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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖母は、苦しみを通して私たちを超自然の命に生み出した本当の母親

2024年09月18日 | 聖伝のミサの予定

2024年9月15日(主日)聖母の七つの悲しみの祝日 東京 10時半のミサの説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、聖母の七つの御悲しみの祝日を祝っているので、マリアさまの悲しみ・苦しみについて一緒に黙想いたしましょう。この苦しみを通して、聖母が共償者、つまりイエズス・キリストと共同して人類の罪を贖ったという神秘を黙想いたしましょう。

いったい、まず、なぜマリアさまは苦しまれたのでしょうか。その苦しみの意味は何だったのでしょうか?

まず、マリアさまはなぜ苦しまれたのかを黙想いたしましょう。

【1:聖母はなぜ苦しまれたのか?】
考えても見てください。聖母は、「無原罪の御宿り」という特別の特権をもって、原罪の汚れを一切持たずに孕(やど)られました。マリア様は聖寵に満たされて、その充満のうちにお生まれになりました。ご生涯に亘(わた)ってひたすら天主だけをお愛しされて、罪の影さえもあらず、聖なる一生を過ごされた方です。しかし、罪のないマリアさまの御生涯は、悲しみと苦しみに満たされておられました。

『キリストに倣いて』によれば、「キリストのご生涯は、十字架と殉教とであった」とありますが、まさにそれと同じく、マリアさまのご生涯は十字架と殉教の連続でした。マリアさまは自分のためではなくて、主の御旨に従って、天主のために生き、そして天主のみ旨に生きれば生きるほど、マリアさまは人類の贖いのために、御子とともに苦しみの生涯をおくらなければなりませんでした。
今日の『七つの悲しみの典礼』――七つの苦しみそれぞれ――を黙想すると、まさにそれを教えています。

【2:苦しみの価値の違い】
なぜ、罪がなかったにもかかわらず、マリアさまは苦しまなければならなかったのでしょうか?
その答えは、イエズス様が聖母とともに贖いの事業を行うことをお望みだったからです。言いかえると、マリアさまは天主の御旨に従って、第二のエワとして、罪のない被造物として、第二のアダムであるイエズス・キリストの贖いの業に完璧に、良き伴侶として協力されたということです。

イエズス様の御苦しみ、特に十字架のご受難は、自分のためではありませんでした。そうではなく、全人類のため、この世の罪を贖うために、捧げられました。マリアさまの生涯の苦しみも、同じです。御子の苦しみと同じく、自分の罪――罪はありませんから――の償いのためではなく、イエズス様が人類のために捧げた苦しみに自分の苦しみを添えて、天主に捧げ、それを人類の贖いの業の協力と同伴と共同の捧げものとしてお捧げになったのです。

では、イエズス様とマリアさまの苦しみはおんなじだったのでしょうか?もし違ったとしたらどう違ったのでしょうか? 

イエズス様の苦しみとマリアさまの苦しみの違いは、価値が違いました。なぜかというとイエズス・キリストの苦しみは天主の苦しみだったからです。人となった天主の御言葉が苦しんだので、イエズス・キリストの苦しみには、御言葉の無限の尊厳のために、無限の価値がありました。ですから、厳格な正義に基づいて、イエズス様の御苦しみにおいては、全歴史に亙(わた)るすべての人類のすべての罪を贖ってまだ余りがありました。ところでマリアさまの苦しみには、限界があります。つまり有限の価値、しかなかったということです。

【3:なぜ聖母の苦しみに偉大な価値があったのか?】
しかし、有限の価値だったとしても、イエズス様の苦しみにあまりにもよく参与していたので、マリアさまの苦しみの価値にはきわめて莫大な力がありました。苦しみが持つすべての効果は、贖いの効果は、イエズスの苦しみから由来します。マリアさまの苦しみにもしも贖いの価値があったのは、イエズス様の苦しみに与っていたからです。そしてイエズス様が、マリアさまのために特別のお恵みを与えて、マリアさまが苦しむことができるようにしました。もう少し詳しく言うと、イエズス様のお恵みは、マリアさまをして、イエズス様のために、イエズス様によって、言いかえるとイエズス様のせいで、またイエズス・キリストとともに、苦しむことができるように、お恵みを与えたのです。マリアさまはお恵みがあったからこそ、イエズス様と共に苦しみ、この全世界の罪を贖うためにそれを捧げることができました。

