Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【質問】現在、カトリック教会は危機に襲われているのでしょうか?

2007年03月05日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】
 現在、カトリック教会は危機に襲われているのでしょうか?


【答え】
 はい。第二バチカン公会議後、人々は教会に新しい聖霊降臨と春が訪れると期待していましたが、実際にはその反対のことが起こりました。教皇パウロ六世は1969年に教会が「自己破壊」をしていると言いました。


 『歴史に輝く教会』(南山大学)1969年発行によれば、すでに「公会議後の諸問題」(pp.535-579)という題の論考は、教会における危機、エキュメニズムの危機、司祭職の危機、権威の危機、信仰の危機について語っています。


 数万の司祭が司祭職をうち捨て、多くの修道者、修道女たちが世俗の世界に戻りました。ヨーロッパと北アメリカでは召命が激減し神学校や修道院が続々と閉鎖されました。多くの小教区では司祭が不在で修道会は以前経営していた学校、病院、その他の施設を放棄してます。


【司祭】
 統計によると、1962年から1972年の10年の間に、21,320名の司祭たちが司祭職を放棄して信徒の身分に戻りました。ただし、これはローマに還俗の許可を求めて許可が下りた人々の数であって、「蒸発」してしまった司祭たちの数は含まれていません。1967年から1974年の間に3万から4万名の司祭が召命をうち捨ててしまいました。この悲劇はプロテスタント主義の出現によって失われた召命とは比較にならないほど大きいものです。


【修道者の召命】
 女子修道会に関して、ラッツィンガー枢機卿がこう言っています。
「六〇年代の初め頃、ケベックはまだ六〇〇万人の人口に対して、世界でも最も修道女の数の多い地方であった。ところが1961年から81年にかけて、脱退、死亡、入会志願者減少などで修道女の数は、46933人から26294人に減った。なんと44パーセントの減りようで、とどまるところを知らぬありさまであった。同じ時期に、入会志願者の数は98.5パーセントも激減した。そのうえ、残りの1.5パーセントの大部分は若い女性ではなく、"熟年証明者" であることが確かめられた。従って、このデータだけでレポートを作成した社会学者たちは次のような辛辣で客観的な結論に合意した。「今後短い期間に(すくなくとも人間的観点からはまったくありえない傾向の逆転でもないかぎり)私たちの知っている女子修道生活は、カナダではただ記憶としてしか残らないだろう。」(信仰について pp132-133)


【神学生】
 フランスでは1950年代、毎年約1000名ほどの司祭が叙階されていました。1990年代では毎年100名程度しかありません。
 ドイツでは1986年には、神学生と修道志願者の総計がそれでも727名ありました。しかし、1996年には232名しかありませんでした。


【平信徒】
 1958年、35パーセントのフランス人たちが毎主日にミサ聖祭に与っていました。2004年にはわずか5パーセントにすぎなくなりました。
 1950年、90パーセント以上のフランス人が子供に洗礼を授けていました。2004年には60パーセント以下が子供に洗礼を授けるのみです。


【成人受洗者】
 フランスでは毎年平均12500名がカトリックに改宗して洗礼を受けます。同時に、毎年30000名がイスラム教徒になっています。
 1970年から1993年のあいだに190万人のドイツ人がカトリック教会から公式に背教しました。その理由は彼らにとってカトリック教会が意味をなさないから、重要ではないから、でした。この調子では、カトリック教会はもうすぐドイツにおいてごく少数のマイノリティーに成り下がることでしょう。
 これらは全世界で起こっていることのうちで、目立っていることにすぎません。たとえば、ラテンアメリカでは、急速にプロテスタント化しつつありその速度は16世紀のドイツで起こったものよりもはるかにしのぐものです。1900年、ブラジルでは3パーセントだけがプロテスタントでした。2004年には16パーセントになり、毎年加速してます。リオデジャネイロでは、毎週(!)平均5つのペンテコステ派の教会が立てられています。「対話のための教皇庁委員会議長」のフランク・ロデ神父は1993年に、ラテンアメリカでは毎年カトリック教会は60万の信徒たちを失っている、と報告しています。別の統計によれば、ラテンアメリカでは毎日(!)8000名がセクトに改宗しています(Present, 22 mai 1993)。


【信仰の危機】
 カトリック信仰は、特にヨーロッパにおいて消滅しつつあります。天主の存在、イエズス・キリストの天主性、天国、煉獄、地獄などを信じる人々はますますいなくなっています。自分のことをカトリック信徒だと言い、頻繁に教会に通う人々でさえも、基本的なカトリック信仰を否定する人がますます増加しています。


