あゝ野麦峠 アルル
つぶらな瞳が歩いてゆく
うなじが白く吹雪に染まる
悲しみだけが待っているのに
その時はまだ何にも知らずに
つぶらな瞳は明日を見つめる
しあわせは野麦の東
山は高くても谷は深くても
道は遠くても夢は途切れても
・・・・・・
1903年(明治36年)2月。雪山を往く100人以上もの少女の群れ。
彼女らは飛騨から野麦峠を越えて諏訪湖付近の岡谷にある製糸工場で働くために移動しているのです。
河合村の政井みね(大竹しのぶ)、三島はな(友里千賀子)、庄司きく(古手川祐子)、平井とき(浅野亜子)、途中で合流した篠田ゆき(原田美枝子)も
新工として群れに加わっていました。
3年後、過酷な労働環境の中、みねは一人前の工女になっていました。
取り出す糸の品質によって工女たちは厳しく査定され、ときとはなは劣等呼ばわりされ、みねとゆきは社長の足立藤吉(三國連太郎)から誉められるほどの
優秀工女のお墨付きがつきました。
工場の跡取りで道楽息子の春夫(森次晃嗣)はそんな二人に関心を寄せるようになっていました。
絶望したときは、大日本蚕糸会の総裁である伏見宮殿下(平田昭彦)一行が工場視察に訪れた日、諏訪湖に身を投げ自ら命を絶ちます。
やがて正月。
みねは故郷に一時帰省し、兄の辰次郎(地井武男)らと再開します。
帰る家のないゆきは春夫に身をまかせます。
ある日、金庫の金が紛失しているのが発見され、帳付け担当の野中新吉(山本亘)に疑いがかけられます。
新吉を慕っていたきくは、見番頭の黒木(三上真一郎)に相談しますが、小屋に連れ込まれて乱暴されてしまい、自暴自棄になったきくは小屋に火を放って逃走、
新吉と共に天竜川に身を投げ心中してしまいます。
やがて旧盆が訪れ、工場は束の間の休業に入ります。
はなは検番代理の音松(赤塚真人)と交際を始め、ゆきは春夫の子を身籠っていました。
しかし、春夫には既に婚約者がおり、ゆきは藤吉や春夫から子を堕ろすよう説得しますが、きくと新吉の死因に疑問を抱いていたゆきは工場から去り、
一人で子を産み育てようと野麦峠を越えていましたが、途中で倒れて流産してしまいます。
1908年(明治41年)、アメリカの大不況の煽りを受けて生糸の輸出は停止され、各地の製糸工場が倒産に追い込まれていました。
そんな中、藤吉の工場は生き残りをかけて国内向けの生糸生産にシフトし、労働条件は更に悪化の一途を辿っていました。
そんな中、みねは作業中に吐血して倒れてしまいます。
結核と診断されたみねは物置小屋に放置され、知らせを受けた辰次郎が引き取りに出向きますが、藤吉や春夫らの態度は冷淡でした。
辰次郎はみねを背負って秋の野麦峠を進んでいましたが、みねは「兄さ、飛騨が見える」と言い残して静かに息を引き取ります。
知らせを受けた工女たちは、みねが放置されていた物置小屋に手を合わせ追悼していました。
1979年製作「あゝ野麦峠」、原作は山本茂実のノンフィクション「あゝ野麦峠」です。
シリアスな題材に対して製糸工場の再現などに巨額な予算が必要なこともあり、以前にも映画化が企画されましたが断念されました。
しかし、新たに設立された新日本映画の出資によって実現、若い人気女優たちの共演や抒情的な主題曲などで人気を集め、
1979年製作「あゝ野麦峠」、原作は山本茂実のノンフィクション「あゝ野麦峠」です。
シリアスな題材に対して製糸工場の再現などに巨額な予算が必要なこともあり、以前にも映画化が企画されましたが断念されました。
しかし、新たに設立された新日本映画の出資によって実現、若い人気女優たちの共演や抒情的な主題曲などで人気を集め、
社会派映画としては突出したヒットとなり、翌年にはTVドラマ化もされます。
主な出演者は、森下愛子、永島敏行、西崎みどり、江藤潤、音無真喜子、蟹江敬三、中原早苗、小池朝雄、山田隆夫、三ツ木清隆・・・
ただ、その時の主題歌は、小椋佳 の「想い出して下さい」
主な出演者は、森下愛子、永島敏行、西崎みどり、江藤潤、音無真喜子、蟹江敬三、中原早苗、小池朝雄、山田隆夫、三ツ木清隆・・・
ただ、その時の主題歌は、小椋佳 の「想い出して下さい」
小椋佳 想い出して下さい
野麦峠は、岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、飛騨国と信濃国を結ぶ鎌倉街道・江戸街道と呼ばれる街道の峠です。
古来から野麦街道最大の難所として知られ、能登で取れたブリを飛騨を経由して信州へと運ぶ道筋でした。
信州では飛騨ブリとして珍重され、能登では1尾の値段が米1斗であるものが、峠を越えると米1俵になると言われたそうです。
明治の初めから大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、現金収入の乏しい飛騨の村々の女性
野麦峠は、岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、飛騨国と信濃国を結ぶ鎌倉街道・江戸街道と呼ばれる街道の峠です。
古来から野麦街道最大の難所として知られ、能登で取れたブリを飛騨を経由して信州へと運ぶ道筋でした。
信州では飛騨ブリとして珍重され、能登では1尾の値段が米1斗であるものが、峠を越えると米1俵になると言われたそうです。
明治の初めから大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、現金収入の乏しい飛騨の村々の女性
(多くは10代)が女工として出稼ぎのためにこの峠を越えたという史実は、1968年に発表された山本茂実のノンフィクション「あゝ野麦峠」で
全国的に有名になりました。