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カトリック近代主義の系譜:マルチン・ルターとカントの啓蒙思想の繋がり

2008年09月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様


 何故カントは、人間にとって現実が何であるか、物それ自体が何であるかを知り得ないとしたのだろうか。(物のことはドイツ語で Ding であるが、ラテン語では res という。res は、Realität と言う言葉の語源であるから、「物自体」のことを頭(あるいは<こころ>)の外にある「現実」という。)

 何故ならその根本において、プロテスタント主義の創始者ルターによると、人間は原罪のために完全に腐敗しており、理性は汚れている、人間の学識は全て間違っているとしたからだ。ルターは、論理ではなく、絶対的な「信じる」ということに全てを打ち立てた(sola Fides)からだ。未知なるものに対する絶対的な信頼だけが必要であって、理性はただ間違うのみとした。だから、スコラ神学や哲学、教会法などという理性を使う学問は改革された教会からは根絶されなければならない、とした。キリストは人間の発明を必要としない、だから論理学も必要としない、とした。ルターによれば、信仰の真理は、同時に学問的には誤りであり得るという二重の真理を受け入れた。

 ルターは、人間が理性の光に従うことを拒否してただ盲目的な意志によって信じることを要求した。従って、全ては自由でなければならない。個人の体験、内的な感情が、客観的な説明よりも大事となった。外から来る全ては捨て去られなければならない、全ては内的な自由から発しなければならない、とした。だから、ルターは外からくる全てを捨てた。教会も秘蹟も啓示も捨てた。聖書を手にして自分の自由な解釈のみとした。ルターは、こうして自律自足の原理を打ち立てた。

 こうして、ルターは聖伝を聖書と対立させた。聖書だけ(sola Scriptura)が信仰の基準であるとした。聖書のみが救いの唯一の源泉となった。但し、聖書のみということは、ルターの教会権威否定の口実にすぎなかった。何故ならルターは聖書のテキストを自由勝手に変更しているからだ。

 ルターはこうして啓示を個人的なこととした。私の受けた啓示が、公的啓示となった。私の自由な解釈を妨げる外から来る全ては、キリスト者の自由に対する耐え難き侮辱となった。ルター曰く「私は私の教義が誰によっても、天使であっても、裁かれることを認めない。私の教えを受け入れないものは、救われない。」(1522年6月)

 ルターによれば、人間は、原罪によって全く不道徳となり不潔となり、いかなる善業もすることも出来なくなった。人間は、天主の助けをもってしても、天国に行くために功徳を積むことができない。ただ、ちょうど墓を白く塗り立てるように、天主が罪人のまま残る人間を外部的にマントで覆うようにして義化されたと見なすにすぎない。天主といえども、人間を内的に義とすることが出来ない、人間の義化とは法的なフィクションにすぎない。

 ルターは、天主を、人間に不可能なことを要求し、自分の好きなようにある者を地獄に落としある者を天国に予定するといういわば不条理なものとして提示した。天主は人間を聖化することの出来ない、人間を罰しようとする、怒り天主の残酷な天主であり、プロテスタントにとってこの天主の怒りから避けることだけが唯一の関心事となってしまう。

 しかし、良く考えてみるとルターの教えによると、救われるためには、天主ではなく人間が主体となる。人間が救われたと「信じ」さえすればよいのだから。ルターの言わんとすることの現実は、その見かけとは反対に、人間は天主から何も期待することがない、人間こそが「私たちの罪からキリスト者の義へ飛び込み、キリスト者の経験を確かに持つ能力」(Tischrenden 1531)を持っている。

 ルターは、人間に閉じこもり、全てを人間に還元させた。罪を犯すのを避けることが出来ない、という個人的な絶望から、ルターは人間は改革できないほど腐り果て、自由を失ったとした、この悪の責任は天主にある。ルターは外的な権威を全て捨て去り、自由な解釈による自分の良心の自律を訴えた。全て改革されたキリスト者は、皆、天主の御言葉の司祭であり預言者であり、自分の真理を作る教皇である。人間の救いは、人間によってもたらされ、人間を内的に義化できない天主は余分なものとなる。

 カントは、ルターの論理を進めた。カントによれば、人間は「私」の外を知ることが出来ない。現実(物自体)は不可知である。天主・霊魂・世界などという形而上学の観念は、純粋理性の偏見であって、知られ得ない。しかし、道徳生活は必要である。宗教的確信による義務・良心は疑いなく人間に存在している。従って、カトリックの言うように「天主が真にまします、だから、善を行わなければならない」のではなく、道徳の秩序から天主の概念が帰結されるにすぎない。カトリックの言うように「天主が道徳の基礎」ではなく、道徳の方が天主よりも重要となる。もしも天主が存在すると措定されるなら、その方が便利だからである。カントによれば、そう望むことが、現実となるべきなのである。現実がどうであるかよりは、宗教的良心の方が大切であり、宗教とは個人的な良心の業である。

 カントによれば、理性が「学問的に・論理的に」否定したはずの天主は、道徳の要求によって証明されたこととなった。正に、これはルターの「盲目的信頼」の完璧な焼き直しである。何故なら、カントの道徳的義務は、合理的でもなければ真理でもありえないからである。これは、人間の持つ道徳的本能、天主の存在、霊魂の不死などを盲目的に信じることに他ならないからだ。また、ルターの二重の真理の焼き直しでもある。何故なら、現象の科学的知識の真理と、物自体の盲目的信頼としての真理との2つの真理は、たとえ相互に矛盾しても、同時に成立するとするからだ。

 カントは『単なる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft で、全く自律独立している人間良心に全てを基づかせ、キリスト教の歴史的根拠を否定した。プロテスタント諸派の信経(credo)は、象徴的な価値しかないとした。カントによれば、人祖が本当に現実に歴史的に原罪を犯したか否かは、重要ではない。カントによれば、イエズス・キリストは歴史的にはただの人間にすぎないが、信者たちに天主の聖子として提示されることは有益であるとした。カントは、全啓示を理性の名によって否定し、道徳的有益の名前によってする。カントによれば、いずれにせよ、人間が知っている天主とは、自分の内にある天主にすぎないのだから。

 カントによれば、天主がいるかいないかは、現実がどうであるかは、重大な問題ではない。カトリック教会は「天主が真に存在し給うが故に」、「イエズス・キリストが真の天主であるから」と主張し続けてきた。啓蒙思想家の頂点に立つカントは、もしかしたらそうかも知れないけれども、とにかく天主が存在するかのように(veluti si Deus daretur)人生をおくらなければならない、それが有益であるから、とした。こうして、カントは、抽象的な神の観点による「良心の宗教」を打ち立てた。

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