この念仏者のことを書いたことに早速ある方からメールがきました。せっかくなのでこの場でお応えしますと書いたんだ。
その方は「あなたの言葉を読んでいると、とてもいいことが書いてある。ような気がして自分なりに懸命に、というか真面目に読んでいます。しかしながらここの文面からは、じゃ結局この自分はどうしたらいいのか、どうやれば救われるのか。本気で助かりたいと思って、前から書いているものも何回も目を凝らすようにして、読んだつもりなのですが、どうすればいいとはどこにも書いてないように思うのですが、これは自分自身で考えろということなのでしょうか。それともある意味試されている。私からは、おちょくられているようにも読んでしまうのですが。一体どうなのでしょうか」と。
いやはや率直に言えばそうだろうな、とは思います。しかしながら、なんというのでしょうか、そうやって自分で、うん、ということを、がってんするところを探しているのではないでしょうか。どこまでも我の頭で納得しないと承知しない、人としてのくせなのでしょう。その有り様が問われています。苦しみや自分ではどうすることもできないことに出会ってようやく、自分という前にすでにここにそのままで、自分というものが生かされていた。という言い方がもっとも素直な言い方だと思います。このことは言葉なのですが、身体全体で感応することですから。それぞれがそれぞれの出会い方でしか、ない。前例というものがないのだと思います。ともあれ何事であれ、ともかく手を合わせることをおすすめします。自分がそう思っても思わなくとも静かに手を合わす。その自らの合掌している姿から、自ずと感応します。
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