。

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天才棋士に見るプロのすごさ―囲碁と人生―

2013-07-08 11:37:18 | 思想・文化
天才棋士に見るプロのすごさ ―囲碁と人生―

漫画『ヒカルの碁』が人気を博し,小中学生の間でも囲碁ファンが増えたようです。今回は,やや特殊な碁の世界を取り上げてみたい
と思います。

というのも,碁の世界は,私たちの人生や生活を考えるうで参考になることがあるからです。

私が囲碁を覚えたのは大学時代ですから,もう40年以上も昔になります。その後ずっと碁を打つ機会がありませんでした。

ところが,あることをきっかけに,昨年の夏,思い切って日本棋院の会員になり,もう一度囲碁の勉強を始めました。

会員になるとどこかのクラス(日本棋院では「学校」とよんでいます)に入ることが出来,特定曜日の特定の時間にプロの棋士から
指導を受けることになります。

これと並行して,ケーブルテレビで「囲碁将棋チャンネル」を契約してプロ棋士の対局や囲碁講座を時々見ています。

これらの経験から分かったことは,プロのすごさです。たとえば,一手打つためにプロが考えている内容には,およそ我々アマチュア
の想像を絶する広がりと深さがあります。

たとえば,ある状況で考えられる着手は複数あります。もし,そのうちの一手を選択すると,そこからの展開がまたいくつもの枝に
分かれ,その枝の一つ一つが,またさらに複数の選択肢に分かれてゆきます。

事態をさらに複雑にしているのは,それぞれの着手に対する相手の反撃も常に考えなければならないことです。

プロの棋士は,一手一手にそれらの可能性を比較して,その状況で最善と思われる着手を決めることになります。

しかも,好きなだけ考える時間は与えられていません。限られた時間内で判断しなければならないのです。

このように考えると,実際には,読まなければならない手は無限といっても言い過ぎではありません。

よく,「ひと目100手」,ぱっと見ただけで100手先まで読むと言われますが,実際にはそんな少ない数ではないでしょう。

一体,彼らの頭の中はどうなっているんでしょうか?なぜ,そんなことが可能なのでしょうか。

その主な要因は,碁の世界が築いてきた「定石」と呼ばれる定型の形と,プロ棋士の勉強の仕方にあります。

これを理解するには,碁の歴史をざっと見ておく必要があります。

日本における囲碁の歴史は古く,7世紀の奈良時代には既に中国から日本に囲碁が伝わっていたことが文献(大宝律令 689年完成)
からも確認でききます。

平安時代には『源氏物語絵巻』などにも描かれているように,貴族の間では良く打たれていました。

しかし,古い時代にどのような碁が打たれたのかは記録にはありません。私たちが碁の記録(棋譜)を見ることができるのは,
江戸時代に将軍の前で行われた「御城碁」,いわば公式戦で,1626年が最初で1864年まで続きました。

この「御城碁」は記録係がついていたので,今日までその棋譜が残っています。

碁の世界では,ある状況下で妥当であると考えられる一連の打ち方が「定形」,囲碁用語で「定石」(じょうせき)と呼ばれ,400年
以上にもわたって考案され改善されながら今日まで受け継がれてきました。

以上を頭に置いて,再び現代のプロ棋士の話に戻ります。

通常,プロを目指す人たちは,5才とか小学生から,誰かの師匠について勉強を始めます。少し前まではある年になると「内弟子」
といって,師匠の家に住み込みで生活面も含めて修業を始めます。

碁の修行の内容をみると,プロ棋士を目指す人たちは,まず、基本定石を徹底的に学びます。そして、江戸時代からの「御城碁」
を含めて,過去から現在までの対局について参照できる棋譜を一局ずつ並べて勉強してきます。

こうしてインプットされた碁の知識は膨大なものです。あるときテレビで碁の解説をきいていいたら、解説者が、江戸時代の「指導碁」
(師匠が弟子を指導する碁)で、この場面で誰それがこのような手を打ってこのような展開になったと、さらりと言ったのを聞いたとき,
プロの本当のすごさを思い知らされました。

アマチュアでも強い人はいますが、こうした知識の蓄積を考えると、やはりアマとプロでは次元の違いを感じます。

現在囲碁プロ棋士は全国に450人いて、本因坊、棋聖、名人、天元、王座、碁聖、十段の7大タイトルを目指してしのぎを削っています。


しかし、ほとんどの棋士はタイトルに挑戦する機会さえ得ることさえできません。

このうち、名人は江戸時代から続くもっとも権威のあるタイトルでした。そして,本因坊は,もともとは江戸時代の囲碁の名家,本因坊家の
世襲タイトルでしたが,昭和の初めに日本棋院にそのタイトルが譲渡されました。

現在では,本因坊も名人と並んで碁界でもっとも格式のあるタイトルです。

どの世界にも,天才的な人材はいます。碁界にもこれまで何人もの天才がいました。今回はその典型的な例として,井山裕太現本因坊
(24歳)を取り挙げてみたいと思います。

井山本因坊は、今年の3月に囲碁400年の歴史を塗り替える6冠を達成した、まさに若き天才棋士です。その後、名人位は奪取できず、
今まで持っていた十段位も奪われてしまい、5冠となってしまいまいた。しかし,1冠でも大変なのに,5冠は想像を絶する成績です。

現在井山は、高尾紳路九段(36歳)と本因坊戦七番勝負の第五局を終え3勝2敗の成績で、あと1勝すれば本因坊位を維持できます。

井山は6歳の幼稚園児のとき関西のローカル囲碁番組に彗星のごとく登場し、小学2年の最年少で全国小学生大会で優勝する、という
文字通りの天才ぶりを発揮してきました。しかし彼も常に順調であったわけではなく、何度も挫折を味わってきました。

