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近代主義の系譜のまとめ:ルター、カント、ヘーゲル、シュトラウス、シュライアマハー

2008年09月26日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様

 近代主義と呼ばれる異端説の系譜として、ルターカントヘーゲル、シュトラウスなどの思索を見てみた。

 多少の違いはあるものの、ルターが原理を確立した。ルターの後継者たちがルターの原理を極みまで押し続けた。この原理とは人間自分の内部から発する以外の全ての外的権威・教義に反対する反乱の叫びであった。

 ルターは、この独立宣言を「個人の自由解釈」(個人的良心の放埒)と「盲目的な意志による信」というキーワードで表現した。自由解釈の批判精神と個人の良心とが高揚された。

 カントは哲学にこれを適応した。これが純粋理性批判であった。
 シュライアマハー(Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, 1768年 - 1834年)は教義の批判にこれを適応した。懐疑主義をひろめ、外部にあるもの・現実それ自体が全て破棄され、あたかも白紙状態に還元された。

 カントによって、現実世界は「もしかしたらそうかも知れない」という蓋然性におかれたが、さらにシュトラウス、シュライアマハー(あるいはシュライエルマッヘル、シュライエルマッハー、シュライアマッハー、シュライアマヒャーなどと表記する人もいる)によって、信仰の対象と信仰者とが混同され、預言や奇蹟の福音の史実性は、神話とされた。

 ルターは、救われたと信ずれば救われる、とした。自分の思いが現実化するとした。これが個人の良心の高揚である。

 カントは、純粋理性で破壊した天主や霊魂の存在つまり信仰を、それが有益だからその通りに行動すべきだ、とした。自分の思考が現実かどうかは分からないが、思考が現実であると便利だとした。ヘーゲルは、思考が現実であり、現実が思考であり同じであるという。

 シュトラウスは、神話は初代教会の自発的な創作であり、初代の信者たちの内的情熱や信心から生まれた、その限りにおいて価値があるとした。

 シュライアマハーも同じである。シュライアマハーの宗教は、人間の良心・自覚に依存してそれによって生み出された感情であり、人間の似姿に従って天主が作られたのである。


 カトリックの信仰とは、現実主義である。私が好きであろうとなかろうと、私がどう思うが、私の<こころ>の外にある現実・物自体がそうあるが故に、私はそう信じるように動かされるのである。現実を思考し、現実によって思考を規律するのである。カトリックの真理とは、現実に私の考えが一致し現実に従ったときである。私が現実とはかけ離れたことを夢想しても、それは真理ではない、それがカトリックの考えだ。そして天主が現実に存在し、それが真理である。聖福音に記録されている通りのイエズス・キリストは史実である。イエズス・キリストは人間となった真の天主である。そして真理にだけ、それに従って行動する自由がある。現実そのままの真理が、本当の一致の基礎である。全ての人間は、真理であるが故に信じなければならない。真理にしたがって行動しなければならない。


 プロテスタントの原理によれば、現実・物自体は、宗教と何の関係もない。
 ルターによれば、自分の意志が全ての原理である。
 カントによれば、理性の代わりに信仰があり、私たちが知る唯一の天主とは、私たちの中の天主である観念の天主にすぎない。カントの天主は、天国にも地獄にも人間を送ることが出来ない想像の存在である。
 シュトラウスによれば、キリスト教信仰の基礎となる歴史的事実は捨て去られ、福音は、福音史家の創作した「神話」となった。シュトラウスの天主は、宗教的感情によってのみ気が付かれ存在するようなものである。

 以後、人間の知識・信仰の中心は、考える主体である人間となった。考える人間の夢が、現実よりもより現実的であると見なされるようになった。誰でも好きなことを自分の好きなように信じて良い、書く個々人が「真理」を作り出す、各人は自分の望むことを判断し信じる自由を持っている。



