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聖霊降臨後第十五の主日の説教―怠りの罪(2024年、大阪)

2024年09月01日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十五の主日の説教―怠りの罪

ブノワ・ワリエ神父 2024年9月1日(日)大阪

 

 

「もしある人に過失をみつけたら、霊の人であるあなたたちは、柔和な心をもって、その人を改めさせよ」―今日の書簡【ガラツィア6章1節】

信者に信仰と道徳を教えることは、司祭の重大な使命です。ですから今日は、私たちが見落としがちな、怠りの罪についてお話ししましょう。

親愛なる兄弟の皆さま、

今、世界のある場所では飢えている人がいるかもしれませんし、別の場所では、重大な罪を犯している人がいるかもしれません。しかし、皆さまは、この2人の人物とは何の関係もなく、したがってまったく責任も負っておられません。

怠りの罪とは、私たちの身分に応じた義務に従って、善をなすべきときにそれを怠り、また、悪を避けかつ防ぐべきときにそれを怠ることを意味します。

1.一般的な義務

私たち全員に、天主の掟と教会の戒律を守る義務があります。

天主の愛に関連して、一つの例を挙げてみましょう。成聖の恩寵の状態にある人は皆、聖霊の七つの賜物を持っています。そのうちの四つは知性を完全にし、三つは意志を完全にします。しかし、怠惰な状態にある人は、天主の聖霊のこれらの賜物の光と指示に従って行動することをやめてしまいます。ですから、その人の永遠の命の道における前進は遅れているのです。

「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ、あなたたちは、ハッカ、ウイキョウ、イノンドの十分の一を納めながら、律法の中でもっと重大なもの、正義と慈悲と忠実を無視している。先のことをも無視することなく、後のことをこそ行わねばならぬ」(マテオ23章23-24節)

司祭とレビ人が、エルザレムとエリコの間の道で傷ついた人を見たとき、彼らの罪はどんなものだったでしょうか(ルカ10章参照)。司祭はその道をやって来て、その人を見ながら通り過ぎました。レビ人もやって来て、その人を見ながら通り過ぎました。彼らは、自分たちの隣人に対してなすべき愛徳に関して、怠りの罪を犯したのです。

2.特別な義務

しかし、私たちは、身分に応じた義務に基づいた、特別な義務も負っています。配偶者、両親、子ども、雇い人、雇われ人、司教、司祭、信者など、すべての人が何らかの義務を負っていますが、それは同じ義務ではありません。例えば、配偶者は結婚の法を守り、互いを思いやる必要があります。おそらく、仕事での義務を怠らなくても、家庭を顧みない人がいるかもしれません。一方で、仕事で時間を浪費する人もいるかもしれません。他にも多くの例を挙げることができるでしょう。

3.断罪されるべき無知

怠りの罪が、告解で最もよく…忘れられてしまう罪です! 人はしばしば、自分の身分に応じた義務に関連する特定の義務のことを忘れ、この怠りの罪について、自らを告発しないのです。

「自分の罪に気づく者があろうか。天主よ、知らずに犯したわが罪を赦し、われを清め給え」―詩篇18篇13節

天主がいま皆さまをご覧になっているのと同じように、皆さまが自分で自分を見る光を天主が与えてくださるように、また、皆さまがいま自分では見られない、知らずに犯した罪を天主が見せてくださるように、生涯にわたって毎日、天主に祈ってください。

天主は、怠りの罪が起こり得るだけでなく、あまりにも一般的であることを明らかにしておられます。
聖ヤコボは言います。「しなければならぬ善を知りながら、それをしない者は、罪を犯したことになる」(ヤコボ4章17節)。
聖パウロも同じ趣旨で、こう言います。「私は自分の望む善をしていない」(ローマ7章19節)。

4.実を結ばない木

「悪を避け、善を行え」―詩篇36篇27節

子どもたちは、親に詮索されるとき、こう答えることがよくあります。「何も悪いことしてないよ。」
そうです、でも、皆さまがすべきであるとされている善についてはいかがでしょうか。

天主の似姿に創造された霊魂が、罪は犯さないが、実を結ばないとしましょう。これはまさに、実を結ばないイチジクの木のたとえで説明されている状態です。その木は生きていて、根は強くて地中にあり、枝は葉で覆われていました。しかし、毎年、実を探しても、見つかりませんでした。これは、たとえ話であり、霊魂の説明です。霊魂は確かに生きているのですが、その創造の目的を果たしていません。霊魂は、どんな目的のために創造されたのでしょうか。天主を知り、天主を愛し、天主に仕え、天主を礼拝し、天主に似た者となるためです。しかし、その創造の目的を果たさず、天主を知らず、天主を愛さず、天主に仕えず、天主を礼拝しない霊魂は、創造主にしてその原像である天主に似た者、天主と一体化した者にはなりません。その霊魂は、その創造の目的を果たさないがゆえに、滅びの状態にあるのであり、たとえ話の次の言葉は、真実であり正しいものなのです。「切り倒せ! なぜ土地を無駄に使うのか」(ルカ13章7節)。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