ただ、普通と違ったのは「挫折を経験すると、そのままダメになる人と、強くなる人の2通りある。彼は後者。相との距離を測り、
倍も強くなる」(注1)と、25世本因坊超治勲手(57歳)が評価しているように、井山は負けた悔しさをバネに、強くなってきたのです。

井山は生まれついての才能と負けず嫌いの性格のほか、とても幸運がありました。

普通、師匠が弟子と碁を打つのは入門時と独立か引退の2度かぎりだそうです。

しかし、彼の才能を子供のときに見出して師匠となった石井邦夫九段(71才)は、自分のもっている全てを伝えようと最初から決めていて、
1000局打ったという。

井山も「石井先生との出会いがなかったらプロ棋士になっていたかどうか分からないし、今の自分はありません」と述べています。

今日,囲碁界で活躍しているトップクラスの棋士は,いずれも子供の時からその天才ぶりを発揮し,本人も絶えざる努力をしてきています。

しかし,その中でも,タイトルをいくつも取るような棋士は才能と努力に加えて人との幸運な出会いがあります。

また,たまたまその棋士と同時代に優秀なライバルがたくさんいた,という偶然も囲碁人生に大きな影響を与えます。同様のことは人生
一般についても言えます。

さて,それでは,最初の疑問に戻って,棋士たちはなぜ,数百もの可能性がある碁の進行を短時間のうちに考えられるのか,そして,一体,
強い棋士とはどこがすごいのかを考えてみましょう。

先ほど書いたように,碁には合理的に打った場合の一連の進行が,「定石」として知られています。これは,碁の基本で,どんな棋士もこれを
無視することはできません。
というのも,「定石」は400年もかけて練りに練って作り上げられた「形」だからです。

この定石を知っていれば,碁の展開を一手一手読まなくても,一つの「形」として,あたかも一枚の絵のようにパッと頭に浮かぶのです。
これが,「ひと目100手」先を読む秘密です。

ただし,ある場面で考えられる「定石」は通常は幾つかあります。たとえ「定石」を採用するにしても,どの定石を用いるのかは,周囲の状況
によって異なります。

それでは,誰もが知っている定石を打っていれば碁が強くなれるか,勝負に勝てるのか,といえばそうではありません。

お互いに生身の人間ですから,その時の気分とか,碁の世界でいう「気合い」といったものが介入してきます。つまり,「定石ではここは,
こう打つべきだが,気合いでこのように打ってみよう」というようなことがよくおこります。

次に,「定石」そのものも時代の変化とともに変化し,また新しい定石が常に生まれています。また,「定石」ではなくても,碁では常識的な
手順があります。しかし,そのような常識的な手ではなく,誰も想像しない「新手」を発見することがあります。

新手は素晴らしい「好手」となることがありますが,時にはかえって状況を悪くする「悪手」になることもあります。「好手」になるか「悪手」
になるか不明ですが,常識を超えた手は「鬼手」と呼ばれます。

さて,一局の碁で一手でも定形とは異なる手を打つと,その後の展開は全く異なる「未知の世界」となってしまいます。
このため,江戸時代からの記録を見ても,全く同じ碁はありません。碁には事実上,無限の変化があるのです。

「定石」や「形」は主に部分に関する問題ですが,部分は,一局を見通した全体の構想の中で意味を持ってくるのです。

そして,この全体の構想にこそ棋士のセンス(個性,感性,資質,直観力など)が鮮明にでます。

私がみるところ,トップ棋士になれるかどうかは,最終的にはこのセンスで決まるような気がします。

というのも,このセンスは努力して身につけるものではなく,かなりの程度,生まれつき,天賦のものだからです。

一局一局には,以上のようなさまざまな要素が複雑に絡み合いながら展開し,対戦者は一手一手で着手を通じて対話をしながら碁は進行して
ゆくのです。

プロ同士の対局を見ていて面白いのは,着手に現れた棋士たちの対話を想像することです。それはさながら良質のドラマを見るような感動と
興奮があります。

碁の世界は,人生のさまざまな場面で私たちが出会う問題と共通したものが数々あります。

まず,自分はどのような人生を歩んでゆくべきかという大枠を人生のある段階で構想することです。

また,個々の岐路に立った時私たちは,「定石」どうり安全,堅実な道を選ぶべきか,ここは「気合い」で「定石」はずれの「新手」
あるいは「鬼手」に打って出てみようか,といった選択の問題に直面します。

こんな状況で私が思い起こすのは,碁の世界で使われる「これも一局」という言葉です。

碁では,この手を打てばこういう展開になるし,あの手を打てばこうなると,さまざまな可能性があります。

しかし,一度に二手は打てないので棋士は「今回は,この手でいってみよう。これも一局の碁。」と決断するのです。

現実の人生は,碁の世界よりはるかに複雑で,不確定要因が多いので,碁のように100手先まで読むことはできません。

人生には,どれだけ考えても,結論が出ないことも多々あります。こんな時私は,人生の大きな選択の岐路に立って決断に迷う時,
「これも一局の人生」と思うことにしています。こう考えると少し気が楽になります。

たとえ現実の人生が思い通りにゆかなくても,それはそれで「一局の人生」と思えるのです。

こんな風に人生を考えて,「人生のプロ」になってみてはどうでしょうか。

(注1)『毎日新聞』(2013年6月30日)

