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大木昌の雑記帳

政治 経済 社会 文化 健康と医療に関する雑記帳

またまた驚きの天才「少年」棋士―藤井聡太新七段の場合―

2018-05-20 06:10:29 | 思想・文化
またまた驚きの天才「少年」棋士―藤井聡太新七段の場合―


このブログで、藤井聡太君を天才棋士として紹介したのは、今年の2月4日のことでした。

この時は、5段になってわずか16日で六段に昇段してしまったことに、私は心底、驚きました。

そして5月18日、この日の対局は、「竜王戦」というタイトルをかけた予選トーナメントの一局
にすぎなかったのですが、対局前からメディアはかなり注目していました。

その理由は、この対局に勝てば、藤井君は史上最年少(15才9か月)、最短期間で七段に昇段し、
加藤一二三氏の記録を61年ぶりに破ることになるからです。

若干15才の、「少年」と言ってよい若者が、プロになってわずか1年7か月で七段に昇段という
のは、まさに驚異的なスピード昇段です。

ちなみに、非常に優秀と言われている棋士でも、7段になるには10数年かかっていることを考え
ると、藤井君の7段への昇段がいかに異例なケースであるかが分かります。

今では、対局中の食事(メディアでは勝負メシと呼んでいる)に何を食べたかがニュースになります。

もはや「藤井聡太」は、社会現象です。

現在、プロ棋士(四段以上)になっている人たちはほとんど、子どものころには天才と呼ばれ、将棋
の世界に入ります。

そうした天才集団の中で、飛び抜けた成績を収めているのが藤井君なのです。

私自身は囲碁ファンで、将棋の面白さは分かりますが、戦術など技術的なことはあまり分かりません。

それでも、藤井聡太君に関しては、ちょっと別格の関心があります。

それは、彼が本当の「天才」であり、そもそも天才とはどんな存在なのかを、将棋を通してみていた
いという強い関心があるからです。

私は、どんな分野でも天才という存在に強い関心と憧れをもっています。これは、自分がごく平凡な
人間だからなのでしょう。

藤井君の対局中の立ち居振る舞いや話から、彼が「天才」だと思う資質いくつかあります。

まず一つは、藤井君を見ていて思うのは、どれほど重大な対局でも、彼は一旦、将棋が始まると、瞬時
にその対局に没頭してしまうことです。

もちろん、この対局に勝ったら昇段できるとか、タイトルと取れるとか、収入が増えるとか、そういう
気持ちは多少あるかも知れませんが、どうも様子をみているとそれが感じられません。

あくまでも彼は謙虚で冷静です。自分の15才の時と比べると、藤井君は本当に15才なのか、と疑い
たくなります。

第二の資質は、集中力が切れないことです。18日の対局もそうでしたが、10時間ちかくの対局中、
ずっと冷静さを保ったまま集中力が切れませんでした。

普通の棋士は、集中力に多少の波はあるものですが、彼の場合、集中力の全く感じられません。

第三の資質は、彼の読みの深さ・速さ・正確さ・鋭さです。これらの能力は棋士の命です。

多くの棋士は、これら四つの能力を長い年月をかけて修行と経験を積んで習得するのですが、藤井君は、
この若さで身に付けてしまっているのです。それも飛び抜けて優れた能力を。

今回も、ある着手の意味が、その時には分からず、ずっと後になってようやく分かる、という場面があ
りました。それだけ、先の先まで読みが透徹しているのでしょう。

第四の資質は、発想の豊かさと柔軟性です。

今回の対局を見ていても、ただ一方的に攻めるのではなく、守るべき場面ではしっかり腰を落として守り、
攻める時には一気に攻める。この攻守のバランスが実に素晴らしかった。

しかも、攻めることも守ることも、実に発想が豊かで、解説者も想定していなかった手が、ここぞという
時に飛び出してくるのです。

今回、相手を投了させた一手は、解説者でさえ気が付いていませんでした。いろいろ展開を予想している
最中に藤井君が指した手をみて、「まさかこの局面で詰め(相手を負かす)手があるとは!」、と驚いて
いました。

読みの深さや鋭さヒラメキは、一言でいえば「センス」と表現できるかもしれません。

では、どうしたらセンスを磨くことができるのでしょうか? これは誰もが知りたいことですが、実は、
一番やっかいな問題です。

ある野球の名手がかつて、「守備は技術だから訓練と経験でうまくなることはできるし教えることもでき
る。バッティングもある程度の技術的なことを教えることができるが、バッティング・センスは教えるこ
とはできなない。バッッティングは最終的にはセンスは天性のものだから」と言ったことがありました。

将棋においても、「定跡」と呼ばれる、長い年月をかけて築き上げられた基本的な戦略や戦術はあります。
プロを目指す人は、定跡をマスターした上で、最高峰を目指して日夜研究と経験と努力を重ねています。

しかし、それでも差がついてしまうのは、やはり何かが違うのでしょう。

努力といえば、藤井君はもちろん、寸暇を惜しんで将棋の研究をしていますが、他の棋士よりも飛び抜け
て多くの時間を割いて研究しているわけではありません。

藤井君は、この3月末まで中学生で、現在は高校1年生の学生です。他のプロ棋士が将棋だけに時間とエ
ネルギーを割くことができるのに対して藤井君は週5日学校に通いながら将棋の勉強もしているのです。

「天才」とはそもそも「天から与えられた才能」です。

五木寛之氏がかつてあるエッセイで、「私は人一倍努力したから、このような成功を収めることができた、
と自慢するのは傲慢だ。なぜなら、人一倍努力することができるということ自体、天から与えられた才能・
資質だから」というような趣旨のことを書いていました。

彼に言わせると、こうした資質を与えられた人は、それを自慢するのではなく、そのことに感謝して謙虚
に振る舞うべきだ、というのです。

藤井君の集中力、発想の豊かさや柔軟性、読みの深さ・速さ・正確さ・鋭さなどは、研究や経験を超えた、
天から与えられた能力・才能としか考えられません。

英語で、このような能力を “gift” つまり「神から与えられた才能」「天賦の才能」と言いますが、藤
井君をみていると、それを感じます。

それでは、私たちの全ては生まれながらの能力によって、優劣がきまってしまうのでしょうか?

私はそうは思いません。

将棋を例にとると、一つは、今のところ藤井君の才能に周囲の棋士がまだ慣れていないために彼の強さが際
立っているという面があると思います。

さらに、読みの力は必ずしも理詰めの合理的な判断というわけではなく、その人の人間としての個性や性格
が多分に影響すると思います。

藤井君は、現在は将棋一筋の人生ですが、これからの人生で人としてさまざまな経験を積んでゆく過程で、
彼の個性も人生観も変わってゆくでしょうから、その時、どのような将棋を指し、どんな棋士になるのか楽
しみです。

藤井君の場合、彼の「天賦の才能」は将棋において花開いていますが、だれでも何らかの「天賦の才能」に
恵まれていて、その人だけの個性を持っていると思います。

私は、天才を尊敬し憧れますが、それと同時にいろんなことに関心をもち、感性豊かな人間が理想です。

それにしても、卓球界や将棋、囲碁の世界(最近、囲碁の世界選手権で日本人として初めて優勝した、17
才の天才棋士、芝野虎丸君)など若い天才がこれほど一度に出現しているのは、歴史的なことで、私として
は当分、興味が尽きません。



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映画『ペンタゴン・ペーパーズ』―自由と民主主義の原点―

2018-04-01 06:36:02 | 思想・文化
映画『ペンタゴン・ペーパーズ』―自由と民主主義の原点―

スティーヴン・スピルバーグ監督、メリル・ストリープ、トム・ハンクス主演の映画『ペンタゴン・ペーパーズ』
(原題はTHE POST)が3月30日に日本で公開されたので、さっそく観にゆきました。

私は、本来アメリカ映画(特にハリウッド映画)はあまり好きではありませんが、この映画に関しては公開を待ち
に待った作品でした。

結論から言えば、この映画はメディアにたずさわる人はもちろん、私たち一般国民も是非、観るべき映画だとの印
象を持ちました。

この映画は、1971年に起こった実話をもとにドラマ化されたものです。この年、軍事アナリストのダニエル・
エルズバーグがベトナム戦争に関する国防省(ペンタゴン)の最高機密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)をコピー
し、それを『ニューヨーク・タイムズ紙』(以下『タイムズ紙』と略す)に渡します。

この機密文書は1967にマクナマラ国防長官の指示で作成されたもので、そこにはトルーマン、アイゼンハワー、ケ
ネディ、ジョンソンの4代の政権にわたって、ベトナム戦争について、あたかもアメリカの軍事行動が順調に展開
しているかのような虚偽の報告がなされていたために、泥沼に引きずり込まれていった、という驚くべき事実が記
録されていました。

エルズバーグは、(おそらくタイムズ紙の記者に)、このことが分ったら、あなたも逮捕されるかもしれないよ、
と言われますが、死者を減らすことができれば、それでもかまわない、と答えます。

『タイムズ紙』は、機密文書に基づいてスクープ記事を連載で発表し、それは大きな反響を呼びました。しかし、
当時のニクソン政権は「国家の安全を脅かすもの」として『タイムズ紙』を提訴し、出版差し止め命令が出されて
しまいます。

この事態に立ち上がったのは、ライバル紙である『ワシントン・ポスト紙』でした。

『ポスト紙』も4000ページにおよぶ機密文書を手に入れます。そのことを、編集主幹のベン・ブラッドリーに
告げられ決断を迫られた社主のキャサリン・グラハムは記事を発表すべきかどうか悩みます。

グラハムは夫の自殺で専業主婦から突然社主になったいわばこの世界では素人です。ただでさえ、女性の社主とい
うのは大手メディアでは彼女だけで、周囲からは冷ややかに見られていました。彼女にとって、重すぎる決断です。

顧問弁護士は、もし記事にしたらニクソン政権によって提訴され、悪くするとグラハムもブラッドリーも逮捕され、
新聞は廃刊に追い込まれてしまうかも知れないと言い、財務担当者は投資家たちが資本を引き上げてしまう可能性
があるという理由で、記事の出版はやめるべきだとグラハムに勧告します。

会社の存続、社員の生活、自身の身柄の安全など、さまざまな問題に突き当たって、グラハムは悩みます。

しかし、編集主幹のベン・ブラッドリーは、『タイムズ紙』に負けない独自の記事を発表すべきだと主張します。

グラハムは悩んだ末に決断をします。そのシーンを『ニューズウィーク』は、
    これまでの人生の不安、迷い、なおざりにしてきたこと、抑え付けてきた反抗心。それらを全て吐き出す
    かのように彼女は口を開く。「いいわ、公表しましょう」。素晴らしい解放の瞬間であり、映画史上最高
    の名場面だ。
と評しています(注1)。

実際、この場面では私も、胸が熱くなる思いでした。

『ポスト紙』は公表に踏み切りますが、予想通り、ニクソン政権は「国家の安全を脅かす」記事として提訴します。

しかし、最高裁判所の判決は、9人の判事のうち6人がニクソン政権の提訴に反対し、3人が賛成という結果で、ニク
ソンは敗れ、『ポスト紙』も『タイムズ紙』」も記事を自由に書くことが認められたのです。

判決後、裁判長は政府の提訴を退けた理由として、報道の自由は民主主義の基礎である、との声明を発表します。

この映画は、無名の新人リズ・ハンナがだめもとで送ってきた脚本をスピルバーグが見たことが発端となりました。

スピルバーグがこの映画の製作を決意したのは、トランプ大統領就任45日目のことだそうです。しかも、彼は新作
映画の製作を中断してまでも、この映画の製作を急いだのです。

この背景を、映画ライターの紀平照幸氏はつぎのように、解説しています。
     さて、ではなぜスピルバーグがこの映画を急いで作る必要があったのか。それは現在の政治情勢の中で、
     どうしても言っておきたいことがあったからではないでしょうか。もちろん「報道の自由」に関してのこ
     とです。民主主義国家の中にあって、政府がメディアに干渉することはあってはならないこと。政府が国
     民を欺き、国民の生命を脅かすのならば、メディアはそれに対して命がけで戦わなければならない。そん
     な信念を持って生きたジャーナリストたちを描くことで、今を生きる人々も現状に目を向けてほしい、と
     いう願いが込められているのだと思います。映画の中ではニクソン大統領に関してはっきりとは描写され
     ていませんが、それゆえに観客はそのシルエットに現在のトランプ大統領の姿を重ねて見ることができる
     のです(注2)。

映画の最後に、ニクソン大統領らしき人物が電話で話しているシルエットが映し出されますが、はっきり映像化して
いないからこそ、観客はそこにトランプ大統領の姿に重ねてみることができるのです。

良く知られているように、後にニクソン大統領の不正に関する「ウォーターゲート事件」が発覚し、ニクソン大統領
が辞任に追い込まれたのも、こうした機密文書の漏えいと曝露から始まりました。

スピルバーグ監督が急いでこの映画を製作したのは、メディア攻撃、自分を批判するメディアの報道をフェイク・ニ
ュースと言って攻撃するトランプ大統領に対する危機感、民主主義の根本が歪められる危機感です。

アメリカは、人種差別(白人優位主義)や銃による犯罪、麻薬のまん延など、確かに多くの問題を抱えています。

しかし、自由と民主主義に対する強い意志があることも事実です。さらに、大統領といえども報道の自由は侵すこと
はできない、もしそのような行為に出ようとすれば、命を賭けて守ろうとする気概があります。

さらに、裁判所も自由と民主主義を守、という観点から時の権力から独立した判断を下す、いわゆる司法の独立性が
維持されています(言い換えると「三権分立」が名実ともに実現している)。

こうした意味では、アメリカ社会のあり方がうらやましくもありました。

映画を観ながら、そして見た後、もしこれが日本ならどうなったのだろうか、とずっと考えていました。

まず、非合法的に極秘文書をコピーしたエルズバーグは処罰されませんでしたが、日本では間違いなく有罪となるで
しょう。

次に、こうして漏えいされた秘密文書に基づいていること分かっていながら、それでも裁判所は「報道の自由」こそ
が民主主義の基礎であり、真実を知るうで大切であると認めていることです。日本の政府にも裁判所にもこのような
意識はあるでしょうか?

権力をもった者は、自分に都合が悪いことは隠すし、批判は抑え込もうとします。それでも、命をかけて真実を伝え
ようとするジャーナリストの魂は日本のメディアにはあるでしょうか?

