アヴェ・マリア!
近代主義の教会の中への侵入の略史 (その10)
マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
1982年 モントリオール(カナダ)にて(つづき)
「信仰を守りなさい。信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
しかし、人々は私に「新しいミサがよいものである」或いは「聖伝のミサよりも劣るがそれでも良いものだ」と言わせようとしていますが、私はそう言うことを望みません。私にはそう言うことが出来ません。私には新しい秘蹟がよいとは言うことが出来ません。何故ならこれらはプロテスタントたちによって作られたからです。ブニーニによって作られたからです。ブニーニ自身が1965年3月19日にオッセルヴァットーレ・ロマーノ (Osservatore Romano) やドキュマンタシオン・カトリック (Documentation Catholique) で読むことが出来るように、そう言っているのです。
「私たちのカトリックの祈りやカトリック典礼から私たちの離れた兄弟たち、つまりプロテスタントにとって躓きの影となりうるものを全て取り除かなければなりません。」
1965年3月19日、つまり全ての典礼改革の始まる前でした。私たちがプロテスタントの人たちに、私たちのミサ聖祭や私たちの秘蹟、私たちの祈り、私たちの公教要理について「どこが気に入らないのでしょうか?」と尋ねに行くことが一体可能なのでしょうか?「あなたたちはこれが好きではないのですね。あなたはここが気に入らない。ああそうならこれを廃止しましょう。」と言うのですか?
それはあり得ません。もしかしたらそうしても異端にはならないかも知れません。しかしカトリックの信仰が弱められてしまいます。こんな事をしたために古聖所を信ずる人はもういなくなってしまいましたし、煉獄も地獄も原罪のことも、天使の存在ももう信じなくなってしまいました。もう聖寵について信じてもいないし、超自然について話にも上りません。これでは私たちの信仰の終わりです。
ですから、私たちは絶対に私たちの信仰を守り、聖母マリア様に祈らなければなりません。何故なら私たちだけでは、今私たちのやろうとしていることは巨大な事業であって、天主様の御助け無しにはやり遂げることが出来ないであろうからです。
私は自分自身の弱さと孤立状態を自覚しています。教皇様を前に、枢機卿様たちを前に、私一人で何が出来るとでも言うのでしょうか?私には分かりません。私は一人の巡礼者、巡礼の杖をついて歩く巡礼者として行きます。私はこう言います。「信仰を守りなさい。信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。秘蹟とミサ聖祭を守らなければなりません。」
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「信仰を守りなさい。信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
しかし、人々は私に「新しいミサがよいものである」或いは「聖伝のミサよりも劣るがそれでも良いものだ」と言わせようとしていますが、私はそう言うことを望みません。私にはそう言うことが出来ません。私には新しい秘蹟がよいとは言うことが出来ません。何故ならこれらはプロテスタントたちによって作られたからです。ブニーニによって作られたからです。ブニーニ自身が1965年3月19日にオッセルヴァットーレ・ロマーノ (Osservatore Romano) やドキュマンタシオン・カトリック (Documentation Catholique) で読むことが出来るように、そう言っているのです。
「私たちのカトリックの祈りやカトリック典礼から私たちの離れた兄弟たち、つまりプロテスタントにとって躓きの影となりうるものを全て取り除かなければなりません。」
1965年3月19日、つまり全ての典礼改革の始まる前でした。私たちがプロテスタントの人たちに、私たちのミサ聖祭や私たちの秘蹟、私たちの祈り、私たちの公教要理について「どこが気に入らないのでしょうか?」と尋ねに行くことが一体可能なのでしょうか?「あなたたちはこれが好きではないのですね。あなたはここが気に入らない。ああそうならこれを廃止しましょう。」と言うのですか?
それはあり得ません。もしかしたらそうしても異端にはならないかも知れません。しかしカトリックの信仰が弱められてしまいます。こんな事をしたために古聖所を信ずる人はもういなくなってしまいましたし、煉獄も地獄も原罪のことも、天使の存在ももう信じなくなってしまいました。もう聖寵について信じてもいないし、超自然について話にも上りません。これでは私たちの信仰の終わりです。
ですから、私たちは絶対に私たちの信仰を守り、聖母マリア様に祈らなければなりません。何故なら私たちだけでは、今私たちのやろうとしていることは巨大な事業であって、天主様の御助け無しにはやり遂げることが出来ないであろうからです。
私は自分自身の弱さと孤立状態を自覚しています。教皇様を前に、枢機卿様たちを前に、私一人で何が出来るとでも言うのでしょうか?私には分かりません。私は一人の巡礼者、巡礼の杖をついて歩く巡礼者として行きます。私はこう言います。「信仰を守りなさい。信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。秘蹟とミサ聖祭を守らなければなりません。」
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主の御心の月を迎えて。
フランシスコさん、
こんにちは! コメントをありがとうございます。
また毎日このブログをご覧下さって、心から感謝します。81日のノベナをきわめてありがたく思い、感謝の念で一杯です。
どうぞ、お体をお大事になさってください。敬意を込めて。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.