Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ローマは新しいミサに誤りがあったことを承認した

2007年03月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


ローマは新しいミサに誤りがあったことを承認した。


 金田さんが疑問点等を呈示してくれている。いま少し説明し証明したい。


 願わくは、聖霊来り給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! 聖ピオ十世、我らのために祈り給え! 守護の天使、保護の聖人、我らを導き給え!

 


【引用】
●「文章を追って理解できるVereの主張は、要するにミサは同一で実体変化が生じており、変ったのは(偶有的部分である)典礼のみであるということだ。ミサの性格・位置づけの変更は(メタレベルに属すことだから)また別の問題である。対面・会食などの要素は初期教会にもあったようである。」


【コメント】
■ Vere の言わんとすることは分かる。「実体変化が起こっている、変わっていることは遇有的部分で些細な部分にすぎない。だからミサは同一である」ということだろう。


 だから、私は全実体変化が起こったとしても、その他の部分が変わってしまうとそれが何であるかという意味が変わってしまう(つまり本質が変わってしまう)ことがあることを指摘した。


 ミサが何かという定義の部分で、新しいミサではカトリックの定義を大きく離れていることを指摘した。

 


【引用】
●「Vereが最も言いたいのは、どのような時代のものであれ「カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえない」という一点であろう。」


【コメント】
■もしも、この命題が正しいのなら、では、何故、ラッツィンガー枢機卿はこう言っているのか?


「パウロ六世のミサ典書は、司式者が典礼の中にあれこれの要素を自由に選択する或いは導入することができるということを規定しており、それ自体で誤った創造性への扉を大きく開けてしまっている。」(ラッツィンガー枢機卿とフィリップ・マクサンスとの対話 ロム・ヌヴォ誌)


「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」(。『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』158ページ)


「今までなされてきた合理的平準化や、漠然とした論点など、カトリック典礼を村の寄り合い並に引き下げ、くだらないレベルに低下させようとする司牧的幼稚症に対して、もっと果断に反対しなければならない。既に実行されている改革も、特に定式書に関してはこの観点から見直しがなされるべきである。(。『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』159ページ)


「時として身震いするほど陳腐で平凡な趣向によってつくられた、愚鈍で退屈な公会議後のある種の典礼・・・」(。『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』161ページ)

 

■ もしも Vere が言わんとしていることが、新しいミサは、「カトリック教会が承認した不敬を誘引しえない」ものだから「全て正しい」「間違いがない」、ということであれば、次のローマの公文書はどう考えるつもりなのか。


 多くの方は既にご存じであろう。昨年10月17日付(プロトコール・ナンバー467/05/L)で、典礼及び秘跡聖省によって歴史的公文書が出された。このブログでも取り上げたことがある。(「この翻訳の訂正は、万民が必ず救われるという誤りに対する防御の壁になるだろう」) また三上教授もそのウェッブ・サイトで取り上げておられる。「あなたたちのためそしてすべての人のため」はゴミ箱行きとなる

 この公文書で、ローマは公式に新しいミサの中には重大な欠陥と誤りがあったことを認めたのだ。


 ローマはこの公文書で、新しいミサが導入される以前から、既に1967年にICELによって最初に間違って訳された時から既に40年にわたってほぼ世界中でなされてきた誤りの翻訳を修正するようにと求めたのだ。


 つまり「教皇パウロ6世の改正された典礼は、教皇様によって承認され全世界で行われた典礼だった、従って、新しいミサには誤りがない、全て正しい(に決まっている)」という議論はもはや成り立たないことがローマによって証明されたのだ。新しいミサの正統性に疑問を挟むことはゆるされることである、とローマが認めたのである。


 これは聖伝の信仰を守ろうとする人々が常に指摘してきた問題で、ミサのなかでの御血の聖変化の言葉の翻訳についてである。ラテン語では、pro multis (多くの人々のために)となっているところを、そのまま訳す代わりに、単なる訳し間違いではなく、「全ての人々のために」と故意に訳を変え、それがローマによって承認され、ほぼ全世界でそのように訳されてミサが執り行われてきたことである。英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、韓国語、タガログ語、セブアノ語、ヒリガヤノン語、などなどでそうだ。例外はポルトガル語、ポーランド語、日本語訳だけだ。