今の安倍政権は、政権に批判的なメディアに対して敏感に反応し、抑え込もうとしているように見えます。

最近、麻生財務大臣が、新聞が森友問題ばかりを報じてTPPのには1行も触れていない、これが日本の新聞のレベル、
と新聞批判をしたことなどはその最たるものです。(しかも事実とは違う個所が3つもある)

国際NGOの「国境なき記者団」は2017年6月26日、2017年の「報道の自由度ランキング」を発表しました。調
査対象の180カ国・地域のうち、日本は前年と同じ72位で、主要国7カ国(G7)では最下位でした。

日本は10年の民主党(当時)政権時には11位でしたから、安倍政権になって急激に自由度ランキングが下がってし
まいました。

「国境なき記者団」は、安倍政権になって「メディア内に自己規制が増えている」「政権側がメディア敵視を隠そうと
しなくなっている」などと、日本における政権とメディアのありかたを問題視しています(注3)。

日本で1996年から20年近く日本で特派員として仕事をしてきたマーティン・ファクラー氏(2014年当時はニュー
ヨークタイムズ東京支局長)は、『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』(双葉社、2016)の中で、日本のメディアと
安倍政権との癒着関係を問題視しています。

彼は『東京新聞』(2014年12月20)の記事その他「首相動静」記事を引用し、日本のメディア幹部が安倍首相と会
食をしている事実を指摘しています。

そのメディアには、テレビ朝日(社長)、幻冬舎社長、読売新聞会長と論説主幹、毎日新聞社長、産経新聞会長、日本
経済新聞社長、共同通信社長(社長や会長)、朝日新聞政治部長、日本テレビ社長、フジテレビ会長、時事通信社解説
委員(いずれも2014年当時)頻度はさまざまでしょうが、安倍首相と夕食をともにしていることがわかっています。

ファクラー氏は、この会食を安倍政権がメデイアに投げる「アメ」と表現し、中には首相と会食することで舞い上がっ
てしまう人もいるかもしれない、と述べてます。

ファクラー氏は、「安倍政権のメディア・コントロールは実に賢い」「私はメディア・コントロールに努める安倍政権
よりも、やすやすとコントロールされるままでいる日本のメディアに強い危機感を覚えている」、と危惧しています
(28~29ページ)。
 
日本に、自らの身を危険にさらして機密文書を漏えいしたエルズバーグ、社運をかけて事実を公表したグラハム、それを
記事にしたブラッドリーのように、ジャーナリストとして命をかける人物はいないのだろうか?

私は日本のメディアの現状に強い危機感をもちました。

繰り返しますが、この映画を観て、日本の報道の自由や民主主義について考える機会にして欲しいと思います。


(注1)『ニューズウィーク電子版』(2018年3月30日 18:30)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/03/post-9855_2.php
(注2)FUFFINGTONPOST(2018年3月30日)
https://www.huffingtonpost.jp/kihira-teruyuki/pentagon-2018-0330_a_23399106/
(注3)『朝日新聞 デジタル』(2017年4月26日)
    https://www.asahi.com/articles/ASK4V5VV7K4VUHBI02S.html

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きれいに整列した桜並木もきれいですが、雑然とした桜の塊も迫力があります。        桜と同時期に咲く白いユキヤナギも大好きです(子どもの頃からコメザクラと呼んでいました)

 


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平昌オリンピック―開会式にみる物語とメッセージ性―

2018-03-04 08:20:46 | 思想・文化
平昌オリンピック―開会式にみる物語とメッセージ性―


2018年の冬季オリンピックの前半は幕を閉じ、これからパラリンピックが始まります。

私はスポーツは大好きですが、なぜかこれまで冬季オリンピックにはあまり関心を持っていませんでした。

しかし、さすがにスピードスケートとフィギュアは好きで、オリンピックでなくても注目していました。

競技については、さんざんメディアで取り上げてきましたので、ここでは私が注目した開会式について書い
てみたいと思います。

というのも、開会式でどのようなメッセージをどのように伝えるかという問題は、開催国のセンスがはっき
り表れるからです。

思い出すのは、1998の長野で行われた冬季オリンピックの開会式です。

この時の総合演出は劇団四季の創設者、浅利慶太氏でしたが、当時も不評でしたし現在でも評判が良くあり
ません。

今回、改めて Youtubeで長野オリンピックの開会式の映像を見てみました。

まず、諏訪神社にまつわる御柱の儀式的が行われ、続いて相撲の力士が入場します。最後に藁で作った帽子
と蓑を見に着けた子どもたちが現れます。

私ががっかりしたのは必ずしも、豪華さを欠いた地味な演出だからだったからではありません。

そうではなくて、それぞれのパフォーマンスの間に何の関連性も物語性もなく、日本とはどのような歴史と
伝統と文化をもっているのか、そして、このオリンピックをさせる理念は何なのか、が少しも表現されてい
なかったからです。

私が開会式に注目するようになったきっかけは2000年のシドニー・オリンピックの時でした。

シドニー・オリンピックの開会式は、まず、この国の先住民であるアボリジニの登場から始まり、そこに最
初はイギリス人が、続いてあらゆる国の人びとが移民としてやってきてきた歴史が描かれました。

もちろん、白人がアボリジニを征服し、オーストラリアの大地を支配してきたことは事実であり、全体とし
てその過程を少しきれい事ごとに描きすぎている印象はありました。

しかし、それでも、アボリジニも含めて多人種、多文化主義、の融和と協調という、オリンピック精神その
ものが明確なメッセージとして伝えられたことでした。

では、今回の平昌オリンピックの開会式はどうだったのでしょうか?

実を言うと、私はこれまでも韓流ドラマ、とりわけ『朱蒙』やその続編である『風の国』その他の歴史ドラ
マを何回も観ています。

私がこれらの韓国の歴史ドラマに惹かれるのは、何よりも物語としての面白さとテンポの良さです。

たとえば1話を見ると、直ぐに2話を、3話を、と見たくなり止まらないのです。

さて、平昌オリンピックの開会式ですが、これは長野オリンピックと比べることには無理があります。

なにより、20年近い年月が経ち、コンピュータ技術と映像技術の進歩は以前とは格段の差があります。

それを考慮しても、今回の開会式は韓国の演出家、脚本家、映像技術者、その他あらゆる関係者の総合的な
力量が見事に結集し、全体として見応えのある物語性があり、メッセージもしっかり伝わってきました。

この物語は5人の子供たちが、山の神の使いである白虎に導かれて過去へ旅をするシーンから始まります。

虎が導いたのは白頭山でした。ここは、現在は北朝鮮の国境内に入っていますが、朝鮮半島に住む人びとに
とって、ここから民族が始まる起源の山、聖地です。

ここから、神話の世界が多数の女性の舞や踊りで表現され、その中から朝鮮の最初の国を創ったタングンが
紹介されます。

これから先は韓国(朝鮮)の伝統、農民の日々の暮らしの中から生まれ受け継がれてきた農楽が、上が白で
下が赤のチマチョゴリを着た300人を超す女性たちによって演じられます。

農楽は、チャングという太鼓を打ち鳴らしながら踊る民衆芸能で、お祭りや祝いの席で演じられるそうです。

太鼓が奏でる音とチマチョゴリの女性たちの演舞は音楽的にも視覚的にも実に楽しいパフォーマンスでした。

開会式で見せた芸術性は、多くの人に感動を与えたのではないでしょうか

次に、メッセージ性について考えてみます。

選手の入場の際に何度も解説されていましたが、韓国・北朝鮮の選手団の先頭を行進した人は、朝鮮半島全
体を描いた南北統一旗をもって入場したことです。

もちろん、今回は韓国が開催国でしたから、韓国の国旗を掲げても問題はなさそうですが、少数とはいえ北
朝鮮の選手が参加している以上、それはできなかったと思います。

これは、韓国側の配慮であり、南北対話を進めたい文在寅大統領のメッセージでもあります。

考えて見れば、今回のオリンピックで文大統領は北朝鮮に向かってホッケーの合同チームを作ることや、他
の競技に参加することを積極的に呼び掛け、実際にそのようになりました。

このこと自体が、世界のとりわけ、軍事行動も視野に入れているアメリカに対する重要なメッセージでした。

文大統領のメッセージは明らかで、「対話と融和」「統一と平和」です。

日本のメディアの一部には、オリンピックの政治利用だ、と文大統領を批判する声もありましたし、安倍首
相は、この「微笑み外交」に惑わされず、最高度の圧力をかけ続けよう、と繰り返して発言してきています。

日米政府は南北融和には否定的ですが、韓国には韓国の利害があり、万が一にもアメリカが軍事行動に出た
場合、最初に大きな被害を受けるのは、間違いなく韓国です。

私が、もう一つ、強いメッセ―ジ性を感じたのは、開会式の終わりの方で、4人の歌手が歌った、ジョン・
レノンの「イマジン」でした。

迫りくるアメリカの軍事行動という緊迫した状況の中で、「イマジン」の一節は次のように訴えます(以下
は、私の意訳であり、必ずしも直訳ではありません。)

想像してごらん 国境のない世界を          Imagine there's countries
それは難しいことなんかじゃないんだよ        It is not hard to do  
殺す理由もなければ殺される理由もない        Nothing to kill and die for
宗教も存在しない                  And no religion
想像してごらん すべての人が            Imagine all the people
平和の中で生きている世界を             living in peace 



誰が「イマジン」を選局して、この開会式で歌うことを決めたのかは分かりません。しかし、テレビ画面の
向こうで歌っている4人の歌声からは、心の底から平和を望む気持ちが強烈に伝わってきます。

「9・11」の後、アメリカ国民の大部分がイラク・アフガニスタンへの軍事攻撃をすべきだという熱気に
包まれました。当時アメリカでは、ジョン・レノンの「イマジン」を放送で流すべきではない、と言う世論
がわき上がったことを、この4人は十分知っていたと思います。

古代ギリシアでは、たとえ戦争中でもオリンピックが開催されている間は戦争を中断したという。だからこ
そ、この4人は「イマジン」を歌ったのではないでしょうか。

そして、彼らの歌を聞いていた韓国・北朝鮮の人びとはどのように聞いたのでしょうか。

文大統領のメッセージに賛成は反対かは別にして、何のメッセージ性もないことは、オリンピックの主催国
として、これほど情けないことはありません。

さて、2年後の東京オリンピックで日本はどれだけの芸術性とメッセージ性を演出できるのか、楽しみです。
少なくとも、長野オリンピックのような、両方とも欠けた開会式にはして欲しくないと思います。

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春の香りと言えば、何といても梅です。                           もう一つ私にとって春の香りといえば、土手に自生する「野びる」です。
  
                                              
                                             ざるの中の、白い球がたくさんある方が、摘んだばかりの「野びる」(野性のニンニク)で、
                                             もう一つの束はラッキョウの子どもです。両方とも味噌をつけて食べると、濃厚な春の香り
                                             がとは味が口いっぱいに広がります。私にとって春には欠かせない自然の贈り物です。







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天才棋士・藤井聡太の衝撃と魅力―天才が経験と知識が吹き飛ぶ―

2018-02-04 09:26:42 | 思想・文化
天才棋士・藤井聡太の衝撃と魅力―天才が経験と知識を吹き飛ばす―

昨年から、将棋がにわかに世間の脚光を浴びています。

言うまでもなく、天才棋士・藤井聡太君の登場がきっかけでした。

全ては、一昨年の12月24日、将棋界の最年長者の天才プロ棋士、加藤一二三氏と、当時は14才で最年少のプロ棋士
になったばかりの藤井4段との対局で、藤井4段が勝ったことから始まりました。

これは鮮烈な印象を世間に与えたデビュー戦でした。

以後、破竹の勢いで上級者、ベテラン勢を負かし続け、ついに、これまでの連勝記録28を破って29連勝を達成してし
まいました。

それ以後、今日までの記録が、これまた尋常ではありません。

現在、勝ち数でも勝率でも、全棋士の中でトップなのです。

2月1日に行われた対局で勝って、またまた記録を破り、中学生(15才)で5段に昇段したのです。

厳密な意味では加藤一二三氏の方が月数で、わずかに早く5段に昇段しましたが、かれは早生まれのため、高校1年生と
いうことになります。

プロになって1年、中学生が5段になる、という事実に私は衝撃を受けました。

テレビやインターネットでは、対局中に藤井君が昼食や夕食に何を注文したかが、“速報”として流れてきます。すると、
対局場に観戦に来ていた人や近くの人が、どっとその店に押しかけ、直ちに長蛇の列となってしまいました。

もちろん、同じ店の同じものを食べるためです。

また、2018年1月号(17年12月発売)女性誌『家庭画報』は、付録に将棋盤と駒をつけたところ、たちまち完売
となったそうです。

街の将棋教室はたちまち申込者が殺到し、第二、第三の「藤井」を目指す少年・少女棋士で盛況を極めているようです。

藤井少年が小さい時、キュボロという玩具でよく遊んだという話が伝わると、注文が殺到し、いまでは数か月待っても買
えない状態です。

また、藤井少年が通った「モンテッソーリ」という自由な教育方針をもつ幼稚園に通った、と聞けば、各地のモンテッソ
ーリへの問い合わせが急増しました。

こうなると、もう、完全に「藤井現象」ともいうべき社会現象です。

その特徴は、子どもは言うまでもなく、大人も女性も藤井現象の熱気に煽られている感じです。

私自身は囲碁のファンで、囲碁番組はよく見ていますし自分でも実際に碁を打ちますが、将棋にはあまり興味はありませ
んでした。

ただ、多くの囲碁ファンがそうであるように、将棋の指し方は一応知っていて、将棋の一手・一手の意味はわかります。

私が、藤井新五段に関して、感動するのは、以下の4点です。

まず、中学生とは思えない、落ち着きと冷静さをたたえていること。これは、とうてい中学生とは思えない淡々とした雰
囲気を対局中に漂わせています。

次に、中学生の口から、「自分にとって望外なので、素直にうれしい」あるいは「自分の実力からすれば僥倖としか言い
ようがない」など、普通の大人でさえめったに使わない難しい言葉が、すらすら出てくるところに彼の教養を感じます。

三つは、現在、コンピュータのAI(人口頭脳)・ソフトを使っての研究は棋士の間では当たり前ですが、藤井君の場合
は、その使い方がちょっと普通ではありません。

あるテレビ局の記者に、藤井君もコンピュータを使っての研究をしますか、と問われて、「最近やるようになりました」
と答えたあとの、その理由に私は、驚きました。

彼によれば、コンピュータ・ソフトを使うのは、コンピュータによって新手や妙手を発見するためというより、それで研
究している棋士への対応策を考えるためだというのです。

