暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

まだ生きてるの、、、

2009年05月17日 19時45分21秒 | 日常
人間の死を巡って故人を清め棺に収めるまでの作業を仕事にする人の映画を観てそういう職業があることも知らずにいてなるほどいろいろあるのだなあとの感をもったのだが、それはプロの職業としてそれらへの興味と日常にはあるけれどそれが我々には「日常」であってほしくない死がその人たちには「日常」であることから来る差が映画なったものに対するときにそれが我々を惹きつけるのだと思う。 惹きつけるというのは映画だからで現実ではその「死」を巡って別の局面もある。

トイレにぶら下がった一こま風刺漫画風日めくりの今年、3月20日のものには二人のもう若くもない男女がパーティーか何かの折に会場の壁にもたれかかって交わす会話がキャプションとして載っており、それが「あんたのお母さん、まだ生きてるの?」だった。 この日めくりはもう定年を迎えた男が自分の周りの日々の些細なことがらをスケッチして笑いにするもので、その笑いには哄笑も含まれているもののほとんどが自分や他人の人間的な悲哀を描写して苦い同情の笑い、思わず神経を刺激して頬の筋肉を収縮させる、といった種類のものだ。

我々の年頃になると日頃、知人との会話には当人、家族の健康のことが話題の上位に常に鎮座していることはどこでも同じことで、そこに人間関係の煩雑さも加わって聞くほどにそうだろうなあ、と互いの経験を共有しあい相槌で終わることがしばしばだ。 若いときと違い我々はもう喪主候補生、経験者なのだ。

北欧型の福祉が行き届いたオランダでは人間の死をどのように扱うかということはしばしばメディアで取り上げられ、たとえば尊厳死の問題などでは日本のなかでの議論でオランダの例が引き合いに出されることもしばしばだ。 家族が見取るということには変わりはないのだがその見取り方にはかなり隔たりがあるのではないか。

誰でも自分の住んだ家で最後を迎えたいというのは希望としてあるだろうし苦痛は避けたい。 苦痛というのは病人はもちろんのこと、家族にも大きな精神的苦痛、負担となって最終的には誰がどのように引導を渡すか、という問題では医療、法的見地からは依然として万人を納得させる方策を探すのは難しいようだ。 最終医療の段階で家族が病人の面倒を看るというのは大変家族に負担をかける。 精神的な負担はいうまでもないことだが病人をめぐる日常のこまごましたことに加えて健常者たちの日常のこまごまとしたことが普通の生活としてあるから疲れが溜まってそれが家族一同に蔓延する。 だからできるだけ健常者の生活を負担なく続けさせられるように医療福祉のプロたちが病人の世話をするというシステムになっていてほとんどの場合には家族は自宅なり病院なりで枕元に座って逝きつつある人を見守るだけ、というのがここでの情景だ。 

若い人がこの世を去る、というのは惨いものだ。 しかし一方、老衰で寝たきりになり意識もないけれど依然として生きている、回復の見込みはまったくない、当人と家族の実質的な別れはとうに過ぎていて頭の中では葬儀、その他のそれに続く準備はできているけれどそれがいつになるかはまだ見当もつかない、というようなこともあるだろう。 精神的な疲れが慢性になり日常化したそんなときに何かの会合に出て親しい知り合いと交わす会話である。 

あんたのお母さん、まだ生きてるの? とは実に不謹慎な発言だ。 けれど、親しいからこそその想いを共にして出る「まだ生きてるの」であって、これは逝きつつある人を貶める言葉でも何でもなく人の世のアイロニーとして思わず発せられる言葉なのだ。 同じ言葉でも別の状況では別の意味を持つのだろうがここでは十分に生きた人と別れをしてもまだ三途の川を渡る船頭がこないのを待ちながら、それはプラットホームで別れを惜しんだのにまだ汽車が出ず、その間合いの手持ち無沙汰と居心地の悪さに苦笑する、といったようなもので、死を巡る大きなドラマも葛藤もすべて過ぎたところであるから自然と苦笑いがこみ上げてくるのだ。

おくりびと ; 観た映画、 May 09

2009年05月17日 19時00分51秒 | 見る

おくりびと  (2008)