 この文書は単にアリンゼ枢機卿がサインをしたというものだけではない。教義聖省と教皇様になされた各国司教評議会のレポートとを参照して作られ、ローマの決定をアリンゼ枢機卿が書いたものだ。極めて公式な性格を持っている。この公文書はまず「全ての人々のため」という解釈の入った翻訳はローマ典礼様式においては革新的なものであることを認めている(§1と§3b)。次にすぐにその有効性について語る。これ自体で、有効性が疑われるほどの間違った翻訳だったという証拠ではないか?少なくとも新しいミサにおいて導入された変更・革新が、ミサの有効性それ自体に疑問を挟むことができる疑わしい要素を持っているということを示している。オッタヴィアーニ枢機卿が既にパウロ六世に報告した言葉を思い起こさせる。


「新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉が有効であり得るとすれば、それは司式司祭の意向のおかげである。この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや[新しいミサ典書の]言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」

【この言葉は、オッタヴィアーニ枢機卿の主観的な独断ではなく、カトリック神学を新しいミサ典書という個別の例に適応させたものだ。オッタヴィアーニ枢機卿は、無効だといっているのではなく、「聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」という有効性の疑問を挟んでいる。】


 翻訳が間違っており、実体的な意味の違いが生じているのだから、聖変化の無効性を可能性を疑うことはますます許されるだろう。


 実体的な意味の違いとは、文法上の格変化を間違えたとか、女性形を男性形に間違えたとかということのみならず、内容を変えてしまうことだ。有効な洗礼のためには「聖父と聖子と聖霊との聖名によって」洗礼を授けなければならないが、これをたとえば「イエズスの聖名によって」洗礼を授けたとしたら、無効となる。


 聖伝のミサのミサ典書には De defectibus in celebratione (ミサ執行における欠陥について)という規定があり、それにはもしも聖別の言葉が変えられて同じことを意味しない時、聖変化は起こらないとある。つまりその聖変化は無効となる(V - de defectibus formae)。この De defectibus の規定によれば、そのような間違った聖変化の言葉は、無効であると考えられなければならない。


 しかしこの有効無効の問題について、別のやり方で考える神学者たちもいる。アリンゼ枢機卿の文書もその一つだ。つまり「多くの人々のために」が「全ての人々のために」と変えられたことによって意味が変わったが、その変わった意味でもカトリック的に解釈しうるという議論だ。


 つまり、私たちの主イエズス・キリストは全ての人々のために充分な御血を流され、十字架とミサ聖祭とは唯一のいけにえである。しかし流された御血は、多くの人々のためにしか実りを結ばない。だからキリストの贖いの「充分さ」ということと「効果・実り」ということとを区別して理解する、そうすればこの訳の違いも実体には関わらないことになる、という解釈である。(しかしこれが本当に近代主義に染まった司祭たちが、ミサで聖変化の時に「全ての人々のために」という言葉で理解している意味なのだろうか?)


 更に、アリンゼ枢機卿は、次の理由で、このように翻訳で意味を変えてしまうことは禁じられている(illicit)であると述べている。

(A)聖書のギシリア語の原文(聖マテオ26:28と聖マルコ14:24)は、正しく「多くの人々のため」となっているからだ。何故、新しいミサでは別の翻訳がされうるのだろうか?

(B)ローマ典礼様式においては、常に「多くの人々のため」であって「全ての人々のため」という形式を使ったことがないからだ。

(C)東方典礼の様々なアナフォラでも、ギリシア語であれ、シリア語であれ、アラマイ語であれ、スラヴ語であれ、全て「多くの人々のため」となっているからだ。

(D)「多くの人々のため」こそが正しい忠実な訳であり、「全ての人々のため」はむしろ公教要理に固有の説明であるからだ。

(E)「多くの人々のため」という表現は、救いは全ての人々に機械的に、人間からの意志や参与なしに与えられるものではないこと、そうではなく「多くの人々」の一人と数えられることができるように、賜物としての信仰を受け入れ超自然の生命を生き、この神秘に参与するということを表明している。


 この最後の点について、トリエント公会議の公教要理も何故「多くの人々のため」でなければならないのかを説明している。

(つづく)



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聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制

2007年03月12日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!

聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制


 19世紀および20世紀において喧伝されてきた宗教的自由の教条は宗教的事柄における自立、行動の自由およびとりわけ一切の人間的権力からの拘束からの自由を要求します。

 聖書の歴史は、かかる主張を裏打ちしているでしょうか。それとも反対に、この主張の根拠を打ち崩すものでしょうか。宗教的事柄における強制に関して、聖書からどのような教えを引き出すことができるでしょうか。


1-旧訳聖書における宗教的事柄においての強制

 天主は、ご自分の民が忠実に真の宗教を保ち、かつ偽りの神々に対する礼拝行為を避けるよう、厳しく強いられました。このため、第二法の書第13章におけるごとく、天主は基本的な法を発布されました。すなわち、同章において天主はイスラエルの民に次のものを拒絶するよう命じています。すなわち、

――偽りの預言者(1-5節)
――他の宗教(6-12節)
――偶像崇拝に陥った都市(12-18節)

 17章2-7節においては、この戒律が再度確認され、さらに、これを破る者たちに対してきわめて厳格な罰、すなわち剣および火による死刑が定められています。


 これら全ての戒律は、イスラエルの民の歴史全体にわたって正しい判事、善き王、預言者たちにより忠実に適用されました。

――ヨシュア記 23章6-8節および24章14-15節
――判事の書 6章25-26節
――列王記上 18章40節
――列王記下 10章18-31節
――年代記下 15章13節;17章6節;19章3節;23章16-17節;30章14節;34章33節
――ネヘミア書9章37節;13章16節-18節
――マカベ書上2章24節-25節;9章73節
――ダニエル書21節 等々


2.新約聖書における宗教的事柄における強制

 ユダヤの民が神権政治の絆から解かれたとき、「心の柔和で謙そんな」(マタイ11章29節)「救い主なる我らの天主[イエズス・キリスト]のいつくしみと人間への愛があらわれました」。(ティトへの手紙11章29節)

 しかしながら、主イエズスは往々にして力強い態度で振る舞われます。主は、例えばラザロの復活のような奇跡を行なわれ、ユダヤ人たちが自らの罪の弁明をできないようになさいました。(ヨハネ15章24節参照)主は「他人の前に天国を閉ざし、自分も入らず、入ろうとする人が入るのもゆるさない」律法学士やファリサイ人をきわめて厳しく譴責されました。すなわち、不実なブドウ園の農夫のたとえ話をとおして、またエルサレムのために涙を流し、その滅亡を予言することをとおして(ルカ19章44節)、ユダヤの民が、少なくとも将来の現世的な災禍の怖れ、憂慮のために、不信仰の過ちに陥るのを阻まれようとされました。その上、神殿からむちで商売人を追い払い、結果的に公共の秩序を乱すことまでなさいました。(ヨハネ2章15節)最後に、主イエズスは、福音の宣教者の言葉を信じるのを拒む者らに永遠の罰を前もって宣告なさいました。(マルコ16章16節)

 使徒聖ペトロは、宗教に関わる事柄についてのアナニアとサフィラの嘘を見抜いた際、彼らを厳しく叱責し、そしてこの2人は天主から突然の死という罰を被りました。このため、「このことを知った人々は、みな非常な恐れを感じた」(使徒行録5章11節)ほどです。第2の書簡において、聖ペトロは「民の中にいる偽預言者たち」を「水のない井戸、烈風に追われる雲、闇の暗さがそのために残されている者ら」(2章17節)、またさらには「自分の吐いたものを喰らう犬」、「洗った後にまた泥の中に転がる豚」と呼んで強く非難しています。


 使徒聖パウロは、地方総督セルジオ・パウロを信仰から遠ざけたとして魔術師かつ偽預言者のエリマを激しく咎(とが)めています。パウロの叱責を受けた後、エリマは失明し、「しばらくは陽の光を見ることができない」(使徒行録13章8-11節)ようになりました。コリント人への第2の手紙においては、パウロ自身、彼の言葉にしたがって歩まない者に対して「より厳しい態度で振る舞う」権能をもっていると述べています。ガラツィア人への手紙では、当地の信徒に、ユダヤ派の信者たちのことにふれて「あなたたちを乱す者は、自らすすんで不具になればよい!」(5章12節)と述べています。


 使徒聖ヨハネは、ある偽教師たちを指して、あざむく者、反キリストと呼び、彼らに対してとるべき態度について次の訓戒を与えています。「もしこの教えをもたずにあなたたちのところに来る者があれば、その人を家に迎え入れず、挨拶もするな。その人に挨拶する者は、その悪い業にくみするからである。」(ヨハネの第2の手紙 10-11節)