これも普通の発想ではありません。コンピュータで研究している棋士の一枚、上をいっている印象を受けました。

最後に、私は、29連勝した時の対局も、今回5段に昇段した時の対局も、その他の対局もテレビやインターネットで見
てきました。

彼のすごさは、上級の解説者でさえ思いつかない思い切った手を打つことです。しかも、打ったその時は、この手にどん
な意味があるのか分からないような手が、実は相手を負かす重要な手であったことが、ずっと後になって判明することが
しばしばあります。

もう一つ、藤井将棋の魅力は、リスクをおかしながらも、最速の勝ちに向かって直進してゆく勇気と読みの確かさです。

普通の棋士は、自分の方が有利で余裕があれば、多少、遠回りでも安全・確実に勝つ手を打ちます。つまり「安全勝ち」
を目指します。

しかし藤井君は「安全勝ち」ではなく、敢て危険を冒してまで最短の詰みを目がけてまっしぐらに突き進んでゆきます。

もし、少しでも自分の読みに間違いや見落とし、さらには自分の考えの上を行く手を相手が打ってきた場合には、あっと
言う間に逆転してしまいます。

このような緊迫した場面でも、彼はあくまでも冷静に勝負の展開を読み、そして結論がでると、一気に攻めて勝ってしま
います。

これこそが天才の天才たるゆえんでしょう。

見ている方はハラハラしますが、本人は最後の勝ちまでを読み切った、いわゆる「読み切り」の状態にあるのです。

プロになったばかりの中学生が、8段とか9段のベテラン棋士にはかなうわけはないと、考えるのが普通でしょう。

というのは、これらベテラン棋士には長年にわたって培った知識と経験、熟練、対局観などがあるからです。

しかし、藤井君のような天才が出てくると、こうした知識や経験などどこかに吹っ飛んでしまいます。

今や、4段より9段の方が強いとは言えないのです。

将棋から他の分野に目を移してみると、同じようなことがあちこちで起こっています。

男子卓球の張本選手(14才)は、リオ・オリンピックで個人銀メダルの水谷選手(27才)に引退を考えさせてしまう
ほど圧倒的な強さで破ってしまうし、女子卓球界では、福原愛選手はもう、遠い過去の人となり、これまでのホープだっ
た石川佳純選手(27才)は、伊藤美誠選手(17才)、平野美宇選手(17才)には勝てなくなっています。

スノーボードでもスキーのジャンプでも、つい2~3年前まで日本のトップ・アスリートが、若手、しかも10代の選手)
に勝てなくなっています。

これは実に残酷な現実です。

アスリートの世界では、世代交代が急速に進んでいますが、いわゆる全盛期というもが、非常に短くなっています。

再び、藤井君に戻ると、もはや長年にわたって培ってきたベテラン棋士の経験と知識は、天才によって情け容赦もなく吹き
飛ばされてしまいます。

昨年、佐藤現名人が藤井四段に敗れた時の、佐藤名人の心中はどのようなものだったのだろうか?

今後の藤井君が才能に加えて経験と知識が蓄積されてゆくと、どこまで伸びるのか、これからが楽しみです。




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江戸時代の食と生活(2)―『下級武士の食日記』より―

2017-08-27 06:28:44 | 思想・文化
江戸時代の食と生活(2)―『下級武士の食日記』より―

前回に引き続き、青木直己『下級武士の食日記』(筑摩書房、2016)を手掛かりに、江戸時代の食と生活についてみて
みましょう。

日記の作者で本書の主人公の酒井伴四朗は28才の時、幕末の万延元年(1860)、初めて江戸勤番(紀州藩=和歌山藩の
江戸屋敷でのお勤め)を命じられて、単身赴任をし、計1年7か月、江戸詰めをしました。

彼の役職は、膳奉行格衣紋方、簡単に言えば、殿様の衣装に関する責任者でした。

前回の記事では、5月11日に和歌山を発って、中山道を江戸に向かう途中で彼が食べた物を中心に、人々の食生活と生活
ぶりを紹介しました。

彼は5月28日に板橋宿に到着し、翌日、いよいよ江戸赤坂にある紀州和歌山藩の藩邸入りを待つところから紹介します。

その前に、これから説明する内容を理解しやすくするために、彼の懐具合を見ておきましょう。

伴四朗は下級武士で、俸給は年25石(1石は現代の75,000円~100.000円)で、約190万円~250万円)でした。

彼が、江戸詰のためにもらった手当は年39両(現在価値にして約500万円)で、故郷の和歌山での俸給よりはるかに
多い金額でした(注1)。しかし、当時は江戸の物価が高騰していたので、伴四朗は時には大盤振る舞いをしますが、通
常は実につつましい生活でした。

このために、1年間の支出は23両でしたから、約4割を節約したことになります。

さて、長い旅の疲れを癒し、翌日からの宮仕えを前にして、彼の一行は、女郎屋を冷やかしたり、新内流し(注2)を呼
んで ”語り”を聞いたりします。その時の ”語り”の報酬に百文(1文=20円。2000円)払いました。

幕末の江戸で庶民に親しまれた食べ物は鮨とそばでした。著者の青木氏によれば、鮨は1個8文(160円)くらい、かけそ
ばや盛りそばは16文(320円)で食べられたそうです。

伴四朗はそばが大好きなようで、江戸滞在の1年間に31回もそばを外食したと記しています。

ただし、ちょっと贅沢な天ぷらそばは(64文=1280円)、五目そば(百文=2000円)、そば御膳(80文=1600円)
と、結構な値段がしました。庶民が日常的に食べられるものではありませんでした。

ちなみに、幕末の、江戸庶民(たとえば大工)の年収を推計すると、年に200日仕事があったとして、150万円ほどだった
と思われます(注3)。

当時は物価も安かったから、これでも生活はそれほど苦しくないような印象をもっていますが、こうした値段を考えると、
庶民の暮らしは結構、苦しかったのではないでしょうか。

「江戸っ子は宵越しの銭は持たねえ」という言葉がありますが、庶民は宵越しの銭を持てない、ギリギリの生活実態だっ
たのです。それを、正面から認めるのはしゃくなので、粋を装って、「宵越しの銭は持たねえ」と言って見せたのです。

伴四朗は、自炊を中心に生活していますが、しばしば外食もします。大好きなそばの場合、通常はかけや盛りそばと酒、
という食事でしたが、時々は贅沢をしたようです。

江戸住まいになって伴四朗が直面した問題に、水の確保がありました。寛永年間(1624-44)に神田上水が開鑿され江戸
北部への給水が始まりますが、まずは江戸城や武家屋敷が優先されました。

また、承応三年(1654)には玉川上水が完成し、大名の藩邸や、町屋にも給水が始まりました。

しかし、伴四朗が住んでいたのは和歌山藩の藩邸内にある粗末な長屋で、当初は藩邸内に引き入れられた玉川上水の水を
汲んで、長屋に溜めて使っていたようです。

しかし、7月16日に水事情が一変し、この日から毎日水汲みを雇って、毎朝1荷(桶二つ)を運んでもらうことになりま
した。水の使用は毎日のことなので、大変だったのでしょう。

伴四朗が後に書いた文書によると、1か月の水汲み代は8000円ほどだったようです。

埋め立て地が多い下町では、井戸を掘っても出る水は飲料には適していませんでしたので、幕末になっても、井戸や玉川
上水の余水を汲んで、秤棒で水桶を担いで売る商売人がいて、庶民はこの水を買っていたのです。17~18世紀のロン
ドンやパリも同様でした。

さて再び食べ物ですが、伴四朗が豪商、三井家に、衣冠束帯(どんな時にどのような衣装を身に着けるかの作法)の稽古
を依頼され、そのお礼に出された料理の内容を日記に付けています。

その時出されたのは、吸い物として、ぼらの味噌汁、口取り肴は蒲鉾、寄せ物は芋、栗、なが芋、玉子巻、ぼらの刺身と
貝柱、生海苔と大根があしらわれていました。それらを肴に酒をしたたか飲み、最後に蒲鉾の味噌汁、平皿に盛られた芹、
椎茸、蒲鉾、麩でご飯を食べ、菓子の土産まで持たされました。

伴四朗が「御馳走」と日記に記しているくらい豪華な食事で、さすが豪商三井家ならではです。

翌日も三井家に稽古に出向きますが、その時にだされた料理の品は、蒲鉾の味噌汁、蒲鉾、いなだ、椎茸、なが芋、芹の
平皿に茶漬け、でした。

以上の品をみると、蒲鉾、なが芋、椎茸、芹は、定番で、それに何らかの魚(ぼら、いなだ)、そして、季節のものとし
て芋(多分里芋)と栗が加えられています。「なが芋」とは自然薯(山いも)のことでしょうか?

江戸には各藩の江戸屋敷があり、親交のある藩同士のつきあいもあったようです。紀州和歌山藩は徳川御三家の一つで、
初代藩主の次男が伊予西条藩の藩主となった関係もあり、江戸でも両藩の間には付き合いがあったようです。

ある日、伴四朗、叔父、使用人の3人で、渋谷の伊予藩邸に出向いたときに出されたご馳走は、あじの干物、からスミ、
いさき、いも、ぜんまいの甘煮、そしてどじょう鍋でした。

この場合のどじょう鍋は、いわゆる「柳川鍋」のようで、これは、どじょうの頭と内臓を取り除いて開き、土鍋でささが
きごぼうを入れ、味噌、醤油で煮て卵でとじたものでした。

柳川登場以前は、どじょうを丸のまま味噌や醤油仕立ての汁で煮たもので、丸煮と呼ばれていました。

伴四朗の江戸詰めのころ、店で食べると、どじょう汁は一椀16文(320円)、丸煮の鍋は48文(960円)であったのに
たいして柳川鍋は200文(4000円)もしました。

柳川鍋は、庶民が気軽に店で食べられるものではありませんでした。

伴四朗はどじょう鍋が好物の一つで、外食では年に9回も食べています。伊予藩邸に行った翌日、どじょう鍋(おそらく柳
川)と鮨を400文(8000円)で買っています。

それだけではなく、自分でも生きたどじょうを買って、自分で調理しています。それでも、1回50文(2000円)もしたか
ら、決して安い食材ではありません。

これに対して、伴四朗は、はまぐり、あおやぎ(ばか貝)、しじみ、かきなどを何回か買っていますが、一回当たり12~
16文(240~320円)と比較的安かったことが分かります。

江戸時代には、ぼら(鯔)は庶民にもよく食べられたようで、きっぷが良く、さっぱりして威勢のいい若者を鯔背(いなせ)
という表現もありまうす。

伴四朗もぼらを買ってきて、自分で調理して酒の肴にしています。

江戸の庶民にとって、魚介類は身近な食材であったようですが、意外にも、鶏その他の鳥以外の獣肉も結構、食べられていた
ようです。

ある日、伴四朗は風邪をひいて、朝から鼻水に悩まされていましたが、食欲はあったようです。平河天神へお参りしたあとで、
琉球芋(さつまいも)に栗と砂糖を入れて練った、「芋ようかん」を12文三つもたべています。

同僚と夕方に、そば屋に入り、たこ、なが芋、れんこんの甘煮を肴に「薬代」の代わりと称して酒を二合のんでいます。

そして、注目すべきことに、翌日も「薬」代わりに酒を飲もうと、生の豚肉を100文(2000円)で買っています。

江戸時代の日本人には肉食の習慣はなかったと言われていますが、サルや鹿を滋養や健康のために食べることはあったようで
す。これを「薬食い」と呼んでいました。

伴四朗はサルではなく豚をよく食べ、外出先でも豚鍋で酒を飲んでいます。

「風邪薬」を理由に豚を食べたことになっていますが、「ぶた買い 大おごり」という文書も書いているので、”風邪”は言い
訳、単に豚肉が好きだったようすです。

牛、豚、馬、かもしか、“山鯨”言い換えられた猪、うさぎ、などの獣類も食べられていたことは確かです。

江戸時代には、平河天神の北側には獣肉を売る店(俗に獣店=けものだな)呼ばれる店がたくさんありました。

だいぶ前の話ですが、東京で旧武家屋敷の土地で建築のため土を掘ったところ、大量の大型獣の骨が出てきた、というニュース
がありました。

恐らく、外部の目の届かないところでは、肉食はかなり浸透していたのではないでしょうか。

以上の他にも、ここでは紹介しきれないほど数多くの江戸の食に関する記述がありますので、関心のある方は、是非、一読をお
勧めします。


(注1)著者の青木氏は、幕末の貨幣価値について、いろいろ調べた結果、1文を現在価値にして20円、1両を128,800円として計算しています。
(注2)「新内流しは、江戸浄瑠璃の一派で、哀調のある節廻しに特徴がある。江戸では吉原や盛り場を2人一組で三味線を抱えてながしていた。
(注3)https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1272394342 (2017年8月25日閲覧)
    このサイトでは大工は年290日働いたこととして年収を計算していますが、私はせいぜい200日くらいだったのではないか、と推測しています。

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江戸時代の食と生活(1)―『下級武士の食日記』より―

2017-08-20 07:13:46 | 思想・文化
江戸時代の食と生活(1)―『下級武士の食日記』より―

私の本来の研究領域は、東南アジア(特にインドネシア)の歴史ですが、ここ4~5年、日本の江戸時代に興味をひかれ、
かなりの時間を江戸時代の研究に費やしています。

それは、長年、漠然と感じてきた疑問をどうしても解明したいという気持ちが抑えがたくなったからです。

その疑問とは、日本という国は、それほど大きな国土面積をもっているわけではないのに、なぜ、これほど社会や文化が
多様性(地方性)に富んでいるのか、というものです。

たとえば、言葉にしても、少し離れるともうアクセントや使われる単語や表現が異なることがあります。30年ほど前に
住んでいた愛知県の長久手町(現在は市になっている)の我が家から数十メートルも離れると、言葉は「長久手弁」から
「三河弁」になってしまいます。

そういえば、この両者の境をなす場所に「尾張三河の国境」という小さな石碑がかん木に隠れてありました。つまり、至
近距離でも、もう「世界」が違うのです。

言葉だけでなく、習慣、食べるもの、行事など、場所によって本当に多様です。

歴史家の性癖として、いつごろ、どうのようにして、このような多様性や地方性が生まれたのか、知りたくなります。

現在の仮説として、時代的には江戸時代、要因としては、河川の舟運を中心としたヒトとモノの交流が次第に、流域生活圏、
あるいは文化圏を形成してきたのではないか、というものです。

