Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2014年9月14日主日のレネー神父様のお説教(大阪にて)

2014年09月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 9月の聖伝のミサには皆様とお目にかかれて大変幸福でした!大阪から次のようなご報告を戴きましたので、ご紹介いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に、天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
日本でのミッションありがとうございました!!!

新管区長様シュテーリン神父様をお迎えして、今までより一層インマクラータへの愛と信頼と希望が増したように感じます。
シュテーリン神父様、レネー神父様、小野田神父様を見習って、インマクラータの完全な道具になることを目指して、日本に頂いた大きなお恵みに感謝しつつ精進したいと強く思います。いつもながら、大きな犠牲と愛をもって来日下さる神父様方に心から感謝申し上げます。

大阪での御ミサですが、

9月12日(金曜)聖マリアの至聖なる御名の祝日、小野田神父様司式のミサには15人の方が、
9月13日(土曜)聖母の土曜日小野田神父様による読誦ミサ、シュテーリン神父様司式の歌ミサには22人が、
9月14日(主日)聖十字架の称賛 レネー神父様司式 歌ミサには21人の方々が、御ミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!

14日主日のレネー神父様のお説教は以下のとおりです。また、御ミサの後、マリア様に関してのお話をこの週にあった聖母の御名の祝日のお説教を用いながらして頂きました。


2014年9月14日の主日 大阪の説教

聖なる十字架称讃の祝日は、次に述べる十字架の奇蹟を思い起こさせてくれます。戦いの後、ローマ皇帝ヘラクリオが聖なる十字架を取り戻したとき、皇帝は自分の肩にのせて十字架を担い、カルワリオの山に戻そうとしました。しかし山のふもとで、どういうわけか、まったく動かすことができなくなりました。そのとき、エルザレムの司教ザカリアが皇帝に言いました。「皇帝陛下、陛下のお召し物は宝石や金がついているため、私たちの主イエズス・キリストがお示しになった清貧やへりくだりとはかけ離れているのでございます」。そこで、皇帝は美しく高価な衣服を脱ぎ、貧しい人の服をまといました。すると、今度は何の問題もなく、十字架をカルワリオの山、山というよりも丘のようなものですが、 その丘の頂上まで運ぶことができました。

十字架の神秘はまさに「信仰の神秘」であり、一(いつ)にして真の信仰の中心です。天主の御子が人間を救うために天から下って来られたということは、そのことだけで驚くべき真理ですが、御子はどのようにして私たちをお救いになったのでしょうか。十字架上の犠牲としてご自分をお捧げになり、その結果、御父のほまれを回復させ、私たちの罪という負い目を返すことによってです。これは、私たちの自然の理解力を超えています。そのため、多くの霊魂にとって躓きの石となってきました。イスラム教徒は、全能の天主が十字架上で弱い姿を見せたということを受け入れるのを拒否しています。(彼らは、主が十字架上で勝ち取られた罪に対する勝利を見ません。)高慢な人々は、天主の御子のへりくだ りを受け入れることができません。実際、聖パウロは言います。「互いにイエズス・キリストの心を心とせよ。キリストは本性として天主であった[=天主の本性を持つ=真の天主である]が、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の形をとり、人間に似たものになって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のように見えた」。ご托身は、すでに驚くべきへりくだりの行いですが、聖パウロは続けます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章5―8節)

罪は高慢によって世に入りました。仕えるのを拒否し、「Non serviam―私は仕えない」と言った悪魔の高慢です。次に、天主に似た者になること、「目が開け、善と悪を知る天人のようになる」(創世記3章5節)ことを望んだアダムとエワの高慢です。これは、自分にとって良いこと、悪いことは自分自身で決めるということであり、上からの法を受け入れず、自分たちの上に天主の支配があることを理解しないことです。もし高慢というものの重大さを私たちが理解したならば! ちっぽけな被造物が創造主に対して反乱を起こすとは! あらゆる罪の根っこには高慢があります。「高慢のもとは罪で、罪にふける人は憎悪をまく。(そこで主は奇妙な罰を下し、)彼を滅ぼし尽くされる」(集会書10章13節)

ですから、人間を救うため、人間を癒やすため、罪によって乱された秩序を回復させるために来られた天主の御子は、へりくだりについて説教なさっただけでなく、最初から最も素晴らしい方法でそれを実践なさいました。天主の御子のご托身そのものが、へりくだりの行いなのです。「主は天から下り給うた」(「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」ヨハネ3章13節)。

主の生涯の絶頂期もまた、偉大なるへりくだりの行いでした。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。これは、主がほまれを回復なさった御父のための愛の行いであり、主が救いのために働かれた私たちのための愛の行いですが、本質的にはへりくだりの行いでもありました。ご自分の御体と御血の犠牲を捧げることは、宗教の徳の行いであり、その徳によって、私たちは天主の素晴らしさをたたえるのです。私たちの主イエズス・キリストは天主として、この犠牲を受け入れられました。しかし、私たちの主イエズス・キリストは人間として、聖三位一体のほまれのためにご自分をいけにえとしてお捧げになりました。