 使徒聖ユダは偽教師たちに対して激しい非難の言葉を発しています。「彼らは(中略)風に運ばれる水なき雲、実を結ばず、再び枯れて根から抜きとられた晩秋の木々であり、自らの恥の泡を打ち返す海の荒波、永遠の暗い闇に備えられているさまよう星である」と。(12-13節)

 最後に、黙示録においては、ペルガモの「天使」(ここでは司教のこと)に対して次の宣告がなされています。「私は、あることについてあなたを咎める。あなたのうちには、バラアムの教えにしたがう者がある。バラアムはイスラエルの子孫に、偶像に捧げた肉を食べさせ、また淫行をさせるために、[イスラエル人の]前にどんな罠を張ればよいかをバラクに教えた。同様に、あなたのもとにも、ニコライ派の教えにしたがう人々がいる。悔い改めよ!」(2章20-23節)


旧訳聖書から導き出される結論

 旧訳聖書において救いの歴史全体を通して天主がこれに介入された仕方から、また天主の霊感を受けた聖書の著者らの記述の筆致から、教理に関する次の諸点が引き出されます。

1-天主はイスラエルの民の司法的秩序において、偶像に対する礼拝行為および偽預言者の説教を一度として容認されなかった。

2-それどころか反対に、天主はきわめて苛烈な外的強制によって偽りの神々の礼拝が抑圧されるようお命じになりました。

3-天主のみ旨にしたがって、このように為した諸々の王ならびに預言者は、聖書の著者から惜しみない称賛を受けています。しかるに、これと反対の仕方で行動した王ならびに預言者は非難されています。



新約聖書から導き出される結論

1-たしかに、主イエズス・キリストならびに使徒たちのふるまい方は、天主が旧約の法の下にあったイスラエルの民に対して取られたそれと比べると、はるかに柔和で温順です。

2-しかし、キリストおよび使徒たちがしばしば強制を用いたことも、同様に確かなことです。まず第一に精神的強制、すなわち公の非難ならびに見せしめとなる現世的懲罰の予告が挙げられます。(それに忘れてはならないのは、主が、ご自分の述べ伝えられる福音に従うことを拒む者たちを、永遠の罰をもって脅されていることです。)そして次に物理的強制、すなわち教会およびキリスト教社会からの排斥、ないしはこれよりもさらに過酷な刑罰が偽善者ならびに偽預言者、異端者、背教者および離教者に対して用いられています。

3-とりわけ、主は偽りの教師らが自由に行動することをお許しになりません。このようなわけで、主は黙示録において、ティアティラの司教を、[偽預言者]イエザベルが「教え、惑わす」のを放任しているとして厳しく咎めておられます  。



総合的結論

1-まず第一に、宗教的事柄における強制は聖書史上、一貫して見受けられる事実です。

2-次に、神学的に確実な結論として、人間の自然本性はたとえそれがどのような性質のものであれ、宗教的事柄における強制に本質的に対立するものではない、ということを確認しておかなければなりません。

3-さらに、「カトリックの教理」に含まれる事柄として、次の事実が挙げられます。

――旧訳聖書においては、強制を加える[拘束を課す]権威は天主自身の直接的権利であり(いわゆる「神政政治」)、諸々の人的権威は単なる執行者に過ぎません。旧約の法においては、主として物理的強制-これは往々にして暴力的性格を帯びたものでした-が用いられました。(神学大全第2巻第1部第99問6項参照)

――愛の法である新約においては、説得(同上第1巻第5問2項)ならびに永遠の懲罰の脅威による精神的強制が優先されていますが、暴力的性格を伴ったものも含め、一切の物理的強制が廃止されたわけではありません。さらに、天主にして人であるキリストの昇天後、宗教的事柄における、強制を加える権威は使徒たちの権威ですが、この権威はたしかに超自然的なものであるとは言え、人間的な権威です。

4-最後に、およそいかなる人間的権威からの一切の強制の免除というテーゼは、当命題中の「およそいかなる人間的権威」という言い回しが一般的に過ぎるということ自体のゆえに、新約に見られる聖書の教義に明らかに反しています。



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【質問】教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか?・・・

2007年03月12日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】
現在、カトリック教会は危機に襲われているのでしょうか?」の記事で、カトリック信者の信仰が危機にあるのは結果で、その原因は、聖職者達の信仰の喪失の危機であることが触れられていますが、教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか? 教皇様なのでしょうか? それとも第二バチカン公会議なのでしょうか?