このため、これまで本州の北の青森から東北、東海・中部地方、近畿、中国、九州、四国の川をみてきました。

こうした、目下の関心の一部として、江戸時代の食文化を含む生活の実態について、とても興味があります。

ここ数年、結構広い土地で農業をやっていることもあって、江戸時代に人は、とくに農民や庶民が、どんなものを食べてい
たのかを知りたくなっていました。

しかし、それを明らかにしてくれる一般向けの本は意外と少ないのが現実です。

というのも、農民や庶民はほとんど文字の読み書きができなかったし、例えできたとしても、自分たちの生活を書き記そう
とする動機がありません。

そうなると、私たちが気軽に読める本としては、大きく二つあります。

一つは、江戸時代に日本に滞在したり旅行した外国人が、見たままの人々の姿を書き残した日記の類です(注1)。

もう一つは、日本人自身によって、書かれた私的な日記・日誌のようなものです。それは、、読み書きができる武士階級や
知識人によって書かれたものです。

たとえば、神坂次郎『元禄御畳奉行の日記:尾張藩士の見た浮世』(中公新書、1984)は、尾張藩の御畳奉行による日記に
基づいた本で、当時の世相や人々の暮らしぶりが分かる、とても興味深い本です。是非、一読をお勧めします。

また、磯田道史『武士の家計簿―加賀藩御用者の幕末維新―』(新潮社、2003年)も、本だけでなく、映画化もされたので
ご存知の方も多いと思います。

これは、加賀藩の財政状態を記録する役職、財務省の主計局の役人のような武士が、自分の家庭の家計簿を具体的に書いた
もので、当時の武士の財政状態や家族の実態などを知る、絶好のテキストです。

今回紹介するのは、ずばり食文化そのものがテーマの、青木直己『下級武士の食日記―幕末単身赴任』(ちくま文庫、2016
年)で、これは、幕末に紀州和歌山藩の下級武士が衣紋方(儀式や儀礼に際してどのような衣服を着るのか、そしてその着

付けを担当する役職)として江戸に勤番(一種の出張。殿様について1年間ほど江戸詰め)した時に体験した酒井伴四郎が、
見聞したことを事細かく記した日誌を基にしています。

著者について簡単に紹介しておくと、青木氏は一時、立正大学で教鞭をとっていましたが、現在、羊羹でおなじみの老舗の
和菓子メーカー「虎屋」の「虎屋文庫」の研究主幹を務めています。

多様な食文化を知るために江戸の食事情を知っても意味がないような印象を持つかもしれません。

しかし、江戸には全国各地からの勤番の侍や商人、職人などがやってきました。彼らは江戸においても故郷で培った味覚や
食べ物にたいする郷愁があったにちがいない。

著者によれば、江戸は多種多様な味覚が出合いまじりあう「食のクロスロード」だという。

江戸に住む人々の食卓には全国各地からいろんな食材が運ばれてきましたが、日常的に食べる野菜や魚などは、江戸近郊の
農村や江戸湾や近海のものに頼っていました。

この本には、江戸に送られた近郊野菜と魚が記されています。参考までに挙げておくと、野菜には、かぶ(金町)、うり
(本田)、ねぎ(千住、大井、砂村)、しょうが(谷中)、なす(駒込、砂村)、大根(練馬、亀戸)、みょうが(早稲田)、
れんこん(上野 不忍池)、いんげん(砂村)、小松菜(小松川)、たけのこ(目黒)、にんじん(馬込)、きゅうり(馬込)、
唐辛子(新宿)がありました。今から考えと、野菜の種類が少なくちょっと寂しい感じがします。

これらの野菜は神田と本所の青物市場に持ち込まれ、そこから八百屋が買い、店や引き売りで住民に売っていました。

一方、魚としては、かれい、こし、すずき、きす、あいなめ、ぼら、さより、あなご、あまぐり、あさり、など、いわゆる
「江戸前」の魚介類です。

もちろん、落語の「目黒のさんま」にあるように、さんまも、「女房を質に入れても」食いたい“初がつお”という表現も
あるように、かつおも、うなぎやどじょうも食べていたでしょう。

しかし、日常的に食べていたか、というとどうもそうではなく、“ぜいたく”に属したと思われます。

たとえば、“初がつお”などは一尾三両(現在の38万6400円)という法外な値段が付いたので、これはとうてい日常
食とはいえません。

近郊の野菜や魚をベースにし、特別な食べ物として外部から取り寄せていたのが実情のようです。

ただし、ぜいたくの代表である酒は、長い間、池田や灘から運ばれてくる上方からの「下り酒」がもてはやされていました。

江戸時代末には年間100万樽(1樽=40升=72リットル)の酒が関西方面から舟で江戸に運ばれてきたともいわれて
います(28ページ)。

いずれにしても、当時は、7~8割が「下り酒」(特に灘の酒)で、残りが関東の産だったようです。

ところで、日記の作者、酒井伴四郎は万延元年(1860)5月に和歌山を出て、大坂から淀川水系を舟で京都(伏見)に行き、
そこから大津、草津と進み、中山道をたどって江戸に行きました。

この道中で土地土地の名物を食べます。日記には食べた内容と、時々値段が書かれています。

例えば大阪の淀では、 伴四郎が「雲助の食事」と書いた粗末な昼食は、ごぼう、焼き麩に大根の浅漬けと大豆の煮しめで、
22文(440円)でした。

これは特別に粗末な食事というわけではなく、その後、旅の途中の宿場や茶店で出す、昼食もこんなものでした。

しかし、伴四朗は、下級武士とはいえ、一応武士だし、かなりの食道楽で、頻繁にゆで卵で酒をのんだり、うなぎを食べた
り、庶民よりは贅沢な食事をしています。

それと、とにかく道中では、いろんな餠をよくたべます。あんころ餠、柏餅、わらび餠、粟餅、碓氷峠を越える時に頑張るた
めの「峠の力餠」、その他、それぞれの土地の名前のついた餠がたべられていたようです。

また、木曽では名物のそばを食べていますが、値段は64文(1280円)、結構な値段でした。

碓氷峠を越えて高崎までくると、いよいよ関東平野に入り、食べるものが一変します。

安中の先で、伴四朗は芋饅頭の油揚げ、深谷で饅頭揚げを食べています。この辺りは、揚げ饅頭が名物だったようだ。関東に
は小麦と綿の生産が盛んで、綿実油も手に入りやすかったのか、油で揚げた食品が名物となっていました。

江戸中期まで、醤油、酢、味噌、塩、みりん、砂糖、昆布やかつお節などの調味料の多くは上方から関東にやってきたもので
した。関西料理は、いわゆる ”だし”の文化といえそうです。

調味料の代表、醤油でさえ、享保年間(1716~36)には7~8割が上方から関東にやってきたものでした。

銚子や野田で関東の醤油の生産が本格化したのは、ようやく江戸中期から後期にかけてのことでした。

関東の食べ物が、”だし”よりも醤油中心の味付けになったのは、このような歴史があったようです。

次回はいよいよ、伴四朗が江戸に入って、どんなものを食べたかをみてみましょう。


(注1)これについては、本ブログの2012年8月6日、10日、12日の3回にわたっ
 て書いています。



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司馬遼太郎の「遺言」―『この国のかたち(一)』を読む―

2017-07-23 10:24:08 | 思想・文化
司馬遼太郎の「遺言」―『この国のかたち(一)』を読む―


司馬遼太郎は、日本の歴史と将来に関して数多くの著作を残しています。

古い時代を扱った著作に、たとえば『空海の風景』(単行本 文芸春秋社 初版1975年)は、
ほとんど同時代の史料がないのに、あたかも空海を現場で見たかのように生き生きと描いて
いる優れた歴史小説です。

これは8世紀から9世紀にかけて中国から日本に密教を伝えた天才的な僧侶です。

一応、歴史家である私はこの本を読んだ時、司馬氏の洞察力と筆力のすごさから受けた衝撃
は今でも鮮明に記憶に残っています。

また、NHKで2009年から11年まで足掛け3年にわたって放映された『坂の上の雲』は、
明治維新から日ロ戦争「勝利」までの、近代日本誕生の物語です。

今回、ここで紹介したい作品は、全6巻からなる『この国のかたち(一)』(文庫版 初版
1993年)です。

司馬遼太郎は自分の言葉で言っているわけではありませんが、私はこのシリーズは全体とし
て、司馬遼太郎が、どうしても言って
おかなければならないこと、日本の将来あるべき「かたち」を示した「遺書」であると受け
取りました。

そのなかでも、私が一番衝撃を受けた個所は、3章 ”雑貨屋“の帝国主義(34ページから
46ページ)です。

ここでは、日本の帝国主義をイギリスのそれとを比較して、日本の近代が、どこで道を誤っ
たのかを、半ば「夢」という形を借り
て述べています。

夢の中では、「モノ」という存在が、司馬遼太郎に語りかけ二人で対話します。

「モノ」とは日本の近代、1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)、つま
り日露戦争“勝利”から太平洋戦争の敗戦まで、ということになっています。

この間に、日本に何が起こったのでしょうか?

「モノ」が言うには、イギリスは、世界に植民地を築き、それを守るため世界に冠たる大艦
隊を打ち立てました。

日本もイギリスにモデルとして植民地を獲得し、それを維持拡大するために海軍を増強し、
大艦隊を構築しました。

ただ、イギリスとの違いは、日露戦争終結の時、日本は世界中に植民地などもっていなか
った、という点です。

しかし「日本は日露戦の勝利以後、形相を一変させた」。

「なぜ日本は、勝利後、にわかづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に適合した小
さな海軍にしなかったのか」、司馬は「モノ」に問いかけます。

「戦後、多数の海軍軍人が残った」。「モノ」は短く答えます。

組織と言うものは、たとえ目的がなくても細胞のように自己増殖をのみ考えるものだ、と
司馬は解釈します。

日露戦争終了後5年後に、日本は韓国を合併しました。

イギリスは植民地を獲得して、過剰な商品とカネの捌け口を得るために公的な政府や軍隊
を使った。

しかし、当時の日本の産業界に過剰な商品など存在していなかった。日本が朝鮮に売った
のは、タオル(それも英国製)とか日本酒とか、その他のマッチなどの日用雑貨品が主な
ものだった。

朝鮮を侵略することについて、それがソロバン勘定として合うかどうかを誰も考えなかっ
た。

司馬は言う。「タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるだろ
うか」。

“満州国”を作った時も、昭和10年の段階で、人絹と砂糖と雑貨が主な輸出品だった。こ
れらの販売で、ペイするかどうか誰
も考えなかった。

それにつづいて、司馬遼太郎は、近代日本が躓いた源流について、決定的な言葉を述べます。

「要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。
(43ページ)


司馬によれば、日露戦争は日本が勝利したことになっているが、当時のロシアは日本に戦争
継続の能力が尽きようとしている
のを知っていたし、内部に“革命”という混乱をかかえていても、物量の面では戦争を継続し
て日本軍を自滅させることも不可能ではないし、弱点は日本側にあった、というものです。

しかし、幸運にもポーツマスの講和条約で小村寿太郎がぎりぎりの条件で講和を結ぶことが
できた。

「日本は日露戦争の勝利以後、形相を一変させた。」(37ページ)

司馬遼太郎によれば、この「調子狂い」(言い換えれば“勘違い”あるいはそれに基づいて冷静
な判断力を失なった行動)は、軍の参謀だけではなかった。国民がこぞって「調子狂い」し
てしまった。

それは、講和条約を破棄せよ、講和条約反対の国民大会が日比谷公園で行われ、暴徒化し、
無政府状態になり、戒厳令をしかなければならない状態になったことにも現れている、と
いう。

つまり、国民は、「平和の値段が安すぎる」、もっと多くの利益を得るべきだ、と叫んだの
です。

司馬遼太郎は、こよなく日本を愛した日本人です。

その彼の文章から私が読み取った司馬遼太郎のメッセージ(遺言)とは、次のことでした。

すなわち、日本は日露戦争勝利によって、軍と国民が一体となって、ともに「調子狂い」
のまま、朝鮮、満州、さらには中国への進出、という泥沼にはまってゆき、太平洋戦争に
突入し、国の内外に膨大な犠牲をもたらして日本は敗戦を迎えることになった。

おそらく彼は、「これを言っておかなければ死んでも死にきれない」と、強く思っていた
のではないでしょうか。

この「調子狂い」からの40年間は、日本の歴史の中で「異胎」、つまり大国主義の熱に
冒された異常な時代だった。

では、この「調子狂い」で「異胎」の40年は、敗戦後どうなったのか?

司馬は「モノ」に問いかけます。

「君は生きているのか」

「モノ」は答えます。

「おれ自身は死んだと思っている。しかし見る人によっては、生きているというだろう」。
(36ページ)

もし、「モノ」つまり、「調子狂い」の40年が今でも生きているとしたら、それは非常に
危険なことです。

これは司馬遼太郎の危機感を込めた警告であり、「遺言」なのかも知れません。

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アジサイが終わり、ナツツバキとユリが目を楽しませてくれます。









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天才棋士現わる(3)―人はなぜ藤井聡太に熱狂するのか―

2017-07-16 07:51:47 | 思想・文化
天才棋士現わる(3)―人はなぜ藤井聡太に熱狂するのか―

藤井聡太君が忽然と日本社会に登場し、今まで将棋に関心がなかった人たちでさえ、一局一局の結果に関心を持つようになっています。

プロデビュー以来29連勝を達成し、30年間破られることになかった記録を破った時には号外が出る有様でした。

藤井君が対局の時に食べる「勝負メシ」にどこの店の何を食べるか、までもが毎回テレビで中継され、彼が食べた「勝負メシ」に一般の
お客さんの注文が殺到しています。

将棋界では異例のことらしいのですが、プロになったばかりの棋士のセンスやクリアファイルなど、発売とともに売り切れてしまいます。

これはもう、「藤井聡太という社会現象」といってもいいでしょう。

その経済効果は十数億円とも言われ、「フジイノミクス」という言葉さえ生まれました。

しかし、思えば、彼はまだ14歳、中学三年生の少年です。自分が中三のとき何を考え何をしていたかを振り返ると(そもそも比べること
自体が無理なのですが)、藤井聡太という一人の少年棋士が社会に与えた衝撃のすごさを改めて感じます。