【道徳の危機】
 信仰の危機に伴って、道徳の危機があります。残念ながら、多くのカトリック信者たちは「この世の子ら」、信仰を持たない人々と同じような生活を送っています。忠実、純潔、正義、犠牲心などはカトリック信者においてもますます蔑ろにされつつあります。
 ドイツでは、3組に1組が結婚の5から10年後に「離婚」をし、その後「再婚」しようとするカトリック信者がますます増加しています。1984年の統計によると、カトリックの強いドイツのチロル地方では、84パーセントが避妊に関する教会の教えを拒否すると答えています(Herderkorrespondesz, Marz 1984)。18歳から30歳の回答によると、避妊に関する教会の教えに全く同意すると答えたのはゼロに等しく、1.8パーセントしかありませんでした。
 フランスでは2003年の統計によると、カトリック信者の4人に1人が「罪というのはたいして意味をなさない」と答えています。

 

【聖職者の危機】
 召命の激減という危機の他に、聖職者の多くは信仰を失ってしまっています。


 カトリック信者の信仰が危機にあるのは結果です。その原因は、聖職者達の信仰の喪失の危機です。司祭は自分が信仰を失うだけではありません。他の人たちの信仰を失わせます。たとえば、司祭たちが主日のミサで信仰に反するようなことを説教することによって。公教要理を教えないことによって。信仰の真理に疑問を挟む、相対化させる、あからさまに否定することによって。

 


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●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
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●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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アシジは「ニュー・エイジの始まり」(ヨハネ・パウロ二世)

2007年03月05日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


アシジは「ニュー・エイジの始まり」(ヨハネ・パウロ二世)


【質問】
ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズムでは、
ヨハネ・パウロ二世教皇様が、アシジの諸宗教の祈祷集会を開いて、「第二バチカン公会議を正しく理解する挿絵(イラストレーション)である」と言ったとありますが、いつそう言われたのでしょうか?


【答え】
 1986年12月22日、枢機卿とローマ聖省のメンバーたちにヨハネ・パウロ二世が述べた訓話です。ヨハネ・パウロ二世の言葉によれば、

「アシジの出来事は、第二バチカン公会議によって勧められまた始められた諸宗教とのエキュメニカルな努力と対話が前提とし意味していることの、目に見えるイラストレーション、出来事による解釈、皆に理解できるカテケージスとして考えられる」

L’evento di Assisi puo cosi essere considerato come un’illustrazione visibile, una lezione dei fatti, una catechesi a tutti intelligibile, di cio che presuppone e significa l’impegno ecumenico e l’impegno per il dialogo interreligioso raccomandato e promosso dal concilio Vaticano II.

と言っています。


 1986年10月22日の一般謁見の訓話によれば、ヨハネ・パウロ二世教皇は
「この事実(アシジの出来事)を第二バチカン公会議とその教えの光の元で見て解釈されることを望む」

Vorrei che questo fatto... fosse visto e interpretato da tutti i figli della Chiesa alla luce del Concilio Vaticano II e dei suoi insegnamenti. )
と言っています。


 そして第二バチカン公会議によって始められ、アシジの「神秘的な山」(L'Osservatore Romano, October 27, 1986, p.2)にたどり着き、アシジの出来事は「ニュー・エイジの始まり」(L'Osservatore Romano, December 1, 1986, p.2, in "Pope John Paul II's Theological Journey to the Prayer Meeting of Religions in Assisi" by Fr Doermann)であると言っています。

 

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聖ピオ十世会に対してなされる非難に対する回答

2007年03月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


 聖ピオ十世会に対してなされる非難に対する回答


 最近「金田一輝のWaby-Saby」というブログで、金田さんが Peter Vere という人の記事を紹介している。まず金田さんが、私たち聖ピオ十世会に関心を抱いて下さって感謝したい。まだ受洗されおられないそうであるが、いろいろとお調べになっておられるようで、私はその努力に敬意を払いたいと思う。天主様の祝福が豊かにありますように!


 ただ、残念であるが、金田さんは Peter Vere という人の記事をただそのまま鵜呑みにしておられるだけなので、大きく誤解されているようだ。 Peter Vere さんは聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っていた方のようだが、だからといって聖ピオ十世会の立場を完全に理解していたとはどうも思えない。


 日本の兄弟姉妹の皆様のためにも事実をお知らせする必要があると思うので、ここで幾つか指摘したい。願わくは、聖霊来り給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! 聖ピオ十世、我らのために祈り給え! 守護の天使、保護の聖人、我らを導き給え!