130分

監督: 滝田洋二郎


出演:
本木雅弘    小林大悟
広末涼子    小林美香
山崎努      佐々木生栄
余貴美子    上村百合子
吉行和子    山下ツヤ子
笹野高史    平田正吉
杉本哲太
峰岸徹
山田辰夫
橘ユキコ
橘ゆかり
朱源実
石田太郎
小柳友貴美
岸博之
宮田早苗
大谷亮介
星野光代
諏訪太朗
奥田達士
内田琳
鈴木良一
ト字たかお
藤あけみ
山中敦史
樋渡真司
白井小百合
坂元貞美
大橋亘
飯森範親

本木雅弘が遺体を清め棺に納める“納棺師”を真摯かつ繊細に演じる感動のヒューマン・ドラマ。ひょんなことから納棺師となった主人公が、特殊な仕事に戸惑いながらも次第にその儀式に大きな意義を見出していく姿と、故人を見送る際に繰り広げられる様々な人間ドラマをユーモアを織り交ぜ丁寧な筆致で描き出す。共演は広末涼子、山崎努。監督は「木村家の人びと」「陰陽師」の滝田洋二郎。また、脚本には映画脚本は初挑戦となる売れっ子放送作家の小山薫堂が当たった。
 チェロ奏者の大悟は、所属していた楽団の突然の解散を機にチェロで食べていく道を諦め、妻を伴い、故郷の山形へ帰ることに。さっそく職探しを始めた大悟は、“旅のお手伝い”という求人広告を見て面接へと向かう。しかし旅行代理店だと思ったその会社の仕事は、“旅立ち”をお手伝いする“納棺師 ”というものだった。社長の佐々木に半ば強引に採用されてしまった大悟。世間の目も気になり、妻にも言い出せないまま、納棺師の見習いとして働き始める大悟だったが…。

上記の映画データーベースの記述を本作鑑賞後に読みあれ、妙だなと思った。 どういうわけか理解できないところが数箇所あった。 へえ、あれは主人公のの故郷で自分が育った家だったのか、風呂屋の息子は主人公の幼友達だったのか、なるほどはじめにああいうショックな助手の仕事があったのだな、と理解できたのは知人にもらったDVDの調子が悪かったのか途中から始まっていてそれを最後まで見たからで、だから見終わってから再度頭を探し出しもう一度初めから見直し、そうすると話の筋がすべて腑に落ちた。 当然のことだ。 けれどその腑に落ちるタイミングというか順序の無駄のなさにこれはすんなりといきすぎるなと思いながらもそれだけ効率よく話を続けていっても長編の部に入るような130分なのだから小説で言えば一つの文章や段落が長くスペースをとってあるのだろう。

還暦も近くなり思えば幼少のころより何人もの葬式を経験しているし尋常でないような死も見ている。 まだ小学年の低学年の或る夏、奥深い雑木林の木からぶら下がり息絶えた若い女を枯葉の上に横たえて警官がその上に毛布のようなものをかけただけでそこからはみ出した両手両足の色をたまたま遊んでいたときに見た死斑は今でも忘れないし、学生のころ高速道路の柵を乗り越えてこちらに渡ってこようとした中年女性が高速で走ってきた貨物トラックに20m以上も飛ばされて即死、買い物が飛び散り本人も妙な形にはるかかなたで横たわっていたのも覚えている。 オランダに越してからは目の前で無茶な運転をした乗用車に跳ねられ後に死んだ老人を救急車が来るまで世話したこともある。 10年ほど前には冬の朝早く運河に浮かんだものを何か大きな亀のようだなと見ていたらそれは男性で、それを警察官が引き上げてからそこを離れ、その日の地元新聞で泥酔した老人が誤って運河に落ち溺死したということを読んだ。 肉親、知人の死を別としてそれらの死に対しては別段感慨もなかった。 

それは死というものに対して距離が大きかったからなのだろう。 いやそうだろうか。 肉親知人兄弟にも死は訪れるのだから感慨の差というのは死に対する距離というより今まで見知った人々、特に自分に近い人が亡くなった時にはその人との別離、突然の不可逆的な関係の中断による慙愧が感情となって押し寄せそれがさまざまな形となって表出するのだろう。 

