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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.4.様々な効果的キャンペーン

2008年08月16日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

様々な効果的キャンペーン

 1963年と 1964年に組織された火曜日の夕方の講演会は、その内容が文章化されて発行されたが、チェトゥスの固有の戦略と作戦を遠くから用意した前準備にすぎなかった。1963年 10月 30日付けのシリ枢機卿宛てに発送された書簡の計画によれば、シガウド司教が初めに構想した作戦は、司教会議の中でも枢機卿の議長団 (Cardinal Chairmen) に焦点を当てるものだった。彼らは 一週間に一回ずつ会って、当時に司教たちに送られる投票のために必要な勧告と指針の覚え書きを作ることを要請されることになっていた。しかし多数派は既に 1962年には、そのような「司教評議会連合」との接触に成功をしていたのだった。シガウド司教は、少数派のために同じことを試みるのが幻想にすぎないということをすぐに理解した。

 そうして遂に採択された戦略は、多数派が支持する概要において、少なくとも実質的な満場一致があることを阻むために、ベルト神父【l'abbé Berto, 第三会期におけるチェトゥスの秘書】が言った表現を使えば「ローマ系の教父を連合する」ことだった。ベルト神父は、ローマ系の立場の論説に、教父たちの四分の一を味方に付けることができるという予想を現実的だと考えていた。

 しかし、この目標はようやく二度達成されたにすぎなかった。すなわち、1964年 2月にマリアの汚れなき聖心に世界を奉献するという嘆願書 (510人の署名) と、1965年の共産主義の排斥を要求する嘆願書 (454人の署名) として達成されたのだった。他にも一度、1964年 12月にチェトゥスは、修正条項に関する 600冊のパンフレットを配布し、 574票の条件付き賛成 (placet juxta modum) を得ることに成功した。

 チェトゥスの「やり方」は、討論中の問題の法律的な側面及び公会議の運営における手続が合法的であるか否かに大きな注意を傾けることで特徴付けられていた。このために、チェトゥスはいつも公会議の規則を頻繁に言及し、手続上の行動を厳格に適応させて、革新者たちの進度を邪魔する或いは遅らせるという意向を持っていた。

 しかしチェトゥスの本質的な事業は、回覧状や、概要に関する論評、更には、できる限り明白な修正案--公会議用語のラテン語で modi と呼ばれていた--を、しかもこれに修正の動機--ラテン語で ratio modi -- を付け加えて、「ほとんど連続された流れ」を作り出すことにあった。これの目的は、曖昧な用語、句節、段落を、或いは教父たちの考察に付された概要の中の意図的に省略された事柄を訂正し、入れ替え、補足するためであった。その時、教父たちは、条件付き賛成 (placet juxta modum) を投票するように招かれていた。

 他方で、チェトゥスの中核の会員は、頻繁に公会議の会場で公開演説をして健全な哲学、啓示された教理の真実性あるいは神学者たちの共通の教えに関する原則を説明した。ルフェーブル大司教は特に最近の教皇たちの教えを思い起す事に関して、他の追随を許さなかった。彼は次のようにチェトゥス活動の効率性と限界とを証言した。

「それでも、私たちは公会議の引き起こす損害を制限し、不正確な、或いは正道を逸れている或る主張に変更を加え、正統性から外れるような命題や、曖昧な表現に修正を加え、或る文章を付け加えることに成功しました。
 しかしながら、私たちは大部分の概要に染みついていた自由主義及び近代主義の精神を、公会議から取り除いて浄めることには成功することができなかった、と認めなければなりません。彼らの草案者は、まさに専門家であったし、教父たちはそのような精神に染まっていたのです。
 ところで、一体どうしろというのでしょうか、草案がその全体において、間違った精神で起草されているとき、この精神をそこから追い出して浄めることは事実上不可能なことです。この文章にカトリック精神を与えるためには、最初から新しく書き直さなければならないでしょう。
 私たちができたことは、私たちが提案した修正案 (modi) によって、概要の中に、意味を明確にさせる言葉を差し込ませることでした。そしてこれは誰にでもよく分かることです。信教の自由に関する最初の草案の概要と、第五番目の草案の概要とを見比べてみれば分かります。何故五番目の草案というかというと、何故なら、この草案は五回拒否されたにも関わらず、五回討論に付せられるために戻ってきたからです。それでも、最初の草案を汚染していた主観主義(subjectivisme)を弱めることに成功したことが見て取れます。
 『現代世界憲章』(Gaudium et Spes) も同じです。私たちの要求を受けて付け加えられた段落が分かります。これらの段落は、古い服に付けられた布きれのように、くっついているかのようです。。これは全体に良くマッチしていないのです。最初の草稿の時にあった論理がもはや無いのです。自由主義の断言を緩和させ或いは相殺するために付けられた付け足しは、あたかも異物のようにそこにくっついて残っているのです。」