私たちの救いという崇高なみ業から利益を得るために、私たちは主の犠牲の行いにおいて、私たちの主イエズス・キリストと一致する必要があります。ですから、私たちは主と共にへりくだらなければなりません。私たちは主と共に自分を捨てなければなりません。しかし人は言います。「そんなことは難しすぎて、私たちにはできません」。私たちが自然の状態だったら、その通りです。実際に難しすぎるでしょう。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵による助けがあれば、十字架上のイエズスと一致することは喜びになります。聖人たちの中には、そのような喜びは、十字架がないままでいるよりも、むしろ死ぬ方がいいというところまで行き着いた人もいます(アヴィラの聖テレジア) 。この喜びは、十字架がすべての恩寵の源、特に愛徳の源であるという事実から来るのです。木がなければ火はつきません。愛徳の火は、十字架の木によって燃え上がります。いったん、そんな隠された宝を見つけたならば、人は行って、それを得るためにすべての持ち物を売り払うでしょう(マテオ13章44節)。皆さんはおっしゃるでしょう。その宝をどうやって見つけることができますか。(その答えは、)「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる。求める人は受け、探す人は見いだし、たたく人は開かれる」(マテオ7章7―8節)

十字架の最も喜ばしい実りは、ご聖体です。私たちの主イエズス・キリストが十字架上でお捧げになった御体と御血、これがご聖体として私たちを養ってくださるのです。ご聖体は、十字架の最も喜ばしい実りであると当時に、私たちが十字架を担い、天主の火を私たちの周りに広げることができるよう、私たちを強めてくれます。

十字架は、受け入れる受け入れないの自由はありません。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。私たちの主イエズス・キリストは、主が天主であることを告白したペトロに首位権を約束なさったあとで、弟子たちにこのことを仰せられました。「このとき以来イエズスは、自分がエルザレムに行って長老、司祭長、律法学士たちから多くの苦しみを受け、そして殺され、三日目によみがえることを教え始められた。するとペトロはイエズスを引き止めて、『主よ、そんなことは起こりませんように。いやいや、そんなことが身の上に起こるはずがありません』と言った。イエズスは振り向き、ペトロに向かって言われた。『サタン、引きさがれ。私 の邪魔をするな。あなたが思っているのは天主の考えではなく人間の考えだ』」(マテオ16章21―23節)。十字架を拒むことはこの世の精神であり、十字架を愛することはキリストの精神です。聖人たちは皆、十字架を愛しました。

私たちの弱さを知っておられる主は、私たちを助け、十字架の下に私たちを導くため、御母を私たちにお与えになりました。最も力強かった使徒たちが逃げてしまったのに、数人の女性たちが聖ヨハネと共に十字架の下にいました。どのようにしてそんなことが起きたのでしょうか。その理由は、逃げなかった人々は聖母に従っていたからなのです。

私たちの人生において十字架は、第一に、過去の罪から私たちを清めてくれます。喜んで十字架を受け入れることは、私たちの罪や多くの他の人々の罪の償いになります。現代人は、天主に負い目があることを忘れてしまっています。現代人は、自分の権利には大変関心がありますが、自分が負い目のある他の人々には関心がなく、とりわけ負い目のある天主に対しては関心がありません。しかし、私たちの主イエズス・キリストの真の弟子たちは、天主に対するこの負い目を大変意識しており、いろいろな犠牲、個人的な犠牲、そして何よりミサの聖なる犠牲を通して償いをしようと望んでいます。

第二に、十字架は私たちの罪による傷を癒やしてくれます。十字架は、罪の正反対のものであるからです。高慢という罪に対して、十字架はへりくだりを暗示します。不従順に対して、十字架は従順を教えます。肉欲に対して、十字架は楽しみから完全に離れ去り、可能な限りのあらゆる侮辱と苦しみを受け入れることを教えます。酒に酔うことに対して、私たちは渇きによって苦しむ私たちの主イエズス・キリストを見るのです。ほかにもあるでしょう。

最後に、十字架は私たちの闇を癒やし、私たちの主イエズス・キリストという光をもたらします。十字架は、世のすべての人を照らす光であるキリストが置かれた燭台なのです。

私たちは簡単な償いの業を実行に移すべきです。まず教会が私たちに求めているもの、特に金曜日の小斎をすべきです。

以上述べたように、十字架が輝かしく凱旋し、「十字架の友人たち」と共に永遠に君臨する天国へ向かって、私たちは十字架の道という王道を歩んでいきましょう。アーメン。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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