またまた驚きの天才「少年」棋士―藤井聡太新七段の場合―
このブログで、藤井聡太君を天才棋士として紹介したのは、今年の2月4日のことでした。
この時は、5段になってわずか16日で六段に昇段してしまったことに、私は心底、驚きました。
そして5月18日、この日の対局は、「竜王戦」というタイトルをかけた予選トーナメントの一局
にすぎなかったのですが、対局前からメディアはかなり注目していました。
その理由は、この対局に勝てば、藤井君は史上最年少(15才9か月)、最短期間で七段に昇段し、
加藤一二三氏の記録を61年ぶりに破ることになるからです。
若干15才の、「少年」と言ってよい若者が、プロになってわずか1年7か月で七段に昇段という
のは、まさに驚異的なスピード昇段です。
ちなみに、非常に優秀と言われている棋士でも、7段になるには10数年かかっていることを考え
ると、藤井君の7段への昇段がいかに異例なケースであるかが分かります。
今では、対局中の食事(メディアでは勝負メシと呼んでいる)に何を食べたかがニュースになります。
もはや「藤井聡太」は、社会現象です。
現在、プロ棋士(四段以上)になっている人たちはほとんど、子どものころには天才と呼ばれ、将棋
の世界に入ります。
そうした天才集団の中で、飛び抜けた成績を収めているのが藤井君なのです。
私自身は囲碁ファンで、将棋の面白さは分かりますが、戦術など技術的なことはあまり分かりません。
それでも、藤井聡太君に関しては、ちょっと別格の関心があります。
それは、彼が本当の「天才」であり、そもそも天才とはどんな存在なのかを、将棋を通してみていた
いという強い関心があるからです。
私は、どんな分野でも天才という存在に強い関心と憧れをもっています。これは、自分がごく平凡な
人間だからなのでしょう。
藤井君の対局中の立ち居振る舞いや話から、彼が「天才」だと思う資質いくつかあります。
まず一つは、藤井君を見ていて思うのは、どれほど重大な対局でも、彼は一旦、将棋が始まると、瞬時
にその対局に没頭してしまうことです。
もちろん、この対局に勝ったら昇段できるとか、タイトルと取れるとか、収入が増えるとか、そういう
気持ちは多少あるかも知れませんが、どうも様子をみているとそれが感じられません。
あくまでも彼は謙虚で冷静です。自分の15才の時と比べると、藤井君は本当に15才なのか、と疑い
たくなります。
第二の資質は、集中力が切れないことです。18日の対局もそうでしたが、10時間ちかくの対局中、
ずっと冷静さを保ったまま集中力が切れませんでした。
普通の棋士は、集中力に多少の波はあるものですが、彼の場合、集中力の全く感じられません。
第三の資質は、彼の読みの深さ・速さ・正確さ・鋭さです。これらの能力は棋士の命です。
多くの棋士は、これら四つの能力を長い年月をかけて修行と経験を積んで習得するのですが、藤井君は、
この若さで身に付けてしまっているのです。それも飛び抜けて優れた能力を。
今回も、ある着手の意味が、その時には分からず、ずっと後になってようやく分かる、という場面があ
りました。それだけ、先の先まで読みが透徹しているのでしょう。
第四の資質は、発想の豊かさと柔軟性です。
今回の対局を見ていても、ただ一方的に攻めるのではなく、守るべき場面ではしっかり腰を落として守り、
攻める時には一気に攻める。この攻守のバランスが実に素晴らしかった。
しかも、攻めることも守ることも、実に発想が豊かで、解説者も想定していなかった手が、ここぞという
時に飛び出してくるのです。
今回、相手を投了させた一手は、解説者でさえ気が付いていませんでした。いろいろ展開を予想している
最中に藤井君が指した手をみて、「まさかこの局面で詰め(相手を負かす)手があるとは!」、と驚いて
いました。
読みの深さや鋭さヒラメキは、一言でいえば「センス」と表現できるかもしれません。
では、どうしたらセンスを磨くことができるのでしょうか? これは誰もが知りたいことですが、実は、
一番やっかいな問題です。
ある野球の名手がかつて、「守備は技術だから訓練と経験でうまくなることはできるし教えることもでき
る。バッティングもある程度の技術的なことを教えることができるが、バッティング・センスは教えるこ
とはできなない。バッッティングは最終的にはセンスは天性のものだから」と言ったことがありました。
将棋においても、「定跡」と呼ばれる、長い年月をかけて築き上げられた基本的な戦略や戦術はあります。
プロを目指す人は、定跡をマスターした上で、最高峰を目指して日夜研究と経験と努力を重ねています。
しかし、それでも差がついてしまうのは、やはり何かが違うのでしょう。
努力といえば、藤井君はもちろん、寸暇を惜しんで将棋の研究をしていますが、他の棋士よりも飛び抜け
て多くの時間を割いて研究しているわけではありません。
藤井君は、この3月末まで中学生で、現在は高校1年生の学生です。他のプロ棋士が将棋だけに時間とエ
ネルギーを割くことができるのに対して藤井君は週5日学校に通いながら将棋の勉強もしているのです。
「天才」とはそもそも「天から与えられた才能」です。
五木寛之氏がかつてあるエッセイで、「私は人一倍努力したから、このような成功を収めることができた、
と自慢するのは傲慢だ。なぜなら、人一倍努力することができるということ自体、天から与えられた才能・
資質だから」というような趣旨のことを書いていました。
彼に言わせると、こうした資質を与えられた人は、それを自慢するのではなく、そのことに感謝して謙虚
に振る舞うべきだ、というのです。
藤井君の集中力、発想の豊かさや柔軟性、読みの深さ・速さ・正確さ・鋭さなどは、研究や経験を超えた、
天から与えられた能力・才能としか考えられません。
英語で、このような能力を “gift” つまり「神から与えられた才能」「天賦の才能」と言いますが、藤
井君をみていると、それを感じます。
それでは、私たちの全ては生まれながらの能力によって、優劣がきまってしまうのでしょうか?
