日本の醤油業界のトップ企業となったのが大正6年に渋沢栄一に指導を受け、野田市の有力醤油企業が合併した。今の社名をキッコ-マンという。企業の近代化と労務の前近代性の軋轢とロシア革命の影響が日本に入り、それを危険視する経営者と組織化された労働者とに衝突があって、死者もで、労働者の子供の小学生の同盟休校さらに天皇陛下へ直訴問題もあって、一時は千葉県の警察官800名のうち300名ほどが野田に派遣され大労働問題となった。これを野田争議という。最後は昭和3年4月まで続いた8ケ月のストライキで労働者が敗北した。野田醤油争議は共同印刷争議と並んで、戦前最後の時期の労資の仁義なき戦いだった。 この結果は野田市民に深い傷があったと思われるが利根川と江戸川にはさまれた地域の住民には心に傷を残し、今は触れる人も少なくなった。
この労働争議は経営の近代化を図る経営者と江戸時代からの雇用システムを維持しようとする人たちの対立から始まり、昭和に入って製造が樽詰めから瓶詰めに代わり、水運から鉄道輸送、トラック輸送と変わる時期に、労働組合が組合つぶしという疑念を持ち、なかなか解決しなかった。最後に組合幹部が天皇陛下への直訴問題から、野田の一企業の問題から治安維持の問題になるのを恐れ、ストを強行した労働組合の敗北となった。この問題が終わり渋沢栄一は死去し、日本の労使が戦争に向かってゆくことになる。