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追悼 マイケル・ジャクソン-天使になったマイケル-

2013-07-04 06:41:23 | 思想・文化
追悼 マイケル・ジャクソン-天使になったマイケル-


4年と少し前の2009年6月26日,横須賀線の電車の中で携帯ラジオのFM放送のスイッチをONにすると,ヘッドフォンからいきなり
マイケルの「スリラー」が耳に飛び込んできました。

当時はマイケルの歌がFM放送の音楽番組でも流されることはあまりないので,マイケルのファンの私としては,久しぶりにうれしかった
のですが,しばらくしてラジオのDJが信じられないことを口にしました。

「これは,マイケルの緊急追悼番組です」というのだ。私は「うそだ!信じられない!」と絶句しました。そんなこと絶対にあり得ないこと
,あってはならないことだ,と胸の中で叫びました。

亡くなる少し前には,マイケルは完全復活をかけて ”This is It” をロンドンで連続50回のコンサートを行うことを発表したばかりだった。

恐らく,世界のマイケル・ファンは,このコンサートを楽しみにしていたに違いない。

連続50回という前代未聞のコンサート・チケットは発売と同時に数百万のインターネットの予約注文が殺到し,ほとんど瞬間に完売して
しまっていたのです。

しかし,ラジオを聞いていると,どうやら本当らしいということがわかってきました(正確には,カリフォルニア時間では25日14時26分に
51歳の生涯を閉じました)。

あれから4年。毎年,命日の前後に私は何らかの形でマイケルを追悼する行事をしていますが,そのたびに,私たちは,途方もなく大きな宝を
失ってしまったことを実感します。

マイケルは,子どもに性的虐待をした,と子どもの両親から訴えられ,長い間裁判が続いていました。このストレスのため,彼は多量の精神安定剤
のような薬を常用していたようです。私は,この裁判と薬が彼の命を縮めたのではないかと思っています。

後に,この訴えはまったくのでっち上げに基づいて起こされたものであることが判明しました。子どもの親が,マイケルからお金を取るために子ども
に嘘を言わせたことが周囲の人物から明らかにされたのです。

それでもマイケルは,この裁判に時間とエネルギーを費やすことを止め,早期に決着をつけるために,莫大な示談金を子どもの両親に支払ったのです。

そして,入念な思索と計画のもとに,彼は ”This is It” の政策に没頭したのでした。

”This is It” 公演の発表をした際マイケルは ”This is it. This is the Final Curtain call”. (これで最後です。最後のカーテンコールです)

と言って会場を去ってゆきましたが,今から思うと,死を予言するような,とても意味深長な言葉でした。

マイケルの魅力はたくさんあり,私などが今さら語ることもありませんが,私はマイケルに関して,少し尋常でない思い入れがありますので,
今回だけは少し常軌を逸した文章になるかもしれません。

まず,名前。私は以前から,マイケルは男でも女でもない,神が地上に送った「天使」だと周囲の人に言ってきました。

実際,彼の名前 Michael は,「あなたは神の子を宿しました」とマリアに受胎告知をした,『聖書』に登場するあの大天使ミカエルなのです。
これは単なる偶然とは思えません。(「マイケル」はMichael の英語読み)


さて,個人的な感情を抜きにしても,彼が音楽の世界で成し遂げた革命と,世界の人々に訴えたメーセージは,途方もなく重要な意味をもっています。

マイケル登場以前のアメリカの音楽界は,白人と黒人の音楽ははっきり分かれていました。白人の歌手は白人の聴衆に向かって歌い,
白人は黒人の歌をあまり聴きませんでした。

たとえば,エルビス・プレスリーは白人で白人の聴衆を相手に歌いましたし,実際聴衆もまた白人だけでした。

マイケルの登場は,それまでのアメリカの音楽会に革命をもたらしました。彼は,人種や皮膚の色を超えて,全ての人に熱狂的に受け容れられた,
アメリカで最初のミュージシャンなのです。それだけ彼は,普遍的に感動を与える力をもっていたのです。

“Black or White” というマイケルの曲があります。文字通りの意味は 「黒くても白くても」ですが,もちろんこれには,黒人でも白人でも,
皮膚の色なんて関係ないという,人種差別にたいするマイケルの怒りが込められています。

次に,マイケルは歌の世界を,耳で聞く音源としてだけ考える従来の考えを一変しました。音楽好きにとって,コンサートに行って直接に歌声を聞く
ことが理想です。しかし,それではごく少数の人しか聞けません。そこで,伝統的にはレコードで,次にテープやCDを音源として聞いてきました。

しかしマイケルは,歌の世界だけに閉じ込めておくのではなく,歌う表情や動き,さらには歌の物語性を映像化することで,
マイケルの世界を音と視覚を一体化させて表現しようとしました。

そこで登場したのが,PV(プロモーション・ビデオ 宣伝用の映像)と呼ばれるフィルムでした。マイケルは曲ごとに映像フィルムを作ったのです。

新曲がでると,その宣伝のためにPVを作ることは珍しくありません。しかし,それをマイケルは世界で最初におこなった人物です。

彼は,こうした映像をPVとは呼ばれることに異議をとなえ,ショートフィルム(短篇映画 ここではSFと標記します)と呼んで欲しいと言っています。

事実,彼はSFを作るために,超一流の映画監督とスタッフと一緒に,莫大なお金をかけて完璧を目指して作ります。これはどのSFを見てもはっきり
分かります。

一言で言えば,音楽の視覚化と物語性ということになります。マイケルはこれを一人でやってのけた天才です。

次に,彼の卓越した表現力,説得力です。ある時は物語の語り部として私たちに語りかけ,ある時は社会に対する怒りをぶつけ,またある時は天使のような
澄んだ高音でやさしい声で歌います。それらは歌に合わせて見事に歌い分けています。

