4月29日の富岡製糸場世界遺産伝道師協会第1回研修会で、共愛学園前橋国際大学の宮崎俊弥先生に「群馬県蚕糸業史の諸問題」というご講演をいただきました。その中で、群馬県の蚕糸業史を見ていく時、“大久保佐一”という人物に注目すべきである。との話がありました。
例によって、上毛新聞社の「群馬県人名大辞典」に、今井幹夫先生が“大久保佐一”について書いています。
「富岡製糸所長(原合名会社)。1880(明治13)~1934(昭和9)。愛知県渥美郡出身。養蚕伝習所に入り蚕業を修得し、細谷製糸所で製糸業を研究。一時、前田合名会社を創設したが、やがて原合名会社に入社。1905(明治38)年富岡へ転任し、‘09年所長となる。経営手腕に優れ所内に蚕糸研究課の新設、また外国蚕種の輸入を試み、蚕種の改良・養蚕技術の改善に貢献した。。大正末期からの養蚕農家の不況を救うべく組合製糸「群馬社」の創立に尽力し、推されて同社社長となったが、社の内紛と天皇行幸取り止めの責任を感じて自殺した。」とありました。
群馬社の創設・群馬社事件については別項で書きます。
例によって、上毛新聞社の「群馬県人名大辞典」に、今井幹夫先生が“大久保佐一”について書いています。
「富岡製糸所長(原合名会社)。1880(明治13)~1934(昭和9)。愛知県渥美郡出身。養蚕伝習所に入り蚕業を修得し、細谷製糸所で製糸業を研究。一時、前田合名会社を創設したが、やがて原合名会社に入社。1905(明治38)年富岡へ転任し、‘09年所長となる。経営手腕に優れ所内に蚕糸研究課の新設、また外国蚕種の輸入を試み、蚕種の改良・養蚕技術の改善に貢献した。。大正末期からの養蚕農家の不況を救うべく組合製糸「群馬社」の創立に尽力し、推されて同社社長となったが、社の内紛と天皇行幸取り止めの責任を感じて自殺した。」とありました。
群馬社の創設・群馬社事件については別項で書きます。
富岡市立美術博物館に収蔵されている作品の中に「富岡市ゆかりの画家大久保泰」の作品があります。5月17日~9月24日と9月27日~2月22日にテーマを別にした展示が予定されています。この大久保泰は大久保佐一の子息です。富岡へおいでの節はご覧になってください。