 

新ミサ:本質的に悪?において、

● Peter Vere は言う、「聖ピオ十世会によってなされる共通した立論は、パウロ6世によって改正された典礼は「本質的に悪である」・・・というものだ。」


■ まず言葉が正確ではない。ルフェーブル大司教や聖ピオ十世会は「本質的に悪 intrinsically evil」という言い方はしなかった。あるべきもの・あって当然然るべきものが無い・欠けているとき、それは「悪いもの」であると言う意味で「悪いミサ」とは言っている。「本質的な悪」とは意味が違う。


 あるべきもの・あって当然然るべきものが無い・欠けているとき、それは「悪いもの」であると言う。例えば医者は患者の健康を保ち・回復させ・治療するための医学知識と医者としての良心を当然持たなければならない。有るべき医学知識を欠く医者あるいは医師としての良心を欠く医者は「悪い医者」だ。当然機能するべき操作ができないコンピューターは「不良品」だ。人間の当然果たすべき倫理道徳の道から外れることを喜んでする人は「悪人」である。だからといって、悪い医者、不良品のコンピューター、悪人が、本質的悪であるとは言えない。Peter Vere にはこの違いが分からないようだ。


5.確かに、ルフェーブル大司教は誤解を避けるために新しいミサに対して「本質的な悪」という言い方をしませんでした。しかし「悪」ということの定義が「当然あって然るべきものが欠如しているもの・こと」であるので、新しいミサは、当然あって然るべきものが欠如しているので、その限りにおいて、それ自体で「悪いミサ」であると言わなければなりません。カトリック神学はこう教えています。Bonum est integra causa, malum ex quocumque defectu. つまり、善が成り立つためには全てが揃っていなければならず、必要なものが一つでも欠けている場合には、それが何であろうと悪いものとなる、ということです。

以下は、新しいミサは悪いミサ からの引用。


「新しいミサを「第2バチカン公会議後の公式典礼」と呼ぶことは出来る。しかし、言葉のまったき意味では「カトリックのミサ」であるとは言い難い。新しいミサには、カトリック的な要素が見せかけであること、プロテスタントに迎合しようとする傾向があまりにも明白なので、私たちのカトリック信仰を失わせる危険なものとしている。


 ミサ聖祭は、本来なら、私たちのカトリック信仰を十全に表明し、養い、強めなければならない。そうあって当然のものであるにもかかわらず、新しいミサはその当然あるべきものが無いミサ。その反対に、私たちのカトリック信仰を脅かす危険のあるミサ。

 「悪」ということの定義は、「当然あって然るべきものが欠如しているもの・こと」。

 さて、新しいミサには、当然あって然るべきものが欠如しているので、その限りにおいて、それ自体で「悪いミサ」であると言わなければならない。

 カトリック神学はこう教える。Bonum est integra causa, malum ex quocumque defectu. つまり、善が成り立つためには全てが揃っていなければならず、必要なものが一つでも欠けている場合には、それが何であろうと悪いものとなる。従って、私たちは新しいミサを「悪いミサ」と言わなければならない。



● Peter Vere は言う、「「偶有性」は第二バチカン以前の典礼とパウロ6世の改正された典礼とで違いがあるが、本質(essence)は同一のままである」


■  Peter Vere には「本質」ということが何か分かっていない。「黒ミサ」と言われているものがある。これは、天主を冒涜する目的で捧げられる冒涜行為だ。背教した元司祭がそれを執行し、冒涜のために本当に御聖体を聖変化させる。しかし、たとえ「有効な聖変化」が行われていても、「ミサ聖祭」と「黒ミサ」とは本質が違う


 新しいミサのミサ典書には新しいミサの定義がなされている。定義とは本質(何であるか)を示すものだ。


(神学用語について、あまり詳しくない方のために一言付け加えると、「人間」というのを「実体 substance 」、日本人とか、身長170センチ、体重65キロ、色白、などというのを「遇有 accident」「付帯性」などという。ものをそのものとしてあらしめ規定するものを本質 essence という。)


 トリエント公会議ではミサ聖祭は「それによって十字架上で一度血を流して遂行されるべきであるかのいけにえが再現され、且つその記憶が世の終りまで永続し、またその救いの力が私たちによって毎日犯される諸々の罪の赦しに適応されるいけにえ」が本質であると宣言された。


 パウロ六世の新しいミサでは、「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」と言われている。


 つまり、「いけにえ」(聖伝のミサ) => 「集会」(新しいミサ) と本質が変わっている。



● Peter Vere は言う、「イエス・キリストの体、血、魂と神性は聖餐へと実体変化している。」(原文:the Body, Blood, Soul and Divinity of Jesus Christ transubstantiated into the Eucharist. )


■ これは神学的に間違っている表現だ。パンとブドウ酒がイエズス・キリストの御体と御血に全実体変化する The bread and the wine transsubstantiate into the real Body and the Blood of Our Lord Jesus Christ. が、the Body, Blood, Soul and Divinity of Jesus Christ transubstantiated into the Eucharist. という言い方は意味をなさない


