パスカルが人として生きているということは、気晴らしである。
と云い放せるだけの、自己への洞察があったなどということは、
もちろんである。しかしそこにはヨーロッパで成熟した自意識が
ある。この強烈な自我があって、絶対としての神、つまりは抑え
が必要であった。けれど、現代の自我意識だけを増幅させてきた
ものたちには、とうぜん神はおらず、より強烈なる気晴らしを
そうとは知らずに探している。その気晴らしを見失ったものを
敗残者、または痴呆症と呼ぶのであろうか。
さてわれらが、気晴らしなどではない、さわやかな人生を
送ることが出来るのであろうか。
と云い放せるだけの、自己への洞察があったなどということは、
もちろんである。しかしそこにはヨーロッパで成熟した自意識が
ある。この強烈な自我があって、絶対としての神、つまりは抑え
が必要であった。けれど、現代の自我意識だけを増幅させてきた
ものたちには、とうぜん神はおらず、より強烈なる気晴らしを
そうとは知らずに探している。その気晴らしを見失ったものを
敗残者、または痴呆症と呼ぶのであろうか。
さてわれらが、気晴らしなどではない、さわやかな人生を
送ることが出来るのであろうか。
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