歌そのものも天才的ですが,それと同じくらい重要な要素はダンスです。たとえば,デビュー30周年のマディソンスクエアガーデンのコンサートで歌った
「ビリー・ジーン」(Billie Jean)の後半で,歌と楽器の音が突然無くなり,規則的なリズムを刻むドラムの音だけが続きます。

そこからエンディングまで,マイケルの代名詞ともなった“ムーンウォーク”も含めてダンスが延々と続きます。この一連のダンスにはさまざまな要素が
組み込まれおり,体の部分部分が独立して動いているように見えます。ダンサーとしても超一流です。

マイケルは,どれだけ激しいンスをしていても,それによって息が上がって声が乱れるということは決してありません。これは驚異的なことです。

最後に,そして私がもっとも強調したいのは,彼の曲がもつメッセージ性です。マイケルの曲は大きくエンタテイメントの系列(たとえば「スリラー」)の曲と,
メッセージ系列の曲とに大別できます。

メッセージ・ソングの代表は,「世界を治療しよう」(Heal the World),と「地球の歌」(Earth Song),「鏡の中の自分」(Man in the Mirror)など です。

「世界を治療しよう」は,こんな内容です。

    君と僕と全ての人類のために,世界を治療しよう。より良い場所にしよう
    苦しみも悲しみも無いところへ あらゆる命に慈しみをもてば,そこへゆく道は見つかる
    愛は強いもの 喜びに満ちた恵が与えられる
    大地を傷つけることは,魂の虐待にすぎないのに
    恐れのない世界を築き共に幸せの涙を流そう
    世界の国が剣を鋤きに持ち替え換える様子を思い描こう

彼は戦争を憎み,愛によって世界を治療する(癒す)ことを必死で訴えています。

「地球の歌」は,この先も地球に太陽は戻ってくるのだろうか,恵の雨は降ってくれるのだろうかと,人間が生きるために最も重要な自然条件が太陽と雨に
象徴化されて問いかけから始まります。

破壊された熱帯林,殺された象,汚された海,戦争の犠牲になった子どもや大人達,汚れた空気,私たちの未来はどうなってしまうんだろう,と地球の現状
を嘆きます。

映像の方は,歌詞の内容をより説得力をもたせるために,熱帯林や象の死体,ドキュメンタリー・フィルムからの引用などが効果的に使われています。

マイケルの声はあくまでも優しく抑制が効いていますが,それだけ余計に傷ついた地球にたいする深い慈しみと悲しみが聞く者に伝わってきます。

この映像には,未来の象徴として子どもが登場します。マイケルは,貧窮した子ども達を救う慈善活動もしており,
子ども達を大切にする並々ならない愛情をもっています。

”This is It” のリハーサルが全て終わり,最後に円陣を組んでマイケルが簡単な挨拶をする場面があります。
そこでマイケルは,「愛の大切さをわかってもらおう」「残された時間はあと4年しかない」と環境の保護を訴えます。

彼がなぜ4年という年月を言ったのかは分かりませんが,このまま環境破壊が続くと4年のうちに,もう「太陽は戻ってこない」「恵の雨は降ってくれない」,
つまり復元不可能なほど傷ついてしまうだろう,といいう危機感をこのように表現したものと思われます。

私たちは,この発言の後,間もなくマイケルが死んでしまうことを知っているので,彼が最後に語った言葉は,そのまま人類にたいする遺言のように
胸に響きます。

私は,この時期がくるたびに,大きな存在,私たちのかけがえのない宝であったマイケルを失ったことの喪失感を味わいます。

マイケルは,名前の通り,本当に天使ミカエルになったのです。

あらためてご冥福を祈ります。

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本の紹介: 谷 和子編『百人一首(全)』(3)

2013-06-16 06:48:10 | 思想・文化
本の紹介: 谷 和子編『百人一首(全)』(3)-自然・人生-


「百人一首」の中で,恋歌が一番多いことはすでに述べたとおりですが,四季や自然を詠んだ歌がそれに続いています。

しかも,直接的には四季や自然を描写していても,それらに託して自分の人生を語っている場合が珍しくありません。

純粋に自然の歌をみると,当時の歌人たちの自然にたいする深い思い入れと,その絶妙な表現に思わずうなってしま
います。たとえば三十二番は,一見,何の変哲もない自然の描写ですが,なかなか味わい深い歌です。

        山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり
                                 春道列樹

       (山の中の川に風がかけたしがらみとは,流れきらない紅葉(もみじ)のことだったのだ)


この歌は,『古今和歌集』より採られたもので,「滋賀の山越えにてよめる」という注釈がついており,作者が実際に京都の
北白川から山中峠を越えて滋賀の里に抜ける,滋賀寺(崇福寺)への参道を歩きながら詠んだ歌です。

ここで「しがらみ」とは,「柵」のことで,川の流れをせき止めるために杭を打ち並べ,そこに木の枝や竹を横にかけ,結び
つけたものです。

ただし,この歌の場合,しがらみ=柵は実際の柵ではありません。柵というものは普通,人間がかけるものです。しかしここでは,
風が木々の枝から川面に紅葉を吹き散らし,川面に溜まった紅葉を「柵」に見立てているのです。これを,「風がかけた柵なのだ」
と詠んでいるのです。

この歌では,川の上流で風に吹き飛ばされた紅葉が,川に流されて下流に運ばれてきたが,その動きも今は止まって川面に溜まって
いる,という時間の推移が表現されています。つまり「動」から「静」への推移が読み込まれているのです。