体操、水泳、スケート、卓球、ゴルフ、音楽などの分野で、十代の若さで世界の場で活躍している“天才”少年・少女は珍しくありません。

最近、こうした天才的な子どもたちがどんな環境で育てられているかを特集したテレビ番組がありました。

これらの映像を通して分かるのは、こうした若き(あるいは幼い)天才たちに親が、3~5才くらいから時間もお金もかけて徹底的な英才
教育を受けさせていることです。

たとえば、小さな女の子のために、親が家の敷地にゴルフ場を作って練習をさせたり、専属コーチを海外から呼んで、子ども指導に当たら
せている事例も紹介されました。

こんなことは、通常の家庭ではとうてい不可能です。

親がコーチとして子供につききりで猛特訓をしている場合もありますが、これとて通常のサラリーマン家庭では無理です。


トップレベルのフィギュア・スケーターを目指すには、国内だけでなく海外での練習や試合に自費で行かなければなりませんので、とてつ
もなくお金がかかります。

一人のスケーターを育てるのさえ大変なのに、複数の子どもたちに親が惜しみなくお金を使っているスケート一家さえあります。

また、親自身が、かつてオリンピックや国体に出場したことがあるアスリートで、子供にもその種目の育成に力を入れている事例も、珍し
くありません。

こうしたアスリートの卵は、DNA(遺伝子)として最初から才能が与えられている上に、身近に良き指導者をもつ、という環境に恵まれ
ています。

音楽の分野では、たとえば音楽一家、といった家庭もあります。このような家庭では親や兄弟が音楽家で、小さい時から音楽に親しむ環境
が整っていて、ごく自然に音楽の道に進んだ人も珍しくありません。

こうして見てくると、若い“天才”が現れる背景には、親の経済力、子どもに賭ける熱意、優れたDNA、恵まれた家庭環境など、幾つも
の好条件がそろっている場合が多いのです。

しかし、これらの好条件がそろっていればそれぞれの分野トップになれるかといえば、必ずしもそうとは限りません。

何といっても、本人が厳しい練習に耐えてゆかなければなりませ。映像では、こんな子供にそこまで厳しくしなくても、と思ってしまうほど、
親やコーチは過酷な試練を課します。

子どもたちはトップになることを親から動機づけられており、本人も泣きながら、それでも必死に訓練に耐え、技量を向上させてゆきます。

好条件と本人の死に物狂いの努力があっても、世界で通用するトップ・アスリートや演奏家になるとは限りません。

その中で、ごく一部の、ずば抜けた才能を示し国内外の競技で優勝などの好成績を収めて初めて世間は、認めてくれるのです。

そのような時、私たちは若き天才の活躍に興奮し、称賛し、しばらくはメディアで大いに話題になりますが、それらは一時的な現象で、やが
て人々の関心はうすれてゆきます。

しかしf藤井君の場合は、ちょっと事情が違います。NHKスペシャルで『徹底解剖 藤井聡太~進化する14才~』(2017年7月8日放送)
という藤井君の特集を組みましたが、このようなことは希です。

しかも、NHKは藤井君がプロ棋士になったばかりの昨年の12月から長期取材を始めていたのです。

藤井君への熱狂が、何かと話題になる水泳や体操や卓球などではなく、将棋という、世間ではごく一部の人しか関心をもたない、実に地味で
マイナーな将棋が一挙に人々の注目を集めた点が驚くべきことなのです。

それでは、たった一人の、しかも、中学三年生が、なぜ、これほどまでに日本中の注目を集め人々を熱狂させるのでしょうか?

その第一弾は、昨年12月末に行われた、プロ棋士としてのデビュー戦で、将棋界最年少の藤井四段が現役最長老の加藤一二三九段(77才)
と対戦し、見事に勝ったことでした。

一般的には、いくら天才少年でも、やはり長い経験をもつ加藤九段には勝てないだろ、と思われていたのに、実際、勝ってしまった時、将棋界
はいうまでもなく、世間一般にも大きな驚きを与えました。

しかし、この勝利は、舞楽や能楽でいうところの「序破急」の「序」、「起承転結」で言えば、まだ「起」、つまり事の始まり、序章に過ぎな
かったのです。

というのも、新人の場合、それまでの性格や将棋の特徴が知られていないので、高段者を破ることは珍しくないからです。

しかし、藤井君のすごさを世間に見せつけたのは、それから、あれよあれよという間に連勝を重ねていったことです。

もうこれは、たまたま、偶然、という次元の問題ではなく、彼が本当の天才であることの確かな証だったのです。『天才現る!』の衝撃です。

連勝記録に並ぶかどうかの対局には、あらゆるメディアが注目し、藤井君の勝利を大きく報じました。

いよいよ、連勝記録を破るかどうかの一戦を、私もずっと観ていましたし、大げさに言えば世間は固唾を飲んでその行方を見守っていました。

そして、運命の29連勝がかかった対局でも、苦しい場面を何とか挽回し、ついに勝ちました。

この時、ステージは「序」に続いて「破」の段階、あるいは「起」で見せた勝利を継承した「承」の段階に入ったと言えます。

藤井フィーバーは頂点に達しました。

しかし、世間の熱狂ぶりとは裏腹に、藤井君はあくまでも冷静で謙虚で、淡々と自分の勝利は「僥倖」です、あるいは自分の実力を考えれば
「出来過ぎです」と、シレッと言うあたりが、これでも偉業を成し遂げた中学生の言葉か!と、さらに世間に驚き与えました。

日本中が藤井聡太に熱狂した一つの理由は、こうした偉業を中学生が、ごく自然に成し遂げたという客観的な事実と、その勝利を驕ることなく、
まるで、悟りの境地に達した大人が発するような冷静で謙虚な言葉とのギャップではないでしょうか。

藤井フィーバーを巻き起こしたもう一つの背景は、多くの親が心の奥底でひそかに抱いていた、”我が子もひょっとしたら”という希望を藤井君
に見出したからではないでしょうか? (これはもちろん、私の個人的な“読み”です)

残念ながら、“ひょっとしたら”は現実には、まず起こらないのですが、そこは親心というものでしょう。

というのも、藤井聡太君の場合、親が将棋の棋士であったわけでもなく、また子供に熱心に将棋を教えたわけでもなく、さらに経済的に非常に
豊かな家庭というわけでもありません。

ある意味、どこにもあるようなごく普通の家庭で藤井君は育ったのです。

彼が幼い時、感覚を育むこと、好きなことを好きなだけやらせることを基本とした「モンテッソーリ・子供の家」に通っていたと聞けば、こうし
た幼稚園への問い合わせが殺到したり、あるいは町の「将棋教室」(これは通常、ごく少額で教えもらえ、授業料はとらない)へ子供を入れる親
が激増してたちまち満杯になる、あるいは藤井君が小さい時遊んだ遊具(キュブロ)の注文が多すぎて、今や半年待ちとなっている、などの現象
に現れています。

つまり、特に裕福で親が既にエリートであるような家庭でなく、ごく普通の自分たちの家庭でも手の届く範囲で、これまたごく普通の自分たちの
子供も、“ひょっとしたら”(くどいようですが“ひょっとしたら”は皆無とは言いませんが、限りなくゼロに近いのです)、かすかな希望を藤
井君に託しているのでしょう。

私も親として、こうした親の切なくはかない期待は十分共感できます。

ともあれ、私もにわか将棋ファンとして、藤井少年の「急」、「転結」を見届けてゆきたいと思います。

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夏の葉物野菜が終わり、畑には画面右から サトイモ、サツマイモ(安納芋、鳴門金時、ベニアズマ)が雑草
と共に、元気に育っています。



夏野菜の代表トマトも順調に育ていますが、近くにカラスの巣があり、どうやらこのトマトはカラスの餌場に
なっているようで、次々と食べられています。






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天才少年棋士現わる(2)―藤井聡太はなぜ勝ち続けるのか―

2017-07-02 07:19:12 | 思想・文化
天才少年棋士現わる(2)―藤井聡太はなぜ勝ち続けるのか―


2017年6月26日は、将棋界にとって新たな時代の転換点として記憶されるでしょう。

藤井聡太4段(14才)が、竜王戦決勝トーナメントで増田康弘四段(19歳)を破り、デビュー以来無敗の29連勝
を達成し、歴代単独1位となったからです。

藤井・増田戦は、テレビ(囲碁・将棋チャンネル)を通じてLIVEでずっと見てしまいました。

10代のプロ棋士は藤井君と増田君の2人しかいないこともあって、増田君は「打倒藤井」に燃えていました。

午前10時に始まった対局は、昼食時には、解説者の棋士の誰もが、少し増田四段の方が有利、と判定していました。

そして、夕方6時の夕食休憩時にも、この評価は変わりませんでした。

とりわけ、藤井君の飛車(最強の駒)が増田君に取られてしまった段階で私は、さすがにこの対局、藤井君の負けだと思
いました。

解説していた増田四段の師匠である森下卓九段も、公平に見て増田君が優位、と言っていました。

それを見て、夕食に出かけ、戻ってみると、驚いたことに、形勢はもう対等になっていました。

対戦開始から10時間ほどたった午後8時ころ、それまで守勢にまわっていた藤井君が反撃に出ました。

そして、解説者は言及していませんでしたが、藤井君は、素人の私から見て、とても地味ではあるが先を見通した一手
(歩で桂馬を取る)を打ちます。

このころ、師匠の森下氏も、藤井君の優勢を口にし始めました。

そして、誰も予想をしなかった、決定的な1手が出た段階、(将棋に関心がない人には申し訳ありませんが)5三桂打ちで、
もはや増田君の方に挽回のチャンスは全くなくなりました。

誰もが予想しなかった、この手について、師匠の杉本昌隆七段によると、藤井君は、10手ほど前から考えていた、という
ことです。

こうして11時間半に及んだ勝負に藤井君は勝利し、連勝記録を塗り替えた瞬間でした。

ところで、誰もが疑問に思うのは、藤井君の強さはどこからくのだろうか、という点でしょう。

今まで対戦した棋士、あるいはベテランの棋士が一様に言うのは、まずミスが少ないこと、中盤と終盤が強いことです。

ミスが少ないのは、プロの棋士なら当たり前のように思えますが、ベテランのある棋士が言っているように、実践はミスの
海のなかを泳いでいるようなもの、らしいのです。

次に、中・終盤が強いのは、相手の王将を詰ませるまでの道筋を見つけることが非常に正確であることを意味しています。

以上の点を、当日の夜テレビ朝日の「報道ステーション」で、棋士とAIの専門家が藤井君の28戦の対局記録をコンピュ
ータ・ソフト「技巧」で解析した結果から検証しました。

一つは、序盤に優勢を築き、そのままそれを維持して逆転されないことです。以前は、終盤に強いと言われてきましたが、
実際には、序盤も非常に強くなっていたことがわかりました。これは、ミスが少ないことに裏付けられています。

二つは、コンプユータが示した最善手と藤井君が実際に指した手の一致率が、非常に高いことです。たとえば、デビュー戦
の加藤一二三九段との対戦では、藤井君の一致率69%に対して加藤氏は42パーセントでした。

また、これまでの28局をみても、藤井君の一致率が65.25%に対して対戦相手は49.79%でした。

三つは、ミスのダメージを表わす「悪手率」の低さです。藤井君の悪手率は40.42でしたが、対戦相手は118.07
でした。

つまり、たとえ悪手を打っても、そのダメージを最小限に抑える手を打っていたのです。

四つは、不利になっても差を広げないことです。不利でも差を広げることなく粘っているうちに相手が根負けしてしまうよ
うです。

これらの数値から、藤井君は相手の予想外の指し手や、自分のミスに対して動揺したり焦ったりすることなく、常に最善手
を探そうとする冷静沈着さを保っていることが分かります。

藤井君は、ほとんど、感情に左右されず、勝つための最善手を追いかけるコンピュータのようです。

ところで、藤井君はどのようにして、このような強さを身に着けてきたのでしょうか?

良く言われるのは、本人も認めているように、「詰め将棋」を子供の時からずっと熱心におこなっていた、ということです。

将棋は、相手の王を逃げ場がないところに追い詰めるゲームです。これを「王を詰ます」と言います。

「詰将棋」とは、人為的に作った、ある場面で、どうしたら相手の王を詰ますことができるかを解く、といういわばクイズの
ような問題です。この場合、必ず、正解があります。

これを徹底的に練習すると、最後の最後の場面で、確実に相手を詰ませる「読みの力」が培われます。

ちなみに、藤井君は小学6年生の時に、プロ棋士も参加する「詰将棋解答選手権チャンピョン戦」に小学6年生で初優勝し、
現在まで3連覇しています。

藤井君の場合、単に他人が作った問題を解くだけでなく、自分でも非常に複雑な問題を作ってきました。

これは、どういう意味を持つかと言うと、迷路を考えてみると分かり易いでしょう。

他人が作った詰将棋の問題を解く作業は、ちょうど、迷路を入り口から始めてゴールに至る道筋を考えることです。

しかし、自分で詰め将棋を作るというのは、自分でゴールから逆に入り口までの道筋を探させる迷路を考えることです。

この両方を幼い時から訓練してくることで、藤井君は将棋の「基礎体力」を鍛えた、と言われています。

次に、最近の若者らしく、コンピュータの将棋祖ソフトを活用していることも藤井君の強さの源泉として挙げられます。

確かに、それは大いに役立っているでしょう。

しかし、コンピュータ・ソフトを活用しているのは、藤井君だけでなく、現代はだれもがやっていることです。というのも、
現在、人間の最高の棋士もコンピュータに勝てないからです。

先日、藤井君に敗けた増田四段も、棋士の研究会には参加せず、もっぱらコンピュータ・ソフトで腕を磨いているという。

師匠の杉本氏によれば、「藤井がソフトを使い始めたのは遅く、非常にのんびりした感じ」だそうです。

ただ、藤井君は、「自分の武器にするというより、ソフトで研究してくる相手への対策と言う意味合いが強い」と師匠は
コメントしています(『東京新聞』2017年6月27日)。

多くの棋士がコンピュータ・ソフトで腕を磨こうとしている時、藤井君もソフトを活用していいますが、それだけでなく、
そのような棋士への対応策を考えるためにもソフトで研究しているのです。

つまり、通常のソフト利用者の一枚上をいっているのです。ここに藤井君の非凡さをみることができます。

詰将棋で基礎体力をつけ、コンピュータ・ソフトで大局観を鍛え、冷静さを保って最善手を探し続ける。

まさに、藤井君は将棋界のすい星のごとく登場した天才といっていいでしょう。

今日は、いよいよ30勝目をかけた対局が、やはり天才と呼ばれ、「打倒藤井」に燃えるイケメン佐々木勇気五段(22才)
との間で行われます。

今日もライブで観戦しようと思います。

どちらが勝つかは分かりませんが、その結果も含めて、次回は、「天才」について考えてみたいと思います。

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今の季節、いたるところでアジサイをみることができます。アジサイは日本原産の植物で、梅雨時に鮮やかな色彩で
目を楽しませてくれます。