日本を出発するまでには田舎の葬式で祖父を始め2,3人の叔父、叔母を見納めている。 骨を拾い焼かれたらこういう風に美しくも白くなるものだなあと頭蓋骨の内側の模様の細かさに一種の感慨を覚え、そばにいた昔でいえば穏坊という係りの職員が故人はさぞかし記憶が確かだったに違いないという風なことを長年の観察経験から我々に語ったのだが実際にその祖父は自分の幼少のころから最近までの出来事を淀みなく整理して細かく叙述したもので皆何かあると祖父に古い物事を尋ねていたものだ。 焼かれた遺体は癌を患ったあたりは黒く触れるのも憚れるものとして残っていたものの全ては美しい白い骨だった。

死は生きとし生けるものに須らく訪れるのは今のところ真理であり、それをどのように捉えるのかというのが宗教なのだろう。 だからその宗教の一大関心事、死に関わる行事としてどの宗教にも葬式はあり、葬式には形式があり、葬式というのは死者が主役となる。けれどその主役である死者には感情もなく生もないのだからそこにあるのは亡骸、生のない肉が横たわるのみで、だから葬式というのは死者が主役であってもそれは死者以外のためのものであり、ここでは遺族、友人、知人、のためのもの、身寄りのない人の死では規則として公共団体がそれをおこなうものだ。 勿論この式は我々の記憶の中の故人のためなのだと看做しているからこれは故人のためではある。

死の周りの職業は穢い、忌むべきもの下賎であるという偏見は根強い。 それが今も残る差別につながっていることも歴史上明らかだ。 死体、肉体の破損、腐敗、血、体液、それらが自分の愛したもの、友人、知人のものであるならば故人の記憶と相まってそこにある肉の圧倒的な存在が対面するとき非常な困難さを伴わせるのだろう。 肉体が破損、腐敗していようともそこに生命があるのなら対面する態度には死体に対する時と比べると違いがあることは確かである。

私がまだ子供のころには村で死者がでると家族か村の誰かが湯灌するのが普通だったように思う。 それがいつの間にか業者、専門家がその処理をすることで肉親と死体との距離が遠くなったことは確かだ。 このことは種類は違うが、村では普通に精神障害者、身体障害者が隔たりもなく日常の生活に混ざっていたことが教育、福祉行政のなかで分離、隔離されて行き「健常」な社会から離れていったことに比べられるかもしれない。 一旦死も障害も日常から離れた生活をしているとそれが日常でない故に急にそれらが現れると我々にはなすすべもなくただ忌避するという防御の社会メカニズムが自動的に働くということもあるのだろう。

死体の処理を行う納棺師の所作で特徴的なのはその場にいる家族たちの前で顔と手足の一部分以外を除いて故人の体を晒さず合理的にてきぱきと納棺までの処理を行いその流れるように合理的に遂行される作業が美しいと見えるということで、そこに臨席する遺族たちには専門家、職人の動きにみとれるようなそのパーフォーマンスに一時死の重みから逃れることができるのだ。 

以上のようにこの職業をめぐって感想を持ったのだが本作を見る前にどのような筋書きになるのかは幾分かは想像が行ったのだが結局はこの職業の紹介程度にとどまったようでこの職業への理解と偏見を取り除くことが本筋のようで、だからその目的達成にはかなり寄与したということだ。 職業には貴賎はない、といわれるがそれでも自然とそこには差があり、人があまりやりたくないという職業にスポットをあててその意味を再確認させ、その所作の美しさでイメージを払拭し、、、、となると本作の影響でこの仕事に就きたいと希望する若者が増えるのだろうか。 大自然の中でチェロを弾いたり白鳥の群れが空を飛ぶ姿がそのイメージ操作の大きな部分を占めていることは確かなのだが果たしてそのように叙情に訴える古典的な映像が今でも有効かつ効果的であるかどうかには疑問を持つ。

本作以前に作られた葬式をめぐる話では伊丹十三の「お葬式」(1984)がとりわけ光彩を放っていて葬式をめぐる家族知人友人たちの人間模様が見事に描かれている。 また本作で好演した山崎努も喪主役として出演しているし、大島渚の「儀式」(1971)でも冠婚葬祭をめぐっての社会的政治的な断面がみせられる。 一方この何年かアメリカのテレビシリーズで「Sixfeet Under」という葬儀屋を営む家族の話が好評でありここに本作が加わったとき本作の冠としてオスカー受賞というのは名誉なことではあるのだが鑑賞後にどこに受賞のポイントがあったのか思い出してみても叙情が残るのみでこの年にオスカーを受賞した、貧民街の子供たちのテレビのクイズを巡っての映画と同様、肩透かしを食わされたような気がしたものだ。