この歌は,人の動きと関係なく淡々とめぐる自然の営みと,溜まった紅葉を柵に見立てるおもしろさを見事に表現しています。

同じように紅葉を詠んだ歌が六十九番にもあります。

      嵐吹く三室の山のもみじ葉は竜田の川の錦なりけり
                            能因法師
   
       (激しい風が吹き散らす三室山のもみじ葉は,竜田川の川面を彩る錦だったのだなあ)

これは,上の三十二番とは異なり,実際に竜田の川に行って詠んだ歌ではなく,宮中での歌合で披露された歌です。

ここで「錦」とは,さまざまな色の糸で織り上げた布で,あでやかさ,豪華さ,美しさを表現しています。さまざまな
色合いの紅葉が,まるで錦のようだ,という自然の精妙な美しさを,イメージの中で,あたかも一幅の絵画のように描
かれています。

次の三七番の歌は,むしろ動画のように自然の動きをとらえています。

    白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞちりける
                           文屋朝康

    (草葉の上の白露に風がしきりに吹きつける秋の野は,まるで緒(ひも)を通していない真珠の玉が乱れ散ったようだ)

この歌の場合,草葉の上に結んだ白露が,「しきりに吹き付ける風」によって白玉=真珠が「乱れ散った」,その一瞬
を描いています。

この一連の動きが動画のように鮮やかに描かれています。

前の歌もそうですが,当時の和歌から,歌人たちの自然にたいする繊細な観察眼と,自然の風景によって触発された豊かな
想像力と感性をうかがい知ることができます。これは,当時の人びとが自然に寄り添って生きていたことの証拠です。

次に,自然を描写しつつ,実は作者の気持ちを表現することも中世和歌の特徴です。二十八番はその一例です。

    山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬとおもへば
                             源 宗于朝臣

    (山里は,冬こそ寂しさがいちだんとまさって感じられるなあ。人も訪れなくなり,草も枯れてしまうと思うと)

作者は,光孝天皇の皇子是忠親王の子。皇族として生まれながらも出世できなかった不遇を嘆いていたらしい。

「かれる」という言葉には,草木が枯れるという文字通りの意味と,人が訪れなくなる「離(か)れる」という二重の
意味が込められて
います。

さらに,「かれる」という言葉は,人間と自然両方の衰退や「死」を意味しているのです。

寒々とした冬枯れの風景に,我が身の不遇と,「死」を予感させる究極の寂しさを重ね合わせているのです。

次に,人生を詠んだ歌を幾つか紹介しましょう。まず,六十八番の歌を挙げておきます。

    心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半(よは)の月かな
                                     三条院

    (心にもなく,このつらい世に生き長らえていたならば,きっと恋しいと思うにちがいない)

作者の三条院は冷泉天皇の第二皇子,第六十七代天皇です。この歌の詞書(ことばがき。歌の説明書き)には,
「例ならずおはしまして,位など去らんとおぼしめしける頃,月あかりけるを御覧じて」とあります。

皇子は眼病を患っていて少しずつ視力が衰えていました。しかも三条天皇は,一条天皇によって退位させられて
しまったのです。

作者は病と退位という二重の辛酸をなめた皇族です。

この歌について編者の谷氏は,「わずかに見える視力で仰ぎ見る秋の月はどんなにか美しかっただろう」と
推測しています。

この歌には,死んでしまいたいほど辛い日々ではあるが,後になって振り返ると,まだ美しい秋の月も見えた
あの頃を恋しいと思うにちがいない,という作者の複雑な気持が現れています。

天皇といえども,地位を追われ病に苦しめられて,死を覚悟しなければならない不運と非業が読む人の心を
うちます。

この歌とほとんど同じ内容の歌が八十四番にあります。

     ながらへえばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
                                    藤原清輔朝臣
    
     (生き長らへたならば,つらいと思っている今日この頃も,なつかしく思い出されるのだろうか。
      あれほどつらいと思っていた昔が,今となっては恋しいのだから)

清輔は,公家で和歌に関する幾つもの著作もある,平安時代末期の歌学の大家でしたが,父親との仲が悪く,
出世や境遇に恵まれず,辛い人生を送った人でした。

この歌には,直接的には過去と現在しか歌われていませんが,言外に将来にも言い及んでいます。つまり,
あれほど苦しかった過去も,今思えば恋しいのだから,今の苦しみもまた将来,懐かしく思われるのだろうか,と。

しかし,そんな風に考えなければ生きてゆけないほど,今の苦悩と絶望が深いことを暗示しているのです。

現在のつらさをこのように考えることによって堪え忍ぼうとする気持ちは,昔も今も,そして地位が高くても
低くても変わらない,なまなましい人生の実態ではないでしょうか。

「百人一首」に見られる全ての歌に共通していることですが,いにしえ人は,まず自然と人を分けていないこと,
自分も自然の一部であり,草や木と同じ生き物であるという意識が強かったようです。

このため,自然を描くことは,すなわち自分を描くことでもあったのです。

どの歌をとっても,自然の美しさや厳しさの絶妙な表現は,中世を生きた歌人たちの感性の豊かさを際だた
せています。

また,恋歌にしても,自然,人生を詠んだ歌にしても,満たされない思い,寂しさ,孤独,後悔,恨み,
不遇へ不満など,現代人でも共感できる心情を謳った歌が意外に多いことに驚かされます。

これは撰者の藤原定家の個人的な嗜好かもしれませんが,昔も今も変わらない人生の実態なのかもしれません。

「百人一首」に登場する作者の多くは王侯貴族や宮中の人,高僧など,上層階級人たちでした。

しかし彼らが必ずしも幸せに満ちていたわけではないことも「百人一首」のメッセージの一つです。

むしろ,この世を「憂き世」(「浮き世」ではありません),辛い憂鬱な世界と見る気持ちの方が強かった
のではないでしょうか。

和歌は,読む人によってさまざまな解釈が可能です。しかし,古代・中世の名だたる歌人や知識人が考え抜いて
作った和歌を集めた「百人一首」に撰ばれた歌には,人間としての本性は時代を超えて共通するものがあり,
それが現代でも「百人一首」が読まれる大きな
理由なのではないでしょうか。