聖ピオ十世教皇は1904年に回勅でこう書いています。
「御子と聖母の生活とは、苦しみを絶え間なく共にし、(…)御子の最期の時が来たとき、イエズスの十字架の傍らには、御子の母マリアが立っていた。マリアは、ただ残酷な光景を眺めるだけではなく、御子が全人類の救いのために捧げられたことを喜び、御子の受難に完全に与った。そして、キリストとマリアの間で、意志と苦難とを共にしたことから、聖母は最もふさわしく、【聖寵に】失われた世界の共同の償う者【coreparatrix】となった。そして、救い主がその死と血によって私たちのために贖われたすべての賜物の分配者(Dispensatrix)となることができた。」« En vertu de la communion de douleurs et de volonté qui l'attachait au Christ, Marie a mérité de devenir la très digne Réparatrice du monde perdu, et en conséquence la Dispensatrice de toutes les grâces que Jésus nous a acquises par sa mort sanglante.» とあります。

つまり、マリアさまは、キリストともに苦しみを捧げることによって、キリストとともにその贖いの功徳を得たということです。

キリストのために苦しむことができるんでしょうか? キリストの苦しみは完全ではないでしょうか? 

聖パウロはこう書いています。実は、キリストは私達がキリストのために苦しむことを望んでいる、と。聖パウロの言葉を引用します。「私は今、あなたたちのために受けた苦しみを喜び、そこで、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの御苦しみの欠けた所を満たそうとする。」(コロサイ1:24)キリストの御苦しみの欠けたところを満たす――それが、キリストが望まれていることです。

こうすることによって、マリアさまはイエズス様とともに苦しみ、そして全世界の苦しみのために、必要な功徳を共に贖うことができました。

功徳というのは一体なんでしょうか?

功徳というのは、聖寵の状態で、つまり大罪を赦されて罪を赦されて、まったく自由に、天主を愛するために、ならかの善意を行ったり、苦しみを耐え忍ぶときに、わたしたちは功徳を積むことができます。この功徳というのは天主と人間との愛の交流・友情関係から生じます。

マリアさまは有限とは言え、イエズス様への深いそして強烈な愛をこめて、まったく自由にすべてをお捧げになりました。そこで、マリアさまの行いや苦しみは、まずマリアさまの聖徳の高さ、それからマリアさまとキリストの一致の深さによって、また主の深いマリアさまへの愛と憐れみと御厚意によって、天主の御心に非常に叶うものであって、最高に価値のあるものとして功徳を得ることができました。ですから、聖ピオ十世のいいかたによると、聖母は、全世界の救いのために、もっとも相応しい価値があるやり方で「デ・コングルオ」のやりかたで、功徳を得たといいます。

では、マリアさまが、キリストとともにわたしたちの罪を贖った、その功徳を得たということは、いったい何を意味するのでしょうか。その意味は、三つあります。

まず第一は、わたしたちの霊的生活にとって非常に大切なことです。これは、マリアさまは、わたしたちの霊的に生みの母となったということです。マリアさまは確かにイエズス様を肉体的に御産みになりました。マリアさまがイエズス様を御産みになったときには、陣痛の苦しみも一切の苦しみもなく、傷もつけずにマリアさまの胎内から奇跡的に御産まれになりました。マリアさまはキリストを御産みになる前も御産みになる時もその御産みになった後も、傷のない童貞でした。

ところが、イエズス・キリストとマリアさまはともに、わたしたちを霊的にお生みになります。それは十字架のもとで、のことでした。イエズス・キリストとマリアさまがともにわたしたちを霊的に超自然の命に生み出そうとするとき、その二人は苦しみました。特にマリアさまは陣痛の苦しみがありました。それが七つの悲しみにあらわれています。この苦しみがあったからこそ、マリアさまは、わたしたちを霊的に生むことができる本当の霊的な母親となることができました。

そのことを確認するかのように、イエズス様は十字架のもとで聖ヨハネを通して、全人類に宣言します。
「おまえの母親だ」と。

そしてマリアさまにはこう言います。
「婦人よ、お前の子を見よ」と。

苦しみのうちに、マリアさまはわたしたちを超自然の命に生み出した本当の母親です。ですからマリアさまは、母親のような方ではなくて、本当の母だといわなければなりません。苦しみの中に、わたしたちを生んでくださいました。

第二はその結果です。もしも、罪のないイエズス・キリストが、聖なる天主であるイエズス・キリストが、苦しみを受けたのならば、また、原罪の汚れのない罪を一切知らないお方がこれほどの苦しみを受けたのならば、実はこの世で苦しみは避けることができない、という事実があります。これが第二のわたしたちに教えることです。

第三に、キリスト教がわたしたちに捧げることができる救い・福音とは、一体なんでしょうか。これはまず、わたしたちが苦しみを避けることができない、ということです。しかし、それは第三の点に行きます。苦しみを避けることができないけれども、イエズス・キリストの十字架によって、イエズス・キリストの十字架だけによって、わたしたちはこの苦しみを救いの手段と変えることができる、天国への道とすることができる、天国への王なる王の黄金の道とすることができる、ということです。それを、マリアさまの悲しみが、わたしたちに教えています。

