アヴェ・マリア!
「崇礼門復興基本計画」のニュース
愛する兄弟姉妹の皆様、
ソウルの南大門は、朝鮮王朝を建て太祖・李成桂により建設され、1398年に完成されました。世宗の治世の1448年と成宗の治世の1479年とに大きく改築されて、二階建てになったそうです。
しかし、愛する兄弟姉妹の皆様もおそらくご存じのように、今年の2月10日午後8時50分頃、南大門の名で親しまれている韓国国宝第1号、崇礼門(ソウル市中区南大門路4街)は70歳の老人によって放火されたため、翌11日には、木造2階建て延べ約177平方メートルの楼閣が全焼してしまいました。
消防当局は出火直後に消防車39台と消防隊員88人を動員して消火作業に当たったが、現場での初期消火に失敗し、南大門は出火から4時間後に完全に崩壊したのです。
私もこのニュースをマニラで知らされたとき、大きなショックを受けました。崩壊の後は、壁が付けられ、その中を見られないようになっています。
ソウル中央地裁は4月25日、ソウル市中心部の崇礼門(南大門)に放火、全焼させたとして、文化財保護法違反の罪に問われたチェ・ジョンギ被告(70)に対し、懲役10年(求刑同12年)の判決を言い渡したとのことです。判決は「被告の犯行は計画的で、その結果は重大であり、重罰に処するほかない」とし、さらに「被告は崇礼門の全焼を反省しているが、土地補償問題をめぐり依然として国家に対する不満を持っており、再犯の可能性がある」と指摘しました。
しかし、文化財庁(李健茂〈イ・ゴンム〉庁長)は火災から100日目を迎えた5月20日、火災現場で「崇礼門復興基本計画」を発表しまし、2009年12月までに調査・発掘・考証・設計を行い、10年1月から12年12月まで3年間で復旧工事を行い、2013年1月に再建される計画だと述べたそうです。
朝鮮日報の社説「現代人の愚かさを知らしめる南大門の残骸」によると、
「崇礼門(南大門)が焼け落ちてからわずか2日後の今月12日から、焼け残った部材の一部や壊れた屋根瓦などが廃棄物処理場に捨てられた。11日午前2時ごろには、ソウル中部消防署が「火を完全に消し止める」という口実で、残骸をショベルカーで壊し始め、市民の抗議を受けた文化財庁の要請で1時間40分後に中断していたことも分かった。火災の翌日の11日朝には崇礼門の周囲を幕で覆ったが、その中ではこのようなことが行われていたのだ。・・・」とありました。
社説は続けてこう書いています。
「1949年に火災で焼損した法隆寺の金堂の場合、焼け残った部材の一部は再び使用し、残りは収蔵庫で保管している。真っ黒に焼け焦げた柱や大梁、壁画などは引き続き国宝に指定し、1年に1回ほど一般公開している。また、第2次大戦中の1943年に連合軍の爆撃によって破壊された、ドイツ・ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム教会は、破壊されたままの状態で残し、その隣に現代的な建物を建てた。残骸をそのまま残すことで、戦争の悲惨さや、文化財を粗末に扱った過去を教訓として後世に伝えているというわけだ。
文化財庁は15日、ようやく誤りを認め、崇礼門の残骸の搬出を中止することを決めた。適切な場所に一旦保管した後、精密調査を行って、再び使用するもの、保存するもの、廃棄するものに分類していくという。崇礼門の残骸は、現代人の愚かさを知らしめる歴史的な証拠として記憶にとどめるべきだ。再建する際に使えるか否かだけで判断してはならない。」
~~~~~~~
カトリック教会のローマ典礼様式のミサ聖祭は、記録に残るかぎり世界で最古の典礼様式であり、記録に残るかぎり少なくとも1500年の歴史を持つものです。
しかし、愛する兄弟姉妹の皆様もご存じのように、1969年、パウロ六世が新しいミサ典書の使用を許可すると、聖伝のローマ典礼様式のミサ聖祭は事実上「禁止」されてしまいました。
オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿などは、新しいミサの発表直後にパウロ六世に手紙を送り理由を説明して聖伝のミサ保全作業に当たったのですが、聖伝のミサは事実上完全に「禁止された」のです。こうしてカトリックの信仰宣言であり象徴であり「御旗」だったローマ典礼様式は姿を消してしまいました。
しかし、ベネディクト十六世は新しいミサ発表から37年目を迎えた2007年7月7日、ようやく、聖伝のミサとよばれるローマ典礼様式は一度も禁止されたことがない、教会が過去に大切にしていたものは大切にし愛さなければならない、と発表しました。
トリエント・ミサとも言われることから、トリエント公会議(1545年開始)から始まったのものだ、従って、比較的新しいものだ(!)と言いつつ、聖伝のラテン語のミサが無くなってしまったことを嘆く声もかき消されてしまっていました!