 聖ピオ十世教皇は、回勅「パッシェンディ」でこう言っている。

宗教的感覚
10.[彼らによれば]「このようにして、宗教的感覚は生命的内在を媒介として潜在意識の密やかな場から一切の宗教の芽生え、かついかなる宗教においてかつてあり、あるいは将来あるであろう全ての要素の説明となる。始めは未発達で、およそ形の定まらないものでしかなかったこの感覚は、それの起源である、かの神秘的な原理の影響を受けて、人間的生命 ───先に述べたように、この感覚は人間の生命のある種の形相であるが─── の進歩と共に徐々に成熟し[てき]た。そしてこれこそが、超自然的なものも含めてあらゆる宗教の起源である。なぜなら、諸々の宗教は、この宗教感覚の発展したものに過ぎないからである。カトリック宗教も、この例に漏れず、他の諸々の宗教と同列に置かれる。と言うのも、カトリック教も生命的内在の過程によって、ただこの過程を通してキリスト ───最も優れた性質に恵まれ、これに並ぶ者はかつてなく、これからもいないであろうこの人物─── の意識の中で生成されたものだからである。」
 こういったことを耳にするとき、私たちはかくも恐れ知らずの主張と涜聖とに身震いを禁じ得ません。しかるに尊敬する兄弟たちよ、これらは単に不信仰者の愚かしいたわごとではないのです。これらのことを公然と述べるカトリック信徒、および、あろうことか司祭らがいるのです。そして彼らはこれらのうわごとによって教会を改革しようとしているのだと豪語するのです。
 [ここで]問題となっているのはもはや、人間の自然本性が超自然的事物に対する一種の権利を有しているとする旧来の誤謬の一つではありません。近代主義の誤謬はこれをはるかに越え、私たちのいとも聖なる宗教が、キリストという人物においても、また私たちにおいても、自然本性から自発的に自ずから発生したと断定するとき、その頂点に達しました。確かに超自然的次元全体をこれほど徹底的に打ち壊してしまうものはないでしょう。このため[第1]ヴァチカン公会議が次のように定めたのは、きわめて正当なことでした。「もし誰かが、人間は天主によって自然本性を超える認識と完全性とにまで高められることができず、かえって自ら自身の努力ならびに着実な発達によって最後にはあらゆる真理と善とを所有するに至ると言うならば、彼は排斥されるように。 」


知性と宗教的感覚
11.尊敬する兄弟たちよ、これまで知性については一切ふれませんでした。近代主義者たちの教えに従えば、知性もまた信仰の行為において一定の役割を担っているのです。そして、それがどのような役割であるかを見ることは、[たいへん]重要です。これまで再三述べてきた当の感覚の中に ───と言うのも、感覚は知識ではないので─── 天主はご自分をお現しになるのだと彼らは言います。しかし彼らによれば、この意味では、天主は信仰者によってほとんど認識され得ないほど、混迷かつ不明瞭な仕方でしかご自分をお現しになりません。したがって、天主がくっきりと明るみに出され、感覚自体からは区別されるために、この感覚の上にある種の光が投げかけられる必要があります。
 そして、これこそ反省し、分析することを本分とする知性に課せられた務めなのです。そしてこれによって初めて人間は自らの内に生成する生命的現象を知的な図象に転じ、それをさらに言葉で表現するのです。ここから、近代主義者たちが共通に用いる言い回しが生まれます。すなわち、「宗教的な人は自分の信仰を考えなければならない」と。[彼らによれば]「この感覚に直面した知性は自らをその上に投じ、その中で年月と共にかすんでしまった描線をよりくっきりと修復する画家の要領で働きます。(この比喩は近代主義の指導者の一人によるものです。)この働きにおいて知性は二重の活動を果たします。第一に、自然的かつ自発的な行為によって知性は自らの概念を単純で通俗的な命題で表わします。」それから反省とより深い考察の上で、あるいは彼らの言い方を借りれば、自らの思惟を推敲することによって、その思念を、第一のものから由来しながらも、より正確かつ判然とした二次的な命題で表現するのです。これらの二次的な命題は、もしそれらが最終的に教会の最高教導権の承認を得るならば教義(ドグマ)となるのです。

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