ほとんどすべての罪の一番最初の原因は、私たちがなすべきことを怠ることにあります。天主の目から見た〈怠り〉の罪は、〈行い〉の罪よりも大きなものです。その罪は、終わりの日の裁きの基礎となるでしょう。「あなたたちは、私が飢えていたのに食べさせなかった」(マテオ25章42節)。

私たちの生活からさらに確実に罪を根絶し、さらに忠実にキリストに従うために、良心をよく調べましょう。
そして、聖パウロが述べているように、「私たちにまだ時のある間に、すべての人に、特に信仰における家族に善を行おう」。


この世のすべてのものは終わる。この世のすべてのものはすぐに終わる。

2024年09月01日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十四の主日説教―この世のものの空しさ

ワリエ神父 2024年8月25日(大阪)

親愛なる兄弟の皆さま、

今日の福音で触れられている異教の神「マンモン」は、金銭、富、成功の神でした。それを物質主義と呼ぶこともできるでしょう。

聖書は私たちに、こう警告しています。
「今日は野に栄える草も、明日はかまどに投げ入れられる」(マテオ6章30節)。
「すべての肉は草であり、そのすべての栄光は野の花のようだ」(イザヤ40章6節)
「われらはちりである。人、その日々は草のようであり、野の花のように咲く。風が吹けば、たちまち消え失せる」(詩篇102篇14-16節)。

聖アルフォンソ・リグオーリが、このことについて語った言葉に注意を向けましょう。
「私たちは、私たちの霊魂の救いと、決して終わることのない永遠の富の獲得に関心を向けよう。なぜなら、この世のすべてのものは終わり、かつ、すぐに終わるからである」。

第一のポイント この世のすべてのものは終わる

人は、この世のものに対する愛着がいかに大きくても、死の時にそれにお別れしなければなりません。人は、裸でこの世に入り、裸でこの世を去ります(ヨブ1章21節参照)。簡単に言えば、富と財産を築くことに人生のすべてを費やし、眠りも健康も霊魂も失った者は、死の時には、何も持っていけないのです。

もしあなたが名誉や富を享受しているなら、次の聖書の言葉を聞いてください。「おまえはちりであって、ちりにかえるべき者である」(創世記3章19節)。人は死ななければなりませんが、死んだ後、いま自分を慢心させている名誉や財産から、どんな利益を得られるでしょうか。聖アンブロジオはこう言います。「金持ちと貧乏人が埋葬されている墓地に行き、埋葬されている人の中で、誰が金持ちで誰が貧乏人だったかを見分けることができるかどうか見てみよ。すべての人は裸であり、その中で最も金持ちの者にも、しなびた骨以外、何も残っていない」。

第二のポイント この世のすべてのものはすぐに終わる

人は、自分がやがて死ぬことをよく知っていますし、そう固く信じています。しかし、人は、死があたかも決して訪れることはないかのように、はるか彼方にあると、想像しているのです。

聖ヤコボはこう言っています。「あなたたちの命とは何か。あなたたちは、しばらく現れるだけの湯気である」(ヤコボ4章15節)。

暴風、熱病、脳卒中、刺し傷、心臓発作があれば、私たちはこの世からいなくなります。そして、すぐに忘れ去られるのです。

私たちは、死の時には、名誉ある地位や報酬を得るため、財産を得るため、この世の喝采を浴びるために行った労苦から、何も刈り取ることはできません。すると、すべてが失われます。私たちは、天主のために行った善業と、天主のために受けた苦難からしか、永遠の命の実を集めることはできないのです。

聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています。「生きているときに天主を忘れていた罪人を待ち受ける罰は、死の時に自らを忘れることである」。

「人、その日々は草のようであり、野の花のように咲く。風が吹けば、たちまち消え失せる」(詩篇102篇14-16節)。

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちの霊魂のことに関心を向けましょう。「まず天主の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて、みな与えられる」(マテオ6章33節)。「自分のために、天に宝を積め。そこでは、しみも虫もつかず、盗人が穴をあけて盗み出すこともない」(マテオ6章20節)。

「人は、二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。つまり、天主とマンモンに仕えるわけにはいかぬ」(マテオ6章24節)。永遠と、私たちの人生の時間の間には無限の距離があるのですから、私たちが永遠に享受すべき永遠の財産に払うべき注意と、死がすぐに私たちから取り去ってしまうこの世の財産に払う注意の間には、無限の距離があるべきです。

それは、私たちが、聖ヨゼフへのこの美しい祈りで唱えるようにです。「われらをして御身にならわしめ、御助けによりて、聖なる一生を送り、信心をもって死し、天国の永遠なる福楽にいたることを得しめ給え」。

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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