私はそうは思いません。
将棋を例にとると、一つは、今のところ藤井君の才能に周囲の棋士がまだ慣れていないために彼の強さが際
立っているという面があると思います。
さらに、読みの力は必ずしも理詰めの合理的な判断というわけではなく、その人の人間としての個性や性格
が多分に影響すると思います。
藤井君は、現在は将棋一筋の人生ですが、これからの人生で人としてさまざまな経験を積んでゆく過程で、
彼の個性も人生観も変わってゆくでしょうから、その時、どのような将棋を指し、どんな棋士になるのか楽
しみです。
藤井君の場合、彼の「天賦の才能」は将棋において花開いていますが、だれでも何らかの「天賦の才能」に
恵まれていて、その人だけの個性を持っていると思います。
私は、天才を尊敬し憧れますが、それと同時にいろんなことに関心をもち、感性豊かな人間が理想です。
それにしても、卓球界や将棋、囲碁の世界(最近、囲碁の世界選手権で日本人として初めて優勝した、17
才の天才棋士、芝野虎丸君)など若い天才がこれほど一度に出現しているのは、歴史的なことで、私として
は当分、興味が尽きません。
このブログで、藤井聡太君を天才棋士として紹介したのは、今年の2月4日のことでした。
この時は、5段になってわずか16日で六段に昇段してしまったことに、私は心底、驚きました。
そして5月18日、この日の対局は、「竜王戦」というタイトルをかけた予選トーナメントの一局
にすぎなかったのですが、対局前からメディアはかなり注目していました。
その理由は、この対局に勝てば、藤井君は史上最年少(15才9か月)、最短期間で七段に昇段し、
加藤一二三氏の記録を61年ぶりに破ることになるからです。
若干15才の、「少年」と言ってよい若者が、プロになってわずか1年7か月で七段に昇段という
のは、まさに驚異的なスピード昇段です。
ちなみに、非常に優秀と言われている棋士でも、7段になるには10数年かかっていることを考え
ると、藤井君の7段への昇段がいかに異例なケースであるかが分かります。
今では、対局中の食事(メディアでは勝負メシと呼んでいる)に何を食べたかがニュースになります。
もはや「藤井聡太」は、社会現象です。
現在、プロ棋士(四段以上)になっている人たちはほとんど、子どものころには天才と呼ばれ、将棋
の世界に入ります。
そうした天才集団の中で、飛び抜けた成績を収めているのが藤井君なのです。
私自身は囲碁ファンで、将棋の面白さは分かりますが、戦術など技術的なことはあまり分かりません。
それでも、藤井聡太君に関しては、ちょっと別格の関心があります。
それは、彼が本当の「天才」であり、そもそも天才とはどんな存在なのかを、将棋を通してみていた
いという強い関心があるからです。
私は、どんな分野でも天才という存在に強い関心と憧れをもっています。これは、自分がごく平凡な
人間だからなのでしょう。
藤井君の対局中の立ち居振る舞いや話から、彼が「天才」だと思う資質いくつかあります。
まず一つは、藤井君を見ていて思うのは、どれほど重大な対局でも、彼は一旦、将棋が始まると、瞬時
にその対局に没頭してしまうことです。
もちろん、この対局に勝ったら昇段できるとか、タイトルと取れるとか、収入が増えるとか、そういう
気持ちは多少あるかも知れませんが、どうも様子をみているとそれが感じられません。
あくまでも彼は謙虚で冷静です。自分の15才の時と比べると、藤井君は本当に15才なのか、と疑い
たくなります。
第二の資質は、集中力が切れないことです。18日の対局もそうでしたが、10時間ちかくの対局中、
ずっと冷静さを保ったまま集中力が切れませんでした。
普通の棋士は、集中力に多少の波はあるものですが、彼の場合、集中力の全く感じられません。
第三の資質は、彼の読みの深さ・速さ・正確さ・鋭さです。これらの能力は棋士の命です。
多くの棋士は、これら四つの能力を長い年月をかけて修行と経験を積んで習得するのですが、藤井君は、
この若さで身に付けてしまっているのです。それも飛び抜けて優れた能力を。
今回も、ある着手の意味が、その時には分からず、ずっと後になってようやく分かる、という場面があ