【4:遷善の決心】
では最後に選善の決心をたてましょう。
第一のエワは、自分の個人的な自由な行動によって、全人類の破滅のために第一のアダムに協力しました。二人で、アダムとエワは罪を犯しました。聖母は、自分のまったく個人的な自由な行動によって、愛をこめて、全人類の罪の贖いに協力しました。

聖ペトロ・ダミアノは、わたしたちにこう言っています。「一人の女性エワを通してこの地上に呪いが来たが、一人の女性マリアによってこの地上の祝福が回復した。」(A curse came upon the earth through a woman; through a woman earth's blessing is restored.) と。

聖アウグスチヌスも同じことを言っています。引用します。「人間を騙すために、一人の女エワを通して毒が人間に差し出された。人間の贖いのために、一人の女マリアを通して救いが人間に差し出された。」(In man's deception, poison was served him through a woman; in his redemption, salvation is presented him through a woman.)と。

ですから、今日、わたしたちの本当の母であるマリアさまに、そして苦しみを受けたマリアさまに、感謝いたしましょう。わたしたちが、聖母を通して超自然の命を受けたということを、感謝いたしましょう。わたしたちはでは、選善の決心として、何をたてたらよいでしょうか。わたしたちも十字架のもとに、マリアさまとともに立たなければなりません。そのために、いったい何が一番良い手段でしょうか。それはミサ聖祭です。ミサ聖祭においてイエズス・キリストの十字架が再現されるとき、マリアさまも霊的にわたしたちとともにおられるからです。

ではマリアさまとともに、わたしたちの十字架と苦しみを主にお捧げすることが出来るお恵みを求めつつ、ミサを捧げましょう。

「私にも御傷を負わせ、御血を流し給える御子の十字架によって私を酔わせ給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


なぜイエズスは十字架につけられたのか? なぜ天主は十字架の上で手を広げて亡くなったのか?十字架の称賛の神秘はわたしたちに教えていること

2024年09月18日 | お説教・霊的講話

なぜイエズスは十字架につけられたのか? なぜ天主は十字架の上で手を広げて亡くなったのか?十字架の称賛の神秘はわたしたちに教えていること

2024年9月14日(土)十字架称賛の祝日 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は十字架の称賛の祝日です。
十字架の称賛というのは、十字架の神秘、‟十字架というものが非常に高い賛美と栄光を受けるべきものである”ということを示す祝日です。

今日は、このミサの前に、ある方から、こんな質問を受けました。
「なんで、イエズス様は十字架につけられたのですか? なんで、天主は、この世を創った方は、十字架の上で手を広げて亡くなったんですか?」
この十字架の称賛の祝日にピッタリの質問ですので、ぜひこの答えを話したいと思います。

なぜ天主は、この世を創った方は、わたしたちを愛している方は、罪がなかったにもかかわらず、十字架の上で、こんなにも裸になって、茨の冠を被せられ、鞭を打たれて、傷だらけになって、あたかも極悪人の様になってそんな姿で、奴隷のように、十字架につけられ、捨てられて、亡くならなければならなかったのでしょうか?

なぜかというと、これは、わたしたちが犯した罪を、わたしたちに代って、償うためだったのです。
なぜかというと、罪を犯すと、その罪はどうしても償わなければならないからです。
なぜかというと、天主というのは、非常に聖なる方で、その主に対して犯した罪は、どうしてもその犯された秩序を回復しなければならないからです。

もしも誰かが、悪戯(いたずら)の男の子がやってきて、お父さんがせっかく作ったきれいなものを壊してしまった。そうしたら男の子が『お父さんごめんなさい』と涙を流して謝ってきたので『許してあげよう』・・・。でも、この壊されたのはいったいどうするんだ・・・。男の子は、できるかぎりそれを元通りにしなければなりません。でも男の子は元通りにすることはとても一人ではできません。するとお母さんがやって来て『ああ私が手伝ってあげましょう』。お母さんが、きれいにそれを直してくれた。秩序を回復してくれた。

それと同じように、似たようなことで、人間は天主に対して、無限に聖なる方に対して、罪を犯したので、それをどうしても償わなければなりません。しかし人間の限りある力では、無限の聖なる方に対して犯した罪を償うことは、とてもできませんでした。償うためには、無限に聖なる方が必要です。罪のない方が償わなければ、秩序を回復できません。

そこでイエズス・キリストが、天主の御子が、まったく罪のない聖なる天主の御子が、人間となって、わたしたちの名前でわたしたちのかわりに、わたしたちが受けるべき罪をすべて背負って、その罰を受けるわたしたちの代わりに、償ってくださったのです。

