暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

天空の草原のナンサ ; 観た映画、May 09

2009年05月21日 20時25分28秒 | 見る


天空の草原のナンサ  (2005)

独題; DIE HOHLE DES GELBEN HUNDES
英題; THE CAVE OF THE YELLOW DOG

93分

製作国 ドイツ


監督: ビャンバスレン・ダヴァー
製作: シュテファン・シェシュ
脚本: ビャンバスレン・ダヴァー
撮影: ダニエル・シェーンアウアー
編集: ザラ・クララ・ヴェーバー
音楽: ベーテ・グループ

出演:
ナンサル・バットチュルーン     長女ナンサ
ウルジンドルジ・バットチュルーン     父
バヤンドラム・ダラムダッディ・バットチュルーン     母
ツェレンプンツァグ・イシ     老女
ナンサルマー・バットチュルーン     次女
バトバヤー・バットチュルーン     長男

 モンゴルのウランバートル出身で現在ミュンヘンに拠点を置くビャンバスレン・ダヴァー監督が、「らくだの涙」に続き再びモンゴル遊牧民一家の暮らしを綴ったドキュメントタッチのドラマ。
 モンゴルの草原で羊の放牧をして生計を立てる一家。たくましい父親と優しい母親、6歳になる少女ナンサとそのかわいい妹と弟は、家族5人で仲良く平和な日々を送っていた。ある日、ナンサはお使いの途中でかわいい子犬と出会う。ナンサはその犬を“ツォーホル”と名付け連れ帰るが、父親はオオカミの仲間かも知れないといって飼うことを許してくれなかった。それでも、父親が羊の皮を売りに町に出かけたのをいいことに、こっそりツォーホルを飼い始めるナンサだったが…。

上記の映画データーベースの記載事項で映画の体裁は説明できてはいるが作家が本作を映像にして今後これからも自分で何度も観るだろうというその動機は多分話の筋からは窺われないのではないかという気がする。 それは大地であり空でありその下で暮らすまだ若い夫婦と小さな子供3人の家族5人の生活を綴るということであり大自然の中で生活する遊牧民の日常を生のままで我々に見せるということなのだろうし実際にこの家族は実の家族だと確認したのは終了時のクレジットからだったのだが本作を普通のドキュメンタリーにしなかったところに作家の眼目があるに違いない。

モンゴル語で話される各人の俳優としての資質は分からないけれど驚くのは日常生活の各人の動き、しぐさ、目配せから、ここでは主役となっている6歳の長女をはじめ、よちよち歩きの子供までが実に自然に生活している様子が記録されていることだ。 遊ぶあいだにお互いが声を掛け合い、体に触れ合い、時にはよちよち歩きの長男が次女の顔をぶつのだが次女はそれに対して弟の顔をぶち返すというようなことをせずそれでも背中をたたき返し、それに対してまた弟は姉の頬をぶち、姉がまた背中を、、、ということが2度、3度と繰り返され、それで姉がやめて自然にまた和やかに遊びがつづく、というような映像が続けばこれは演技ではありえないことは確かで、このような映像をシナリオの中に各所にちりばめている結構はドキュメンタリー以上に遊牧民の家族の真実を映している。 この段階ではこれが実の家族だとは知らなくてあまりにもそれぞれのつながりが親密、信頼による落ち着いたものであることに感動もし、夫婦の自然さに上手な演技であり、父親の羊の解体、薪を割る様子の技、母親の煮焚き、乳絞りの手際のよさなどに俳優の訓練された手際と感心していたものだが子供たちの実の親で実の生活だと知ってそこには普通のドキュメンタリーにありがちな素人臭さがないことに改めて驚き、誠に暖かくて愛情にあふれた家族の映像に接することで我々の胸は幸福感でいっぱいになるのだ。 