【答え】
 セペール枢機卿(Cardinal Seper)は「教会の危機は司教たちの危機である」と言いました(in Georg May, Gefahren, die der Kirche drohen, St Andrae-Woerden, Mediatrix, 1990, p.27)。


 現代の教会の危機には、その能動因として司教様たち(そして究極の責任を問われるものとして教皇様)、その切っ掛けと原理を与えたもの(形相因)として第二バチカン公会議があります。


【司教たちの危機】
 カトリック教会にいる4000名の司教様たちの中には、確かに正統カトリックたろうとしてカトリック信仰のために働こうとしておられる方々が何人かおられます。しかし、大部分の司教様たちにおいては、カトリック信仰を擁護する代わりに、信仰の真理を公に否定する司祭や神学者たちに自由にさせています。中にはそのような司祭たちを激励したり、支援したりし、或いは司教様自身で、カトリック信仰とカトリック道徳とは相容れない立場を取っています。


● たとえばフランスでは、以前のパリの大司教であったリュスティジェ枢機卿(Cardinal Lustiger)は、ユダヤ教徒たちはキリスト教に改宗する必要はないと公に教えています。


● ストラスブールの大司教であるドレ大司教(元パリ・カトリック神学院の神学部長)は、イエズス・キリストを拒否したユダヤ教徒たちを不信仰者(infideles)とか盲目者(aveugles)であると考えることはできない、回心する必要があるのは彼らではなく、むしろ「新しいイスラエル人」という名前を横取りしたカトリックのほうだ、と主張しています。(Mgr Joseph DORE, message addresse a la loge juive "Rene Hirschler" (de l'ordre des B'nai B'rith) et publie dans le bulletin diocesain l'Eglise en Alsace, juillet-aout 2003, p. 1-3.)


 しかし聖パウロは「かれらは不信によって切られ、あなたは信仰によって立っている。」と言い、ユダヤ人の「にぶい心、見えない目、聞こえない耳」、「かれらの目はくらんで見えなくなれ」(ローマ11章)、「今日も、モイゼの書を読むとき、かれらの心におおいが垂れている」(コリント後書3章)と言い、この状態では「天主によろこばれず、人類の敵となり」、「ここにおいて、かれらの上に天主の怒りは、極みに及んだ」(テサロニケ前書2章)とまで言います。

 聖ペトロは、聖霊降臨の日に「イスラエルのすべての人は、あなたたちが十字架にかけたそのイエズスを、天主が主とし、キリストとされたことを、しかと知らねばなりません。・・・くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。」と宣言しました。


● 2001年には、フランスの司教教義委員会(la commission doctrinale des Eveques de France) は、「天主の啓示に深く忠実」であるとして、バイヤール版の聖書(la Bible des editions Bayard)勧めました。しかし、この版の聖書は聖福音に書かれている事実の歴史性を否定しているものです。曰く「初代のキリスト者たちは、歴史のイエズスよりも信仰のキリストにもっと関心を抱いていた」と。


● 2003年、リモージュの司教であるデュフール司教(Mgr Dufour)は、ミサの時に説教台からこう説教しました。「私たちは天主が存在するのかよく知らない。私たちはそのことを科学的確実性で知るのではなく、信仰において知るだけだ。」


 しかし聖パウロは、天主の存在は信仰なくしても理性だけで確実に知りうると教えています。第一バチカン公会議もこう宣言しています。
「3026(1806)(1) 創造者であり,われわれの主である唯一の真の天主を人間理性の自然的な光によって被造物の中から確実に認識することができないと言う者は排斥される(*3000参照)。」

● 1996年、ベルリンでの講話会の際に、ドイツの司教協議会委員長であるカール・レーマン司教(現在は枢機卿)は、ルターのことを「共通博士」(der gemeinsame Lehrer)と呼びました。しかしこれは通常聖トマス・アクィナスに対してなされる呼び方です。


● 2006年に出版された「フランス司教黒書」(Le livre noir des eveques de France, par Remi Fontaine)というがあります。