 私たちはここでチェトゥスがした闘いの歴史をそのとおりすべて列挙するつもりはない。私たちは、ルフェーブル大司教がその個人的な行動で関与したものだけ提示するつもりである。

 チェトゥスの教父たちは、公会議会場で何よりもまず個人の資格に発言したことに注意しなければならない。そしてもしもチェトゥスという団体の名前で発言する時でさえ、彼らは自分のスタイルを守り、自分の固有の見解を表明していた。

 ルフェーブル大司教はコンガール(Congar) 神父がフランスの教父たちにした講話会に参加して大きい衝撃を受けた。何故ならコンガール神父が教父たちにあれこれ仕事を割り当てる乱暴なやり方を目の当たりにしたからだ。

「X 司教、あなたはこの論題に関して話なさい。あなた、Y 司教、あなたはこの問題に関する討議に発言しなさい。心配することはない。私たちが文章を準備するから、あなたはそれを読めばよいのです。」

 チェトゥスの代弁人たちは決してその神学者たちの使い走りにならなかった。ベルト神父はルフェーブル大司教への協力の仕事の本質と限界に対して次のように話したことがある。


「私は、天主の御前にて言うのだけれども、ルフェーブル大司教の神学者になるという極めて偉大な、この身にそぐわない光栄を得た。
 私は秘密を守るという誓いを立てたために、彼のもとでした仕事を言うことが出来ないが、しかし、ルフェーブル大司教は神学者である、自分の神学者(私)よりもずっとすぐれた神学者である、と断言しても、決して秘密を漏らすことにはならないだろう。願わくは、全ての公会議の教父たちがルフェーブル大司教程の神学知識を持っていたなら(どれほど良かっただろうか)!
 ルフェーブル大司教は、完璧に確かできめ細やかな神学的習性 (habitus) を持っておられた。
大司教の聖座に対する極めて大きな忠孝の愛はこれに本性の類似性(connaturalité)を加え、このおかげで、推論する神学の習性が活動を始める前からすでに、直観的に何が教会の巌の特性に調和し何が調和しないのかを区別することができるようにしていた。
 教父たちの中には、例えば聖ペトロ大聖堂まで乗ってきた自動車の中でようやく神学顧問(peritus)の手から、自分が公会議の議場(aula)でなすべき発言の既に出来上がった読むだけのテキストを受け取って、あたかも自分の意見であるかのように公にホラを吹くもの【ボルドーのマズィエ大司教のこと】もいたが、ルフェーブル大司教はこのような教父とは全く似てもにつかなかった。どんな覚え書きも、メモも、下書きも、ルフェーブル大司教自身が見直し、校正し、再考し、時には全く個人的な一所懸命の働きで最初から手を入れて自分で書き直しをしないままで、ルフェーブル大司教に渡したことは一度もなかった。私は、彼と「一緒に仕事をした(collaborer 協働した)」のではなかった。私は個人神学者としての資格に従って、ルフェーブル大司教は、そしてローマ教皇とともに、公会議の教父つまり信仰の審判者及び教師としての彼の名誉と尊厳とに従って、もしもこんな言葉があるのなら、私は本当に彼の「下で仕事をした(sublaborer 下働した)」と言いたい。」


 ルフェーブル大司教自身、自分が考えたこともないこと、或いは自分が直接に再考察しなかったような考えのための単なる脇役俳優、或いは名義を貸すだけの存在であるということは絶対に受け入れなかった。

 チェトゥス会員としての彼の活動は、三つの闘い、すなわち司教団体主義に反対する闘い、共産主義を排斥するという要求、そして信教の自由に反対する熾烈な闘いに集中した。だからといって、彼が聖母マリアの光栄とキリスト者の婚姻の完全性とのためにも闘うことが邪魔されたわけではなかった。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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