桃山頃から急速に絵画表現の主流の一つとなった琳派の魅力は心象風景にあり、その画風が漂わせるはもちろんのことだが、我が国の古典を同時代の美意識の下で再構築したところにある。
琳派は、古い研究では一つの流派をなした表現であると解説されたが、近年では家系を越えて影響し合い、殊に百年を隔てた後の絵師が先人の美意識に感応し、それを手本として新たな表現を求めた芸術観であるとしている。流派ではなく、画風の動き、隆盛、絵画だけではないことから現代で言うならファッションに近い流行であると言うべきであろう。もちろん琳派なる言葉も、近代の用語であり、同時代には用いられていなかった。狩野派、土佐派、あるいは江戸時代に盛行した四条円山派というような、画派や家系とは異なる認識を採らねばならないのである。
すると琳派は、一般的に言われているような、桃山頃の本阿弥光悦(1558~1637)と俵屋宗達(生没不詳:桃山時代)の創始であるとの研究も捉え方を変えねばならないだろうと考える。即ち琳派とは作風のこと。光悦や宗達が好んで行い、同時代の風潮に乗って流行した結果、絵師は画派を越えてこの作風を表現に採り入れたのである。逆に言うと、宗達、光悦、光琳の作品は総てが琳派風とは言えない。琳派に含められない作例もある。
絵画だけでなく様々な芸術や工芸の分野でも、また金工も琳派の風趣を作品化している。いや、筆者は、金工作品を眺めているうちに、金工という特殊な表現世界においては、影響を受けたというより技法の面から琳派の様式を取り入れざるを得ない場合が多々あったと考えている。それが文様化、装飾化した風景図に顕著に現われている例がある。
ここ数年、各所で琳派の絵画を鑑賞する機会があった。その一つの展覧会では、琳派を流派の一つとして捉えたものであろうか、琳派の影響を受けた絵師の弟子もまた琳派風作品を残していると考え、琳派とは趣の異なる絵画までも琳派の部類に入れて展示したようだ。さらに外国の絵画を展示していたが、比較させることに意味があるのだろうか。少々疑問を感じた。むしろ、絵画以外に琳派の趣を漂わせている多くの工芸作品に目を向けてほしかった。
琳派は画風の流行であるとの見方をすると、これまで言われていたような、琳派の始まりについて疑問を感じざるを得なくなる。琳派とは最も隆盛した尾形光琳を中心としての呼称で、その呼称に捉われることなく眺めるのであれば、その流れは、現在考えられている以上に広いものではないか。即ち琳派は、光悦や宗達が創始したのではなく、それ以前にすでに始まっていたのではないか、というのが筆者の視点である。これまでにも所々で琳派の作風の影響を受けた作品を紹介してきたが、改めて、琳派風作品を中心に、文様化された風景図の金工上での変遷を見直してみたい。
柏図鐔 銘 埋忠
葛図小柄 銘 埋忠
光悦や宗達と同じ時代を生き、明らかに琳派の作風を金工上で表現したのが埋忠明壽(1558~1631)である。写真の鐔と小柄をご覧いただきたい。『鐔Tsuba』の記事も参考にされたい。
穏やかな色調の真鍮地をなだらかに仕上げ、墨絵のように赤銅と銀の平象嵌の手法で柏の葉を画いた鐔と、花を咲かせる葛を山銅地に金、銀、赤銅、素銅の平象嵌で画いた小柄。
琳派の作風を説明する上で宗達の没骨法や垂らし込みが採り上げられることがある。輪郭を画かずに彩色描写する手法が没骨法で、濡れた紙面に色絵することによる滲みを絵に取り入れるのが垂らし込みだが、この鐔と小柄では金属の性質が為した自然な垂らし込み様の表情が活かされている。墨絵の破墨にも通じるのだが、風合いが洒落ているのが宗達。明壽や埋忠派にみられる意匠もこれに似て、少ない色金であるが故に時代の上がる墨絵の一部のようでありながらも、華があり、瀟洒な趣がある。このような心象風景を金工で表現した一人が明壽なのである。