一度,一首一首,じっくりと味わってみることを是非お薦めします。

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本の紹介:谷 知子編『百人一首(全)』(2)-恋歌-

2013-06-10 05:51:10 | 思想・文化
本の紹介:谷 知子編『百人一首(全)』(2)-恋歌-


前回は,「百人一首」の全体像と,持統天皇の歌を一つだけ取り上げましたが,今回は,数の上ではもっとも多い,
幾つかの恋歌を紹介したいと思います。

まず,前回書いたように,恋歌は最も多く,百首中43首を占めていまいた。それではなぜ,恋歌がこれほど多か
ったのでしょうか。

独身の時はもちろん,既婚の場合でも,そして晩年になっても恋は人生における一大事だったからです。これは,
昔も今も変わらないでしょう。

とりわけ独身者にとって,恋愛が進んで結婚に至る過程では,期待,喜び,恨み,寂しさ,焦燥,懊悩,落胆な
どの感情が入り乱れる複雑な心の状態が続きます。

恋歌を理解するうえで大切なことは,当時の「恋の作法」です。

少し説明が長くなってしまいますが,当時と現在とでは恋愛事情が非常にことなりますので,恋歌を理解するために
最低限知っておかなければならないことを書いておきます。

当時は,未婚の男女が直接に会うことはできませんでした。そこで,人の噂や評判などから,これぞ,と思う人に
,通常は男性から文(手紙)や和歌を送ることから交際が始まります。

一方,女性は文や和歌から相手の人柄やセンスや自分に対する愛情の深さ,自分との相性などを判断します。

もし,女性の気持が動かなければ,やんわりと断ることになり,それで,ほとんど関係は終わってしまいます。

「百人一首」には,受け入れられない男の無念さや辛さを詠んだ歌がたくさんあります。

もし女性が,会ってもいいかなと感じれば,何回かの文や和歌のやりとりで相手を受け入れることを伝えることに
なります。

ここまでは,恋の主導権は女性の側が握っているようにみえます。もちろん,上層階級の場合,本人同士の意志や気持
とは別に,政略的に引き合わされ結婚させられることこはしばしばありました。

しかしこのような場合には「百人一首」などに登場するような歌が詠まれることはありません。

さて,女性が受け入れると,男性は女性の部屋を訪れて「逢う」ことになります。ここで「逢う」とは単に顔を合わ
せるということではなく,男女の関係になることを意味しました。

ただし当時,男性は朝になったら自分の家に帰らなければなりませんでした。

愛し合った男女が迎えた朝のことを「後朝」(きぬざね)と呼びます。恋人達にとって,朝の到来は別れ別れになる
ことを意味していましたから,恋歌の中には,朝の到来を恨みがましく詠んだものが少なくありません。

以上を念頭において,恋歌をいくつか見てみましょう。ただし,実際の恋愛ではなく,歌会などの設定された場で作
った歌などは,ここでは除くことにします。

まずは,数の上で圧倒的に多かった,男性の恋歌のうち,四十三番を見てみましょう。

  逢い見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり
                  権中納言敦忠(左大臣藤原時平の息子)

  (あなたに逢って愛し合った後の苦しいこの胸のうちに比べたら,昨日までの物思いなんて,
   物の数でもなかったなあ)

ここでも,「逢い見ての」とは,たんに相手の女性の顔を見たというのではなく,男女の関係をもつようになった,
という意味です。

この歌は「後朝」の歌として詠まれたようなので,敦忠が朝になって女性の家から帰る時の辛さを詠んだものと思
われます。

まだ片思いの時,結ばれたらどれほど幸せになれるのかと苦悩していたが,愛が成就して愛し合った今の苦悩と比
べれば,片思いの時の苦しみはまだ軽かった,という男の気落です。

この苦しさの中には,朝になれば女性のもとを離れなければならない苦しさ,次に逢えるまでの,もどかしさ,
切なさなど複雑な感情が含まれていると思われます。

当時も今も,恋愛に関する喜びと苦悩は変わらないけれど,自由な恋愛が制限されていた当時の状況が,恋愛の喜
びと苦悩を一層強めているのではないでしょうか。

次に,もう一つ,男性の側からの歌をみてみましょう。

  君がため惜しからざりし命さえ長くもながと思ひけるかな
                  藤原義孝(右大臣藤原師輔の孫)

  (あなたに逢うためなら捨ててもいいと思っていた私の命だったけれども,あなたに逢えた今朝は,その命
   までも長くあって,逢い続けたいと思うようになりました)

この歌の意味は特に説明を必要としないほど明かでしょう。ここで,重要なことは,命を捨てる,と言う言葉が,
たんに言葉のレトリック,大げさな表現だけの問題ではなく,愛というものは,文字どおり命を賭けるに価する
ほど重要なものとして考えられていたことです。

以上の2首は,恋が成就した男の歌でしたが,もちろん,いつも女性に受け入れられるわけではありません。

むしろ,数からいえば,報われない愛の歌の方が多いかも知れません。一つだけ三十番の歌を紹介しておきましょう。

  有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
                  壬生忠岑

  (有明の月が無情に見え,あなたも冷淡に思えた別れの時から,暁ほどつらいものはありません)