父親が子供たちを抱き上げほお擦りし額に接吻する様子とこどもの自然な反応をみるといい。 家の中にはテレビもラジオも冷蔵庫もなく見晴らす限り大草原の中にみすぼらしく立つ風車は裸電球一つだけを発電するためのもので母親が歌う歌が子供たちの脳に生涯刷り込まれるそんなプロセスをそこに観るときにはそれに加えて風や雨の音、草、羊の匂いも当然刷り込まれていることも理解できるだろう。 刷り込まれた歌がそれから60年後、70年後に歌われるとしてそのときには多分次世代は同じ生活を続けているということはなく、ノスタルジーとして思い起こされる種類のものとなるのだろう。 だからヨーロッパにすむ映像作家は未来に再度思い起こされるべきものとして本作を残したのではないか。

6歳の長女はすでに町の学校に寄宿していて草原を移動しながら生活する家にずっと住み着くということはないからここでの何世紀にもわたる遊牧民の生活にしても将来もこのように続いていくという保障は何もなく、父親はこどもに教育を受けさせることを当然のこととし、教育負担のことを考え町に定住して現金収入の道を考えるようなこともいう。 次世代には自分が受けた以上の教育をつけさせて、と考えるのはどこの親でも同じなのだがここではまだ受けさせるという選択ができるような気配はあり、じっさい猟師との会話では狼に羊が襲われたときには昔は遊牧民たちが集まって狼を狩り出したものだが今ではそれも猟師の数が減ってできなくなり、、、、というようなことから伺えるように遊牧民の定住化が徐々に進んできて伝統的な遊牧生活がなくなっていくようなことが示唆されている。

子供を育てた経験のあるものにはよちよち歩きから6歳までのこども3人を広大な草原の中で羊の放牧とヤクを何頭か飼いながら夫婦二人で育てる光景を見るとき、その親の気苦労に疲労を覚えることもあるだろう。 それはよちよち歩きの子供をまだ4つ5つの娘に看させて母親は作業に出かけたり遠くに出かけて戻らない6歳の長女を探しにでかけるのだがその間にも下の子供二人はテントの家の中に取り残され、というよりそれが普通なのだから取り残されていると意識は子供たちにはなく、何時間も幼い子供たちだけで過ごしてそのうち暗くなっても明かりもない空間で眠っている、という風景でもある。 

6歳の娘には家族の仕事分担が子供のできることとして課せられている。 たとえば草原に散らばったヤクの乾いた糞を木切れでつついて背負った籠に放り込みもどってくること、これは煮炊きの燃料になるからこの仕事が重要なことであるのは子供にもわかっている。 羊の群れを馬に乗って引き連れながら移動することも課せられた仕事でありこの作業のためには既にこの歳で馬を乗りこなすことはできる。 父親が狼に殺された羊の皮を売るために町に出かけた2日間は家族の生活のためには6歳の子供も親がする放牧の一部分を分担する用意ができていて、それは古来からあるここでの生活様式であり当然のこととして身につけられているのだ。 6歳にして労働する少女であるのだが、そう書くとインドやアジアでの児童労働という風に響くかもしれないがここではそれと明らかに違う点がある。 小さいときに我々が買い物籠を渡されててくてくと歩いて隣村の店までお使いにいくことであり、一年で一番大切で忙しい時期の田植えや稲刈りを手伝うことであり、それは家族の生活形態にミニチュア成員として子供が参加できる誇らしいことでもあるのだ。 貧しく工場ともいえないところで自分たちとは何の縁もない世界の有名ブランド製品を一日中単純労働をして過ごすこどもたちとはその労働の質はちがうのだ。

我々が本作で見るものは根源的な人の生活であり世界がどのように動いていくかということを示す話であり、だからそれを映像で話として束ねるタイトルは重要だ。 「天空の草原のナンサ」というような情けないタイトルではだれもが「アルプスの少女ハイジ」のまがい物かと想像するに違いない。 ハイジがスイスかオーストリア民族衣装をつけてアニメとして20年ほどまえにヨーロッパに逆輸入され子供たちを無意識的に日本アニメに引きずり込む働きをしたのとは違ってナンサの世界はアニメにならずお話が現実世界として我々の眼前に提示されるのだからそのタイトルとしては単に甘い夢物語をさそうものでは失格である。 6歳のこどもの世界観を形成する、その世界観はこの草原に住む何世紀にも亘る人々の世界観を形成してきた寓話に関わる本作の原題「黄色い犬の住む祠」でなければ本作には背骨はとおらないだろう。