人間の死を巡って故人を清め棺に収めるまでの作業を仕事にする人の映画を観てそういう職業があることも知らずにいてなるほどいろいろあるのだなあとの感をもったのだが、それはプロの職業としてそれらへの興味と日常にはあるけれどそれが我々には「日常」であってほしくない死がその人たちには「日常」であることから来る差が映画なったものに対するときにそれが我々を惹きつけるのだと思う。 惹きつけるというのは映画だからで現実ではその「死」を巡って別の局面もある。
トイレにぶら下がった一こま風刺漫画風日めくりの今年、3月20日のものには二人のもう若くもない男女がパーティーか何かの折に会場の壁にもたれかかって交わす会話がキャプションとして載っており、それが「あんたのお母さん、まだ生きてるの?」だった。 この日めくりはもう定年を迎えた男が自分の周りの日々の些細なことがらをスケッチして笑いにするもので、その笑いには哄笑も含まれているもののほとんどが自分や他人の人間的な悲哀を描写して苦い同情の笑い、思わず神経を刺激して頬の筋肉を収縮させる、といった種類のものだ。
我々の年頃になると日頃、知人との会話には当人、家族の健康のことが話題の上位に常に鎮座していることはどこでも同じことで、そこに人間関係の煩雑さも加わって聞くほどにそうだろうなあ、と互いの経験を共有しあい相槌で終わることがしばしばだ。 若いときと違い我々はもう喪主候補生、経験者なのだ。
北欧型の福祉が行き届いたオランダでは人間の死をどのように扱うかということはしばしばメディアで取り上げられ、たとえば尊厳死の問題などでは日本のなかでの議論でオランダの例が引き合いに出されることもしばしばだ。 家族が見取るということには変わりはないのだがその見取り方にはかなり隔たりがあるのではないか。
誰でも自分の住んだ家で最後を迎えたいというのは希望としてあるだろうし苦痛は避けたい。 苦痛というのは病人はもちろんのこと、家族にも大きな精神的苦痛、負担となって最終的には誰がどのように引導を渡すか、という問題では医療、法的見地からは依然として万人を納得させる方策を探すのは難しいようだ。 最終医療の段階で家族が病人の面倒を看るというのは大変家族に負担をかける。 精神的な負担はいうまでもないことだが病人をめぐる日常のこまごましたことに加えて健常者たちの日常のこまごまとしたことが普通の生活としてあるから疲れが溜まってそれが家族一同に蔓延する。 だからできるだけ健常者の生活を負担なく続けさせられるように医療福祉のプロたちが病人の世話をするというシステムになっていてほとんどの場合には家族は自宅なり病院なりで枕元に座って逝きつつある人を見守るだけ、というのがここでの情景だ。
若い人がこの世を去る、というのは惨いものだ。 しかし一方、老衰で寝たきりになり意識もないけれど依然として生きている、回復の見込みはまったくない、当人と家族の実質的な別れはとうに過ぎていて頭の中では葬儀、その他のそれに続く準備はできているけれどそれがいつになるかはまだ見当もつかない、というようなこともあるだろう。 精神的な疲れが慢性になり日常化したそんなときに何かの会合に出て親しい知り合いと交わす会話である。
あんたのお母さん、まだ生きてるの? とは実に不謹慎な発言だ。 けれど、親しいからこそその想いを共にして出る「まだ生きてるの」であって、これは逝きつつある人を貶める言葉でも何でもなく人の世のアイロニーとして思わず発せられる言葉なのだ。 同じ言葉でも別の状況では別の意味を持つのだろうがここでは十分に生きた人と別れをしてもまだ三途の川を渡る船頭がこないのを待ちながら、それはプラットホームで別れを惜しんだのにまだ汽車が出ず、その間合いの手持ち無沙汰と居心地の悪さに苦笑する、といったようなもので、死を巡る大きなドラマも葛藤もすべて過ぎたところであるから自然と苦笑いがこみ上げてくるのだ。
トイレにぶら下がった一こま風刺漫画風日めくりの今年、3月20日のものには二人のもう若くもない男女がパーティーか何かの折に会場の壁にもたれかかって交わす会話がキャプションとして載っており、それが「あんたのお母さん、まだ生きてるの?」だった。 この日めくりはもう定年を迎えた男が自分の周りの日々の些細なことがらをスケッチして笑いにするもので、その笑いには哄笑も含まれているもののほとんどが自分や他人の人間的な悲哀を描写して苦い同情の笑い、思わず神経を刺激して頬の筋肉を収縮させる、といった種類のものだ。
我々の年頃になると日頃、知人との会話には当人、家族の健康のことが話題の上位に常に鎮座していることはどこでも同じことで、そこに人間関係の煩雑さも加わって聞くほどにそうだろうなあ、と互いの経験を共有しあい相槌で終わることがしばしばだ。 若いときと違い我々はもう喪主候補生、経験者なのだ。
北欧型の福祉が行き届いたオランダでは人間の死をどのように扱うかということはしばしばメディアで取り上げられ、たとえば尊厳死の問題などでは日本のなかでの議論でオランダの例が引き合いに出されることもしばしばだ。 家族が見取るということには変わりはないのだがその見取り方にはかなり隔たりがあるのではないか。
誰でも自分の住んだ家で最後を迎えたいというのは希望としてあるだろうし苦痛は避けたい。 苦痛というのは病人はもちろんのこと、家族にも大きな精神的苦痛、負担となって最終的には誰がどのように引導を渡すか、という問題では医療、法的見地からは依然として万人を納得させる方策を探すのは難しいようだ。 最終医療の段階で家族が病人の面倒を看るというのは大変家族に負担をかける。 精神的な負担はいうまでもないことだが病人をめぐる日常のこまごましたことに加えて健常者たちの日常のこまごまとしたことが普通の生活としてあるから疲れが溜まってそれが家族一同に蔓延する。 だからできるだけ健常者の生活を負担なく続けさせられるように医療福祉のプロたちが病人の世話をするというシステムになっていてほとんどの場合には家族は自宅なり病院なりで枕元に座って逝きつつある人を見守るだけ、というのがここでの情景だ。
若い人がこの世を去る、というのは惨いものだ。 しかし一方、老衰で寝たきりになり意識もないけれど依然として生きている、回復の見込みはまったくない、当人と家族の実質的な別れはとうに過ぎていて頭の中では葬儀、その他のそれに続く準備はできているけれどそれがいつになるかはまだ見当もつかない、というようなこともあるだろう。 精神的な疲れが慢性になり日常化したそんなときに何かの会合に出て親しい知り合いと交わす会話である。
あんたのお母さん、まだ生きてるの? とは実に不謹慎な発言だ。 けれど、親しいからこそその想いを共にして出る「まだ生きてるの」であって、これは逝きつつある人を貶める言葉でも何でもなく人の世のアイロニーとして思わず発せられる言葉なのだ。 同じ言葉でも別の状況では別の意味を持つのだろうがここでは十分に生きた人と別れをしてもまだ三途の川を渡る船頭がこないのを待ちながら、それはプラットホームで別れを惜しんだのにまだ汽車が出ず、その間合いの手持ち無沙汰と居心地の悪さに苦笑する、といったようなもので、死を巡る大きなドラマも葛藤もすべて過ぎたところであるから自然と苦笑いがこみ上げてくるのだ。