「有明」とは,夜が明けても西の空に残っている月,下弦の月のことです。ここでは,無情に輝く月に冷淡な女
を重ねています。

この歌を詠んだ男は女のもとを尋ねたが,結局,女は逢ってはくれなかった。それ以来,暁の時間になると,
過去の経験が思い出されて辛くなる,という感情が時間の経過をともなう物語風に表現されています。

次に,女性の恋歌をみてみましょう。

   嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
                   右大勝道綱の母
  
(嘆きながら一人で寝る夜が明けるまでの時間は,どんなに長いものか,あなたにはおわかりに
 ならないでしょうね)

女性の場合,一旦男性を受け入れると,とたんに受け身になってしまうようです。というのも,愛が続くか
どうかは,今度は男性が通ってくるかどうかにかかっているからです。

この状況は,通い婚が原則だった当時にあっては,たとえ結婚していても同じでした。

上の歌の作者は,『蜻蛉日記』の著者として有名な藤原道綱の母です。この日記の中で彼女は歌のいきさつを
記しています。それによると,彼女は955年8月に夫,兼家との間に道綱を産んでおり,結婚生活はうまく
いっているはずでした。

しかし,9月には,兼家の手箱に他の女にあてた手紙を発見,10月以降はたまにしか彼女を訪れなくなって
しまいました。

ある時訪ねてきたのですが,そそくさと出て行ったので,召使いに尾行させたところ,案の定,町の小路の女
の家に入っていったことを突き止めます。

それから数日して兼家は彼女を訪れるのですが,彼女は門を開けないで彼を拒絶してしまいます。

まんじりともせず夜通し夫を待ち,結局,朝になってしまうまでの長い時間を,彼女はどれほど辛く淋しい
気持ちでいたかが,読み手にも伝わってきます。

次は,愛の絶頂にある女性の喜びと不安を見事に表現した八十番の歌を紹介しましょう。

   ながからむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
                         待賢門堀河
  
 (あなたの愛情が長続きするかどうか,わかりません。この黒髪が乱れるように,心も乱れて,今朝は
  物思いにふけっています)

ここで,「ながからむ」は「黒髪」の縁語です。そして,「乱れて」は,黒髪の乱れと心の乱れの両方に
かかっています。

寝乱れた黒髪は,男の心変わりを恐れる心の乱れと,昨夜の愛の営みを反芻する喜び,うねるような恋の
物思いの象徴でもあります。

「黒髪の乱れ」,という言葉から,与謝野晶子の『みだれ髪』を連想しますが,与謝野晶子は似たような
歌を一首残しています。

  黒髪の千すじの髪の乱れ髪かつおもひみだれおもいみだるる

谷氏は,「黒髪」を女のエロティシズムや情念の象徴であると解説していますが,「黒髪」という言葉が
「乱れる」という言葉と結びついたとき,それはまさに濃密なエロティシズムと情念を読む者の心に思い
起こさせます。

以上の様に,恋愛にまつわる苦悩,悲しさ,喜び,不安を,当時の和歌は男も女も率直に和歌を通して
表現していました。

恐らく,当時の日本人の,少なくとも上層階級の人々にとって,和歌とは単に趣味の領域ではなく,歌人
としての世間の評価,出世,恋愛と結婚,など人生を賭けた真剣勝負だったのです。

次回は,自然観と,自然に託した人生観などの歌を取り上げてみたいと思います。

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本の紹介: 谷 知子編『百人一首(全)』(1)

2013-06-06 08:23:14 | 思想・文化
本の紹介: 谷 知子編『百人一首(全)』(1)(角川文庫,2010年)
           ―「百人一首」に見る古代・中世の日本人の心情・精神世界ー


昔読んだ文学作品を後で読むと,まったく違った印象を受けることがあります。極端な場合,同じ作品なのに
別の作品を読むような錯覚を覚えることさえあります。

私にとって,「百人一首」がまさにそれです。小学校の低学年のころ,半ば強制的に親から「百人一首」を覚えさせられ,毎年
正月には,「百人一首」のカルタ取りをしました。

しかし当時はただ,「百人一首」の和歌を,意味も分からず丸暗記していただけでした。

中学に入って,古文の勉強になると思い,「百人一首」の解説本を読むようになって初めて,歌の意味がおぼろげながら分かる

ようになりました。

ただ,この「分かった」というのは,たんに文字通りの意味が分かったという程度のことで,そこに込められた人々の心情に共感
できたわけではありませんし,それぞれの歌の詳しい背後の事情について理解していたわけではありません。

それには,何よりも人生経験があまりに少なく,人の複雑な心情を理解することはできなかった,という事情があります。

さらに,分かり易く丁寧な解説本がなかったという事情もありました。

しかし,今回,上に挙げた谷氏編の解説本を読んで,今までよりはるかに深く理解することができ,和歌の世界の奥深さ,いにしえ
の日本人の心情にあらためて感動しました。

ここで紹介する谷氏の本は,古文の現代語訳がとても分かり易いだけでなく,歌そのものの懇切丁寧な説明と同時に,その歴史的・
文化的背景も詳しく説明しています。

読者にとってさらに参考になるのは,所々に,「恋の作法」とか「百人一首のパロディー」,「和歌が生まれる場」などのコラム
が挿入されていて,私たちの理解を一層深めてくれます。

