自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

美しいカリブ海から学ぶ~自然(宇宙)の力と人類の知恵①

2018-12-31 19:25:13 | 自然と人為

 カリブ海のサンゴ礁に浮かぶ直径300mのブルーホール (ベリーズ)、数kmに及ぶ白亜の断崖 (バルバドス) (地図)、そして沸騰する湖 ドミニカ国 (地図)…こうした絶景を作り出しているのは、カリブ海の底深くに潜むカリブプレート。実はこのカリブプレートは、1億年前、2000kmもの距離を移動してきたという。
 体感!グレートネイチャー「カリブ海・神秘の絶景の謎~さまよえる海洋プレート」より引用

1.17世紀~ジャマイカの地震とオランダ黄金時代
 プレート運動は、地球に働く重力や地球内部の熱を外部に逃がす運動等の作用だという。プレートのぶつかり合う境界は地震の震源地となるが、1692年の地震で、当時英国の植民地であったジャマイカは、英国公認の海賊の街として栄え、悪の街とも言われた「ポートロイヤル」の1/3が海に沈んだ。この地震の起きた17世紀は、レンブラントユトレヒトフェルメール等の画家や、人間の心の動き科学的、客観的に説明して、現代では高く評価されているスピノザの哲学を生んだオランダ黄金時代であった。しかし、社会が宗教的支配の強かった17世紀では、科学的思考で哲学したスピノザは異端、無神論者として社会に受け入れられず、『エチカ - 幾何学的秩序に従って論証された』は、死後に遺稿集として出版された。

 カリブ海の美しさと地震の関係から、同じ白亜の断崖がある英仏海峡を生んだ地球の歴史にまで興味が拡がる一方で、現代において高く評価されているスピノザは、今の私に欲望についての論理的な考え方を教えてくれる。逞しく動き続ける地球の歴史の中で、他者と争い続ける人類の未来に希望があるのか、否、希望を見つけたい。
 少し大きなテーマだが、地球の歴史の動画等を収集してまとめるには、もう少し時間が必要なので、今回は、スピノザ「エチカ」を中心にして、私なりに「常識」を疑い、未来を考える資料集としたい。
 
2.17世紀~日本とオランダ 
 17世紀は日本の江戸時代(1603~1868年)の前期に相当するが、この時期のオランダはハプスブルグ家のスペイン領地であった。商工業が盛んで、宗教的にはカルヴァン派の影響が強く、イギリスのピューリタン革命、オランダの独立戦争を担ったのは、このカルヴァン派の人びとであった。スペインのフェリペ2世がカトリック信仰を強要したことから、オランダ独立戦争が1568年から始まり、1609年には12年間の休戦条約を結んで事実上の独立を遂げた。この1609年には日本の平戸にオランダ館が進出し、1641年には平戸から長崎出島移転している。
 スペインやポルトガルが植民地の拡大を目的に海外進出したのに対し、オランダの海外進出の主たる目的は貿易立国であったので、江戸幕府はオランダとの貿易は認めた。幕府7代将軍吉宗は1720年に禁書令を緩和し、キリスト教に関係のない書物の輸入を認め、青木昆陽等らにオランダ語を学ばせるなど、蘭学としてヨーロッパの知識が国内に広まっていくことになる。

3.デカルトとスピノザ
 17世紀にはオランダで望遠鏡が発明された。イタリアの天文学者であるガリレオ(1564-1642) は望遠鏡の改良を行い、天体観測を重ねた結果としてコペルニクス(1473-1543)の地動説が正しいと主張したが、宗教裁判によって否定された。キリスト教的前提「神がこの世界を創造した」という世界では、「神」が説明する現象を否定することは「無神論者」として社会から非難・弾圧された。コペルニクスの地動説が真理として広く受け入れられるのは17世紀の科学革命を経て、産業革命の始まる18世紀を待たなければならなかった。
 デカルト(1596~1650)とスピノザ(1632〜1677)は17世紀の哲学者で、いずれも欧州でキリスト教が支配している時代に、「神」は「完全な存在者」、または「無限なもの」であることを考える原点に置きながら、宗教的モノの見方や説明の仕方を脱皮し、新しい考え方を示した。