しかし、新しいミサが発表されてからわずかすると、古い祭服やミサ典書などが廃棄物処理場に捨てられました。世界中で「アジョルナメント(現代化)」という口実で、グレゴリア聖歌や古い教会や聖像などを壊し始め、信徒の方々は抗議をしたのですが、中断もせずブルドーザーのように破壊し続けてしていたのです。そして教会の破壊に協力することができないという司教様や司祭たちを厳しく取り締まったのです。跪いて口で聖体拝領をしたいという信徒の方々を蹴散らしていたのです。
これを見たら朝鮮日報の社説は何と書くでしょうか?(南大門火災:日本の専門家に聞く再建の課題 窪寺茂氏インタビューを参考にしてみました。)
「日本では、古い文化財を大切にする。1949年に火災で焼損した法隆寺の金堂の場合、焼け残った部材の一部は再び使用し、残りは収蔵庫で保管している。真っ黒に焼け焦げた柱や大梁、壁画などは引き続き国宝に指定し、1年に1回ほど一般公開している。春光寺では、キリシタンの南蛮寺の鐘さえも大切に保存していた。
法隆寺金堂は修理、金閣寺は完全に再建により復元した。金閣寺は全焼した。だから新たに建て直したのだ。法隆寺は残った木材があった。それを残すやり方で修復したため、国宝として残った。
残がいには文化財としての価値が十分残っている。炭のように見えても、内部の木材が生きていれば修復できる。残った部材を修理して使えば、日本の基準では国宝指定の維持が可能だ。法隆寺金堂には焼損し復元できなかった木材を永久保存している。今の技術では不可能でも、将来はそれを復元できる技術ができるかもしれない。
もう一度言えば、日本では、古いものを大切にする伝統がある。焦らずに、ローマ典礼様式の聖伝のミサを大切に守り、日本全国で復興してもらいたい。」
明日は御聖体の祝日です。聖伝のミサの復活を祈りつつ。
主よ、我らを憐れみ給え!
天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!
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愛する兄弟姉妹の皆様、
ソウルの南大門は、朝鮮王朝を建て太祖・李成桂により建設され、1398年に完成されました。世宗の治世の1448年と成宗の治世の1479年とに大きく改築されて、二階建てになったそうです。
しかし、愛する兄弟姉妹の皆様もおそらくご存じのように、今年の2月10日午後8時50分頃、南大門の名で親しまれている韓国国宝第1号、崇礼門(ソウル市中区南大門路4街)は70歳の老人によって放火されたため、翌11日には、木造2階建て延べ約177平方メートルの楼閣が全焼してしまいました。
消防当局は出火直後に消防車39台と消防隊員88人を動員して消火作業に当たったが、現場での初期消火に失敗し、南大門は出火から4時間後に完全に崩壊したのです。
私もこのニュースをマニラで知らされたとき、大きなショックを受けました。崩壊の後は、壁が付けられ、その中を見られないようになっています。
ソウル中央地裁は4月25日、ソウル市中心部の崇礼門(南大門)に放火、全焼させたとして、文化財保護法違反の罪に問われたチェ・ジョンギ被告(70)に対し、懲役10年(求刑同12年)の判決を言い渡したとのことです。判決は「被告の犯行は計画的で、その結果は重大であり、重罰に処するほかない」とし、さらに「被告は崇礼門の全焼を反省しているが、土地補償問題をめぐり依然として国家に対する不満を持っており、再犯の可能性がある」と指摘しました。
しかし、文化財庁(李健茂〈イ・ゴンム〉庁長)は火災から100日目を迎えた5月20日、火災現場で「崇礼門復興基本計画」を発表しまし、2009年12月までに調査・発掘・考証・設計を行い、10年1月から12年12月まで3年間で復旧工事を行い、2013年1月に再建される計画だと述べたそうです。
朝鮮日報の社説「現代人の愚かさを知らしめる南大門の残骸」によると、
「崇礼門(南大門)が焼け落ちてからわずか2日後の今月12日から、焼け残った部材の一部や壊れた屋根瓦などが廃棄物処理場に捨てられた。11日午前2時ごろには、ソウル中部消防署が「火を完全に消し止める」という口実で、残骸をショベルカーで壊し始め、市民の抗議を受けた文化財庁の要請で1時間40分後に中断していたことも分かった。火災の翌日の11日朝には崇礼門の周囲を幕で覆ったが、その中ではこのようなことが行われていたのだ。・・・」とありました。
社説は続けてこう書いています。