私は素朴なガクアジサイが好きです。









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天才少年棋士現わる―藤井聡太四段(14才)の衝撃―

2017-06-25 10:22:27 | 思想・文化
天才少年棋士現わる―藤井聡太四段(14才)の衝撃―


最近の日本における、さまざまな分野で、若い、それも10代の若者の活躍が目立ちます。

卓球界では、伊藤美誠(16才)、張本智和(13才)、陸上界では短距離のサニブラウン・アブデル・ハキーム(18才)、
多田修平(20才)、女子レスリングでは須崎優衣(17才)などが、日本を代表する選手とし手活躍しています。

スポーツ選手に関していえば、25才ともなると、なんとなく、年齢を感じさせてしまいます。

スポーツの世界で若い世代が活躍するのは、ある程度理解できます。というのも、小さい時から英才教育をすることが一般的
になってきたこと、将来性のある若者が、専門スタッフによる科学的分析や研究に基づく、徹底したトレイ―ニングなどによ
って、かなり成績は伸びる可能性があるからです。

もちろん、飛び抜けて優秀な成績を残せるアスリートには、生まれもっての才能があることは大前提です。

そんな中で、スポーツ界ではなく、将棋界では、藤井聡太君(14才 四段)が昨年12月にデビュー戦で、将棋界最年長、
レジェンドと呼ばれる加藤一二三九段を破り、世間をあっと言わせました。

将棋の世界では、四段になって始めてプロになり、報酬をもらえるようになります。従って、藤井君は、史上最年少でプロに
なったばかりの少年棋士です。

私は、囲碁は趣味で、短期間ですが「日本棋院」に通っていましたし、テレビの「囲碁将棋チャンネル」を契約し、もっぱら
囲碁の番組だけを選んで見ています。

将棋は子どもころに遊んだことがあるので、基本的なルールや戦法は知っていますが、大人になってからは全く関心がなくな
ってしまいました。

ところが、今回の藤井君の躍進には、趣味の範囲外ではありますが、強い衝撃を受けました。。

プロ最初のデビュー戦で勝利して以降、あれよあれよという間に、勝利を重ね、6月21日には、神谷広志八段がもつ、歴代
最多の28連勝に並んでしまいました。

神谷八段の場合、プロになって何年も経った、いわば勢いのある年齢での記録ですが、藤井君の場合は、14才のデビュー戦
からの連勝ですから、ちょっと次元が違う気がします。

勝負ごとには勝ち負けはつきものですが、1回も負けず連勝を続けるのは至難の業です。

その姿をテレビなどで見た人も多いと思いますが、なんといっても彼はまだ中学生です。

その落ち着き払ったたたずまいといい、勝っても淡々として、“勝てたのは僥倖でした”、とか“幸運でした”という言葉に現れ
ているように、彼はとても謙虚で、思いあがったところがありません。

藤井君は5才から将棋を始め、小学校在学中から数々の優勝経験をもっていますが、特に英才教育を受けてきたわけではあり
ません。

ただ、幼いころから将棋に敗けると悔しくて号泣する、という負けず嫌いではあったようです。

藤井君の強さの秘密は、もちろん簡単に言えば、読みの深さと正確さです。

しかし、読みの深さと正確さにおいては、経験を積んだ棋士たちも決して劣ってはいないはずですが、藤井君の場合、それら
が並外れている天才である、としか言いようがありません。

対戦した棋士たち、あるいは将棋界のベテランが藤井君の将棋を評して一様に言うことは、とにかくミスが少ない、という点
です。

将棋は人と人とが勝負するゲームですから、精神的な動揺、見落とし、読み違いは常に起こり得ます。

しかし、ミスがほとんどない、ということは、あくまでも冷静に、客観的な精神状態を保っているということです。

もう一つ、特に悪い手を打った記憶はないが、気が付いてみると、もうどうにもならない状況に追い込まれている、というコ
メントをした人もいます。

私も、28連勝目の対戦、中盤から終局までテレビのLIVEで観戦しましたが、藤井君が特別に意表を突くすごい手を打っ
たような記憶はありません。

おそらく対戦相手の澤田真悟六段も、特に悪手を打った気はないようでした。

私が、藤井君のすごさを感じたのは、何気なく打っているうちに、気が付いてみると相手は負けを逃れられないところに追い
込まれている、という打ち回しです。

これこそが、天才的な能力の証です。

次に、藤井君といえども、彼の主観ではミスと思われる手を打つことがあります。テレビでは、(恐らくミスに気が付いて)
思わずヒザをたたいたことがありました。

しかし、通常なら、ミスに気が付くと、焦りや気持ちの動揺が起きるところですが、彼は、そこから冷静に最善手を考え、つ
いに勝ってしまいます。

これも、とうてい、並の中学生の少年にできることではありません。

28連勝がかかった棋戦の終盤で、将棋ファンのグループが、人工知能(AI)コンピュータの将棋ソフトで、藤井君の次の
手を予測させていました。

すると、コンピュータと藤井君が実際に打った手とが見事に一致していたのです。

おそらく藤井君は、コンピュータと同じように、感情に左右されず、あくまでも客観的に最善手を見出そうとする、冷静で強
い意志と、透徹した読みの力を持ち合わせている稀有な存在だと思います。

全国の将棋教室の入会者が激増したり、藤井君の筆になる「大志」の文字が書かれた扇子があっという間ン売り切れたり、その
他藤井君関連のグッズがたちまし売り切れたり、その経済効果も大変な金額にのぼるようです。

果ては、藤井君が幼いときによく遊んだという、キュボロという遊具は、注文が殺到し、現在は半年待ち、という状況です。

一人の中学生が巻き起こした、驚き、感動の旋風はどこまで続くのでしょうか?

26日はいよいよ、自らが史上最多の記録を打ち立てることができるかどうかの勝負の日です。この棋戦には目が離せません。

それにしても、やはり、これだけの成績を残すことができたのは、努力のほかに、天性の能力の部分の大きいのではないか、
と思わざるを得ません。

私は個人的に、この怪物のような天才にこれからも注目してゆきたいと思います。

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映画『TAP THE LAST SHOW』:すごい迫力に圧倒される

2017-06-19 10:02:01 | 思想・文化
映画『TAP THE LAST SHOW』:すごい迫力に圧倒される

17日に封切られた映画、水谷豊監督の『TAP THE LAST』を観ました。

この映画の監督でありメイン・キャストの一人として出演した水谷豊氏、この映画の構想を40年間もあたためてきた、
といっているように、相当の熱の入れようです。

今回の映画のため、水谷監督は300人のダンサーと会い、オーディションを通して選抜しました。

試写会を見た人の感想をテレビで見て、これは見に行かなければ、と思いたって見てきた次第です。

なかでも、最後の25分間の大勢でのタップは、まるで劇場で生で観ているような迫力と臨場感があった、というコメン
トに惹かれました。

タップダンスの格好良さには惹かれますが、普段あまり観る機会きかいはありませんでした。

タップダンスをテーマにした映画を私は見たことがありませんでしたので、どんなふうに仕上がるのか、興味津々でした。

正直に言うと、私は最後の25分に大勢のダンサーが勢ぞろいしてタップを踏むシーンだけを楽しみにしていました。

しかし、私の予想を見事に裏切り、オープニングにタップ・シューズの輪郭線が暗闇のなかで発光し、タップの足の動きと、
靴底の金属が床をたたくリズミカルで小気味良い音で、一気に映画の中に引き込まれてしまいました。

オープニングに続いて、この映画のストーリーの中心である、劇場最後のタップダンス・ショーに向けての、解説的なシー
ンが続きますが、これらのシー
ンは決して長すぎず、要領よくまとめられているので、退屈はしませんでした。

それが終わると、直ちにオーディションのシーンに移りますが、オーディションで応募者が披露するタップダンスだけでも
十分に見応えがあります。

そして、採用されたメンバーによる練習風景も、タップダンスの難しさや素晴らしさを存分に堪能させてくれます。

最後の、25分間の圧倒的な迫力は、到底、文字で表わすことはできないので、映画館で観ていただくしかありません。

この映画に登場したタップダンサーたちは、いずれもすでにダンサーとして活躍している人たちですから、誰が最も優れて
いるのか、という評価はしたくありません。

ただ、この映画でもっとも中心的ダンサー(5人)の中で、主人公的な存在であった、清水夏生氏のタップダンスは、私の
想像をはるかに超える迫力と芸術的な美しさを感じさせました。

清水氏のブログ(http://profile.ameba.jp/tapbeat/)の「自己紹介」によると、彼は7歳からタップダンスを始め、これ
までも多くの舞台・イベント・TV番組で活躍してきた。

彼はフランスへの留学を通じタップの新たな可能性を実感し、ダンスとしても音楽的にもより表現豊かな新しいタップのス
タイルを見いだしたという。

映画で演じる彼のタップダンスは、今まで見たこともない超絶技法の光速タップで、大げさに言うと、私は息をするのも忘
れさせるほど感動し、見入ってしまいました。

映画の中では、清水氏のライバル的存在であった濵地 正浩氏のタップも、清水氏に劣らず素晴らしく、二人の掛け合いも迫
力満点です。

監督の水谷氏は、この映画を「“ショービジネス”をしっかり描きたい」と語っているように、まさにこの映画そのものが
“ショービジネスとはこういうものだ”といことを、タップダンスを通じて観客に分からせてくれる。

今回は、あまりに衝撃的に素晴らしかったので、その良さをうまく表現できないのがもどかしいです。

その感動を興奮はいまだにずっと続いています。

私は、どちらかというと、俳優としての水谷豊はあまり好きではありませんでした。特に、『相棒』における水谷氏の演技は、
わざとらしさが気になって、一度も見たことがありません。

しかし、今回の水谷氏は、『相棒』でのいつも得意満面で気取った人物ではなく、怪我を負い、歳を取り、酒に溺れる、往年
の天才タップダンサーという設定で、とてもいい味を出していました。
私には監督としての水谷氏の裁量を評価する能力はありませんが、これだけは大いに評価したいとおもいます。

それは、タップダンサーとして出演した全員が、ダンスはうまくても、演技は一度もしたことがない人たちです。

水谷氏は、タップダンスができる俳優を集めたのではなく、まずダンスがうまいこと、その中で、演技もできそうな人を集め
たと言っています。

いわば、演技者としては“素人”に近いタップダンサーたちに、あれだけの自然な演技をさせたのは、監督としての水谷氏の
能力が優れていることを示しています。

この映画の主人公的存在である清水・濱地をふくめ、自閉症ぎみの西川大喜、父親の反対を押し切ってダンスに熱中する、お
嬢様タイプの太田彩乃、食べるのが大好きで太っちょの佐藤瑞希らを含めた5人は全て、それぞれの役割を十二分に果たして
います。

そして、この映画の最後に登場する、”その他大勢“的なタップダンサーたちも、決して端役というわけではなく、彼らを含
めて、この映画はタップダンスのすばらしさを演出してくれます。

最後に、水谷監督は、この映画の最初の1秒から最後の1秒まで、決して手を抜かず、観客を感動させ続けることに成功した
と思います。

オープニングで、暗闇の中を、タップシューズの輪郭線が夜光塗料で浮かび上がり、それが足の動きとともに目に飛び込んで、
最初の衝撃を与えたことは、冒頭でのべました。

そして、出演者などの字幕が延々と続くエンディングロールの最後の1秒まで、背後ではタップダンスの映像が流れ続けます。

これこそ、水谷氏のサービス精神、ショーマンシップの真骨頂です。

この映画を観て、どことなくフランス映画の終わり方を思い出させました。

アメリカ映画の基本は、ハッピーエンドと、映像として最後まで描き切ることですが、フランス映画はしばしば、最後まで描か
ず、観る人が想像する余地と余韻を残して終わります。

この映画でも、ラスト・ショーは大成功に終わり、観客の大拍手の場面となったに違いありません。しかし、そこは映像には出
てきません。それは、観る人が想像してください、ということなのでしょう。

また、主役の “まこと”が“ 果たして結婚して父親になって、それもでもタップダンサーとして生活できるかどうかを、水
谷演ずる”渡“に聞く場面があります。

観客としては、あの若いカップルがその後どうなるか気になるところですが、それについて渡は、最後の場面で、”まことは“
、といったきりで、言葉を飲み込んでしまいます。

この映画を観た人は、私も含めて、きっと二度、三度見たくなるに違いありません。

私にとっては、マイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』以来の感動的で、楽しめた映画でした。


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メリル・ストリープさんのトランプ氏批判-映画人の健全な精神-

2017-01-14 08:07:37 | 思想・文化
メリル・ストリープさんのトランプ氏批判-映画人の健全な精神-

「ハリウッド外国人映画記者協会」が米国のテレビと映画の優秀作品を選ぶゴールデングローブ賞の授賞式が2017年1月8日、カリフォルニア州
ビバリーヒルズで開かれ、女優メリル・ストリープさんが長年映画界に貢献した人に送られる「セシル・B・デミル生涯功績賞」を受賞しました。

ストリープさんは、6分間の受賞スピーチで、名前こそ出しませんでしたが、明らかにドナルド・トランプ次期米大統領と分かる表現で、彼をを痛烈
に批判しました(注1)。

このスピーチは原文(英語)でも全訳された日本語でも読むことができます(注2)。少し長くなりますが、歴史に残る感動的な内容なので、その大
部分を引用しておきます。

    「ハリウッド外国人映画記者協会」の皆さん、ありがとう。[中略]、ここにいる皆さん、私たち全員はいま、米国社会のなかで最も中傷
    されている層に属しています。だって、ハリウッド、外国人、記者ですよ(注3)。
    それにしても、私たちは何者なんでしょう。ハリウッドとはそもそも何なんでしょう。いろんなところから来た人たちの集まりでしかありま
    せん。
    私はニュージャージーで生まれ育ち、公立学校で教育を受けました。ヴィオラ・デイヴィスはサウスカロライナの小作人の小屋で生ま
    れ、ロード・アイランドのセントラルフォールズで世に出ました。サラ・ポールソンはフロリダで生まれ、ブルックリンでシングルマザー
    に育てられました。サラ・ジェシカ・パーカーはオハイオで8人兄弟のなかで育ちました。
    エイミー・アダムスはイタリアのヴィチェンツァ生まれです。ナタリー・ポートマンはエルサレム生まれです。
    この人たちの出生証明書はどこにあるんでしょう。
    あの美しいルース・ネッガはエチオピアのアディス・アババで生まれ、ロンドンで育ち──あれ、アイルランドだったかしら──今回、
    ヴァージニアの片田舎の女の子役で受賞候補になっています。
    ライアン・ゴズリングは、いい人たちばかりのカナダ人ですし、デヴ・パテルはケニアで生まれ、ロンドンで育ち、今回はタスマニア育ち
    のインド人を演じています。