 その中で、著者のルミ・フォンテーヌは「フランスの迫り来ている嘆かわしい背教とその現行の無能性」を示しています。この「黒書」からの幾つか例を拾ってみると、

 フランスの司教たちは「フリーメーソンが語るように」、フランスの国家が無宗教であり政教分離しているために戦っています。しかし哲学者ルネ・ジラール(Rene Girard)は、1905年に成立したフランスの政教分離の法律について、「その他これと同類のいかなる法律よりも、キリスト教にとって悪しきものである」と表現しています。


● この「黒書」はフランスで1975年に堕胎の法律が成立したのは、フランスの司教たちが沈黙を守り反対の声を上げなかったからであることを示しています。堕胎賛成をしていたイスラエル・ニザンは「事実上、カトリック教会はこのことについて賛成していたことを多くの人々は知らない」また「カトリック教会は根本的にこの法律に反対しなかった」告白しています。当時、この法律に反対していたカトリックのルジョン教授(Professeur Lejeune)は、パリの補佐司教から「天主の御前で私はあなたに言う。あなたは悪しき信者だ。」と罵られました。サンスの大司教は、堕胎をする人々の回心を願って抗議のためにロザリオの祈りを唱えているカトリック信者たちに向かって「手段の腐敗させている」と非難しました。


● バルバラン枢機卿(Cardinal Barbarin)は、堕胎法律を推進していたフェミニスト議員、シモーヌ・ヴェーユ(これは有名なフランスの女性哲学者とは別人)とリヨンで親しく会っていました。


● サンチエ司教はカトリックの道徳のせいで「男性と女性とが彼らの個人的・社会的生活において教会の強制によって苦しんだ」ことを謝っています。


● ポワチエでは、ルエ司教がコンドームを賞賛して「唯一の病気を防ぐ手段」として必要であると言い、堕胎の法律に反対している国民戦線(Front National)の党員の子供には洗礼を授けることを拒否しました。ルエ司教曰く「国民戦線のイデオロギーはナチと関係があると私は断言する。」


● 1998年、フランス司教協議会委員長であるダヴィド司教は国民戦線の党について「キリスト教の価値と多くの点で」反すると言います。2002年にはジプソン司教は司教の権威を使って「私は、ル・ペンとその党(=国民戦線)に反対することに投票します」と宣言しています。


● レユニオンでは、オブリ司教は、フランスの国民的一致のために、キリスト教的祝日を廃止することを説教しました。


● アミアンでは、ノワイェ司教はル・モンド紙に、司祭独身制について「教会の規律を緩和すべきだ」という望みを掲載させています。


● サン・ドゥニではド・ベランジェ司教は、パリ郊外の暴動事件について「民主主義に対する脅威」であるけれども、「民衆に関して経験がある効果的な組織である」共産党が幸いにもある、と安心しています。だから共産党という「むしろ良い」存在は、「危険な現象」である国民戦線の存在を打ち消すと言います。


● カトリック教会は教会法(1398条)で、堕胎をする母親、医者、手伝う看護婦、堕胎を励ます・勧める・同意する・協力する全ての人々、たとえば父親・友人などを自動破門にしています。司教たちは、堕胎をゆるす立法に賛成する議員やそれに賛成の投票をする者たちは皆、破門であることを宣言しなければなりませんでした。しかし司教たちは沈黙を守ることによって堕胎の罪に協力したのでした。(つまりほとんどのフランス司教たちは、自動破門に相当する罪を犯していたのでした!)


● オンタリオ(カナダ)の司教とボストン(アメリカのマサチューセッツ州)の司教は、自分の教区の司祭たちの半数は全実体変化を信じていないと認めています。しかしそれに対して何もしていません。
Archbishop Marcel Lefebvre: A Living Saintを参照のこと)


● オコーナー枢機卿は、多くのアメリカの司教たちが「教皇様を憎んでいる」と言っている。ガニョン枢機卿は「ほとんどのアメリカの司教たちは宣言されていない離教状態にいる(Most American bishops are in material schism.)」と認めました。
Archbishop Marcel Lefebvre: A Living Saintを参照のこと)


 歳月が経つにつれて、状況は良くなるどころか、ますます悪化の一方で止まるところを知りません。


(つづく)


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●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html


●グレゴリオ聖歌に親しむ会
http://sound.jp/gregorio/

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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