「1949年に火災で焼損した法隆寺の金堂の場合、焼け残った部材の一部は再び使用し、残りは収蔵庫で保管している。真っ黒に焼け焦げた柱や大梁、壁画などは引き続き国宝に指定し、1年に1回ほど一般公開している。また、第2次大戦中の1943年に連合軍の爆撃によって破壊された、ドイツ・ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム教会は、破壊されたままの状態で残し、その隣に現代的な建物を建てた。残骸をそのまま残すことで、戦争の悲惨さや、文化財を粗末に扱った過去を教訓として後世に伝えているというわけだ。
文化財庁は15日、ようやく誤りを認め、崇礼門の残骸の搬出を中止することを決めた。適切な場所に一旦保管した後、精密調査を行って、再び使用するもの、保存するもの、廃棄するものに分類していくという。崇礼門の残骸は、現代人の愚かさを知らしめる歴史的な証拠として記憶にとどめるべきだ。再建する際に使えるか否かだけで判断してはならない。」
カトリック教会のローマ典礼様式のミサ聖祭は、記録に残るかぎり世界で最古の典礼様式であり、記録に残るかぎり少なくとも1500年の歴史を持つものです。
しかし、愛する兄弟姉妹の皆様もご存じのように、1969年、パウロ六世が新しいミサ典書の使用を許可すると、聖伝のローマ典礼様式のミサ聖祭は事実上「禁止」されてしまいました。
オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿などは、新しいミサの発表直後にパウロ六世に手紙を送り理由を説明して聖伝のミサ保全作業に当たったのですが、聖伝のミサは事実上完全に「禁止された」のです。こうしてカトリックの信仰宣言であり象徴であり「御旗」だったローマ典礼様式は姿を消してしまいました。
しかし、ベネディクト十六世は新しいミサ発表から37年目を迎えた2007年7月7日、ようやく、聖伝のミサとよばれるローマ典礼様式は一度も禁止されたことがない、教会が過去に大切にしていたものは大切にし愛さなければならない、と発表しました。
トリエント・ミサとも言われることから、トリエント公会議(1545年開始)から始まったのものだ、従って、比較的新しいものだ(!)と言いつつ、聖伝のラテン語のミサが無くなってしまったことを嘆く声もかき消されてしまっていました!
しかし、新しいミサが発表されてからわずかすると、古い祭服やミサ典書などが廃棄物処理場に捨てられました。世界中で「アジョルナメント(現代化)」という口実で、グレゴリア聖歌や古い教会や聖像などを壊し始め、信徒の方々は抗議をしたのですが、中断もせずブルドーザーのように破壊し続けてしていたのです。そして教会の破壊に協力することができないという司教様や司祭たちを厳しく取り締まったのです。跪いて口で聖体拝領をしたいという信徒の方々を蹴散らしていたのです。
これを見たら朝鮮日報の社説は何と書くでしょうか?(南大門火災:日本の専門家に聞く再建の課題 窪寺茂氏インタビューを参考にしてみました。)
「日本では、古い文化財を大切にする。1949年に火災で焼損した法隆寺の金堂の場合、焼け残った部材の一部は再び使用し、残りは収蔵庫で保管している。真っ黒に焼け焦げた柱や大梁、壁画などは引き続き国宝に指定し、1年に1回ほど一般公開している。春光寺では、キリシタンの南蛮寺の鐘さえも大切に保存していた。
法隆寺金堂は修理、金閣寺は完全に再建により復元した。金閣寺は全焼した。だから新たに建て直したのだ。法隆寺は残った木材があった。それを残すやり方で修復したため、国宝として残った。
残がいには文化財としての価値が十分残っている。炭のように見えても、内部の木材が生きていれば修復できる。残った部材を修理して使えば、日本の基準では国宝指定の維持が可能だ。法隆寺金堂には焼損し復元できなかった木材を永久保存している。今の技術では不可能でも、将来はそれを復元できる技術ができるかもしれない。
もう一度言えば、日本では、古いものを大切にする伝統がある。焦らずに、ローマ典礼様式の聖伝のミサを大切に守り、日本全国で復興してもらいたい。」
明日は御聖体の祝日です。聖伝のミサの復活を祈りつつ。
主よ、我らを憐れみ給え!
天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!
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