 デカルトは「神」=「最も完全な存在者」として観念の中に実在し、「我」などの物質存在は、不完全であるとともに、有限だとした。デカルトの「我思う、故に我あり」は良く知られているが、これは物質存在である「考える我」がいることは誰も否定できない真理であり、「真理=認識できる対象」とした。即ち、対象物に真理があり、対象物から真理を見つけようということだ。デカルトのこの考え方は科学革命の時代を背景にして、真理を探求する科学の発達に貢献し、今も我々はデカルトの考え方に従って対象物を学ぶことで真理に近付こうとしている。

4.スピノザ「エチカ」(100分 de 名著)を学ぶ
 NHK番組「100分 de 名著」のスピノザ「エチカ」は、「欲望」、「善悪」等の言葉の定義やデカルトとの「真理」の捉え方との違いを解説して、私たちがより良く生きるために理性を磨く「哲学」について教えてくれる。ここでは私なりに解釈したスピノザ「エチカ」について紹介したい。
 参考:エチカ1・善悪 異端・無神論者 神=無限=自然(宇宙) 一般的観念 善と悪
     エチカ2・本質 欲望・感情 感情 「変状」
     エチカ3・自由 受動と能動
     エチカ4・真理 デカルトとスピノザ 真理の「体得」
               自己と他者を大切にする群れ 自分を見つめる

   スピノザ『エチカ』の想像知における実践的機能の検討
 第13回哲学ワークショップ

 「神」は「完全な存在者」、または「無限なもの」であることを考える原点に置きながら、デカルトが「我々の生きる世界」を考えたのに対して、スピノザ「神即自然」、即ち神=無限=自然(宇宙) とし、「存在するもの全てが神の一部」とする「汎神論」を原点に「人間」を考えた。神は無限であることは、我々の中にも神がいることになる。今では「全てに神が存在する」と言うと「非科学的な考え方」と思うかも知れないが、「汎神論」は、当時の伝統的な「キリスト教の人格的な神」の概念とは根本的に対立するものであった。しかも、その時点で未知なるものを神の名のもとに「真理」とすることは自然であろう。スピノザはデカルトの「真理=認識できる対象」ではなく、「真理=体得するもの」とした。即ち、真理を対象物に求めるのではなく、真理は神の一部である自分自身の中に「潜在能力」としてあり、これを精神(理性)的または身体的に認識する時に「真理」として顕在するので、「真理」は「体得」するものとした。「真理」は対象物にあると考えることに慣れている我々にとって、生物学的、生理的に「自分自身の中にある真理」を一言で説明することは難しい。

 人間は何も知らない、何もできない不自由な状態で生まれ、環境の刺激に対応して「変状」しながら成長する。このとき、自分を維持するための力(コナトゥス:現代風に言えば自己保存の力・法則?)が衝動となることが「欲望」であり、コナトゥスによって生きることを「能動」、そうではなくて外部の力によって生きることを「受動」とした。自分の生きる力が外部の力によって失われる究極の状態が自殺や過労死をもたらす。人間は受動と能動の両方の影響を受けるが、自由になるとは能動的になることであり、精神の活動能力が増大する感情が「喜び」であり、減少すると「悲しみ」となる。我々は「神」ではないので、完全な能動は成り得ないが、コナトゥスを原点として「欲望」と「能動と受動」によって人間が「変状」する関係について認識し、より「自由」に能動的に生きて行くことをスピノザは教えてくれる。
 参考:スピノザ哲学におけるコナトゥス概念の発展

 人間は集団で生きているので、集団で共有する一般的観念がある。これを常識とすると、この常識は固定観念となることもある。スピノザは集団を対象としないで、個人が体得する真理のことを考えているが、この真理の基準は本人の中にある。それぞれ各個人にとっては、新しい経験がこれまでの精神的、身体的基準を変えることが、真理の体得であり、歩けるようになること、泳げるようになること、自転車に乗れるようになることは、その人をこれまでの人間から新しく(変状)する。精神(理性)だけでなく身体の変状も、それを認識できることが生理学的な真理となる。人間は個々の能力は異なっていても、それぞれに自分を維持するための力(コナトゥス)があり、その自己保存の力が、精神と身体に関係すると衝動になる。その衝動が意識にもたらされることで「欲望」となる。我々は「欲望」を「無欲」と対比して否定的に使用し、言葉自体にイメージを固定するが、スピノザは「欲望」は自己保存の衝動であり、「人間の本質」とした。また同じ言葉(例えば「音楽」)でも受け取る人の状態により、「善」でもあり「悪」にも、どちらでもない場合がある。我々の常識(一般的観念)は疑ってかかる必要もある。