りました。それだけ、先の先まで読みが透徹しているのでしょう。
第四の資質は、発想の豊かさと柔軟性です。
今回の対局を見ていても、ただ一方的に攻めるのではなく、守るべき場面ではしっかり腰を落として守り、
攻める時には一気に攻める。この攻守のバランスが実に素晴らしかった。
しかも、攻めることも守ることも、実に発想が豊かで、解説者も想定していなかった手が、ここぞという
時に飛び出してくるのです。
今回、相手を投了させた一手は、解説者でさえ気が付いていませんでした。いろいろ展開を予想している
最中に藤井君が指した手をみて、「まさかこの局面で詰め(相手を負かす)手があるとは!」、と驚いて
いました。
読みの深さや鋭さヒラメキは、一言でいえば「センス」と表現できるかもしれません。
では、どうしたらセンスを磨くことができるのでしょうか? これは誰もが知りたいことですが、実は、
一番やっかいな問題です。
ある野球の名手がかつて、「守備は技術だから訓練と経験でうまくなることはできるし教えることもでき
る。バッティングもある程度の技術的なことを教えることができるが、バッティング・センスは教えるこ
とはできなない。バッッティングは最終的にはセンスは天性のものだから」と言ったことがありました。
将棋においても、「定跡」と呼ばれる、長い年月をかけて築き上げられた基本的な戦略や戦術はあります。
プロを目指す人は、定跡をマスターした上で、最高峰を目指して日夜研究と経験と努力を重ねています。
しかし、それでも差がついてしまうのは、やはり何かが違うのでしょう。
努力といえば、藤井君はもちろん、寸暇を惜しんで将棋の研究をしていますが、他の棋士よりも飛び抜け
て多くの時間を割いて研究しているわけではありません。
藤井君は、この3月末まで中学生で、現在は高校1年生の学生です。他のプロ棋士が将棋だけに時間とエ
ネルギーを割くことができるのに対して藤井君は週5日学校に通いながら将棋の勉強もしているのです。
「天才」とはそもそも「天から与えられた才能」です。
五木寛之氏がかつてあるエッセイで、「私は人一倍努力したから、このような成功を収めることができた、
と自慢するのは傲慢だ。なぜなら、人一倍努力することができるということ自体、天から与えられた才能・
資質だから」というような趣旨のことを書いていました。
彼に言わせると、こうした資質を与えられた人は、それを自慢するのではなく、そのことに感謝して謙虚
に振る舞うべきだ、というのです。
藤井君の集中力、発想の豊かさや柔軟性、読みの深さ・速さ・正確さ・鋭さなどは、研究や経験を超えた、
天から与えられた能力・才能としか考えられません。
英語で、このような能力を “gift” つまり「神から与えられた才能」「天賦の才能」と言いますが、藤
井君をみていると、それを感じます。
それでは、私たちの全ては生まれながらの能力によって、優劣がきまってしまうのでしょうか?
私はそうは思いません。
将棋を例にとると、一つは、今のところ藤井君の才能に周囲の棋士がまだ慣れていないために彼の強さが際
立っているという面があると思います。
さらに、読みの力は必ずしも理詰めの合理的な判断というわけではなく、その人の人間としての個性や性格
が多分に影響すると思います。
藤井君は、現在は将棋一筋の人生ですが、これからの人生で人としてさまざまな経験を積んでゆく過程で、
彼の個性も人生観も変わってゆくでしょうから、その時、どのような将棋を指し、どんな棋士になるのか楽
しみです。
藤井君の場合、彼の「天賦の才能」は将棋において花開いていますが、だれでも何らかの「天賦の才能」に
恵まれていて、その人だけの個性を持っていると思います。
私は、天才を尊敬し憧れますが、それと同時にいろんなことに関心をもち、感性豊かな人間が理想です。
それにしても、卓球界や将棋、囲碁の世界(最近、囲碁の世界選手権で日本人として初めて優勝した、17
才の天才棋士、芝野虎丸君)など若い天才がこれほど一度に出現しているのは、歴史的なことで、私として
は当分、興味が尽きません。