文庫本という形の本ではありますが,内容的には実に優れた本で,古代・中世の日本人の心情や精神世界を知る上で,またとない
案内書となっています。

ここで,「百人一首」について,その概略をごく簡単に確認しておきます。

「百人一首」とは,古代から中世(7世紀~13世紀)に作られた和歌のうち,鎌倉時代に藤原定家が撰んだ百人の歌人の百首を
集め,1235年に完成した歌集です。

ここでいう歌とは,いわゆる和歌で,五・七・五・七・七の32文字から成り立っています。

取り上げられた歌人は主に天皇をはじめ,貴族,高級官吏,宮廷の女官,僧侶など,いわばエリート層です。

男女の比率は,男性歌人が79人,女性歌人は,小野小町や紫式部などを含むが21人です。

内容を見ると,恋歌が43首で一位,四季や自然の歌が32首で二位,あとはその他という構成で,恋歌が断然多かったことが
分かります。

四季の歌の中では,春が6首,夏が4首,秋が16首,冬が6首となっています。

「秋」は当時の文脈では,もの悲しさ,不幸,不運など,どちらかと言えば人生の明るい側面より暗い側面を象徴しています。

これは,撰ばれた歌人はほとんどが不遇な人生,悲劇的な人生を送った人であることに現れています。

このような構成には,時代の変遷,撰者,藤原定家の時代認識,価値観,好みが強く反映しています。

以上のような構成や性格もった歌集ですが,それぞれの歌は一流の歌人のものであり,千年の年月を経た今でも高く評価されて
いる優れた歌ばかりで,当時の日本人の心情が胸に迫ってきます。

以下に,当時の世界観を良く表したもの,私が大好きな歌を,谷氏の解説を参考にして幾つか紹介したいと思います。

なお,歌は時代順に一番から百番まで並べられています。

今回は,一つだけ,持統天皇の第二番歌を取り上げます。持統天皇(在位 690年2月~697年8月9)は第四十一代の
天皇で,第四十代の天智天皇の娘,つまり女帝です。


 春過ぎて夏気来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山
                        持統天皇

この歌の文字通りの意味は,「春が過ぎて夏が来たらしい。夏になると衣を干すという天の香具山に,真っ白い衣が干して
あるよ」です。

これだけ読むと,何の変哲もない,至極当たり前の,春から夏への季節の変化を謳っているだけにみえます。

しかし,谷氏によれば,ここには深い意味が隠されているという。

私たちにとって,季節の推移は至極当たり前,自然のことですが,この当たり前のことを,なぜ天皇がわざわざ歌に詠んだ
のかがポイントです。

この当時,人間社会と四季が順調に運行するのは天皇の政治がうまくいっているからだと考えられていました。

つまり,季節が順調に推移しているのは,天皇の徳政を表しており,おめでたい風景なのです。

ここで,「白妙の衣」は,楮(こうぞ)や麻で織った白い衣を指します。谷氏はこれを,夏の神事に使うための巫女の斎衣
と解釈していますが,私も同感です。

夏の神事がもつ爽やかで清らかな感覚を象徴するような白い衣が,香具山に干されている,ということになります。

天の香具山とは,奈良県橿原市の山で,天界から降ってきたという伝統をもつ,聖なる山です。

谷氏はさらに,天橿明神が人の言動の真偽をはかるために,衣を神水に濡らして香具山で干したという伝説が,定家の
脳裏にあったのではないか,と推測しています。

当時の人は,「天の香具山」と「衣を干す」という言葉を聞いたり目にすると,このような神話を思い浮かべたにちが
いありません。

たった一つの歌についても,これだけの背景があるのです。

一番歌を飛ばして,二番歌を取り上げたのは,一番歌は天智天皇の作とされていますが,真偽が不明だからです。

一番歌は,『万葉集』に登場し,農民の苦労を詠んだ作者不明の歌を元歌にしているらしいのです。

このような問題はありますが,参考までに一番歌を示しておきます。

  秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ
  
  (秋の田の傍にある粗末な仮小屋は,苫葺き屋根の目が粗いので,私の衣の袖は屋根から漏れるつゆに濡れ
   そぼっている)

天智天皇は,即位前は中大兄皇子と呼ばれ,大化の改新に勝利した当時のスーパーヒーローです。

谷氏は,一番歌はやはり天智天皇の作であると推測しています。その根拠は,天智天皇は民の苦労を共に分かち合い,
清貧に甘んじた政治家であったからだというものです。

この点については,私は保留しておきたいと思いますが,「百人一首」全体の構成を考えると,天智・持統天皇という
親子の天皇が詠んだ歌を一番,二番に撰んだことには重要な意味があると思います。

つまり,一番歌と二番歌は,天皇を中心とした古代国家が栄えた古き良き時代の天皇の歌であり,天皇の徳政を謳っ
ていると考えられます。

これに対して,定家と同時代の鎌倉時代の九十九番歌と百番歌は,後鳥羽・順徳院という,同じく親子の天皇ですが,
歌は暗いトーンで覆われています。

後鳥羽上皇は,1221年に「承久の乱」を起こし,天皇の権力を取り戻すべく鎌倉幕府に闘いを挑みますが破れ,
隠岐島に流されてしまいます。

そして,その息子順徳天皇も「承久の乱」のあと,佐渡に流され,そこで死んでいます。

鎌倉の時代には天皇の威光が衰え,代わって武士が実際の権力をにぎっていました。宮廷に深く関わっていた藤原
定家は,権力も威厳をも保持していたかつての天皇の治世に強いノスタルジーを感じて,この一番,二番の二首を
撰んだのではないだろうか。

百人一首には,奈良時代から鎌倉時代にかけて8人の天皇の歌が撰ばれていますが,平安前期までの3人の天皇を
除いて,平安後期以降の5人の天皇は不遇な人生を歩んだ人たちでした。

このように,「百人一首」は,歌の世界であると同時に,時代の変化を映す鏡ともなっているのです。

次回には,代表的な恋歌と人生を詠んだ歌を幾つか紹介します。

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