    そう、ハリウッドにはよそ者と外国人がうじゃうじゃしているんです。その人たちを追い出したら、あとは、アメフトと総合格闘技(マーシ
    ャルアーツ)くらいしか見るものはないですが、それは芸術(アーツ)ではありません。
    しかし、この1年の間に、仰天させられた一つの演技がありました。私の心にはその「釣り針」が深く刺さったままです。[中略]
    それがいい演技だったからではありません。いいところなど何ひとつありませんでした。なのに、それは効果的で、果たすべき役目を
    果たしました。想定された観衆を笑わせ、歯をむき出しにさせたのです。
    我が国で最も尊敬される座に就こうとするその人物が、障害をもつリポーターの真似をした瞬間のことです(注4)。
    特権、権力、抵抗する能力において彼がはるかに勝っている相手に対してです。心打ち砕かれる思いがしました。
    その光景がまだ頭から離れません。映画ではなくて、現実の話だからです。
    このような他者を侮辱する衝動が、公的な舞台に立つ者、権力者によって演じられるならば、人々の生活に浸透することになり、他の
    人も同じことをしていいということになってしまいます。
    軽蔑は軽蔑を招きます。暴力は暴力を呼びます。力ある者が他の人をいじめるためにその立場を利用するとき、私たちはみな負ける
    のです。

    さて、この話が記者につながります。私たちには信念をもった記者が必要です。ペンの力を保ち、どんな暴虐に対しても叱責を怠らな
    い記者たちが──。建国の父祖たちが報道の自由を憲法に制定したゆえんです。
    そういうわけで、裕福で有名な「ハリウッド外国人映画記者協会」とわが映画界の皆さん、私と一緒に「ジャーナリスト保護委員会」の
    支援をお願いします。ジャーナリストたちが前進することが私たちにとって必要だし、彼らが真実を保護するために私たちが必要だか
    らです。

社会派女優として知られているストリープさんは、授賞式の会場にいる俳優や候補者の多くは、小さな町や貧しい家庭の出身、片親に育てられたり、
あるいは様々な国で生まれ育ったアウトサイダーだと紹介しました。

「特権や権力、抵抗する力のすべてにおいて、自分が勝っている相手」の記者を笑い者にした光景を観たとき、ストリープさんの心は少し砕けてしま
った、と言います。それは映画の場面じゃなく現実だったからです。

人に恥をかかせてやろうという本能を、発言力のある権力者が形にしてしまうと、それは全員の生活に浸透してしまいます。こういうことをしていいん
だと、ある意味でほかの人にも許可を与えてしまうからです。

他人への侮辱は、さらなる侮辱を呼びます。暴力は暴力を扇動します。そして権力者が立場を利用して他人をいたぶると、それは私たち全員の敗北
なのだ、とストリープさんは訴えました。

ストリープさんはさらに、「権力を監視し責任を果たさせるよう」報道機関に求め、会場の映画関係者たちにはハリウッドが報道機関を支えなくてはな
らないと強調しました。

1月20日に就任するトランプ氏は、ニューヨーク・タイムズ紙の電話取材に応えて、ストリープさんを「どうせヒラリー・ファンだ」と一蹴してしまいました。

授賞式やストリープさんのスピーチは見ていないが、「リベラル映画関係者」に攻撃されても「驚かない」と答えたという。

トランプ氏は6日には、俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー前カリフォルニア州知事も批判し、「視聴率王の私と比べると完敗だな」とこきおろし
ました。

同氏はトランプ氏が司会を務めていたテレビ番組「アプレンティス」の後任司会者に今月就任したが、視聴者数が前回より下回っていたことを指摘し
たのです。

シュワルツェネッガー氏は「視聴率のために努力したのと同じくらい、全国民のために働いてほしい」といさめました(注5)。

私がストリープさんのスピーチに感動したのは、これが政治集会ではなく、映画に関する授賞式でありながら、トランプ氏が障がい者を笑いものにし
たことに対する、純粋に人間としての怒りをはっきりと表明したからです。

もし日本で、似たようなことが政治家や権力をもった人の口から出たら、日本の映画人はどんな反応をするでしょうか?

たとえば沖縄に派遣された大阪府警の機動隊員が、基地建設に反対している人に向かって、「このボケ、土人が」あるは「黙れ、コラ、シナ人」と罵声
を浴びせたことに対して、「それはおかしい」「人道に反する」「差別だ」と抗議する日本の映画人がいるでしょうか?

それにしても、アメリカは大変な人を大統領に選んでしまったな、とつくづく思います。

(注1)この授賞式の全体の模様と解説は、BBCニュース Japan 2017年01月9日 
    http://www.bbc.com/japanese/video-38554395 で見ることができます。
(注2)スピーチの原文(英語の)書き起こしは
    http://www.nytimes.com/2017/01/08/arts/television/meryl-streep-golden-globes-speech.html?smid=pl-share&_r=1で見ることができます。
   また、日本語の全訳は、https://courrier.jp/news/archives/72974/ で見ることができます。
(注3)ここは、トランプ氏が大嫌いな民主党寄りのハリウッドの映画界、この賞自体が「外国人映画記者協会によるものであること、さまざまな地方や民族的背景をもち、
    また、彼を批判するメディアの記者のことを言っています。
(注4)トランプ氏は2015年11月の選挙集会で、腕をけいれんさせながら先天性の障害を持つニューヨーク・タイムズ紙のセルジュ・コバレスキ記者の真似をして、嘲笑したとされることを、指しています。
(注5)日経電子版(2017年1月10日 13:03)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM10H3I_Q7A110C1EAF000/?n_cid=NMAIL002
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大木昌  ツイッター https://twitter.com/oki50093319

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オリンピック競技場問題―「海の森競技場」を巡る茶番劇―

2016-10-29 05:56:42 | 思想・文化
オリンピック競技場問題―「海の森競技場」を巡る茶番劇―


2020年東京オリンピック・パラリンピック(以下、単にオリンピックと略称)は、最初から、うさんくさい話がつきまとっています。

まずは、4年前(2013年=平成24年) の招致のためのプレゼンテーションで、安倍首相が、福島の汚染水は、「湾内にコントロール
されている(under control)」と、公の場で嘘の発言をしたことです。

この問題に関して、本ブログの2013年9月16日の記事(汚染水問題(続)-日本が払わされる「倍返し」-)で詳しく論じています。

今も、汚染水は “アンダー・コントロール”どころか、巨額の費用をかけて設けた凍土壁も効果がなく、汚染水の一部は海に垂れ
流し状態です。

続いて、いわゆるオリンピックのエンブレムに関連した、盗作(あるいは“パクリ”)疑惑のため、一度、採用された案が結局、不採
用となりました。

次が、いわゆる国立競技場の設計をめぐる問題でした。これは、落選はしたものの、イギリス在住のザハ・ハディド氏が、自分の
アイディアが盗用(“パクリ”)された、として裁判を起こすとの態度をはっきりと示しました。(ザハ氏は最近亡くなってしまったので
裁判はなくなりました。)

これだけでも、2020年に東京オリンピックにはケチがつき通しでしたが、最近になって持ち上がった、競技場を巡るドタバタは、ま
ったく茶番劇としか言いようがありません。

なかでも、ボート・カヌー競技場に関しては、IOC(国際オリンピック委員会)会長のトーマス・バッハ氏と副会長のジョン・ダウリング・
コーツによる恫喝(脅し)も含めて、関係者がそれぞれの思惑で右往左往しています。

まず、東京招致が決定するまで、日本のオリンピック組織委員会(会長は森喜朗氏)は、「海の森」海上を想定し、総費用を69億円
としてIOCに予算を提出していました。

しかし、招致が決まった直後に、この金額は1031億円と、約15倍に跳ね上がったのです。

これはあまりにも巨額すぎるとの批判があり、平静26年(2014年)に491億円に急きょ減額しました。

それでも当初の7倍に膨れ上がったということは、予算の積算がいかに、いい加減であったか、をはっきりしています(1031億円は論
外です)。

今や、オリンピックはお金がかかりすぎるの、引き受ける都市がなくなってきているので(ちなみに、ローマとハンブルグは撤退しまし
た)、IOCは、予算的にコンパクトにするよう、開催都市と国へ強く要請してきました。

それにしても、一気に15倍、7倍とは、組織委員会はひどすぎます。恐らく、オリンピックと言えば、いくらお金をかけても都民も国民も
文句を言わないだろう、と高をくくっていたような気がします。

小池百合子都知事は就任直後から、この問題の解決を迫られました。

都民の貴重な税金を無駄に使うことはできない、という誰も反対できない大義を掲げて、小池知事は、さっそく、「海の森競技場」の問
題を取り上げました。

そこで候補にあがったのが、宮城県の長沼のボート場でした。

村井県知事の熱意もあって、小池知事は長沼を視察し、その時、長沼での開催、ということには、「被災地の復興、という強いメッセー
ジがある」、とのコメントをしました。

おそらく、小池知事の頭の中には、「長沼」があったのでしょう。もし、実現すれば、さすが、小池知事には哲学があり、素晴らしいアイ
ディアだ、と評価されたことでしょう。

これに慌ててのが、森会長です。既に、IOCも競技団体も「海の森」で決定していることを覆すことは困難だ、との見解を示しました。

しかし、森会長以下の組織委員会にも弱点はありました。それは、お金がかかりすぎることです。

バッハ会長の示唆で、東京都、組織委員会、JOC(日本オリンピック委員会)、IOCの四者会談で決着することになりました。

すると、組織委員会は急きょ、「海の森」競技場の建設費用を300億円に引き下げることを検討する、と発表しました。

それほど安くできるのなら、なぜ、最初に1038億円もふっかけ、批判されると491億円に下げ、さらに300億円まで下げたのでしょうか?

恥も外聞もない、小池都知事の表現を借りると、「バナナのたたき売りじゃないんだから」、と言いたくなります。

IOCの恫喝
ここで、IOCが、慌てて「海の森」に引き戻そうと恫喝します。つまり、もし、「海の森」がうまくゆかないなら、韓国での開催も考える、と
いう脅しです。

さらにIOC副会長のコーツ氏は、もし、「海の森」以外なら、「東京大会を傷つける」とまで言っています。何がどう傷つくのか、まったく
意味不明です。

それでは、バッハ会長、そしてコーツ副会長は「海の森」にこだわるのでしょうか?

ちなみに、コーツ副会長は、オーストラリアの人で、若い時には自身もボート(レガッタ)の選手で、現在はスポーツ仲裁裁判所の会長
でもあり、「ボート界のボス」と呼ばれる人物です。

彼らは、もうボート・カヌーの競技場は、「海の森」で決まり、それ以外にはあり得ないことをはっきり口に出すようになりました。

ボートやカヌーは、日本ではあまり注目されない競技ですが、ヨーロッパでは、花形中の花形競技なのです。

それを、東京から遠く離れた宮城県の田舎でやる、とは彼らにしてみればとんでもないことなのです。

小池知事は、当初の「被災地での復興」という大義を掲げ続け、IOCの意向をはねつけることができるでしょうか?

したたかで抜け目のないバッハ会長は、被災地では、ソフトボールや野球の予選をやったらどうか、そうすれば被災地の「復興」という
大義を満たせるではないか、と言っています。(ちなみに、この案は、当初からあり、新しい案ではありません)

彼らにすれば、ソフトボールや野球など、まったく関心のない、どうでもよい種目なのです。そんなもの、どこか草はらでやってくれ、と言
わんばかりです。

多くの日本人は、このあたりの事情が分かっていないようです。

では、客観的にみて「海の森」は本当に、ボート・カヌー競技場として適当なのでしょうか?

私は全く不適当だと思います。それは、お金がかかりすぎる上に、以下の現実的問題があるからです。

日本体育大学ボート部の鈴木正保監督は1年ほど前、オリンピックの出場経験者と一緒に「海の森」予定地に出向き、実際にボートを漕
いでもらったことがあります。以下は、その感想です。

    あそこに行ってみると分かるんですが、風力発電の風車が立っています。風力発電ができる風が吹く場所という証拠みたいなもの
    ですから。その風も(コースの)横から吹いてくる。横風が吹くと、ボート競技、カヌー競技では大変な問題になる。海水ではやりたく
    ない。(注1)

風よけのため、コンクリートで壁を作るようですが、そんな中での競技は全く雰囲気を壊します。また、波よけをどうするのか、も問題です。

森会長は、レガシーとなる施設を、いう大義名分を言いますが、アスリート目線からみて、「やりたくない」また、「塩水でボートの金属部分
が錆びる」ような競技場が、オリンピックの後で、皆が使いたくなる施設になるでしょうか?