「パンとブドウ酒の形色(=外見)だけを残し、パンの全実体が御体に、ブドウ酒の全実体が御血に変わるかの素晴らしい特異な変化(この変化をカトリック教会は全実体変化という全く適切な表現で呼ぶ)」これが、トリエント公会議の表現だ。(DzS1652(Dz884)あるいは DzS1642 参照)



●  Peter Vere は言う、「司祭が第二バチカン以前に使用された典礼によって挙行しようが、教皇パウロ6世によって改正された典礼書によって挙行しようが、ミサの中心にあるこの神秘は生じる。実際、どちらの典礼書も同じローマミサ様式において使用されている。」


■ 検邪聖省の長官代理オッタヴィアーニ枢機卿は、パウロ六世教皇への報告書の中でこう言っている。


「新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉が有効であり得るとすれば、それは司式司祭の意向のおかげである。この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや[新しいミサ典書の]言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。


「実際、どちらの典礼書も同じローマミサ様式において使用されている。」という発言は意味不明。



■ Peter Vere は言う、「私が聖ピオ十世会と結びついていた時、改正ミサが本質的に悪であるという主張を擁護しようとして私はトリエント公会議のミサの犠牲についての第七カノンを引用していた。」


● ここを見ると Peter Vere は聖ピオ十世会の論じるところを繰り返していたのではなく、自ら神学者となって聖ピオ十世会が述べていない論拠に従って、聖ピオ十世会よりも効果的に(?)「新しいミサが本質的に悪である」と主張しようとしていたようだ。




■ Peter Vere は言う、「本質的に悪であるものは本性からして不敬を誘引するものであるが、一方トリエント公会議はカトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえないと宣言しているからである。しかしちょっと待て。教皇パウロ6世の改正された典礼は教会によって承認された典礼だったのか? もちろんそうだ。それだから、トリエント公会議で教義的に定義された教会の伝統に従って、パウロ6世の改正された典礼は不敬を誘引しえないということを結論するしかできない。必要があれば、なんらそれは本質的悪ではありえない、と付け加えてもいい。」


● 彼の論理は、つまりこうだ。


【昔】
「トリエント公会議は、カトリック教会がミサの挙行のために使用するものとした、礼式、祭服、外面的な印が不敬を誘引するというならば、その者は呪われよ、という。」
「新しいミサは、礼式、祭服、外面的な印が不敬を誘引する。」
「従って、新しいミサは呪われている(本質的に悪である)。」


【今】
「トリエント公会議は、カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえない、という。」
「教皇パウロ6世の改正された典礼は教会によって承認された典礼だった」
「従って、パウロ6世の改正された典礼は不敬を誘引しえない」
「従って、新しいミサは、本質的に悪ではない。」

 

 私たちはこう答えよう。

(1) パウロ6世教皇は、新しいミサに関して1969年11月19日に「典礼様式とそれに関する典礼法規はそれ自体で教義上の定義ではない」と言ってる。


(2)教皇パウロ六世は教会法的に新しいミサを全教会に強制しなかった。教皇は新しいミサを許可したに過ぎない。
新しいミサについての教会法上の観点からの考察


(3)さらに新しいミサの発布は普通のやり方ではなかった。国務省の枢機卿、また礼拝聖省長官の枢機卿を何ら考慮することなく、検邪聖省を通過せずに、それを飛び越して、教皇パウロ六世はブニニ神父の言うがままに文書に目を通さずに署名した。

「近代主義の教会の中への潜入」を参照のこと


(4)トリエント公会議は、
第5章 盛式ミサ聖祭について
DS 1746(943)人間性は外的なことがらの助けなしに、天主について黙想することを困難に感じる。そのため、聖なる教会はミサの儀式の一部を低い声で(第9条)、一部を高い声でとなえるように規定した。さらに教会は種々の儀式に関する規定をもうけた。たとえば、使徒たちの規律および伝承から受継いだ聖なる祝福、ローソク、香、祭服、その他のものを利用してきた。これらのものはすべて、いけにえの偉大さを示し、宗教と信心の目に見える物を通じて、このいけにえに隠れて内在することがらの観想に信者の心を向けるためである。

また、それを受けて、
「DS 1757(954)7条。カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を超させるものである、と言う者は排斥される(DzS1746参照)。 」
と言っているが、


 だからといって、教会の敵が、教会の全聖伝に反して教皇の署名をどうにかして奪い取って「教皇」の御旗の元に、プロテスタントと共に作る「新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」(オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)ミサ典書を押しつけるようなことは起こらない、とは宣言していない。


(つづく)

 

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