  欲望とは、人間の本質が
  与えられたそのおのおのの変状によって
  あることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、
  人間の本質そのものである。

  音楽は憂鬱の人には善く、
  悲傷の人には悪しく、  
  聾者には善くも悪しくもない。

 感情表現の一つとして、チームダンスがある。集団の踊りに振り付けはあるが、音楽に乗り個人の踊りの表現を最大にしながら、団体の踊りとの調和を取る。それが最高の美を創る時、踊りの中に集団の「真理」を見出したと言えるのではないか。「真理」は言葉で説明するだけでなく、身体で表現し、人間の成長から老化に伴い、「真理は変化する」。しかも人間は集団で生きる動物であり、自己を大切にすることは、他者を大切にすることであり、他者を大切にすることは、自己を大切にすることでもある。デカルトが「真理=認識できる対象」したのに対して、スピノザは「真理=体得するもの」とした。番組ではデカルトとスピノザの「OSが違う」と説明しているが、真理が対象物にあると学んできた我々は、スピノザの「真理」を説明することに馴染んでいない。「真理」を「可能性」や「潜在能力」の顕在化としたらと思うが、それでは哲学の一貫した言葉の使い方にならないのかも知れない。

 スピノザは個々の精神的、肉体的能力を最大限に引き出すことが人間の幸せであるとしている。哲学は特殊な能力のある一部の人の世界ではなく、全ての人々が、幸せのために固定観念を打破して、ゆっくり「自分を見つめる」時間を持つことが原点だと言っている様に思う。
 参考:スピノザ『エチカ』を解読する
     〈二者〉の哲学者、國分功一郎
     私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」
     平和とは戦争がないことではない : 悪徳を非難するより美徳を教える方がよい
     スピノザの自由の概念
     「スピノザ」の哲学思想「汎神論」とは?
     自由意志の主体と統治 : スピノザ政治思想の位置づけをめぐって
     スピノザ『エチカ』における個物の本質――第二部定義二を中心に


5.全ての人々を大切にすることは、「平和を守ること」
 NHK-BS日仏友好160年とことんフランス!魅惑の5時間SPが放送された。その内の「日本人とフランス人の心」の部分を紹介したい。
 日本人は「家族や集団」を大切にする長い歴史があり、「個人主義」の発達したフランスとは個人の考え方は対極にあるほど違う。しかし、日本人もフランス人も心を大切にする点で、身近に感じるという。人間の原点である感性に親しみを感じるのだろう。
 理性を磨くと、「個人を大切にすることは、他者も大切にすること」が深く認識されるが、「個人主義」が未成熟な日本では、個人よりも集団、組織、国を大切にする情動が働く。しかも、集団、組織、国に煽られると、個人は影響されやすい。

 経済と政治は、国民の時間と労力を活かす仕事である。国民が安心してゆっくり生活できる状況をつくるのは政治・経済の責任である。しかし、経済は利益を追求して格差を拡大する一方で、最近、韓国の駆逐艦が日本の海上自衛隊P1哨戒機に火器管制レーダーを照射した「レーダー照射事件」をNHKは何度も放送し、民間テレビ局もこれを扱っている。この政治的情報公開は、安倍首相の指示だとも聞く。戦争をしないことが政治の絶対責任であるのに、何故、国民に戦争を煽るような情報を流すのか。これが首相の指示だとしたら、安倍首相は危険人物であり、政治家の資格はない。「森友事件」で言明したように、政治家を即刻辞任すべきだ。

 これに対して、日本国を治める象徴として、天皇はその仕事の価値を守り育てて、個人主義の成長しない日本の国民の心に平穏をもたらしていただいた。天皇陛下平成最後の誕生日会見とこれを報道したサンデーモーニング2018.12.23 風をよむをここに残して感謝したい。
 参考:『映画 日本国憲法』予告編
     「家族」と「自立した個人(他者)」を大切にしよう
     100分de平和論  戦争と人の心  経済と平和  江戸の平和  寛容への祈り


 
初稿 2018.12.31 


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