写真の鐔と小柄は明壽の個銘はないが、明壽の作、あるいは明壽と同じ感性を持つ極めて近しい工の作である。
琳派は、古い研究では一つの流派をなした表現であると解説されたが、近年では家系を越えて影響し合い、殊に百年を隔てた後の絵師が先人の美意識に感応し、それを手本として新たな表現を求めた芸術観であるとしている。流派ではなく、画風の動き、隆盛、絵画だけではないことから現代で言うならファッションに近い流行であると言うべきであろう。もちろん琳派なる言葉も、近代の用語であり、同時代には用いられていなかった。狩野派、土佐派、あるいは江戸時代に盛行した四条円山派というような、画派や家系とは異なる認識を採らねばならないのである。
すると琳派は、一般的に言われているような、桃山頃の本阿弥光悦(1558~1637)と俵屋宗達(生没不詳:桃山時代)の創始であるとの研究も捉え方を変えねばならないだろうと考える。即ち琳派とは作風のこと。光悦や宗達が好んで行い、同時代の風潮に乗って流行した結果、絵師は画派を越えてこの作風を表現に採り入れたのである。逆に言うと、宗達、光悦、光琳の作品は総てが琳派風とは言えない。琳派に含められない作例もある。
絵画だけでなく様々な芸術や工芸の分野でも、また金工も琳派の風趣を作品化している。いや、筆者は、金工作品を眺めているうちに、金工という特殊な表現世界においては、影響を受けたというより技法の面から琳派の様式を取り入れざるを得ない場合が多々あったと考えている。それが文様化、装飾化した風景図に顕著に現われている例がある。
ここ数年、各所で琳派の絵画を鑑賞する機会があった。その一つの展覧会では、琳派を流派の一つとして捉えたものであろうか、琳派の影響を受けた絵師の弟子もまた琳派風作品を残していると考え、琳派とは趣の異なる絵画までも琳派の部類に入れて展示したようだ。さらに外国の絵画を展示していたが、比較させることに意味があるのだろうか。少々疑問を感じた。むしろ、絵画以外に琳派の趣を漂わせている多くの工芸作品に目を向けてほしかった。
琳派は画風の流行であるとの見方をすると、これまで言われていたような、琳派の始まりについて疑問を感じざるを得なくなる。琳派とは最も隆盛した尾形光琳を中心としての呼称で、その呼称に捉われることなく眺めるのであれば、その流れは、現在考えられている以上に広いものではないか。即ち琳派は、光悦や宗達が創始したのではなく、それ以前にすでに始まっていたのではないか、というのが筆者の視点である。これまでにも所々で琳派の作風の影響を受けた作品を紹介してきたが、改めて、琳派風作品を中心に、文様化された風景図の金工上での変遷を見直してみたい。
柏図鐔 銘 埋忠
葛図小柄 銘 埋忠
光悦や宗達と同じ時代を生き、明らかに琳派の作風を金工上で表現したのが埋忠明壽(1558~1631)である。写真の鐔と小柄をご覧いただきたい。『鐔Tsuba』の記事も参考にされたい。
穏やかな色調の真鍮地をなだらかに仕上げ、墨絵のように赤銅と銀の平象嵌の手法で柏の葉を画いた鐔と、花を咲かせる葛を山銅地に金、銀、赤銅、素銅の平象嵌で画いた小柄。
琳派の作風を説明する上で宗達の没骨法や垂らし込みが採り上げられることがある。輪郭を画かずに彩色描写する手法が没骨法で、濡れた紙面に色絵することによる滲みを絵に取り入れるのが垂らし込みだが、この鐔と小柄では金属の性質が為した自然な垂らし込み様の表情が活かされている。墨絵の破墨にも通じるのだが、風合いが洒落ているのが宗達。明壽や埋忠派にみられる意匠もこれに似て、少ない色金であるが故に時代の上がる墨絵の一部のようでありながらも、華があり、瀟洒な趣がある。このような心象風景を金工で表現した一人が明壽なのである。
写真の鐔と小柄は明壽の個銘はないが、明壽の作、あるいは明壽と同じ感性を持つ極めて近しい工の作である。