稲村亭日乗

京都の渓流を中心にルアーでトラウトを釣り歩いています

映画「永遠のゼロ」

2015年08月06日 | 日々
 『永遠のゼロ』(2013)が地上波で初放映。

 話題作であっただけにぼくも大いに関心をもってみた。

 家族のもとに必ず帰るとの主人公 宮部久蔵の思い。
 結局は実現せぬままに悲しい結末を迎える。

        

 生還の願望を抱きつつも果たしえなかった無念。
 宮部を含み、その数のおびただしさに絶句せざるをえない。

 さまざまな批評
 この作品、批評は実にさまざまであったらしい。

 そのひとつは特攻を美化しているというもの。
 けれどもことはそれほど簡単ではないというのがぼくの印象だ。

 実際体当たり戦法というもの、その多くは米軍艦船にたどりつけなかったようだ。
 それは映画の中で主人公 宮部が批判しているとおりだったのだろう。
 そのかぎりでは、特攻で散った4500人の死は結果的に無意味となってしまったといわざるをえない。

        

 その実態を知りながら、特攻命令を発し続けた軍の無能、無策ぶりには怒りを禁じえない。

 特攻への思い
 ところで、原作者の百田尚樹自身は特攻には断固反対らしい。

 それでもこの作品が特攻を美化しているかのように批判されるのは、この無策無能に十分焦点をあてきらなかったからではないか。

 この作品で貫かれているのは家族の絆、愛情だと解する。.

        

 特攻での死がそれを一段と際立たせる形になっている。

 散華することが宿命であるかのように、その意味ではあたかも抗いがたい自然災害であるかのようにみえてしまうところが残念だ。

 このことから戦後に生きるぼくらに必要なのはこの死を情緒的にとらえることではなく、美辞麗句のもとに命を浪費してはばからなかった愚策を見つめなおすことではなかろうか。

        

 主人公の設定
 なお、気になるのは宮部久蔵なる架空の主人公のこと。
       
 もちろん生還を望むことは理解できるとしても、それを公言することはもとより、そのように発想すること自体がむずかしかった時代のこと。
 そうした奇跡に近い人間を造りだして主人公にすえるということ。

        

 ここにぼくは違和感を感じてしまう。

 ふと『人間の条件』の主人公 梶を思い出してしまうのだ。
 作者 五味川の意図は認めつつもだ。

 映画であれ文学であれ、その時代、時代に普通に生きる人間の苦悩や生き様を描いてこそと思うのだが、この違和感はぼくだけのものだろうか。

 戦争への視座 
 加えて毎年8月、この季節、にわかに盛り上がる戦争の話題。
 総じて悲劇にみまわれた日本人というもっぱら内向きな戦争談義だけでなく、もともとアジア諸国を侵すことから始まったこの戦争を総体としてみる視座は失いたくないと思うのだが、どうだろう。
 

 
コメント (2)
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