しかも、すぐ近くに鉄道の駅はなく、JRや地下鉄の「新木場駅」からタクシーで約15分という、不便な場所です。

どう考えても、「海の森」での開催は合理性を欠いています。 IOCはとにかく、ボート競技を東京の中心で行って注目を浴びたいと思い、
日本の組織委員会は、巨額の費用を使って記念碑的な施設を作りたいのでしょう。

せめて、建築業者と都とおの間で、金銭授受がないことだけは守っていただきたいと素直に考えます。 

今回の会場問題に関して『日経新聞 デジタル版』は、「『小池劇場』で見えた日本スポーツ界の存在の軽さ」と題する記事で、日本のス
ポーツ界に対して厳しい意見を書いています。

    競技団体の決まり文句は「レガシー(遺産)を残して」。レガシーとは何だろう。五輪後に維持管理費で毎年億単位の赤字を垂れ
    流す施設をレガシーとは呼べない。施設自体がレガシーではない。残された施設を真のレガシーとなるように有効活用する責任
    はそれを利用する競技団体や各リーグにある。ならば、負のレガシーにしないための具体的な利用プランをスポーツ界が都民や
    国民に説明するのが筋だろう。

競技場の問題は、ボート・カヌーだけでなく、水泳、バレーボールなどにもあります。残念ながら、日本のスポーツ界は、都民も国民も説得
するだけの根拠を持ち合わせていません。
   
    1964年東京五輪のレガシーに日本武道館がある。柔道や剣道など武道だけでなく、コンサート会場として音楽ファンの聖地にもなり、
    国の補助金に頼らない運営が可能になっている。武道館の建設費は国の資金と寄付で賄われ、管理、運営しているのは行政ではな
    く「公益財団法人日本武道館」。20年大会で新設される施設も、公益法人である各競技団体や各リーグが指定管理者として運営する
    くらいの意見がスポーツ界から出てこないものか(注2)。
    20年五輪の施設をレガシーにするのは、国でも都でも組織委でもない。日本のスポーツ界だ。その自覚と覚悟を持てなければ、いつ
    までたっても端役に甘んじるしかない。

小池都知事も最近では、「強いメッセージ」をもった宮城県長沼の候補地は、会場建設に4年かかるので、現実的には無理だ、と言い始めて
います。宮城県知事は、建設は間に合う、と言っているのに、です。

事はIOCの思惑通りに動いているようです。

(注1)http://news.yahoo.co.jp/feature/108 (2016年2月23日配信 10月23日閲覧)
(注2)http://www.nikkei.com/article/DGXMZO08845460X21C16A0000000/?df=3
    (2016年10月28日閲覧)




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スポーツと戦争―負傷兵士とパラリンピック―

2016-09-17 17:17:25 | 思想・文化
スポーツと戦争―負傷兵士とパラリンピック―

現在、リオでは通常のオリンピックに引き続いて、障がいをもった選手によるパラリンピックが行われています。

パラリンピックの歴史については、「日本パラリンピック委員会」のホームページ(注1)に詳しく書かれているので、そちらを見ていただくこととして、
以下に3点だけ書いておこう。

第一に、障がいのある人々が身体運動を行なっていたという記録は紀元前から(恐らくギリシアで)見られ、医師や体育指導師により「治療体操」
としてスポーツが行われるようになった、という記録があります。

現代風に表現すれば、障がい者のためのリハビリを兼ねた身体運動は、古くからおこなわれていたわけです。

第二に、しかし障がい当事者自身が組織を作り自発的にスポーツ活動をはじめたのは、19世紀以降のことでした。特にイギリスでは第一次世界
大戦後に、障害者による移転者クラブや片上肢ゴルフ協会が創立されるなど、障がいのある人々が自発的にスポーツを楽しむようになりました。

つまり、障がいを持つ人がリハビリのためではなく、健常者がそうしているように、スポーツをそれ自体として楽しむために動き始めたのです。

第三に、自ら楽しむためにスポーツでしたが、次第に障がい者による国際的なのスポーツ大会が行われるようになりました(1924年の第1回国際
ろう者スポーツ競技大会、現デフリンピック)。

第四に、現在のパラリンピックへと発展した原点は、第二次世界大戦(1939〜1945年)後のことで、戦争で負傷した兵士の治療と社会復帰を目的
に、1948年にロンドンオリンピックにあわせて車いす患者(英国退役軍人)によるアーチェリー大会が開催されました。これがパラリンピックの原点
です。

当初は、Paraplegic Olympic(対麻痺者のオリンピック)という言葉が用いられていましたが、1964年の東京大会からParalympic と表現されるように
なりました。

まさらに、パラリンピックの「パラ」は麻痺や障がいという意味合いより、オリンピックと「平行して」行われるという意味合いでも理解されるようになり、
今に至っています。

以上の、簡単な歴史からも分かるように、パラリンピックが大きな転機を迎えた背景には戦争の影が付きまとっていました。

なぜなら、戦争は大量の負傷者を生み出し、そのような人々のリハビリと生きがい、そして社会復帰が彼らにとっても社会にとっても重要な課題と
なるからです。

では、今日では、パラリンピックはもう戦争と関係ないだろうか?

第二次世界大戦以後も、規模は小さくなったかもしれませんが、“戦争”と言える軍事行動は続いています。

主なものだけでも、ベトナム戦争、中南米でのゲリラ戦、アフリカでの内戦や部族間、国家間の武力衝突、最近ではイラク、アフラニスタン、シリア
における戦争など、ほとんど休みなく戦争はつづいています。

これらの戦争に参加した国や兵士たちの中で、負傷した人たちはたくさんいるに違いありません。

これまで、パラリンピックに参加した選手のうち、戦争で負傷して障がい者となった人たちの参加について話題になったことはありませんでした。

実際には、たとえば2010年のバンクーバー冬季パラリンピックでは、アメリカの出場選手に5人が戦争で負傷した元兵士で、当時、次回のパラリン
ピックでは7人に1人がこのような傷病兵になるだろうと、言われていました。(注2)

実際、2014年の冬季ソチ・パラリンピックでは、アメリカの出場選手80名のうち16人、つまり5人に1人が「テロとの戦い」でイラク、アフガニスタン
で負傷した元兵士でした。

同様の傾向は他の国でも起こっており、あるドイツ人は、ドイツにおいても“障がい者スポーツはますます軍事的に組織されるだろ”、と語っていま
す(注3)

そして、2016年9月12日のNHK「クローズアップ現代+“戦場の悪夢”と金メダル―兵士とパラリンピック」でも取り上げていたように、負傷兵士の
パラリンピックへの参加傾向は続いています。

とりわけ、多くの戦争に参加してきたアメリカの選手の場合顕著です。

これには、二つの側面があります

一つは、アフガニスタンとイラク戦争からの復員軍人の精神的身体的問題がアメリカ社会に暗い影を落としており、それを何とか社会復帰、リハビリ
の方向にもってゆきたい、という政府、軍当局の意図です。

これはある意味で、政府や軍がパラリンピックをプロパガンダに利用している、とも言えます。

もう一つは、政府や軍当局の意図とは別に、負傷し障がい者となった復員兵が、自分たちの生きる希望として、パラリンピックへの参加を目指したこ
とです。

復員兵の大きな問題は、戦場の恐怖体験や人を殺した罪悪感から、帰国後も精神的な深い傷を抱えている場合が、多く自殺者が後をたちません。

たとえば、2014年11月以前の2か月の平均で、1日当たり平均22人が自殺していました。

単純計算すると、1年に約8000人が自ら命を絶っていることになります。アフガニスタンとイラク両国で戦死した米兵は過去13年で約6800人なので、
これと比べると、どれほど多くの若者が自殺しているかがわかります(注4)

正確な数字は分かりませんが、こうした自殺者の中には、負傷して将来に絶望した復員軍人も含まれていたことは十分考えられます。

障がい者となった復員兵が、スポーツを通してもう一度生きる希望を取り戻そうとすることはごく自然です。

番組の中で、あるアスリートは、パラリンピック参加者全体のなかで、障がいをもった復員兵の割合は少ないかもしれないが、メダル獲得者の中に占
める、負傷した復員兵の割合は高くなってゆくだろう、と語っています。なぜなら、彼らは強靭な肉体的訓練をしてきているからです。

アメリカ以外でも負傷した復員兵はおり、彼らがパラインピックに参加しています。

例えばロシアのようにチェチェンでの戦闘で負傷した復員兵が実際にパラリンピックに参加しています。

このような事情をみると、パラリンピックの背後に戦争の影がちらついて、複雑な思いです。

ところで、日本の場合、パラリンピックの参加者は、事故や病気で障害を負った人に限られ、復員兵の参加者はいません。

それでも障害をもった人たちの自己実現、リハビリ、社会復帰などの動機は強いとは思いますが、同時に、通常のオリンピックのように日本は何個メダル
を取れるか、と競う傾向がますます強まっています。

ここでも、パラリンピックが国威発揚の場に利用されつつあります。

いよいよ日本の自衛隊も、海外活動で「駆けつけ警護」が実施段階に入りましたが、その過程で発生した負傷「自衛隊員」のパラリンピック参加、といった
事態は何としても起こってはならないと思います。

(注1)  http://www.jsad.or.jp/paralympic/what/history.html
(注2) 『YOMIURI ONLINE』(2010年3月22日)2016年9月13日閲覧。
     http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2010/news/paralympics/news/20100322- OYT1T00557.htm 
(注3) Deutsche Well (2014年3月21日)2016年9月13日閲覧。
      http://schwer-metall.hatenablog.com/entry/2014/03/21/184700
(注4) 『日経ビジネス』(電子版)、2014年11月18日。2016年9月13日閲覧。
     http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20141117/273933/?rt=nocnt 

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閑話休題:高知雑感―日本近代化の先がけ―

2016-08-20 05:13:33 | 思想・文化
閑話休題:高知雑感―日本近代化の先がけ―

私が高知を訪れるのは今年の8月で3回目になります。最初は、今から20年ほど前、当時「日本一の清流」と言われた四万十川を訪ねる
旅でした。この時は、四万十川のかなり上流まで遡り、やがて渓流になる山村まで行きました。この時、村の人の話(当時60歳くらい)では、
彼が子供の頃には、渓流には清流ウナギがたくさんしたし、タヌキなども食べたそうです。

しかし、私が訪れたころにはもうタヌキも食べないし、清流ウナギもほとんどいなくなったそうです。

二回目は、2014年の1月でした。この時は高知市内と、幾つかの周辺の市町村を訪ねました。

高知市は、山内氏が支配した土佐藩の中心都市で、高知城をいただく城下町です。

           
           高知城  

この街には、仁淀川と、裏戸湾に注ぐ高知市内の三本の川(国分川、鏡川、江の口川)が流れています。

現在では、「日本一の清流」は四万十川ではなく仁淀川ということになっているそうです。仁淀川は、かつて石鎚山への参道でした。
           
           悠々たる仁淀川の流れ   

仁淀川では、井野(現在は路面電車の終点)、が上流部の最重要の河岸(川港)で,塩はここまで舟で運ばれました。しかし、地元の人の話で
は,もっと上流の勝賀瀬には,かつて船宿で栄えていたそうです。

さらに上流の地域まで、急流ではロープで舟を引き上げたようです。仁淀川上流部では和紙(土佐和紙)の製造が盛ん。楮・三椏が栽培されて
いました。舟の帰り荷には和紙が積み込まれました。

高知市の裏戸湾に流れる国分川近くには、聖武天皇のころ国分寺お国府(国庁)がおかれていました。記録で確かめることはできませんが、恐
らく内陸にある国府と外部とは、国分川の舟運が利用されたものと思われます。
           
           土佐の国分寺跡を示す掲示板

鏡川は高知市の大動脈で、川の両側の街区には商人の館が並び、現在でもその屋敷から川岸に降りる石段にわずかに痕跡を見ることができ
ます。
           
           船着場に降りる石段をもった家 
          
江の口川は全長8キロの小さな川ですが、市の中心部を流れ、物流(舟運)にとって重要な川でした。現在でも、川沿いに,わら(藁)工倉庫が並
んでいます。
           
           江の口川沿いに並ぶ倉庫群

ここはもともと木工所が並んでいた倉庫がならんでいる。恐らく筏や舟で材木を運んだのでしょう。戦後は,梱包資材用の藁を保管した倉庫が建
ち並んでいます。また、江の口川は、熊本城のお堀の水をも供給しています。

以上をざっと見てみると、高知市は、あたかも水の都のような印象さえ受けます。

「コウチ」という地名は、現在は「高知」という感じを宛てていますが、本来は、カワウチ、つまり「河内」あるいは「川内」という表記が正しい、という
説があるくらい、川が多い地域です。

これは、太平洋に面して湿気を含んだ南からの大気が四国の中央山地にぶつかり、多量の雨を降らせるため、河川が発達するからでしょう。

ちなみに、鹿児島県の「川内」(せんだい)、大阪の「河内」(かわち)、宮城県の「仙台」(せんだい)も、皆、同じ地理的条件のもとに発達した都市です。

3回目の高知訪問は今年の8月でした。お盆前後、関東はそれほど暑くなかったのですが、さすが南国高知は35度を超す暑さでした。

今回は、前回もざっと回った個所を幾つか丁寧に見ました。まず、高知(土佐)といえば、何といっても坂本龍馬です。町のあちこちに「龍馬の休日」と
書かれた幟(のぼり)が立っています。お盆休でもあって、龍馬の銅像の周囲には観光客がいっぱいいました。
            
            高知市でもっとも有名な観光スポット、龍馬像


土佐は一見、日本の中心からみると、隔離された「裏口」のような印象を受けますが、薩長や京、大坂、江戸の情報は頻繁に入っていたようです。

銅像のある場所を下ると、桂浜に出ますが、余りの暑さに浜に出ることはできませんでした。この日は、土佐が生んだもう一人の偉人、岩崎彌太郎の
生家を見ました。
            
            岩崎彌太郎の生家            

岩崎家は下級士族で、家はそれほど大きくありませんが、立派な蔵(米蔵と家財収納)が二棟あり、横にはおなじみの三つのひし形文様の紋が描かれて
います。

ちなみに、もともとも、岩崎家の家紋は「三階葵」でしたが、山内家の3枚の柏、真ん中に小さな○があり、そこから3つの菱が出ている紋へ、そして現在の
スリーダイヤへと変わってゆきました。(注1)
            
            岩崎家の家紋から現在の三菱のスリーダイヤになる変化。

            
             スリーダイヤが描かれた岩崎家の倉庫 

この生家で興味深いのは、彌太郎がまだ小さかった頃、日本の国土を表わす形を石を並べて日本の国土を描いたと伝えられ、その石の群れが現在も残さ
れています。

龍馬と同様、四国の土佐から日本全体、さらには世界への雄飛を描いていたのでしょう。彌太郎が後に貿易会社、九十九商会を経て三菱郵船へと事業を
拡大していったのも、土佐から外の世界へ海に出るしかなかったからなのかも知れない、と思いました。

この他にも、幕末から明治にかけて、近代日本の創生期に活躍した偉大な人物を、土佐は実にたくさん輩出していますが、自由民権思想を唱えた政治家、
板垣退助は日本史に残る重要な人物です。

近代化という意味で、忘れてはならないのは、高知県安芸市にある「野良時計」です。「野良時計」とは、まさに田園地帯の真ん中に建てられた大きな時計で、
農作業をしている農民からも良く時刻が見ることができるよう、明治20年当地の地主の館の上に取り付けられた、大きな時計です。
            
            安芸市の田園に立つ野良時計 

この大地主は時計に興味をもち、当初はアメリカから輸入した時計を分解し組み立て直し、ついに自分で作ってしまいました。

これがなぜ、近代化と結びつくのか、といえば、明治政府は、季節と場所によって昼夜の長さが変わり、また時刻が変わる時間制度から、全国同一の時刻と
時間を、軍事、行政、教育の面で採用する政策を推進していましたが、人々の時間、時刻に関する観念は、一朝一夕に変わるわけではありません。

近代化にとって是非とも必要な、新しい時刻と時間の観念を受け入れてもらうため、この先進的な大地主は資材をはたいて作ったのでした。

高知全体がそうですが、この安芸市は雨が多いため、土壁を強い雨から守るため、壁には何段もの瓦の庇が設けられています。これも高知を知る興味深い
風景です。
            
            雨の浸食から土壁を守るために設けられた瓦の庇

高知に関しては、まだまだ書くことはたくさんありますが、今回はこれくらいにしておきます。

(注1)この由来については 
https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro11.html を参照されたい。

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