ですから、イエズス・キリストのその苦しみを見て、わたしたちの受けるべき罰は、罪は、すべてもうきれいに流された、すべて秩序は回復したんだ、もう過去のことは一切なかった、としてくださったのです。

そして、イエズス・キリストは最も苦しい苦しみを受けたので、その報いとして、最も高い栄光を受ける方となりました。

では、この十字架の称賛の神秘はわたしたちに何を教えているのでしょうか? 三つのことを教えています。

ひとつは、もしかしたら、ある嘘の宗教の人が、偽物がわたしたちにやって来て、「ああ私たちのこの宗教を信じるとこの地上では平和が来ます。そうしたらこの地上では苦しみがなくなります。この地上ではすべてが良くなります。」―――そんなことを言ったら、それは信じないでください。

この世ではどうしても苦しみがあるからです。なぜかというと、わたしたちの罪の償いとして苦しみがこの世に入ってきたからです。苦しみと死と悲しみは、わたしたちが罪を犯したので、この世に来ました。ですからわたしたちはどうしてもそれを避けることができません。

もしも誰かが、「どんな宗教でもよい、苦しみが無くなれば、平和が来れば、そしてこの世が幸せになればよい。あの世のものでなくこの世のものであること、誰かに限ったものではなく全ての人の幸せをこの世で実現することを切に、切に、祈ってやまない」と言ったとしても、でも、どのようなものでも、天主であっても、この世を創造された方であっても、それはできないのです。なぜかというと、人間が罪を犯し続けているから・・・それが第一です。つまり、この世には必ず苦しみがあるということを、私たちに教えています。イエズス様でもそれを避けることをしませんでした。

第二には、もしもわたしたちが天国に行くとしたら、行こうとするならば、むしろわたしたちは苦しみを使わなければならない、ということです。キリスト教が約束している救いとは、来世の約束です。この世では苦しみを避けることはできません。しかし、この世の苦しみは彼岸の栄光に喜びに変わる、ということです。その時、苦しみや悲しみは、避けるべき悪ではなく、愛をこめて受け入れるべき善への手段になるのです。

第三の点は、では‟苦しむのであればなんでもよいのか”というと、そうではありません。わたしたちに、本当のしあわせ、本当の栄光を与えてくれる手段は、たった一つしかありません。イエズス・キリストの十字架です。これだけが天につながる唯一の橋です。道です。イエズス・キリストの十字架を通らければ、誰も父のもとに天の国に行くことはできないんです。イエズス・キリストの十字架だけが称賛を受けて、そうでないならば称賛を受けません。しかし、苦しみをイエズス・キリストと一緒に捧げることによって、イエズス・キリストと一緒に同じような栄光にいくことができる、ということです。イエズス・キリストと一緒に苦しめば苦しむほど、栄光もますます高くなる、ということです。

その証拠が、聖金曜日にイエズス・キリストと一緒に十字架につけられた二人の泥棒がいます。盗賊です。あまりにも悪を犯したので、ついに十字架の刑を受けた二人の悪人です。一人は右に、もう一人は左につけられました。

右につけられた盗賊は、確かに自分は悪いことをした・・・だから自分が十字架につけられたのは当然のことだ・・・と、罪を悔い改めます。

ところが左は、そうではありませんでした。イエズス・キリストを罵りました。「あなたは救い主だというが、もしも救い主だというならば自分と俺を救え。さあ救ってみろ。この十字架から救ってみろ。」といろいろ罵(ののし)るのです。

すると、右にいた盗賊は、あまりにもひどいことを言うので耐えきれずに、「黙れ、この方は罪がないのにもかかわらずこうやって苦しんでおられる。お前は一体なんだ。悪いことをしていながら何を言うのか。」と言って叱るんです。その次にイエズス・キリストに向かって「主よ、あなたが天の国に行かれるときにわたしのことを思い出してください。」というと、イエズス・キリストは、この右の盗賊に向かって「お前は今日わたしとともに天国にいる」。すべての罪は赦されました。

苦しみは同じでしたが、イエズス・キリストとともに苦しむときに、それは栄光に変わります。天国行きの切符に変わります。今日の十字架の称賛の祝日は、これをわたしたちに教えています。

今日は、なぜイエズス様がこんなにも聖なる方が十字架に苦しまれなければならなかったか――それは私達を天国に導くためだ、引っ張ってくださるためだ、とわたしたちに教えている、ということを黙想しました。

最後に、マリアさまにお祈りしましょう。マリアさまはいつも十字架のもとに来て、十字架から逃げずに、イエズス様とともにおられました。マリアさまが天国でわたしたちのためにお祈りしてくださっています。わたしたちも、マリアさまのように、いつもイエズス様の十字架のもとにいることができますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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